私の人生これでよかったのかな、そう思うことはある。少なくとも、もし時間が戻せるのなら――私のアーツが空間じゃなくて時間に作用するものだったら、私は絶対に『お父様』に拾われることを選ばないだろう。
「困りましたね」
『
お父様』はそう言ったけど、微笑んでいた。その手にはフォークが握られていて、私の口にケーキを運ぼうとしてくれている。けれど私はぎゅっと口を引き結んでそれをキョヒしていた。もうクリームまみれのケーキはたくさんだ! この人に拾われてからこの三日間、朝も夜も昼もケーキ。最初こそ路地裏で憧れるばかりで口にしたこともなかったそれをアリガタクいただいてた私だったけど、さすがに毎日三食ケーキですっかり胸からお腹まで気持ち悪くなってしまっていた。パンの一切れでも食べられたなら運のいい生活だったお腹はただでさえびっくりしているのに、吐きそうなほどに甘いクリームがべっとりと乗ったケーキなんていくらも食べていられなかった。その上この人――遊び半分に「飛んだ」先の荒野で私を見つけて、拾ってくれた『
養父』――は、そのケーキの一口一口をフォークで掬って食べさせてくる。私はもうすっかりうんざりしていた。
拾ってくれた、とはいっても
誘拐だったのだ。どこからともなく現れて、よくわからないことをたくさん一方的に話して、「あなたは私の元で生きるべきです、違いますか?」と手を差し出して。こういうヘンな大人、それも貴族みたいな格好のヤツには関わるなって路地裏の仲間はみんな知ってる。良くてヘンタイに好き勝手されて嫌な目に遭って、悪くてヘンタイに好き勝手されて殺されるのだ。汚いみなしごなんかにご飯やお洋服をチラつかせる貴族の大半はヘンタイで、ほんのたまに頭のおかしい
善人が混ざってる。この人はどう見てもゼンニンじゃない。ならヘンタイだ。だから私は逃げ出そうとしたのだけれど、逃げられなかった。「飛ぼ」うとしたその瞬間、息ができなくなって地面に倒れて。じたばたと死にかけの虫みたいにもがくことさえできなかった。動けなくなった私を、ぬいぐるみか何かみたいに抱えてこの人はここに連れてきた。「今日からあなたは私の娘です」って言って、私にという名前をつけて、自分のことをお父様って呼ぶように命令して、そうしてこのヘンタイとの親子生活が始まった。この人はヘンタイなんだろうけど、なんかすごくヤバいヘンタイ。少なくとも、逆らったら死ぬくらいに。逆らって死ぬことすら許してくれないくらいに。だから私は一応『お父様』の言うとおりに、この人が飽きるまで『金持ちの
道楽』に付き合うしかないのかなって、そう諦めたつもりだった。
「、口を開けてくれますね?」
「…………」
「子どもはこういうものを好んで食すと聞いたのですが、違っていたのでしょうか」
ケーキってご飯じゃなくてお菓子なんだけど、そんなことも知らないのかな。私はオトーサマをじとりとした目で見上げた。鼻先の甘ったるい匂いが吐き気をくすぐる。ここ――窓から見える景色はあの荒野と大差ないのに、ばかみたいに広くて静かなお屋敷と、貴族みたいな格好はしてるけど私のいたところの貴族みたいにぶくぶくした生臭い感じのしない『お父様』。この人はしゅっとしていて、顔は綺麗だけどなんか怖くて気持ち悪くて――寒くてゾワゾワする感じがする。それを死の気配と呼ぶのだと、私が理解するのは数年後のことだ。私って幽霊のお城にでも連れ去られてきたのかな。ボロいってわけじゃないけどなんて言ったらいいのか、がらんとしていてどこか古めかしくて温度のない、おうちって感じのしないお屋敷。フェリーンにもリーベリにも見えない『お父様』。この時の私はサルカズ――それもブラッドブルードなんて知らなかったけど、幽霊っていう言葉はあまり外れてもいなかった。けど『お父様』は、幽霊なんかより『とてもこわいかいぶつ』なのだと私はすぐに理解することになる。
「私の娘が『食事』を摂りません」
誰に話しかけてるのかなって思ったら、部屋の隅に顔を真っ青にしたフェリーンの人が立っていた。そういえば、いつも『ご飯』の時にいた気がする。その人が料理人なのだと、『お父様』の話から何となくわかった。
「あなたの責任ですね?」
「おゆるし――」
おゆるしください。私がその時の言葉を理解したのはずいぶん後になってからだった。そのくらい、『それ』は呆気なかった。『お父様』が彼を責めていたのだと理解する間もないまま、その人はまるで風船だったみたいに破裂した。輪郭を失って、赤いものが吹き出して、テーブルクロスもケーキも赤くなった。私の顔にもぺたっと何かが張り付いて、反射的に撫でるとぬるっと滑る。血だった。
「……え、」
「おや、ようやく口を開いてくれましたね」
『お父様』は何事もなかったかのようにフォークを再び差し出した。そのフォークにもひとくちのケーキにも、お父様にも赤いものはどうしてか少しもついていない。呆然とする私の口にフォークを押し込んで、ぽろりと口からケーキがこぼれて、「おやおや」と薄く笑って、その時初めて気付いたみたいに私の頬っぺについた血を見て眉を寄せた。
「アーツは私が封じてしまっていたのでしたね」
クリームと一緒に血を拭いて、それきりまたケーキに――血まみれのケーキにフォークを刺して、私に差し出した。
え、今人が死んだよ。死んだ、よね? 『お父様』があまりに
平然としているから、私は思わず人がいたはずのそこを二度見した。そこにはペンキの缶をひっくり返したみたいに赤い一角ができていて、けど『お父様』は私が「食事中によそ見」をしている方が気にかかるみたいで私はわけがわからなくなった。アーツを封じたって、何だっけ。あ、「通過」? アーツが使えたら血で汚れなかったねって、そういうことなの? 私はその場で吐いた。血まみれのケーキにか、食べなくなったお皿を下げるみたいに人を殺した『お父様』にか、私がケーキを食べなかったせいで人が死んだという事実にか。
「子どもの体は繊細なのでしたね」
不調のペットを心配するみたいに、動物とすら思っていないような様子で人を殺した『お父様』は嘔吐く私の頭を撫でた。
「医者の用意もしなければなりませんね。それと、料理人の補充も」
何もかも理解できそうで、何もかも理解したくなかった。頭が真っ白のまま、空っぽのお腹から何かを吐こうと喉が痙攣し続ける。ひとつだけ、この軽い頭に最優先で刻み込まないといけないことがあった。お医者さんが来たら元気にならないと、今度はお医者さんが死ぬ。
『お父様』は私の『養育』のために、いろんな人を連れてきたみたいだった。その方法が真っ当だったか、なんて考えないようにしたけど。『お父様』はサルカズで、『ブラッドブルードの大君』で、サルカズの人ならある程度動かせるのに(見た目は)リーベリである私がサルカズだらけの空間で生活するのは可哀想だと(余計な)気を回してくれた。『お父様』は変形者さんいわくの「ものすごい老いぼれ」であるせいか、感覚がズレている。それなのに私という子どもを育てようとあれこれする様は、人を食べる猛獣がぬいぐるみでおままごとをしているような、笑うに笑えない滑稽さがあった。おままごとならぬいぐるみの口に「ご飯だよ」って異鉄を入れちゃっても、ぬいぐるみのお友達や家族のつもりで用意した他のお人形やブロックを壊しちゃっても笑っていられるけど。『お父様』の作ったドールハウスの中で、私たちという現実はみんな必死だった。「あなたは殺されないんだからいいじゃない!」って泣かれたこともあるけど、私も本当に必死だったのだ。
『お父様』は私を殺したり、叩いたり、暴力を振るうことなんて少しもしなかった。無理やり動けないようにしたのだって、最初に会ったあの一度きりだ。私に対しては怒ったり、苛立ったりする様子すら一度も見せたことがない。いつも死ぬのは周りの人だ。私に怒る代わり、とかですらなくて。『お父様』は別に、私への罰として周りの人を殺してるわけじゃなかった。私が言うことを聞いても聞かなくても、私以外の誰かはふとしたきっかけで殺された。ううん、『お父様』には人を殺してるって感覚はなかったのかもしれない。『お父様』にとって私の「養育」は「ここ数千年でいちばんの娯楽」らしくて、「他人」が関わるのをとても嫌がっていた。だから私は『お父様』に引き取られてから数年間、(勝手に入ってきた変形者さんを除いて)他のサルカズに会うことはほとんどなかった。『お父様』にとって「人」はサルカズだけなのかもしれない。他の人は、少なくともあのお屋敷にいた人たちは『お父様』にとって家具のような、背景のような、そんなものだった。私だって「」と呼ばれて娘という扱いを受けていても、『お父様』が心からそう思っていたとしても――同じ「人」と思われていたとは思えない。『お父様』にとっては可愛い娘を育てながら二人で過ごした数年で、私にとっては一緒くたに檻の中に詰め込まれた命をひとつでも赤い塊になる未来から隠そうと必死な日々だった。
千年、二千年、もっとそれ以上――気が遠くなるほど昔から執着していた「血」が、子どもの姿をして現れた。だから手元に置くついでに、『娘』と呼んで育ててみることにした。そういう暇潰しだったんだと思う。育てるといっても、お父様の「養育」はガワばかり取り繕った真似事だった。聞きかじった知識と、(メーワクな)思いつきを実践することはあっても、人を育てるということを一から学んで理解しようとしたわけじゃない。されても逆に怖いけど。ショセン『お父様』にとって私を育てることはただの
遊興でしかなかったのだ。別に本当の愛情が欲しかったわけじゃないけど、それでもただの輸血パックとして人格をナイガシロにされてたわけでもないから余計にわけがわからなかった。
『お父様』は時間があれば私を膝の上に座らせて、普通の親子がそうするみたいな時間を過ごさせたがった。普通の親子がどんなものかなんて、私は知らなかったけど。だいたいは『お父様』の話を聞き流しながら、早くこの時間が終わらないかなぁって時計を眺めていた。そうすると時計が好きなのかと部屋に時計が増えたり、逆に時計がよその部屋に移されたりなくなったりした。一度それに巻き込まれて人が死んでからは、何を見ていればいいのか困るようになって『お父様』の方を向いて座るようになった。『お父様』はそれにすごく満足したみたいで、けっこう長いこと機嫌が良かった。『お父様』は私が言うことを聞かなかったり抱っこされるのを嫌がったりしても一度も怒らなかったけど(嫌がっても結局抱っこはするけど)、それはそれとして私が懐く(ように見えることをする)と機嫌が良くなった。可愛い娘だと言って、いいものを食べさせて、綺麗な服を着せて、何をしても怒ることすらせず大事にしてくれる。その理由がなんであれ、私は幸せなんじゃないかな? 誰かにそう罵られてそう思おうとしたこともあったけど、結局そうは思えなかった。
愛情が何か、なんて私にはわからない。『お父様』は真っ当な愛情なんて理解しなさそうな化け物だけど、それでも『お父様』なりに私に愛情を向けてくれていたのかもしれない。オモチャや輸血パックの延長線だとしても、愛着はあったのかもしれない。それでも私は、『お父様』のことを少しも好きになれなかった。
無関心でも善意でも悪意でもなく――どろっとした執着みたいなものに包まれて過ごす数年は気がおかしくなりそうだった。もしかしたら、気はおかしくなってるのかもしれないけど。ここに来た時から私の寝室は『お父様』の寝室でもあったけど、その頃から『お父様』は私の頬や髪を撫でながらじっと見下ろしてくるようになった。眠いから早く寝たいな、そう思っても『お父様』がいろいろと触ってくるのが気になって寝るに寝られない。その頃はまだ血を吸ったりはされてなかったから、『お父様』が何をしたいのかもわからなくて。顎を掴まれてあちこち向かされたり、瞼を撫でられたり、目の下を軽く押されたり、耳の形を確かめるみたいに指先でいじられたり。『お父様』はよく私の小ささや柔らかさを面白がっていた。出来のいい人形に興味を持つ子どもみたいに、私を隅々まで触ってひとりで何か納得してた。その頃にはもう嫌がって暴れるより、気の済むまで放っておいた方が疲れなくて済むとわかってたからよっぽどじゃなければ黙ってされるがままになっていたけど。
「どうしましょうか」
何を? と聞き返すこともしなかったけど、『お父様』もそれは私に聞いたわけじゃなさそうだった。
自問自答みたいな、ふたつのケーキを並べてどっちから食べようか悩むみたいな、そんな様子だった。
「初めてというものは、何事においても特別でしょう」
そうかもね、とは思ったけど口には出さなかった。『お父様』は気にしていなかった。代わりに、私の首筋を人差し指で撫でる。『お父様』の手はいつも冷たくて、私は撫でられるのが嫌いだった。
「思案し、選択に惑う時間もまた良いものですが……花開く一瞬は時に夜明けの刹那よりも短い」
今度はおなかを触りながら言う『お父様』に、この小難しい言い回しが伝染らなくて良かったなぁ、なんて呑気に考えていた。『お父様』はずっと、私の血をいつどんな形で飲むか考えていたのだ。『お父様』は私に今まで血の一滴も流させなかった。少しでも怪我をしないように、転んだだけで近くにいた誰かが責任を問われて真っ二つになるくらいに。それは私の心配というよりも、『お父様』が初めて口にする私の血をより特別にするためだった。ずっとずっと欲しかった血を、一番特別な形で口にしたい。そう思っていたから、不用意に血が零れてしまうことのないように私は守られてきたのだ。『妖精』は自分たちが血を流すのを何より忌み嫌う種族だったらしいけど、それは本能ではなくプライドとかそういうものによるルールのようなものだったらしい。死んだら亜空間に遺体を飛ばすようにしていたというのだから徹底してる。『お父様』ですら妖精の血は匂いしか知らなくて、だからこそ『お父様』は初めてのそれをどう味わうべきか何年も考えていた。
「あなたはもうすぐ少女になりますね」
もう少女じゃなかったっけ、そう思ったけど私は黙って頷いた。『お父様』はいつもみたいにうっすら笑っていた。『お父様』は感覚が鋭いから、私の体の変化も私以上に知っていた。平たく言うと、もうすぐ初潮が来ることを知っていたのだ。あんなに大切にしていた血が、否応なしに体の外に流れてしまうタイムリミット。でも『お父様』は楽しそうにしていた。『お父様』の時間の感覚から言えば数年なんてあっという間だろうけれど、それでも数年は食欲を抑えてくれただけでも本当はすごい忍耐なんだろう。私がそれを、恩に感じたことはないけど。
「陳腐ではありますが……やはりこういうものは、最も古く単純なやり方こそが相応しいのでしょうね」
そう言って、『お父様』は私の肩を掴んだ。びっくりして振りほどこうとしたけど、私は少しも動けなくなる。それは肩を掴む手の力が強かったからじゃなくて、見上げた先に『お父様』の目を見てしまったからだった。
「……っ、」
赤い。真っ赤な目が、私を見下ろしてた。変形者さんが『お父様』を赤目と呼ぶのをいつも不思議に思っていたけど、私はその意味を初めて理解した。誰でもきっと、この色こそが「赤い」のだと言うのだろう。鮮やかだとか、血のようなだとか、余計な形容詞は何一つ要らない「赤」。私は呼吸すら忘れたみたいに、その目を見上げて震えていた。妖精が血を嫌うのは本当は本能なんじゃないかって思うくらい、その赤は私のいちばん深いところにある恐怖を掴んで離さなかった。いつか『お父様』が話していた、妖精はブラッドブルードを殊更嫌っていたって。私にはそんなことできそうになかった。嫌うなんてことができないほど、その瞬間に理解してしまっていた。
「怯える必要はありませんよ、」
いつものように暴れても構いません、そう言って『お父様』は微笑んだけど、私は何もできなかった。指一本動かせなかった。赤目を見せるほど興奮しているブラッドブルードの大君を前に、自分が何者かもわからない幼い妖精が何をできただろう? そう言い訳したところで、現実はただただ明白だった。私は『お父様』に、戦うことすらなく負けていた。 ダメだって、無駄だって、全身の細胞のひとつひとつが理解させられていた。私はこの人の視線にさえ、100年かかったって勝てないんだろう。
お父様は笑った。私を馬鹿にしたり、そういう笑い方じゃなかった。こんなに嬉しそうに、幸せそうに、満たされたように笑うお父様は初めて見た。それどころか、私の知ってる人を全部並べたってこんなふうに笑う人は一度も見た事がなかったと思う。死人みたいに真っ白な肌に血が通って、ありふれた平凡な人にさえ見えた。けどお父様は吸血鬼で、私の血が欲しくてたまらなくて、真っ赤な目を細めて首元に顔を近付けてくる。いつの間にか、抱き上げられてお父様の膝の上に座っていた。お父様からはいい匂いがして、明らかに寝るのに向いてないはずの硬い生地の服は少しも皺が寄っていなかった。細いけれど大きい体で抱き締められて、すっぽりと影に覆われる。いい子、って褒めるみたいに頭を撫でられて、いつもは嫌なはずのそれに安心してしまうのがとても怖かった。
「」
喜びを煮詰めたみたいな声に呼ばれて、顔を上げる。その瞬間、硬いものが首に当たった。痛い、そう思う間もなくずぶりと突き立てられる。長い牙でもないそれはそう深くも突き刺さらないはずなのに、深く深くまで貫通したような気がした。じゅる、と啜るような音がする。痛みより、熱いと思った。同時に、寒いと。ぞわっと全身に寒気が広がって、熱いものがせり上って体の外に出ていく。吸われていく。代わりに冷たいものが入ってくるような、奥底まで冷たい手がまさぐってくるような、そんな錯覚を覚える。少しも動けなくて、ただ震えていた。お父様は珍しく何も喋らなかった。そのくらい一心不乱に、夢中になって血を吸っていた。あの人にそうさせるほど、私の血はいいものだったみたいだ。ぎゅっと腕が絡み付くみたいに強く締め付けてきて、熱い吐息が首筋にかかる。血を吸われてる間はあの目を見ずに済むことに安心した。だって今、あの目がどんなに赤くなっているか見たくない。わざわざ牙を突き立てて血を吸う必要もないのにそうするのはただの『趣味』らしかったけど、お父様の悪趣味にこればかりは感謝した。痛くて、寒くて、熱くて、怖かったけれど。滲み出る血を吸われて、舐められて、首に吸い付かれる。いつもみたいにどこかを見て暇潰しなんてできなかった。何も考えられなくて、ただ血を吸われる何とも言えない気持ち悪さだとか、香水みたいなお父様の匂いだとか、じゅるじゅると響く音だとか、そういうものを五感でただ受け止めていた。このまま全部の血を吸われて死ぬんじゃないかって思ったのは後になって思い返した時のことで、とてもとても長い時間のように感じられたそれは、実際はもっと短い時間だったんだろう。
「……おや、泣いているのですか?」
驚かせてしまいましたね、だとか痛かったですか? とか、そんなふうに言われて初めて自分が泣いていたことを知った。『お父様』は私の目元を拭いて、とても惜しそうにため息を漏らした。じっと目元を見つめられて、「勿体ない」と指先で撫でられる。今度は目を食べられてしまうのかな、そう思うくらい粘着質な視線を向けられて情けない声が出て、そうしたら『お父様』は優しく笑った。
「、私の可愛い娘」
たすけて。今更思い出したようにその言葉は口から漏れ出た。私はずっと、ここに来てから一度も、その言葉を使ったことがなかった。だって私みたいな孤児を助けてくれる人なんて誰もいない。私が『お父様』からみんなを助けなきゃいけない。それなのに私が「たすけて」なんて、誰に言えばよかったんだろう。無駄だと思ったその言葉を沈めて、忘れて、もう何年も経ったはずなのに。ああ、この言葉ってこうやって使うんだ。自分よりずっとずっと強くて怖い生き物に優しくしてもらうために、この言葉はあったんだ。怖くて怖くて堪らなかった。『お父様』はとても怖い怪物だって知ってたはずなのに、知らなかった。血を吸われるのが痛かったからじゃなくて、私を抱き締める腕が敵わないほど強かったからじゃなくて、私を見る『お父様』の目が、優しい声が、ぐにゃりと視界が歪みそうなほどに怖くて私はそう呟いていた。
「たすけて……」
「ええ、」
満足そうに笑った『お父様』が、私にキスをする。生まれて初めて唇に感じるそれは、私の血の臭いがした。
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