※影山姉ヒロイン

 
「国見の生き方はよくわからないね」
 春高で烏野に負けたあと、二つ年上のその先輩はそう言って赤くなった目で笑ってみせた。
「国見のプレイスタイル、理解したいって思ってた。マネージャーなのに、君のこと結局理解しきれなかった」
 それでもこの人は弟と違って俺を否定せずに理解しようと努めてくれた。俺にはそれだけで十分だった。
「それでもね、国見。私は国見のプレイスタイル、結構好きなんだよ」
 けどこの人の一番好きなプレイスタイルは俺じゃない。結構好きというだけで、一番好きだったのは。
「……ありがとうございます、さん」
 弟の方の影山とかぶるから、と理由をつけて勝手に呼び始めた下の名前。結局、あの人が俺を下の名前で呼んでくれることはなかった。
 あんたが一番好きだったのは岩泉さんのプレイスタイルでしょう、そう言ってあの柔らかい尊い笑顔を突き崩してしまいたかった。あの人はひたむきに進む岩泉さんのスパイクに、レシーブに、サーブに、そのプレイの全てに惚れ込んで、そのプレイの全てを目に焼き付けたくて中学から合計六年間岩泉さんとその周りの人間を献身的にサポートし続けたのだ。
それは恋ではなかった。さんの感情はそんな俗物的なものじゃなかった。ひたむきな憧れで、あの人は岩泉さんを追い続けた。
その、あの人にとって何よりも尊い岩泉さんの、何もかも最高だったスパイクが、弟のいるチームに負けた衝撃は一体どれほどのものだったのだろう。
弟とは異なり、冷静で賢くて理性的な人だった。そんなさんが、目元を真っ赤に腫らして泣いていた。それがその答えだろう。
 俺はその日ただひたすらボールに触れていた。
俺のプレイスタイルは、さんの憧れを超えることも、憧れを支えることもできなかったのだ。ずっと恋焦がれ続けた人の、何よりも貴く純粋な憧れが粉々に打ち砕かれたその日、俺は泣かなかった。
俺を認めて活かしてくれた及川さんをはじめとした三年生に応えられなかった悔しさも申し訳なさも、烏野に負けたなんとも言えない重苦しい気持ちも、何もかもが混ざり合って。
自分の感情が処理しきれないなんて経験は、それが最初で最後のことだった。
 ***
さん」
 青城にはさん以外のマネージャーはいなかった。及川さんのファンは多かったが、だからマネージャーになりたいという人間はさほどいなかったのだ。高校生はそこまで馬鹿ではない。アイドルはギャラリーから眺めるものだ。それでもたまに境界線を忘れた人間がやって来ないわけでもなかったが、そういう人間はすぐに憧れと現実の落差に挫折して消えていった。
強豪校の男子バレー部のサポートというそれなりの激務を好き好んでしたがる人間は一二年にはいなくて、さんは引き継ぐ後輩を持たずに引退することとなった。だから一年がその業務を引き継ぐことになる。本当はベンチ入りしていない一年が引き継ぎをするものだと思う。けれども部活内でのこの人との最後の繋がりに惨めったらしくもすがりつきたくて、俺は自ら引き継ぎを引き受けた。それを言った時の金田一の顔は、正直笑えた。
「ごめんね国見、君も忙しいのに」
「いえ、それよりも可愛い女の子の後輩でなくてスミマセン」
 さんが烏野に増えた新しいマネージャーを羨ましがっていたことを引き合いにだしてからかってみる。さんは困ったように笑った。その目元はもう、赤くない。
「国見は可愛い後輩だよ」
「うわあ嬉しいですありがとうございます」
「棒読みだね」
 可愛い後輩だなんて言われたところで俺は嬉しくない。苦笑したさんがひとつひとつ業務を説明していくのを、その声を、その表情を、鼓膜に、網膜に焼き付けていく。きっとこれが最後だと、わかっていた。
さん」
「うん?」
さんはどこの大学に行くんですか」
「――大学、」

唐突に問いかけた俺の言葉に、さんはやはり少し困ったように笑ってみせた。東北の学生なら誰でも知っている県内の有名大学を挙げたさん。どこまでも弟の影山とは似ていないこの人が行くのはとても頭のいい学校だ。そこに行くということはつまり、
「……マネージャー、もうしないんですか」
「しようと思えばできるよ、あの大学にだってバレーの部活やサークルはあるし、」
「でも岩泉さんはそこにはいないでしょう?」
「……そうだね」
 さんが俯くと、唯一弟と共通しているまっすぐな黒い髪が流れ落ちた。
「……あのね、国見」
「はい」
「私、この六年間楽しかったよ。それから青葉城西での三年間は、本当に、最高に、ありえないくらい楽しかった。悔いがないわけじゃないけど、それでも、本当に楽しかった。ここは最高のチームだよ。私はここが大好きで、皆のバレーが大好き」
「岩泉さんのバレーがじゃなくて?」
「岩泉のバレーは青城のバレーだよ。青城にいたから、岩泉は最高のバレーをできた。本当に、青城に来てよかった。私も、岩泉も、及川たちも。でもさ、」
 さんの声が震える。負けたその後でさえハキハキと指示を出していた涼やかな声が、俺の前ではじめて崩れて。胸の奥で心臓が、どくんと大きく鳴った。
「この先もうどこにも、これ以上のチームなんて存在しない。存在させたくない、私の中に。終わり方に納得がいかなくても、私はこれで終わりにしたい。臆病で、卑屈で、未練がましいけど、でも、」
「……俺はそれでも、いいと思いますよ」
「……みんな、そう言うんだよなあ……」
 岩泉も、及川も、花巻も松川もみんなも、私のこと怒ってくれればいいのに、それでどことなく嬉しそうな顔するなんて、ずるいよね、とさんが声を震わせながらも口の端を吊り上げて笑った。
「私のバレーは、ここで終わり。今年の青葉城西のバレーは、私の中でずっとずっと、最高のバレー」
 顔を上げて笑ったさんは、泣き笑いで、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて。それでもその表情がとても綺麗だと思ったから、俺はさんの手のひらをぎゅっと握った。
「くに、み?」
さんのバレーはそこで終わらせてください。一生大切に、しまい込んでいいんです、最高の岩泉さんのバレーを。でも、」
 きっとこの人の中で美しい憧れは永遠に輝き続けるのだろう。それでいい。きっと俺はそれに惹かれたから。俺はそれに適う憧れをこの人に差し出せないから。
「俺のバレーはまだ先があるんです。俺の最高はここかもしれないけど、ここじゃないかもしれない。これが最高だと思うものが、ずっと決まらないかもしれない。でも俺は続けます。さん、」
「……何、かな?」
「正直俺はさんの中の『最高のバレー』を倒せません。そんなこと比べること自体意味が無いと思います。だから俺のバレーを岩泉さんのバレーより好きになってくださいとは言いません」
「……?」
「バレーとは関係の無いところで、俺を好きになってください、さん」
「え……」
 ああ、もう一つ弟との共通点があった、と意識の外で思う。驚いた時の目の細まり方がそっくりだ。握った掌の体温が急激に上昇するのがわかって、俺の体温も上がる。
「憧れはもう打ち止めにするんでしょう、バレーのコートを出るんでしょう、だったら俺を見てください。あんたのことが好きな俺のことを考えてください」
「っ、」
「俺はさんが好きです」
 顔を真っ赤にして口を押さえてしまったさんに、俺もつられて赤くなる。こんなに喋ったのは久々だった。 正直キャラじゃないとか言われてもどうでもいい、ただここで俺とこの人の関わりは切れてしまう。その前に、どうしても繋ぎ直したくて。
「俺はコートの外で四年さんのことを追いかけました。さんは岩泉さん追いかけて六年間でしたよね? だったら少なくともその倍は追いかけてみせます。岩泉さんのバレーに憧れた六年よりも長い時間を、俺にください、さん」
「……国見、本気で言ってるの?」
「嘘や冗談で俺はこんなこと言いません」
「そう、だよね……そっか、ごめん、全然気付かなかった……」
さんは岩泉さん一筋でしたもんね、恋愛じゃないですけど」
「……四年も追いかけてくれたんだ」
「まだたったの四年です」
 真っ赤になったさんが、仕方なさそうに眉を下げて笑う。泣き痕の残る柔らかい笑顔はとても綺麗で。こんなに綺麗な人の美しい憧れに取って代わるものなんて何も無いのに、俺は俗物的な感情で塗り替えようとしているんだ。
「……ありがとう、国見」
 さんが笑う。否定か肯定か、その先の答えを聞くのが怖くて。決定的な答えに打ち砕かれる前に、この綺麗な人の憧れを貶めてしまいたくて。
俺は目の前の体を引き寄せると、開きかけた小さな唇に、自分のそれを無理矢理に重ね合わせた。
 
150817
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