あの子は、いつだって彼のことを
救い主と呼んだ。それはわりと洒落にならないクラス名だから、何度も
剣士だと訂正したのだけれど。それでも自分にとっての『セイバー』はただ一人彼だと言って憚らない、少しお馬鹿でいじらしい子だった。そんな彼女だからこそ、どうにか元のありふれた幸せな場所へと戻してやりたかったのだろう。
「チッ……!」
︎︎やられた、とセイバーは舌打ちをする。襲撃者を片付けての後を追ってみれば、気配の途切れた路地裏には見覚えのある御守りが落ちていて。本来はこの街に観光のために訪れたのだから、と彼がに贈ったものだった。彼女が失った幸福のうち、ひと欠片でも紛い物でもその手に返してあげたかった。こんなちゃちな土産物に、無邪気に笑って喜んだあの子が不憫でならなかった。
︎︎を攫った者は、何も抜かってこれを落としていったわけではない。言うなれば宣戦布告で、縁切りの宣言なのだ。お前はもうに不要だと、そう一方的に告げるための。
「くそっ、原田ァ……あいつ、」
︎︎元より、領分を超えたのは自分だ。仕出かしたことの大きさは理解していたし、いずれ然るべき報いを受けるだろうと覚悟もしていた。それでも、あの子がその代価を支払わされるのは違うだろう。
︎︎やっと、やっと帰れるところだったのだ。こんな異常な殺し合いから抜け出して、本来いるべき場所へと。少しばかり不運で幸運で、それでも生きていてくれた子どもはこんなところにいるべきではない。彼女は日常へ帰らなければならない。そうでなければ――彼は何のために、あの日を奪ったのかわからなくなる。傍観者の、一線を超えて。
︎︎斎藤一は、セイバーではない。否、厳密に言うなれば『今回の』セイバーではない。前回の聖杯戦争で少々やらかして、教会に代行者代わりにこき使われることになった、それだけだ。いずれは年季も明けて、英霊の座に戻れよう。それまでは気ままな現世暮らしと窮屈な勤め人の人生を謳歌でもするかと、ふらふら適当に日々を過ごしていた。
︎︎それが、と出会ってしまって。彼は本来、の令呪を回収しに行くはずだったのだ。教会の命令で、生死もあやふやな『手違い』のマスターの令呪を隠匿し、神秘が世間の目に触れぬようにと。が死の淵で無意識に喚んでしまったサーヴァントは、霊体の形すら取れずに霧散しかけていた。可哀想な少女の瞼を下ろしてやろうと近付いたとき、その手が力無く伸ばされたのだ。
︎︎最期の言葉を、聞き届けるつもりで手を取った。最後に独りなのは可哀想だと。つらいなら、介錯してやってもいいとさえ思った。それなのに、なまじ魔力があるせいか死に切れず、むしろ生きようとその命は哀れにも強く脈打っていた。耐えろと励ましたが、その苦しみようはいっそ殺してくれと縋ってほしいほどだった。あまりに痛そうで、苦しそうで、諦めてさえくれたなら彼はその首をすとんと落としてやれたのだ。それなのに、終ぞは諦めなかった。ただ死というものが怖かったのだとしても、あの狂いそうな絶望と苦痛には耐えてしまったのだ。彼が、手を握ってしまったから。
︎︎そんな脆い命の必死のあがきに、責任を取るべきだと思った。間に合わない『そいつ』の代わりに、自分が彼女を守ってやるべきだと。そうして彼女を救うべきサーヴァントの目の前からその小さな命を掠め取って、彼は夜通し駆けたのだった。
︎︎本来彼女をマスターとして戴いていたであろうサーヴァントの元へ、を返してやる気はさらさら無かった。は彼の思った通り、ありふれた平凡な、幸せの道から転がり落ちてしまっただけの子どもだった。小さな痛みに泣き、殺し合いと聞いただけで青ざめ、両親を恋しがって膝を抱える。そんな弱くて尊い命が、こんなところにいていいわけがない。彼がイレギュラーなサーヴァントとして割り込んだことで、アレは現界も危うかったはずだった。けれどそれでいい、自分の他に誰が、このどこにでもいる女の子を元の日常へと返してやれるだろう。少なくとも彼は、その点においてアレを信用していなかった。
︎︎が彼に好意を抱いたのは、こんな異常な非日常の中にあっては当たり前のことだろう。彼だけが、を助けてやれる。彼女の『セイバー』だけが、味方でいてやれる。その盲目的で幼い好意を笑うつもりなど毛頭なかった。それに賢いあの子はひと時の未練に囚われず、きちんと正しい答えを選べた。死人への想いなどに、縛られることなく。
︎︎教会から出奔した形になる彼は、戻ってもタダでは済まないだろう。少なくとも、のサーヴァントでいられなくなることだけは最初から決まっていた。を助けようと思った、その時から。
︎︎それでも構わなかった。あの子が元いた場所に帰れるのなら、この仮初の身が覚えた寂寥など。教会は、だけは日常に戻してくれるだろう。出会ったときから二度と会えなくなることがわかっていたとしても、自身がどう処分されるとしても、そのハッピーエンドを目指してつかの間の逃避行へと駆け出せた、はずだった。
(さすがは『死損ね左之助』ってところか)
︎︎よくもまあ、あれだけ不安定だった霊基をここに来て形にできたものだ。見たところ、誰ともパスが繋がっていないのに。素人である斎藤からの伝聞で魔術の真似事をしたのパスでさえ、アレの状態よりは安定していた。けれど感心ばかりもしていられない。アレは、を自身の元へと連れ去ったのだ。もうすぐ彼女に与えられるはずだった、安寧の目の前で。
︎︎少なくとも、アレはを手放さない。不安定な召喚の影響か、他の要因か、アレはバーサーカーでもないくせに狂化じみた、かなり面倒な状態になってしまっている。なまじ媒介のない、相性のみによる召喚なのが良くない。そんな召喚で結ばれたマスターなど、自身の運命と勘違いしてしまうに決まっているではないか。根底に自身の欠けと重なる形があるからこそ喚ばれたのだと、彼女は自分に無くてはならない存在なのだと、名を呼ばれもしないうちから思い込んでしまう。
︎︎そんな『運命の相手』を手にしたなら、元の日常へなど『死んでも』返してやらないだろう。そんな男に、を素直に渡してやるはずもなかった。アレだけは駄目だ。アレはを不幸にする。ずっと傍にいると嘯いて、雁字搦めに死ねなくする。あんな死に損ねる男の手に渡っては、は故郷の墓に入ることさえできなくなってしまう。そんなものをの幸せと認めるわけにはいかなかった。あんなに、平凡に笑う女の子なのに。
「まったく、俺ってばいつからこんなに仕事熱心になっちゃったのよ」
︎︎仕事などと、到底思ってもいないくせに。ガリガリと頭を搔いて、御守りを額に当てる。祈るように、の残した魔力へと意識を集中させた。
︎︎本当は救世主などでなくても良かったのだ。ただ、セイバーが傍にいてくれたら。お前は今日から殺し合いをするのだと言われて、はいわかりましたと頷ける一般人がどれほどいるだろう。少なくともはその類の人間ではなかったから、渦中の夜を過ごすことにさえ怯えていた。
︎︎セイバーはやけに現代慣れしたサーヴァントだった。精々家族旅行や学校の宿泊学習で引率されるばかりだったよりよほど、ホテルの手配だの街への溶け込み方だのに慣れていて。撮影の仕事とそのマネージャーだという設定で通すことを提案された時は思わず二度見したが、実際それで疑われることもなくホテルを渡り歩けたのだからセイバーが正しかったのだろう。突飛な設定だと思ったが、観光地であることやセイバーの妙に似合ったスーツ姿と社会人然とした態度が、成人男性と女子学生という奇妙な組み合わせを上手く誤魔化してくれた。が人目を避けて行動することにも「職業柄だろう」と周りが勝手に納得してくれたものだから、「はじめさんはすごい」とはしゃいでセイバーを苦笑させたりもしたものだ。
︎︎マスターであるとは別に『パス』を確保しているのだというセイバーに魔力だのといった心配は薄く、目下の悩みは金銭面というひどく現実的なところにあったのだけれど。修学旅行のお小遣いすら飛行機と共に焼けてしまった一文無しのを、当然のように養ってくれたのはやはりというか、セイバーだった。どうしてそんなに現代のお金を持っているのかと聞けば、「ま、いろいろとね」と濁される。実際セイバーのお金が無ければ死んだことになっているも戸籍のないセイバーもアルバイトすら難しかっただろうから、どんなお金だろうと文句など言うまい――そんな余計な気を回したのがバレて、頬をもにりと挟まれたりもしたものだ。
『言っとくけど、マスターちゃんが想像してるようなお金じゃないからね』
︎︎そう言って、「そんなこと考えてる暇があったら、子どもらしく遊びな」などとお小遣いを渡されて。本当はクラスメイトや友達と一緒に回っていたであろう地を、セイバーと一緒に歩いた。お菓子なんかを二人で頼んで分けて、お土産屋さんを冷やかして。どうか無事に帰れますようにと、神頼みもしたりした。無駄遣いはできないと遠慮していたことを窘めるように、その可愛らしいちりめん細工の御守りを渡されて。ああ、楽しかったな。まるで夢のようだなと、そう思ってしまった。
︎︎自分だけが生き残って、つかの間の幸せを噛み締めて。そのことに罪悪感がなかったといえば嘘になるけれど、はセイバーのおかげで生きていることから目を背けずにいられたのだ。
︎︎ほら、の中にはこんなにもセイバーへの感謝と思い出が溢れている。別に運命ではなくても良かったのだ。そんなもので結び付いていなくとも、だけのセイバーだった。だから、取り上げないで。セイバーが鞄に結んでくれた御守りを、セイバーではない大きな手が解いてしまう。返してと伸ばした手は、ランサーが掴んで包み込んでしまった。存外温かい手は、けれどの求めた唯一ではなかった。
「安心してくださいよ。あんたの大切なものですから、粗末にはしません」
︎︎それに斎藤さんなら、絶対拾ってくれるでしょうし。どうしてランサーがそんなふうに笑うのか、には理解できなかった。それが彼なりの『昔のよしみ』なのだと、知る由もない。今まで彼女を守った礼代わりに、それくらいは返してやろうと。どうせこれからは最後まで自分が傍にいるからという、驕傲でもあった。
︎︎ランサーに握られた手は、虚空にさえ届かない。今度は握り返してくれないのかと、愚かにもセイバーを詰ってしまいそうだった。
251013