目が覚めた。覚める目があったことに安心した。知らない天井だった。
「……ッ、」
「あら、目が覚めた?」
反射的に勢いよく起きあがろうとした私を、優しい手がそっと止めてくれた。あのまま身を起こしていたら眩暈を起こして、お布団に逆戻りしていたと思う。見上げた先には綺麗な女の人がいた。エレーナちゃん並みに真っ白な肌で、不思議な雰囲気で、けどあったかい。
同族に見えるその人は私の背中を支えてゆっくり起こしてくれて、ほんのり薬草の匂いのするお湯を飲ませてくれた。苦い。
「飲み切ったらお菓子をあげるから、頑張って飲みましょうね」
「うぅ、はい……」
なんて言うんだっけ、こういうの。マッターホルンさんみたい。マッターホルンさんが聞いたら呆れて「母親みたい」の間違いだって教えてくれたんだろうけど、その時の私はお母さんらしさってものを知らなかった。
薬湯、というらしいその苦いお湯をちびちび飲んでいるうちに頭がスッキリしてきて、いろんな意味で青ざめる。私の装備はお布団の横に綺麗に畳んで置いてあって、私はソボクな感じのゆったりしたワンピースのような服を着せてもらっていた。それだけなら、親切な人に助けてもらったんだって思う。でも私が倒れていたのはイェラガンドの、たぶん一般人は入っちゃいけないところ。倒れる前にしていたことは、誰にも言えない仕事。
どうしよう、どうしようシルバーアッシュ。私って予想外の事態に弱いタイプだ。この人をどうしたらいいんだろう。私はどうすべきなんだろう。あの後ドクターは。シルバーアッシュの計画は。私の仕事は。青ざめて固まってしまった私に、女の人は何か声をかけようとしてくれる。けれどちょうどその時部屋に入ってきた人影を見て、私のパンクしかけた頭にトドメが入った。
「――目が覚めたのですか?」
「あら、エンヤ」
エンヤ・シルバーアッシュ様。イェラガンドの代理人たる巫女様。シルバーアッシュの妹さん。その人とばっちり目が合って、私は反射的にアーツで逃げ出そうとして、アーツの
過剰使用による眩暈でその場に突っ伏してしまったのだった。
「落ち着きましたか?」
「はい、すみません……」
巫女様――と呼んだらすごくしょっぱそうな顔をされてしまったので、エンヤ様――と呼んでもやっぱりとてもしょっぱそうな顔をされてしまって、最終的にエンヤさんに落ち着いた――は、ヤエルさん(侍女頭、っていうんだって)と一緒に私を宥めて介抱してくれた。ここは曼珠院だけど、エンヤさんとヤエルさんの二人しか私を拾ってくれた件に関わっていないこと。私が誰かは何となく察しはついていて、その上で保護してくれたこと。この件を他の誰にも漏らす気は無いこと。普通ならそんなことを言われても信用できないけど、巫女様が自らの立場に懸けて誓ってくれたから(それってすごく重いものだって外国人の私にもわかる)、まるっきり安心するわけにもいかないけど、どうにかパニックが収まった。最悪の場合見た人を全員どうにかして戻らなきゃいけないのに、その人が巫女様だったらそんなことできるわけもないし、けど今はシルバーアッシュに相談することもできないのだ。
二人は三家の争いが最終的にエンヤさんの
仲裁によって収まったこと(ヤエルさんがすごく『
情感豊かに』その光景を話してくれて、エンヤさんはなんかすごい顔をしていた)、その後ヤエルさんが気配? とかそういうので私を見つけてこっそり拾って戻ってきたことを教えてくれた。エンヤさんはシルバーアッシュの妹さんだけど、シルバーアッシュの味方というわけじゃない。むしろ立場が違ってしまって『わだかまり』があるんだって、シルバーアッシュの周りの人から聞いている。それなのにどうしてシルバーアッシュの『恋人』である私をこっそり助けてくれるのかなって不思議に思っていたら、それにはヤエルさんが答えてくれた。「遠い親戚みたいな子が突然訪ねてきたら、お茶とお菓子くらい出してあげたいじゃない?」と微笑まれて、しょーじき全然わからなかったけどそういうことなんだなって頷いた。とりあえず、私を助けてくれた理由はエンヤさんよりむしろヤエルさんにあるみたいだった。
「あなたは……エンシオディスの『恋人』だと聞いています」
全く信じていなさそうな顔で、エンヤさんは切り出した。うん、私もこんな状況でそんな設定信じない。どう見ても私兵の格好で、しかも二人に拾われたときはやっぱり顔面血まみれだったらしい。シルバーアッシュが私という部下のカモフラージュとして恋人を名乗らせている、そう思って当たり前だった。どう答えるべきか悩んでいると、エンヤさんも少し悩んでいるような様子で口を開いた。
「エンシアが、貴女の話をしてくれました。『お兄ちゃんが本当にただの恋人を連れてくるなんて思わないけど、お姉ちゃんはお兄ちゃんといると本当に幸せそうに笑うんだよ』と……」
「…………」
エンシアちゃんは、ヴァイスさんたちが思ってるよりずっと大人だった。考えてみれば当たり前のことだ。エンシアちゃんは私より年上で、とっくに成人していて、留学から帰ってきた後のシルバーアッシュのこともよく見ている。ただ何も知らない子どものように振る舞うのは、そう望まれてるからにすぎないんだって。それでもエンシアちゃんは私たちのお芝居を信じてくれていた。私たちの仲を本当に祝福してくれていた。シルバーアッシュと私の「幸せ」を、本心から願ってくれている人だった。
「私は……」
そのとき私は、本当は優しい嘘を吐くつもりだった。だって私とシルバーアッシュはただの契約関係で、でも優しいエンシアちゃんを傷付けたくなかった。それに私が幸せそうに見えたなら、そこには少なからず「本当」が混ざってるからなんだって思う。シルバーアッシュがいつか言ってた、上手に嘘を吐く方法はいくらかの真実を混ぜることだって。私はシルバーアッシュとケーヤクしてから楽しいことがたくさんあって、理想以上の上司の元で
映画みたいな日々をフキンシンにも楽しませてもらっていて、きっと誰より私を大切に上手く使ってくれるシルバーアッシュはすごく『得難い』人なんだって、恋とか愛とかじゃなくても好きって気持ちはたくさんあるつもりだった。こうあってほしいって望まれた姿をその通りに見せ続けることはセージツの形だって、私はずっとそう思ってる。だからエンシアちゃんの優しさに、私にできる範囲のセージツで応えようとした、それだけのはずだった。
「私はシルバーアッシュが好きですよ」
それなのに、私はボロを出してしまった。私もその失敗に最初は気付かなかった。私はエンシアちゃんやエンヤさんみたいな、お芝居の外にいるシルバーアッシュの身内の人との会話では、彼のことを「エンシオディス」って呼んでた。シルバーアッシュと話すときとか、会話の相手がエンシアちゃんたちじゃなければ彼女たちの前でもいつものように呼んでたけど。ただ、なんとなくその方が自然かなって思って意図的にしていたササイな呼び方の違いを、私は間違えた。そしてそれに気付いたとき、私は呼び方を間違えてしまった理由にも気付いてしまった。
「私はシルバーアッシュが、すき、」
繰り返した言葉は、最後まで形にならなかった。突然込み上げてきた顔の熱、うまく言葉にならない声。私、どうしたんだろ。ただ、シルバーアッシュのことを好きって言うだけなのに。ヴァイスさん曰く私は「意外と名女優」らしいのに、こんな簡単な、ありふれたセリフすら喉につっかえる。言葉の代わりみたいに溢れ出した顔の熱に耐えきれなくて、私は思わず両手で顔を覆っていた。
「…………あの、うわぁ……」
エンヤさんとヤエルさんの顔が見れなかった。というか、顔が上げられなかった。何、これ。恥ずかしくってくすぐったくて、泣きたくてつらい。温かい手のひらが背中を撫でてくれて、私はますますイタタマレなくなった。うそだよ。こんなのきっと嘘だ。エレーナちゃんに失恋してそう長くも経ってないのに。エレーナちゃんの、あの恋しい笑顔に感じる気持ちと全然違うのに。それでも私は自覚するより先に自白してしまった。私はシルバーアッシュに恋をしている。こんなにむず痒くて逃げ出したくなるみたいな気持ちが、いつの間に私の中にあったんだろう。今回のお芝居の中で私が感じたいろいろな気持ち、ザイアク感だとかもどかしさだとかそういうの全部が、今更ウソが本当になってしまったことの
証拠みたいで、ぽろっと漏れた言葉が自分でも気付いていなかった感情の蓋を開けてしまったみたいだった。
「あなたは、本当にエンシオディスを……」
「う、」
「エンヤ、そういうのは気付いても言わない方がいいのよ」
気遣うようなエンヤさんの言葉と、ヤエルさんの優しさが痛かった。突然赤面して泣くのを堪えている私の姿は、まるでそこらの子どもみたいだった。エンヤさんにはそれが痛ましく思えたみたいで、シルバーアッシュが私の好意を利用して良いように使っているんじゃないかとさえ心配してくれた。違うの、そんなんじゃないの。本当にただの契約だったのに。私が勝手に、シルバーアッシュのことを好きになってしまっただけだから。たとえそれがシルバーアッシュにとって都合のいいことなんだとしても。
「……おみぐるしーところをお見せしました」
それからしばらく恋を自覚した恥ずかしさにのたうち回った私は、落ち着いてから座り直して二人にフカブカと頭を下げた。映画で見たドゲザみたいだった。エンヤさんの心配事はシルバーアッシュの「恋人」である私が、何か弱みを握られてたり好意につけ込まれてたりして『意に沿わない』仕事をしてるんじゃないかってことで、自分の兄に容赦ない見方をする人だなあって思ったけど、優しい人だった(もちろん、一番はこのお芝居を信じてくれているエンシアちゃんへの思いやりなんだろうけど)。私が逆にシルバーアッシュに何か悪い影響を与えたりとか心配しないのかなって思ったけど、聞くまでもなく私なんかがシルバーアッシュを利用するのは無理だ。エンヤさんたちはアカラサマには言わないけど、まあ同じように思ったんだろう。自分で言うのもなんだけど私は、あの策謀家さんをどうこうできるような大層なウツワじゃなかった。
「その、私がシルバーアッシュのこと、すき、なの、ナイショにしてもらえますか……」
厚かましいことは
重々承知で、また頭を下げる。ヤエルさんは少し面白そうに、エンヤさんは不思議そうに首を傾げた。
「それは構いませんが……エンシオディスは、あなたから好意を得ていないと思っているのですか?」
構わないんだ? って驚いたけど、それより私はエンヤさんの質問にどう答えるべきか迷った。薄々は察しているだろうけど、私は契約上の恋人です! なんて宣言してしまうつもりはなかった。それに、今までシルバーアッシュや周りの人たちに言われていたことがやっと軽い頭の中で何かの形を作り始めていたのだ。ノーシスさんの呆れ顔、少し心配してくれてるみたいなブレヒャーさんの言葉、私が自覚してしまって初めて、それらがちゃんとわかるような気がした。
「ええと……その、シルバーアッシュは私に『カタオモイ』してたみたいで」
「……ふ、」
エンヤさんがちょっと可笑しそうに吹き出した。確かに、あのシルバーアッシュが私みたいな小娘に片想いとか、冗談みたいだもんね。正確に言うと、シルバーアッシュは私に恋愛的な意味で片想いしているわけじゃなくて。ただ、私から恋愛的な好意を欲しがってたという意味での片想いだ。私は、少なくとも恋を自覚してしまうその時までは、シルバーアッシュからそういう好意を必要としていなかった。
「私にシルバーアッシュにレンアイしてほしかった? のかな……そういう意味でのカタオモイなんですけど、なんかこう、賭けというか勝負みたいになってて……」
私はシルバーアッシュのことが好きで、ちょっと怖い人だと思ってて、でもそれも楽しいからずっとそれでよかった。理想以上の上司で、頭が良くてかっこよくて紳士的で、良いところを挙げたら私なんかの
語彙じゃ語り尽くせない。それでも恋愛的な意味では好きにならなかったのだ。恋ってそういうもの、だよね? でもシルバーアッシュにはきっと、私を転がす自信があって。それが遅いか早いかの違いだったと思うんだけど、最終的には私が恋に落ちるってわかってたんだと思う。私は今シルバーアッシュの予定通りに恋にのたうち回っているわけだけど、何となくこのまま「あなたが好きです」って素直にシルバーアッシュに晒してしまうのは嫌だった。だってシルバーアッシュは私とレンアイしようとしてるわけじゃない。イェラグの未来にあまり関心のない外国人である私が、シルバーアッシュの傍にい続ける理由を作りたいだけだって今までの流れでどうにかわかる。けどそれっていくらなんでも私のセージツさにも乙女心にもシツレーだ! 私はシルバーアッシュに全部預けたけどそれは
期間限定の話だし、私の全部、ちゃんとミミをソロえて返してもらうつもりなのだ。恋愛特別割引とか、するつもりはないから。あの人にもひとつくらい、思うように転がらないことがあってもいいと思う。
「このままシルバーアッシュを勝たせるの、なんか気に食わなくて……いつかはあの人の思い通りになるんだとしても、少しくらいヤキモキ? させてみたいというか……」
シルバーアッシュはきっと、今回の件で私のカンジョーがぐらぐらと揺れることもわかっていたんだろう。私の判断を楽しみにしてる、みたいなこと言ってたし。シルバーアッシュは私より私のことをわかっていて、きっとエンヤさんとのお話っていう
不測の事態がなければ私はシルバーアッシュに促されるままに恋心を理解して、彼の目の前で無様な姿を晒してしまっていたんだと思う。私が今それに気付いてしまったのは失敗の結果だけど、そのおかげで気付くタイミングがずれて、シルバーアッシュの目の前で
決定的な失敗を見せずに済んだ。言葉と態度に出さなきゃオッケーじゃない? 少なくとも私の持論はそうだし、シルバーアッシュと私のケーヤクもそうなってる。だから私は言わない。言わないから、恋してないのと同じだ、たぶん。そういうことにしておく。
「私の恋心までシルバーアッシュの思い通りになると思ったら大間違いなんだぞーって、ちょっとの間だけでも思わせてみたいんです」
私がぷんすか怒っているようなジェスチャーと共にそう宣言すると、エンヤさんは少し呆気に取られたようにぽかんとしてたけど、ふふっと可笑しそうに笑い出した。それは私をバカにして笑っているわけじゃないって、なんとなくわかる。エンヤさんの笑い方は可愛らしくて、やっぱりエンシアちゃんのお姉さんなんだなって思った。シルバーアッシュの笑い方は、あんまり表情が崩れなくてフッと笑う感じだけどあれはそういう「仕様」なのかな。かっこよくて頭が良くて以下略の上司を演じる時じゃない、素のシルバーアッシュならこんなふうに子どもみたいに笑うこともあるのかな。そんなふうにすぐシルバーアッシュのことを考えてしまうのが「恋してる人」みたいで、私は頭を抱えたくなった。確かに、少し前までの私ってシルバーアッシュに興味が薄かったのかもしれない。けど気付いちゃった途端にこんな調子で何でもシルバーアッシュのこと考えちゃって、私本当にやっていけるのかな? 何日バレないか賭けてみる? ブレヒャーさんに持ちかけたら乗ってくれそう。
「わかりました、さん。元より言うつもりもありませんでしたが……個人的に、『私』は貴女を応援します」
「あ、ありがとうございます……?」
「エンシオディスも少しは痛い目を見ればいいと思うのです」
巫女様の『身共』っていう一人称じゃなくて、エンヤさん個人の言葉として応援してくれた。エンヤさん、可愛らしいお顔でけっこー過激なこと言うんだな。もしかしたら、私みたいにシルバーアッシュに怒っていることがあるのかもしれない。それを聞き出すつもりなんてなかったけど、何となく通じ合ったようにイタズラっぽい目と視線が合って、私たちはクスクスとただの女の子同士みたいに笑った。
そうして巫女様のところで少し休ませてもらって、山道から帰れますってウソをついて「転移」で帰った。たぶん二人とも何となく気付いてるかもしれないけど(ヤエルさん、エレーナちゃんのお父さんみたいに何か私のことを知っているみたいだったし)、エンヤさんたちは「知らない」。私も「言わない」。行きは鼻血が出るくらい苦労したのに、帰りはびっくりするほどあっさり「転移」できた。出る時は問題ないのか、別の
要因があったのかわからないけど、とにかくお屋敷に帰って来れて。シルバーアッシュはまだ事後処理で帰ってきてないから待機しているようにって言われて、報告もそこそこに『私』に変装してくれてた人と交代してベッドに入って、そして私はその日から熱を出して寝込んでしまった。
「ウソから出たマコトってやつだ……」
「お前の傷病休暇は初めてだな」
シルバーアッシュは私の枕元でリンゴを剥いてくれていた。この人もリンゴ剥けるんだ、なんて思ってごめんね。いろいろとモーシワケなくて、かっこいい顔をまともに見れない。今はしょーじき、レンアイとかそれどころじゃなかった。私、シルバーアッシュから任せてもらった仕事を結局失敗してしまった。ドクターはアークトス様のところに辿り着いてしまって、しかも遅れたことを指摘されても「雪がすごくて道に迷った」って言ってたらしい。ドクターがどういうつもりだったのか知らないけど、結果として私はドクターに借りを作ってしまったのだ。向こうも雪崩から助けられてるから、そこはイーブンってことになってるみたいだけど(そもそも雪崩に遭ったのは私が足止めしたせいでもあるけど!)。私は手口を見られて仕事を失敗した上に、貸しを作られた。さいあくだ。私がそれについてひどく
自責の念に駆られていたら、「結果だけを見て失敗を責めることは簡単だ」って慰められた。シルバーアッシュって失敗に寛容すぎて、余計に何とも言えない気持ちになる。たらればを言ったって仕方ないのはわかってるけど、あの雪崩さえ起こらなければ私はきっと任務を果たせていただろうって(ヤエルさんにこっそり「私の不法侵入にイェラガンドの神様が怒ったから雪崩が起こったんですか?」って聞いたけど、そんなことないわって笑われたし、本当に偶然の不運だったのだ)。少なくとも、あの状況下でドクターたちを守れたことは評価すべき点だって。エンヤさんたちに保護されたことを話してもあんまり驚いてなくて、私に何かあったらエンシアちゃんが悲しむから助けてくれたらしい、っていう事実混じりの言い訳(エンヤさんが考えてくれた)も少なくとも表面上はすんなりと信じてくれた。全力を尽くしてそれでも運が悪かったから仕方ない、なんて私は思いたくない。思いたくないけど、もう全部が終わっちゃったんだ。シルバーアッシュはイェラグを動かすための賭けに勝って、けどその勝利の形はシルバーアッシュが思い描いていたものとはずいぶん違っていた、らしい。本来はもっと三家の争いで人死が出る予定だったみたいで、単純な私はドクターの介入を喜んでしまった。シルバーアッシュがこの結果をどう受け止めたのか本心はわからないけど、少なくともシルバーアッシュはドクターという人をかなり好意的に受け入れたみたいだった。今回の失敗に対してシルバーアッシュが寛容なのも、間接的にはドクターが彼を楽しませたおかげなんだと思う。
「食べられそうか?」
「うーん、食べてみたい……」
しょーじき何かを
咀嚼する元気なんてなかったけど、シルバーアッシュの剥いてくれたリンゴって次はいつ食べられるかわからなかったから好奇心だけで起き上がった。シルバーアッシュはその葛藤まで見透かしたみたいに眉を顰めたけど、何も言わずに私が起きるのを手伝ってくれる。まあ、食べ切れなくてもハールートがおこぼれを待って枕元でソワソワしてるから大丈夫だと思う。
今更だけど、寝込んでるときの姿って好きな人に見られるのがつらい。私、変な顔してたりしないかな。お化粧なんてできてないし、熱が出て汗とかやばいときもあったし、髪も寝癖がついてる。今までだったら見苦しいところを見せて悪い気がする、とは思ってもしんどいときに助けてもらう嬉しさの方が勝ってただろうから、恋ってたいへんだ。汗で湿った背中に触れられるだけで変な声が出そうになって、いよいよ
重症かもって思った。裸でアレコレとか、とっくにしてる仲なのにね!? 恋心って素敵なものじゃなかったのかな? 今のところ、ただ恥ずかしさとか居心地の悪さでどうにかなりそうで、それでも一緒にいられることや触ってもらえることが嬉しくて頭がふわふわしてる。人としてダメになりそうな感情な気がした。私、絶対この人に恋なんてしない方が良かったよ。
「えっ、あの、」
「どうした?」
「自分で食べるよ……?」
口元にリンゴを持ってこられて、私はめちゃくちゃウロタえた。あーんとかさすがにしたことない、よね? 今は部屋に二人きりだし、恋人接待とかしなくて大丈夫だよ。というか自覚したばかりの
恋心が飛び跳ねて危ないからやめてほしい。私がリンゴに手を伸ばすと、その手を掴まれて口から心臓が飛び出るかと思った。何この人、トキメキで人を殺す方法とか身につけてるのかな!? 変な声は出さずに済んだけど、絶対脈がおかしいことになってたと思う。どうしてこんなことするの。こんな意味不明な状況でも手を握ってみろって言われて反射的に指示に従うあたり、私って良い部下だと思うよ!
「握力はまだ戻っていないようだな」
「もっとオンビンに確認して……?」
いや、うん、穏便な握力の確認の仕方ってなに? って私も思うけど。おかしいな、恋するオトメって無敵だって聞いたことあるのに私は無敵どころか何をされてものたうち回ってる気がする。こんなんで本当にバレずにいられるのかな!? って弱気になって、エンヤさんの言葉を思い出した。シルバーアッシュの前で恋心がやばいことになったら、いちばんこの人に失望したり怖くなったりした瞬間を思い出せばいいって。
「口を開けてくれるか、」
「……うん、ありがとう」
私、この人に失望したことってあるのかな。怖くなったことならけっこーあるけど、『失望』について考えた途端心がびっくりするほど落ち着いた。巫女様のお言葉ってすごい。けど失望について考えると、心のどこかがひどく寂しくなった気がした。せっかくシルバーアッシュに剥いてもらったリンゴを食べさせてもらうっていう
貴重な経験をしてるのに、『気がそぞろ』になる。失望って、期待するから起きるんだよね。私はこの人に何かを期待してるのかな。理想の上司としての期待はずっとあったと思うし、シルバーアッシュはそれを十分以上に満たし続けてくれていたと思う。きっとシルバーアッシュに恋をしてるってバレてもこの人は受け入れてくれるし(向こうがそう望んでいるんだし)、本当に恋人らしく扱ってくれるんだろうなって思った。それが偽物でも、本物みたいに扱ってくれるならいいじゃない? って、私はずっとそう思ってるはずだった。
――人は皆本物を欲しがる。
エレーナちゃんの声がした気がした。私に初恋と失恋を教えてくれた人。私はシルバーアッシュに本物を求めてしまうのかな。それを期待して、勝手に失望してしまうのかな。そんな感情身勝手だと思うし、忠実な部下でいてほしいなら恋なんてしない方がいいと思うんだけど。どうしてシルバーアッシュはこんな気持ちにさせたかったんだろう?
「まだ熱が引かないようだな」
私にリンゴを食べさせながら、頬の赤みを見てシルバーアッシュが心配そうに眉を顰めた。そういえば今は熱のせいだよって言い訳ができるけど、この先顔が赤くなるのもどうにかしないといけないんだ。私、本当の本当にバレずにやっていけるのかな? 自信はないけど、私は絶対自分からは言わないって決めた。シルバーアッシュはたぶん、私の恋心をうっすら察してしまったとしても指摘はしないと思う。私が言うのを待ってる気がする。だから私は言わない。シルバーアッシュにだけは言わない。お互いにセージツなニセモノを差し出していようよ。それで十分なんじゃないのかな? 決定的なことを言わないまま気持ちだけ引き出そうなんて、ちょっとずるいと思う。ブレヒャーさんが「そんな男はやめとけ」って言ったのはこういうことだったんだ。
「……何を考えている?」
「あなたのことだよ」
「具体的には?」
「あなたもリンゴを剥いて食べさせてくれるんだなって……シツレーかな?」
いつかしたようなやり取りで、私はシルバーアッシュの顔を窺った。シルバーアッシュはちょっと笑って、「お前の中の私の印象を変えられたようで何よりだ」って言う。優しい人だ。優しいから怖くて、優しいからちょっと腹が立つ。噛み砕いたリンゴを呑み込むと、ぬるくて甘酸っぱかった。
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