その瞳にちらつく月が、不穏だと感じ始めたのは、いつからだったか。
自分たちは刀の付喪神だ。主に振るわれ、主が為にものを斬る。主を持たぬ刀など――同田貫正国の言ではないが――美術品、観賞用としての刀など、死んでいるにも等しい。刀の存在意義において主の占めるところは大きく、へし切長谷部などはあからさますぎるが、主に執着するのは自分達の本質とも言える。ここに来たばかりの頃の大倶利伽羅のように無駄にツンケンしている方が珍しいのだ。
それは一種の刷り込みであり、そして本能である。かくいう大倶利伽羅さえも、口ではああだこうだと言うものの決して一度も本丸を出て行こうとはしなかったのがいい証拠だ。
行き過ぎて主に害を成せばそれも本末転倒ではあるが、人間でいう忠誠に限りなく近く、しかし確実に異なっているこの感情は、おそらく自分たち付喪神の誰もが抱くもので、抜き身の刀のような危うさを孕んでいる。
だからこそ、この感情が柔く脆い主を壊してしまうことのないように、自分を含めた誰もが、自戒しているものだと、思っていたのだが。
「三日月の旦那、」
蒼い衣を翻して、三日月宗近は自らを呼んだ薬研藤四郎を振り返る。最近この本丸にやってきた三日月は屋敷の様子が物珍しいのか、よくこうして用もなく出歩いているのを見掛ける。その目は平生の通りいたって凪いでいて穏やかなもので、見間違いかね、と一瞬思う薬研ではあったがすぐにその逡巡は消え失せた。
「なあ、薬研」
「何だ?」
「主達は、何をしているのだ?」
そう薬研に問う三日月の目に、穏やかではない翳りを確かに見たからだ。
けれどそれは一度置いて、三日月が目で指す達の姿を薬研も見遣る。幾つもの種類の野菜が植えられた畑の隅、しゃがみ込んだと陸奥守吉行が肩を寄せ合い、和気藹々と何事かを語らっている。
ああ、そういえば今日の畑当番は陸奥守だったかと薬研は内番の割り当てを頭に思い浮かべる。と同時に、何故陸奥守の相方にあてられていた江雪左文字の姿がなく、主であるが作業着を泥に汚して畑仕事をしていたのかが不思議に思われた。これが加州清光や和泉守兼定などであればいざ知らず、江雪がはたして畑当番を放り出すような真似をするだろうか。
「どうやら陸奥守と一緒に畑当番みたいだな。今は休憩中のようだが……おーい、たーいしょ!」
「なんですかー?」
小さい背中に呼びかければ、間延びした返事が返ってくる。振り向いたの顔は日に焼けたのかうっすらと赤らんでいて、これは後で加州や燭台切光忠が大騒ぎするな、と薬研はひとり嘆息した。
「江雪はどうしたんだ? 今日の畑当番はあの人だっただろ?」
「ああ、それなんですが、小夜くんが手合わせで怪我をしてしまって」
「怪我とな。小夜は大事無いのか?」
「はい、怪我自体は小さいものですし、小夜くんも大したことないって言ってたんですが、江雪さんが心配で何も手につかない様子だったので、今日は小夜くんと一緒にいてもらうことにしたんです」
「それに小夜はじき危ないことをするき、お目付け役も兼ねてるちや」
「これ以上小夜くんの怪我が増えたら、遠征から帰ってきた宗三さんが倒れてしまいますし」
と陸奥守は苦笑する。薬研は宗三左文字が目を剥いて倒れる様が容易に想像できて、二人と似たような表情を浮かべた。まだこちらに来て日の浅い三日月は、微妙にわかっていないような顔をしていたが。
「なるほどな。それにしても大将と陸奥守、随分楽しそうにしていたが、何か面白いものでもあったのかい?」
「おお、おんしも見とおせ! 白うてこんまい花が咲いちゅうよ!」
陸奥守が脇によけて自らの足元を指差す。確かにそこには小ぶりな白い花弁を付けた可愛らしい花が幾つか咲いていた。
「に似ちゅうと思ったがで!」
陸奥守の言葉に、さっとの頬に朱が差す。なるほどの顔が赤くなっていたのは、日に焼けたからだけではなかったらしい。さらっと口説き文句のようなことを言ってのける陸奥守に、照れたがあれやこれやと上擦った言葉を返していたのが先程見た光景なのだろう。微笑ましいねえ、と含んだ笑みを浮かべる薬研の横で、三日月が口を開いた。
「主殿は花が好きなのか?」
「えっ、あっ、そうですね。花は好きです」
「ふむ、そうか」
何やら一人で納得したような様子の三日月に、何故か悪い予感を覚えた薬研は口を開こうとするが、問うべき言葉もなく。逡巡の間にと陸奥守は畑仕事に戻ってしまい、三日月も薬研に背を向ける。
「ではな、薬研」
「……ああ。迷子にはなるなよ」
***
翌日、遠征を終えた薬研が報告のために審神者の私室に顔を出した時、そこには困惑した様子のと、彼女に何かを差し出している三日月の姿があった。
「……何してんだ?」
見れば、三日月の手にあったのは昨日畑の隅に咲いていた白い花で。手折られたらしいそれは、三日月の骨張った大きな手の中にあると、随分と弱々しく見えた。
「は、花が好きなのだろう?」
そう首を傾げる三日月と、眉を下げつつも三日月の手から白い花束をそっと受け取ったに、これはちっとばかし厄介な事になっているな、と薬研は胸中で溜息をついた。
「花瓶取ってくるぜ、大将」
「あ、ありがとうございます、薬研くん」
「三日月の旦那も行くぞ」
「俺もか」
「井戸の場所曖昧だって言ってただろ。ついでに覚えてくれ」
数日前の三日月の言を引き合いに出して部屋の外に連れ出せば、特に抵抗することもなく三日月はついてきた。
幾らかの部屋から離れたところで、薬研は口を開く。
「少し意地が悪いぜ、三日月さんよ」
「………」
まさか昨日の「花が好き」というの言葉を額面通りに受け取ったわけでもあるまいに。
と陸奥守の間にお互い少なからず好意があることも、それがいずれあの花のように柔らかな優しい、どこか清らかで侵しがたい、貴くて愛しい感情へと形を成すだろうということも、見て取れることだろうに。
その感情の萌芽を摘むように、態々陸奥守がに喩えた花を手折って差し出し、花が好きなのだろう、とは些か無粋が過ぎる。
「悲しげな顔をされた」
「だろうな」
「何故陸奥守に向けたようなはにかんだ笑顔を俺には向けてくれぬのかと問うたら、あのような困り顔になってしまった」
「そりゃそうなるさ」
「……陸奥守は、主殿と長く共にいるのか」
「長くも何も、陸奥守は大将の一等、一番、はじめの刀だぜ」
ちなみに俺っちは二番目だ、と薬研は口角を持ち上げる。
「積み上げた時間が、信頼が、好意が違う。陸奥守は鈍感で天然だし、大将も純情で奥手だが、あんまり意地悪はしなさんな。ここにはあの二人を応援するやつが結構多い。勿論俺もだ」
遠回しに諦めろと伝えれば、三日月は目を伏せる。
「……それでも」
頭上で聞こえた声の低さに、底冷えするものを感じて薬研は顔を上げる。
「欲しいと思ってしまったものは、どうにもできまい」
心は自ずから動くものだと、そう言葉を連ねる三日月の瞳に昏い光を放つ月が浮かんでいるのを見つけて、この厄介は『ちっと』では済みそうにない、と薬研は冷や汗を流した。
***
それから幾日かが経って、花瓶の花が萎れてしまった頃。
今度は陸奥守が何かをに差し出しているところに薬研は遭遇した。
「あの花が枯れてしもうたがやき、おんしゃぁ落ち込んじょったじゃろ? 歌仙に訊いて作ったが」
「わあ、可愛い花ですね……! もらっても良いんですか?」
「男が花の栞なんか持っちょったがってしょうがないけんのお!」
「ありがとうございます、大切にしますね」
何故こうも自分は主の色事に関わる場面にばかり出くわすのだろう、と思いつつもこっそりとの手元をうかがえば、その掌には桃色の花弁の押し花と和紙で作られた栞が乗せられていた。
「この間の花とも迷ったけんど、こん花もおまんみたいに可愛いにゃあ」
「えあっ、あ、りがとう、ございます……」
顔を真っ赤にして俯くの頭をわしゃわしゃと撫ぜ、「ほいたら行ってきゆう!」と意気揚々と陸奥守は出陣していく。
残されたは、幸せ、という言葉を絵にしたならこんな表情だろう、というようなふわふわとした笑顔で、陸奥守にかき回されて乱れた髪もそのままに、手の中の栞を慈しむようにそっと撫でる様子を見て、薬研の表情も自然と緩む。
ああ、やっぱり壊させちゃあいけねえな、と薬研は自分の前を横切ろうとした蒼い影の衣を掴んで引き止める。
「無粋って言葉、知ってるか?」
「さて、何のことやら」
「大将は優しいからな。あんたがしつこくねだったら、泣く泣くあの栞あんたにあげちまうかもしれないだろ?」
「……主は少し抜けているところがあるようだから、不注意で失せ物があっても不思議はないだろうな」
「第三者の故意は不注意とは呼ばねえな。まったく、油断も隙もあったもんじゃない」
「何しろ手段を選んでいる時間はないようなのでな。こればかりは、俺の負けでもいいなどとは言えないだろう」
そこはいっそ潔く負けを認めたらどうだい、と言いかけた薬研は三日月の瞳の光を見て口を噤む。
この瞳に巣食いはじめた感情は、決して陸奥守とのようなやさしい形になることはないだろう。生まれた時には既に末路が決まってしまっていた恋心は、はたしてどう朽ちてゆくのか。
「……無粋ついでに、不毛って言葉も覚えておいた方がいいぜ、三日月」
「ふむ、まあ、実らぬなら、そうとも言うな」
だが、そう容易く枯れさせはしないさ。
そう笑う三日月の瞳の中で、弧を描く月がゆらゆらと揺れていた。
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