せめてあの子に掴まれるのならね、とデーゲンブレヒャーは嘆息した。スキウースの手を払い、けれどそもそもはシルバーアッシュの危機を目にしてもこんなふうに自身に縋りはしないだろうと思い直す。今頃あの「可愛らしい」恋人様は屋敷に戻っているだろうか。そういえばラタトスが何を仕掛けてきたのかに伝えるように言われていたことを思い出し、彼女の傍にいるであろうヴァイス宛に連絡を入れておいた。その指示を出したのはもちろんシルバーアッシュである。あれはもう「どうかしている」類の何かだ。ねじ曲がった愛着とでも呼べばいいのか、あるいは期待なのか。
 ――『その男はやめとけ』。
 に言ったそれは紛れもない本心だった。は見た目より警戒心が高く距離感を掴むのが上手いが(アーツの話ではなく)、本人に自覚のないスリルジャンキーであることが思わぬ強みでもあり弱点でもあった。彼女はシルバーアッシュの提供する舞台で「恋人」という道化を演じながらも、注意深くシルバーアッシュとは一定の距離を保っている(ノーシス曰くの「興味がない」)。けれど本質的に危険を愛するは、シルバーアッシュの周囲の「ヤバさ」を目にするほどに底なし沼に足を取られるように後戻りできない方へと沈んでいく。シルバーアッシュにしてみれば、一度引き入れてしまえば後はただ待つだけでいい。彼女がシルバーアッシュの招待に応じたその時点で、彼の勝利は確定していた。
 だが、どうやらあの策謀家は恋人様に、自身がもたらす危険よりも自分自身を見てほしいらしい。あのスリルジャンキーの快楽主義者にとんだ片思いをしたものである。シルバーアッシュその人こそが何よりも『面白い危険』であると、そうに理解してほしいらしかった。それが恋愛感情であるならばまだ救いようがあったものを、生来の完璧主義によるものであるからどうかしている。あれはもう、という存在をすっかり手にしてしまわなければ気が収まらないようだった。の行動原理は単純だが、単純であるが故になかなか脇見などしてくれない。スクリーンに夢中になっている少女を振り向かせるために自身の危機すら使う男が、面倒などという言葉で済まされるわけがなかった。
 個人的には、というあのお気楽なリーベリをそれなりに好ましく思っている。彼女の声や笑顔は軽やかで煩わしくなく、踏み込むべき領分を間違えることのない「友好」を気兼ねなく差し出してくる。ああ見えて仕事には真摯で、自身の実力を客観視しながらも任務に全力を尽くすところは悪くない。本人も言うように育ちが悪く――本人はあまり言わないが、『路地裏』での暮らしは痛みと隣り合わせだったはずだ。かつてのデーゲンブレヒャーが、痛みに慣れ切ったように。は痛みと紙一重の状況を楽しむことに慣れてしまったようだが、どこか近しいものを感じることに変わりはなかった。剣の腕は未熟であるが案外好戦的で相手に臆さず、便利なアーツがあるとはいえ黒騎士の懐にまで飛び込んでくるほどだ。技量が圧倒的に足りていないとはいえ、デーゲンブレヒャーを楽しませる何かを持っていた。いずれは手合わせの相手くらいにはなるだろうという期待もあったから、自身にしては破格なほどに目を掛けてやってもいる。だからこそ多少の「違反」をしてまで忠告したのだ。本当にその男に預けてしまっていいのかと。強制せずとも自身がシルバーアッシュの望む結果を選んでくれるだろうと思っているからこそ強制しない、そんな自惚れた男に全てを投資してしまっても構わないのかと。
『ダイジョーブじゃないかな?』
 きっとはそんなふうに能天気に笑って答えるのだろう。まるで他人事のように、自身をオールインしておいて考え無しに笑うのだ。そういうところが迂闊で、けれど捕まえても捕まえた気がしない原因なのだろう。そういうところよ、とデーゲンブレヒャーは嘆息する。そういうところが、あの『やめといた方がいい男』の目を惹くのだと。
 デーゲンブレヒャーはかぶりを振ると剣を抜いて燃える屋敷の壁を斬りつけた。あの子に相棒を運んできてもらえれば面倒が減るのに、と思えど彼女は今『何もできない』のだ。その脚本を書いた男にどこまでも呆れながら、デーゲンブレヒャーは自らの仕事に取り掛かった。

***

「――あ、」
 ぱしん、と腕を掴まれて『我に返った』。腕を掴んだのはヴァイスさんだ。厳しい顔をして私を見下ろしていた。私ってけっこー反射的にアーツを使うタイプだ。こうして呼び止めてもらえるだけ自制はできてるんだろうけど、その自制が続くようには見えなかったからこうして呼び止められたんだとわかっていた。
「あなたには何の命令も下っていません」
「……あ、うん、そうですよね」
 でも、屋敷が燃えてるって。シルバーアッシュがラタトス様と一緒に閉じ込められてるって。ラタトス様がシルバーアッシュを道連れにして死のうとしてるって。
「旦那様はあなたを呼んでいません」
「そうだね、呼ばれてないよね、うん……」
「ラタトスさんがあなたのアーツを目にしたら色んなことが台無しになります、わかるでしょう?」
 端末は静かなままだ。私がミュートにしているからじゃないし、第一ミュートにしていてもアラートは鳴る(それで何回叩き起こされたことか! そのためのアラートだから文句は無いんだけど)。心臓に悪い音は鳴らない。本当に鳴ってない? シルバーアッシュ、呼び出し装置を持って行くの忘れたのかな。それとも炎の中にいるものだから、装置が機能しないとか。
「あの装置は猛吹雪の中だろうと火事の中だろうと作動します、あなたも耐久テストの場にいたでしょう? 『鳴らない』ということは、『鳴らしていない』んです」
 そうだね、でも。いつまでも駄々をこねる子どもみたいに食い下がる私の肩をヴァイスさんは両手で掴んだ。私の顔を覗き込んで、叱るみたいに――宥めるみたいに、一言一句イチゴンイックに力を込めて言った。
「デーゲンブレヒャーがついています」
 その一言がどんなに短くても、ブレヒャーさんのことを少しでも知っている人なら心から安心するだろう。私だってそうだ。そのはずだった。だから全部、預けたのに。そうだ、私はシルバーアッシュが私の『知らない』危険に巻き込まれてても何もしない、何もできない。そういうお仕事だ。お仕事なら私は『できない』をできる、よね?
「本当に必要なら、旦那様は絶対にあなたを呼びます。そうでしょう?」
 突き放しているようで、優しい言葉だった。私を呼ぶほどの危機じゃないんだって、最後の最後まで追い詰められてはいないんだって、私も自分に言い聞かせた。痛いくらいに肩を掴むヴァイスさんの手が震えていることに初めて気付いた。そっか、ヴァイスさんは私に行けって言いたいよね。むしろ自分を送れって言いたいよね。だってヴァイスさんは私なんかよりずっと長くシルバーアッシュの傍にいる。私よりずっとシルバーアッシュに近くて、シルバーアッシュのことを守ってきて、シルバーアッシュを知っている。そのヴァイスさんが動くなって言ってるのに、私は何でこんなに聞き分けが悪いんだろう。聖猟でシルバーアッシュが怪我をしたときだって、私こんなに動揺どーよーしなかったのに。なんでかな、わかんないけど、助けられるのに動けないって思ったよりつらい。けど、そのつらさは私だけのものじゃない。
「――うん、わかった。ダイジョーブです、ヴァイスさん。困らせてごめんなさい」
 目をつぶって、ゆっくりと呼吸をする。顔を上げて、ニコッと笑う。ちゃんと『』ができてる、大丈夫。私はダイジョーブ。
「……あなたが取り乱すのは珍しいですね」
「そうだっけ?」
 ヴァイスさんが私の肩から手を離して、その手がまだ震えているのは見て見ぬふりをした。ヴァイスさんも、私の声がちょっと震えていることなんて知らないふりをする。私もヴァイスさんも、知らんぷりはけっこー得意だったみたいだ。だからもう一つ知らないふりをする。ヴァイスさんがちょっと迷ったようにポケットに手を伸ばしかけて、軽く息を吐いて止めたことなんて私は知らない。そこに例のゴツい腕輪が入っていたとしても、私は知らない。

「ドクターの足止めをしてくれ」
 それは、本来予定になかったお仕事だった。ドクターって本当にとんでもない人だったんだ、って私はびっくりする。だってシルバーアッシュやノーシスさん相手に策謀サクボーで賭けに出て、しかもその賭けに勝っちゃうとか。シルバーアッシュが予定してなかった仕事って初めてじゃないかな。そういうわけで私はラタトス様の焼身心中未遂でも鳴らなかった端末で呼び出された。アラートではなく、普通に通信で。シルバーアッシュは普通に元気そうで(本調子じゃなかったとしても私にはわからないんだけど!)安心したというか、力が抜けたというか。無事とは聞いていたけど、呼び出されるまではわりとソワソワしていたから、何事もなかったみたいに開口一番かいこーいちばんシンプルな指示をくれたことに胸の隅っこがそわついた。別に感動の再会とかそういう場面じゃないっていうか、それどころじゃない事態なんだけど。この人ってもう少し自分のことを大事にした方がいいんじゃないかな。
 お屋敷では「私」が女装を続行している。長いお祈りで疲れてたところに恋人への襲撃の知らせで心労しんろーがタタって伏せてる、そういうことになってる。ヌーブラしたまま寝ることになってごめんね。がんばって。
 私に対する指示はすごくシンプルだった。ドクターの足止め。大部隊を動かすドクターらしき人物、姿の見えないアークトス様、駅で暴れるグロさん、ユカタンさんの救出に動くブラウンテイル家の人たち。いくつもの戦いが起こっている中でも、私が「飛ぶ」先には関係ない。殺す必要はないというか、むしろ殺すなと言われてちょっと安心した。ドクターの身に何かがあればロドスとの関係が台無しになりかねないから、ただ妨害に徹しろってことらしい。「転移」は秘匿したままだから(飛ばす先にも困るし)、ドクターを少しの間「埋め」ることになる。あまり大勢を連れていないといいんだけど。ただ、大部隊の方の「ドクター」は陽動だろうっていうのがシルバーアッシュの読みだから、たぶん本物のドクターは小勢で隠れて進んでる。他の戦いに兵力を割かれてる現状一人で行くことになる私だけでも対処できるだろうって。
「……?」
 あれ、と「飛ぼ」うとした私はいつものように視界が変わらないことに首を傾げる。押し返されるような感覚に私の理解が追いつくより先に、シルバーアッシュがその答えを教えてくれた。
「ドクターはカランドに入ったか」
 私の転移はカランドの山頂付近とか、ああいう「何か」があるところには拒まれる。それはエレーナちゃんの件の後、実際に試してみてわかったことだった。つまりドクターは今そういう場所にいて、だから私の転移が発動しない。シルバーアッシュの声は淡々としていて、失望だとかそういうものは浮かんでいない。けど、だから仕方ないなんて私が聞きたくなかった。お芝居ならまだしも本当に能力不足で仕事を取り上げられるなんて嫌だ。私には顔が良いとか声が可愛いとか良いところはいっぱいあるけど、本当に「可愛いだけの恋人」なんてやってられない。ブレヒャーさんのことを、いろんな人が「その存在だけで局面を打破する戦士」だって評価ひょーかする。それはブレヒャーさんだけが持っている純粋な「力」を唯一ゆーいつのものだって、みんなが認めてるから。私の唯一ゆーいつはこのアーツしかないのに、私の値札はこれだけなのに、こんな時に役立たずだなんて何のために雇われてるのかわからない。
「……無理をするな」
 言われて初めて、ぬるりとした鉄臭いものが口を伝っていることに気付く。鼻血だ。私は今チェゲッタのヘルメットを被ってるんだけど、あなた私のバイタルでも見張ってる? その軽口は出てこなくて、私は別の言葉を口にした。
「無理じゃないよ」
 私、もう運び屋じゃないんだよ。シルバーアッシュはいつかの『副業』を許してくれたけど、あれで本当に最後だったんだ。あのとき私の勝手をいろいろと許してくれたシルバーアッシュが何を考えてたのかは知らないけど、私があなたの専属契約だって言ったら頷いてくれたよね。私、前にも言ったけどあなたの要望よーぼー落としたくないんだから。シルバーアッシュは私のことを私より知ってるから、私が適任だと思ったから任せてくれるんだって、だから私は、
、」
 ゲンジツトーヒしていた毒のこととか、ただ待ってるだけだった燃えるお屋敷のこととかで苛立ってたのかもしれない。苛立ちっていうか、自分自身に対する、こう、もやもやとニエキラナイみたいな気持ちっていうか(それを『わだかまり』と呼ぶのだと、シルバーアッシュに聞けば教えてくれたのかもしれない)。シルバーアッシュが私のことを呼んだことにも気付かず、私はアーツに集中していた。弾かれる、拒まれる、そんな感覚にムカッとした。私を誰だと思ってるんだ・・・・・・・・・・・。開けてよ、とドアをこじ開ける押し売りみたいに術力を押し付ける。それは風船に石ころを無理やり食い込ませるみたいな、そんな乱暴な術の使い方だった。入れろ・・・
 ブツン、と張った糸が切れるみたいな音が耳奥で鳴る。無茶な「飛び」方をした時の反動としてはたぶん、前よりも軽かった。

 ラッキー、とは口に出せなかったけどそこそこ幸運こーうんだった。比較的「不時着」ではあったけど、雪の上に転がるほどじゃなかったし、何よりドクターの背後数十メートルが着地点。そして、ドクターはやっぱり少人数で迂回行動をしていたみたいで、護衛は雪みたいに白いウルサスの女の子一人だった。慣れない雪山で勇気があるなぁ、って思ったけどそういえばドクターっていろんな分野で頭がいいんだっけ。地理とかにも明るいのかも。それにウルサスの人の方は雪山慣れしてるっぽくて、きっと頼りになる護衛で案内人なんだろう。
「……!?」
「わっ、何これ!」
 二人を「埋め」ることができて、木陰で小さく息を吐く。最近はもうブレヒャーさんにはわりと避けられてしまうんだけど、さすがに初見ショケンで不意打ちなので『足元がお留守』だったみたいだ。ウルサスの人が地面に手をついて抜けようとしていたけど、その手を地面がすり抜けたことに驚いていた。「これ、ただの落とし穴じゃないよ!」って叫んでたけど、それ以上はどうしようもないみたいだった。ごめんね、シルバーアッシュから連絡が来るまでは埋めたままにしておくけど、爪獣とかが現れたら私がこっそり対処するから安心してね。ちなみに私はそんなこと言われても絶対安心できない。姿を隠して二人を見張ったまま、小さく息をする。頭がけっこーグラグラする。少し無茶な(シルバーアッシュに無理じゃないって言ったテマエ、無理とは言いたくない)「転移」をした反動で、鼻血は止まるどころかダラダラと元気よく垂れている。呼吸もわりと荒くて、ヘルメットの遮音性と風の音がなければとっくにバレてるところだ。胸のあたりが押し潰されるように苦しいのも体がガクガク震えるのも気付かないふりをした。ドクター、あなたって体は丈夫かな。わたしは意外と丈夫な方だよ。ドクターは少なくとも隣の護衛さんより丈夫そうには見えないけど、お互いのためにも早いところこの騒動が終わってくれるといいね。
 我慢比べみたい、と思いながら唇についた血を舐めた。ぬるくて嫌な味がする。どうにか脱出を試みるドクターたちの会話をしばらく聞いていたけれど、ふとドクターがハッとしたように顔を上げる。その視線を追った護衛さんが小さく悲鳴を上げて、私も思わず叫びそうになった。嘘でしょ。
「雪崩だ……!」
 ドクターって絶望したような声出すんだ。シルバーアッシュもさすがに埋められてるところに雪崩が来たら「雪崩だな」なんて余裕で構えていられな……いやどうなんだろ。ゲンジツトーヒでバカな想像そーぞーをしている場合じゃない。雪崩だ。私たちのいる方向に向かって、雪の塊が波のように押し寄せていた。
(どうしよう、)
 私の軽い頭には次々と意味のないことが浮かんでは消える。私は「通過」ができる、けど二人は? この距離じゃ二人を脱出させたってロクに逃げ切れない。護衛さんの持ってる盾、あの雪崩を防げるのかな。埋もれたら盾なんて意味ない。転移、どこに? 下手なところに飛ばしたらシルバーアッシュのメーワクになる、『どこか』になんて飛ばせない、あの二人の命は守らなきゃ、そういう命令。守らなきゃ。私が対処するねって、言ってないけど言ったから、私が守らなきゃ。
「……ッ」
 ブツ、とまたどこかの血管が切れたような音がする。こんなに鼻血を出しまくって歌姫としてはイメージがやばい。鼻血まみれの歌姫、さいあくだ! でも今の私は歌姫も休業中きゅーぎょーちゅー、シルバーアッシュの私兵その八とかだ。私は押し寄せる雪崩を前に無我夢中でアーツを振るった。「通過」は他人に使うのがめちゃくちゃ難しいとか安定しないとか死ぬほど疲れるとか、そんなこと考えてすらいなかった。私ってけっこー反射でアーツを使うタイプだ。鼻血と、ついでに口からもちょっと血が溢れ出ていた。こんな顔、絶対担当さんに見せられない。しばかれる。そんなどうでもいいことが思い浮かぶなんて余裕なのかな、わかんないよもう!
「何……」
 ドクターか護衛さんか、どっちの声かわからないけど雪崩の轟音に呑まれてかき消えた。私は迫り来る白い塊に目をつぶる。私も「通過」してるんだけど、ほら、あの、反射で。こわごわ開けてみるけど、真っ白で何も見えなかった。
 アーツを使いすぎたのか、さすがにいろいろと耐え切れなかったのか、雪が全てを呑み込んでいく音と景色の中で私の目の前は急速に暗くなっていく。だめ、まだダメ。あの二人にちゃんとアーツが使えてるのかわからないけど、雪崩が通り過ぎるまでは。無事を確認したら、また足止めしなきゃ。意識が遠のきかけているからか、ヘルメットが「引っかかって」どこかに飛ばされてしまった。後で拾いに行かなきゃ。私のアーツ、「呼び出せ」たらもっと便利なのに。またくだらないことを考えながらも、二人の保護のためにアーツを集中させる。もう視界はほとんど無かったし、感覚はないけどたぶん地面に倒れてしまっていた。「君は無意識的には最初からアーツの対象を制限できている」って、いつかノーシスさんが言ってたっけ。そうじゃなきゃ攻撃を避ける時に地面や床も「通過」してしまってるはずだって。どこまでも私の認識頼りのアーツらしい。また変なこと思い出して、私の頭ってゲンジツトーヒが得意みたいだ。雪崩はたぶんもう通り過ぎたけど視界は真っ暗で、体の感覚がなかった。あの二人は無事かな、でももうアーツをかけ直すのは無理だ。お仕事を全うできない悔しさがじんわり滲んで、ぼんやりする意識でシルバーアッシュのことを考える。思いを馳せるって言うんだっけ、そういうの。
 シルバーアッシュ、ねえシルバーアッシュ。あなたは私に何を判断してほしいんだろう。私の全部を預かった契約ケーヤク相手。私を「所詮家妖精」扱いする演技をした「恋人」。聖猟で刺客に襲われて傷付いた姿。大典で民衆に支持された「エンシオディス」。マッチポンプの口実で曼珠院や二家の当主に兵を差し向ける策謀家。罠とわかっていて敵の手の内を見に行く人。私を上手く使ってくれる上司。ドクターを高く評価する、敵がやり手であればあるほど楽しそうにする尊大ソンダイな変わり者。
「……、」
 私って、もしかしてシルバーアッシュの中では敵なのかな? 敵というか、勝負でもしてたっけ? ノーシスさんやブレヒャーさんの呆れ顔、シルバーアッシュの面白がるような顔。私はドクターと並ぶ「敵」になれるなんてオコガマシーことは思わないけど、なんか既視感がある。シルバーアッシュはまるで私で何かの賭けをしているみたいだった。それはどっちに転ぶかわからないから、私が面白いんだって。そんな感じのことを、前に言ってた気がする。私がどっちに転んだら、シルバーアッシュの勝ちなんだろう。私の負けって何?
 ――交渉ってのはお願いしてる方が弱いんだよ、だいたいは。
 どうしてか、先輩の言葉が頭をよぎった。私とシルバーアッシュってどっちがお願いしてる側だっけ? けど私の意識はその辺りで途切れて、真っ暗闇に沈むみたいにどこかへと落ちていった。


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