「、ですか。いい名前っすね」
︎︎の学生証を片手に、ランサーは満足気に呟いた。倉庫の床の上にはの鞄の中身が広げられ、生徒手帳の奥にしまっていた学生証を難無く探し当てたランサーはそこに書かれていた名前を読み上げた。雑にひっくり返されたようでいて綺麗に並べて検分されている鞄の中身に、かえって恐怖を感じる。まるで、内臓をひとつひとつ取り出してゆっくりと撫でられているようだった。柔らかいハンドタオルも、お気に入りのリップも。まだ馴染まない新しい財布も、可愛い柄のポーチも。新品同様のスクールバッグすら、全てセイバーが与えてくれたものだった。が失くさなかったのは、事故当時たまたまポケットに入れていた生徒手帳と学生証だけ。制服すらまともに着られない状態になってしまったから、の手元に残ったのはそれだけだった。
︎︎自分の存在を過去と繋いでくれる唯一のものを、ランサーが持っている。それはどうにも落ち着かなく、不安になる感覚で。けれど取り返すこともできないのは、が倉庫の柱に両手を括り付けられているからだった。両手を合わせるように、手首同士をベルトで巻き付けて。それを座り込んだの顔の横辺りで、柱に結んでしまっていた。はぺたんと床に座らされたまま、ランサーがすることを見ていることしかできない。協力的な態度は望めないと端から思われているのか、口は布を噛ませられて。ガチャガチャとがベルトを解こうと音を鳴らしていても、無駄なこととわかっているのか視線すら寄越しもしなかった。
「――さて、お待たせしました。マスター」
︎︎鞄の中身を手早く丁寧に戻したランサーが、学生証だけは自身の服へとしまい込んだのを目にする。それを気にするよりも、しゃがみ込んだランサーがの口元へ手を伸ばしたことに意識が向いてしまった。
「そう怯えないでください、取って食いやしませんから」
︎︎そう言いながらも、その手は口を塞ぐ布の結び目に添えられたまま動こうとしない。すり、と指先が頬をゆっくりと撫ぜた。
「一応言っときますけど、叫んだりとかはやめといた方がいいっすよ。静かにさせるのは得意な方ですけど、マスターにそうするのも気が乗りませんし」
︎︎威圧するでもなく淡々と告げるランサーに、を脅しているつもりはないのだろう。彼にとって、どうやらは丁重に扱うべきマスターであるらしい。が怖い思いをしないように、傷付かないように、それは気遣いだとか忠告だとか、その類のものだった。こくん、と青ざめた顔で頷いたの頭を、ぽんぽんと撫でる。それは兄が妹に言い聞かせるように優しい仕草で、心臓の奥がきゅっと軋んだ気がした。
︎︎する、と解かれた布の下から、半開きの口が現れる。はくはくと口を開閉させ、何を言ったものかもわからないでいるの姿に、ランサーは「やっぱりそうですか」と一人納得の様子を見せた。
「あんた、斎藤さんと契約してないんすね」
「っ、」
「まあ、あの人らしいっちゃらしいっすね。大方、聖杯戦争に深入りしないようにとか、そういう理由でしょう」
︎︎契約をしているのなら、令呪を使って喚び出せばいい。魔術をろくに使えずとも、お互いの場所を知らなかろうとも、ただそれだけのことだ。戦えないマスターが自身のサーヴァントと引き離されて拉致される、そんな状況下でそれができないのは、が令呪の使い方を知らないからではない。危機意識が無いわけでもない。は令呪を使えないのだ。使う相手が、いないから。
︎︎セイバーはとパスを繋ぎ、のサーヴァント然と振舞っていたから他の者たちは誤魔化せていたのであろう。いっそ感心したくなるほどの献身に、何があの男をそうさせたのだろうと思う。きっとセイバーは何一つ、聖杯戦争に繋がるものをに与えたくなかったのだ。例えそれが、彼女を守る自分自身だとしても。令呪の他には何一つその身を侵されないまま、綺麗なまま返してやるつもりだったのだろう。迷い込んだ野生の小鳥に、人の匂いをつけさせまいとするかのように。
「あの人、すごいですよね。そんな考え、生半可な覚悟じゃ通せないでしょうに」
︎︎そして実際、あのセイバーならそれをやり遂げられたのだろう。令呪のバックアップがなくとも、本当の契約がなくとも。だけが彼を『私のセイバー』と呼ぶのなら、その小さな願いを守り通せる男だ。ランサーさえ、現れなければ。
︎︎そっと、の令呪のある手の甲にランサーは自らの手のひらを重ねる。ゆっくりと包み込んで、その上から見つめていた。真っ黒に塗り潰されたような目が、じっと己の紋様のない手の甲を見つめている。今にも穿ちそうなほど、そしてその手の下にある渇望を堪えるように、静かに見据えていた。
「――あんたのものになりたい気持ちは、山々なんですが」
︎︎暫くの沈黙の末に、ランサーは長いため息を吐く。未練たっぷりと言わんばかりの様子を見せながら、いやに時間をかけて手を離した。
「今俺をあんたにあげたら、捨てて行っちまうでしょう。恋する乙女ってのは無敵だって言いますから、あんたみたいな甘っちょろい人でも自害を言い渡してくるかもしれませんし」
︎︎の顔に、さっと朱が走った。ランサーは、がセイバーに向ける感情を知っているのだ。優しいセイバーが曖昧にしてくれていた感情を、あっさり言葉にしてしまった。がセイバーの元へなりふり構わず戻りかねないのは恋心ゆえだと、さっぱりするほど潔く言語化してしまったのだ。
︎︎自身が今のに歓迎されていない運命であることも、の視線が誰を求めているのかも理解している。そのことに傷付いた様子すら見せずに、の隣に自身を置こうとしていた。
「じゃあ、まあ、しましょうか。魔力供給」
︎︎とん、とランサーがに覆い被さるように手をついた。急に近くなった距離と顔にかかる影に、は「えっ」と小さく声を上げて後ずさる。そこに戸惑いはあっても、思っていたような怯えや嫌悪、拒絶がないことをランサーは訝しんだ。そして、「あ」とどこか間抜けな声を上げて思い至る。
「斎藤さんから聞かされてないんすか? ︎︎体液交換での魔力供給」
「たい、えきこうかん?」
︎︎の中では、咄嗟に音が単語に繋がらないようだった。ぐるぐると戸惑いに揺れていた瞳が、次第に答えに近付いて焦点を定めていく。体液交換、という単語にようやく辿り着いたらしいが、自身の脚に伸びるランサーの手を視界に捉える。その口が開くのと同時に、ランサーの片手が悲鳴ごとそれを覆っていた。
「言いましたよね。静かにさせるのは得意な方だって」
「う、」
「これが一番穏便なやり方なんで、できればこれ以上は勘弁してほしいんですが」
︎︎とはいえ先ほどのように、が大人しく頷くはずもない。の恋を明かしたその口で、に情を交わすことを迫るのだ。
「だって、あんたの赤子の落書きみたいなパスを繋いでもらっても、斎藤さんに勝てませんし。これが一番手っ取り早くて確実なんですよ」
「んっ、むぐ……!」
「このままじゃ現界し続けるのも危ないんすよ。あんたはそれを歓迎するんでしょうけど、俺は嫌ですし。それに……」
︎︎ガチャガチャと激しく鳴り出したベルトを柱から外して手首を締め直しながら、なんてことのないようにを押さえ込んでランサーは言葉を続けていく。それこそ赤子のおしめでも替えるかのように、その手付きは小さくて弱いものをあやすそれだった。
「俺をあんたのものにしてくれるまで、代わりにあんたが俺のものってことで」
︎︎どうですかね、とランサーはに告げる。喜色を滲ませたその表情からは、否をどう伝えたらいいのかなど読み取れない。見開かれたの目に映るランサーの顔が、ぐにゃりと奇妙に歪んだようだった。
251013