※わりと胸糞

 
怪物も女の胎から生まれ落ちるものならば、それを産み落とした女もまた、怪物なのだろうか。
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 よくD機関の同期と連れ立って飲み歩いた店の一つに、その女はいた。名はといった。素朴な微笑みを浮かべる、控えめな女だった。
その店は表裏の境界からギリギリ裏側へと沈んでしまっているような飲み屋で、一応旅館という建前ではあったものの、泊まり客といえば気に入った女給を買って部屋に連れ込む者ばかりの、娼館じみたこすい旅館だった。他にも人身売買やら違法賭博やら、あらゆる薄汚いことに手を広げている店で、田崎たちは主に「裏側」のやり方を学ぶためにその店に出入りしていた。そんな、華やかな街の埃を掃いて捨てたような薄汚れた場所に、はいた。
化粧っ気の薄い顔。左耳の下で簡素に丸く纏めた、癖の少ない黒髪。人目を惹き付けるような華はないが、繊細で嫌味のない整った顔立ち。他の女給と変わらない、真朱の着物に紺の前掛け。初めて見た時は、えらく地味な娼婦だと思っただけだった。むしろ隣にいた小田切が、ほんの一瞬とはいえ動揺にも近い気配を出していた。ああいう女が好みなのかと、そんな感想を抱いただけだった。
 けれど何度かその女を見かけるたびに、違和感を覚えて目で追うようになった。女はいつも、素朴な微笑みを浮かべていた。客に暴言を吐かれても、酔った客に気持ちの悪い手付きで触られても、酒瓶を投げつけられても、弟を見守る姉のような静かな笑みを崩さなかった。時にはそれで客の神経を逆撫でし、馬鹿にしているのかと罵られ、頬を張られ髪を掴まれ、引き摺るように奥の部屋に連れ込まれていたこともあった。さぞ手酷くされたのだろうが、次見た時には憔悴した様子も見せずにまた微笑んでいた。そしてその客は、気付けば女の常連になっていた。
 女は気狂いなのだろう。田崎はそう思っていた。しかしその割りには、女はあまりに『普通』だった。酔っ払いに絡まれ泣く他の女給を、妹をあやすように慰めてやっていた。突然体を触られた新入りらしき女給が驚いて料理の皿を落としてしまったのを、代わりに片付けて一緒に頭を下げてやっていた。女は穏やかで、優しく、この到底普通とは呼べない汚い場所で、異常なほど『普通』だった。堪えるような無表情も、媚びるような笑顔も浮かべない。ただただ、自分が普通の日常の中に生きているように笑っていた。鄙びた農村の畦道でまれびとを迎えるように、素朴な笑顔で客を迎えた。
 田崎は、戯れに女を買った。抱き心地は悪くなかった。床上手ではないが、体の相性は良かったらしくそれなりに楽しめた。純朴そうな笑顔と恥じらいが、世間擦れしていない箱入り娘との初夜を思わせる。演技が苦手なのか大きく喘いだり派手に達したりすることもなかったが、この女を好んで買う人間にとっては寧ろこの慣れていないふうが良いのだろう。郷愁だとか追憶だとか、そういった優しい思い出のひとつでもある者なら、忽ち虜になるような青い実の魅力。一部の客に妙に人気があるわけだと、田崎は納得した。
 田崎は女のことをそれとなく、他の女給に尋ねてみた。女は驚くほど女給たちに慕われていた。面倒な客から庇ってくれること。凍るように冷たい水で手が裂けそうだった冬の夜、当番でもないのに皿洗いを手伝ってくれたこと。風邪を引いた時、粥を作って匙で食べさせてくれたこと。家族が恋しくて泣いていた夜、一晩中抱き締めてくれたこと。買われてきたばかりの幼い子に菓子をやったり、一緒に遊んでやったりしていること。まあよくここまで他人に構っていられるものだと呆れるほどに、女の善行の話は尽きることがなかった。女給だけでなく、この旅館に関わる全ての人間に同じようにしているのだという。こんな掃き溜めであの人はまるで聖女のようだと、女は慕われていた。
 田崎は人でなしだ。化け物だ。何物にも囚われず、愛だの恋だのに価値を見出さない。それを拠り所としない。人間として、破綻している。だからこそ、田崎は女が人でなしだと感じた。気狂いなど、生易しいものではない。方向性こそ違えども、こんな場所で他人に分け隔てなく無償で優しくできる女は、到底まともではない化け物だと感じた。微笑む女は、微笑む化け物だ。客も旅館の人間も、女は何もかもに等しく微笑みを向けるのだ。それは逆に、何者も女にとっては特別でないという証左で。同類を見つけたような気持ちになって、その中身が見たくなる。聖女のような微笑みを浮かべる女は、その胎にどんな怪物を飼っているのか。月の満たぬ嬰児を胎から引きずり出すように、女の破綻を暴きたくなった。
 田崎は、を見かけるたびに金を握らせて奥の部屋へと連れ込んだ。ちょうど尋問で秘密を暴く訓練のように、静かで優しい微笑み以外の表情を引き出そうと試みる。快楽で前後不覚になれば隠れた何かも出てくるかと、どろどろに意識が溶けるほどに抱いてみることもあった。
「……っ、」
 田崎をして手強いと感じさせていたが僅かな罅を見せたのは、うつ伏せに組み敷いて後ろから突き上げていた時だった。何度も何度も果てさせられたの意識は朦朧としていたが、そのが一瞬明らかな感情の揺らぎを見せた。ほんの僅かだが、は怯えるように肩を揺らしたのだ。
こんな仕事をしていれば、行為に嫌悪感どころか心的外傷の一つや二つがあったとしてもおかしくはない。けれど、その割にはよく感じているのだ。うねるように絡みつく襞が、田崎のそれに縋るようにきゅうきゅうと締まる。いつもはうっすらと朱のさす白い肌が赤く上気し、声に甘い喜びの色が混ざる。演技ではなく、田崎が感じやすくなるよう仕込んだにしろ、他の体位の時よりも明らかに良さそうにしていた。
「っ、田崎さん……お顔、見たいです……」
 けれど田崎がその罅に触れる前に、振り向いたが遠慮がちに体位を変えながら珍しく媚びるような声を出す。素朴な笑顔は変わらないが、肩はほんの僅かに強張っている。逃げようとしていると、気付いた田崎は口角を吊り上げて笑った。
 ***
「あ、いや、だめ、」
「だめ、なんて顔には見えないが」
 頬に添えた手で顔だけ振り向かせ、田崎はの耳元で囁く。すうっと背筋を指先でなぞれば、大袈裟なほどに肩が跳ねた。嫌だ駄目だと繰り返すの表情は、その言葉が滑稽に思える程に甘く蕩けきっている。前回時間切れで逃げられてしまった田崎は、休日の今回旅館の主人にも金を渡してを一日借り上げた。そのことを伝えたとき、一瞬の動きが止まったように見えたのは田崎の錯覚ではないはずだ。追い詰められていることを自覚していると思えば、愉快さに唇が笑みの形に歪む。
今日は最初からずっと、後背位でを責め立てていた。さりげなく身を捩らせようとしても素知らぬ顔で抱き締めて身動きを取れなくし、惑ったような懇願にも惚けた答えを返して聞き入れず。の体はどこからどう見ても、田崎との情交に悦んでよがっていた。最早微笑みは崩れて泣く一歩手前のような表情になっていたが、今更これだけでは満足できない。いっそ泣かせでもしないと収まらない。ここまで来たのなら完全に壊してこそだろうと、田崎は白いうなじに歯を立てた。
「っ!!」
 その瞬間、はあからさまに拒絶反応を見せた。およそ感情というものをおおかた失くしているのではないかと思うほどに平生は凪いでいる瞳が、くっきりと恐怖の色を描く。
――捕らえた。
べろりと味を確かめるように、うなじに舌を這わせる。は、とうとう涙を溢れさせた。ぞくぞくと、背筋を熱が駆け上がる。達成感にも似たものが、胸を満たした。満たされたのは征服欲と、嗜虐心か。そう、自分はきっとこの表情が見たかったのだ。あの綺麗な微笑みが崩れ、破綻が産声を上げる姿を。自分が明るみに引き摺り出した化物は、どんな姿をしているのだろう。うなじを掴んで親指の腹で撫でると、は悲鳴のような嬌声を上げて白い背を反らした。
「どうしたんだ、そんなに良さそうな顔をして」
「ちがっ……いや、いやです田崎さん、もう、ゆるして、」
「何を許したらいい? 何が『いや』なんだ? 
「ぅん……ッ、だめ、いやなんです、いや、ぁ……」
 子供の言い訳のような、要領を得ない懇願と泣き声。ゾクゾクと昂ぶるままに、うなじを強く押さえつけて子宮口を抉るように激しく突き上げる。涙で輪郭の溶けかけた瞳が、断続的に上がる泣き声のような喘ぎが、ただひたすらに許しを乞う。それをねじ伏せるように白濁を最奥に叩きつければ、は突如ガバッと庇うように頭を抱えて掠れた悲鳴を上げた。
「もういやぁ……! ゆるして、おとうさん……ッ!!」
 ぴたりと動きを止めたのは、田崎だけではなかった。カタカタと震えるの顔色は青を通り越して紙のように真っ白で、見開いた目は虚ろを映している。ふうん? と吐息を漏らした田崎がの顔を覗き込むと、色を失くしたの頬につうっと涙が伝った。
「初めて咥えた男は、父親なのか」
「ぁ……」
「娘に手を出すような変態の味が、忘れられないんだな。こんな犯すように抱かれて、よがって果てて。随分悦んでいたじゃないか?」
 態と蔑むような声を出すと、瞳がわなわなと大きく揺らぐ。萎えない欲をぐり、と子宮口に押し付けて、収縮する内壁に吐息だけで笑った。
「思わず呼んでしまうほど、覚え込まされたんだろう。それがこんな塵溜めのようなところまで落ちて、捨てられでもしたのか。それとも、」
「……たし、」
「うん?」
 あんなに火照っていたの体は、とうに冷え切っていた。それでも田崎の熱は収まらない。死体のように冷たくなった肌を優しく撫でて、溢れた言葉の続きを促す。
「わたし、おとうさんのこどもなんて、産みたくなかった……!!」
 ***
 女は、生まれながらに化け物だったわけではなかった。けれど、女の両親は既に人でなしではあったかもしれない。暴力暴言に躊躇いがなく、酒癖の悪い父親。怯えて縋る我が子を庇うどころか、身代わりに差し出して姿を晦ました母親。支え合えるきょうだいも助けてくれる親類もいなかった女は、ただ父の暴虐に耐えるしかなかった。娘に性的虐待を加えることに、父親は何の躊躇いも持たなかった。賭け事に負けた腹いせ。酒瓶を叩き割るような気安さで、少女はその純潔を散らされたのだ。その後も散々玩具のように犯され続けた娘は、まだ自身も子供であるにも関わらず孕んでしまった。娘は、産まれてしまった子を自らの手で殺したのだそうだ。その小さな手で、哀れなほどに未熟な赤子を縊って。そして娘は父の酒代と賭けのツケで、今いる旅館へと売られた。
「あんなに具合の良い穴も、そう無かったんだがなあ。ちょいと躾けてやったら、ガキのくせに一丁前の女の顔して啼きやがる。もう、まともに嫁になんざ行けねえや」
 歯の抜けた大口を開けて笑う男は、の父親だ。とは似ても似つかない、腐りかけた豚のような醜い男だった。田崎が土産に持ってきた酒を浴びるように飲み干した男は、が終ぞあれ以上語らなかった過去をべらべらと饒舌に語った。後遺症の残るほどに強い薬を混ぜた酒を、そうとも知らず一本二本と機嫌よく空にしていく。にこにこと愛想笑いを浮かべていた田崎は、酒と薬の回りきった男が間抜けな顔を晒してひっくり返ると、途端に無表情になりさっさと立ち上がって襤褸小屋のような長屋を後にした。目覚めた男は、二度と女を抱けないどころかまともに言葉を話すことさえできない不具になるだろう。
 という女の胎にいた化け物は、鬼畜のような父に孕まされた赤子だったのか。それともまっとうに愛されなかった末に、我が子を手にかけた自身だったのか。
父を悦ばせられなければより悲惨な目に遭うという防衛本能か、それとも唯一親の目に映る時間がそれだけだったからなのか。幼い体は、父から受けた暴行を快楽として刷り込まれてしまった。けれどそれを心底から嫌悪し憎む心ばかりが、体から乖離してしまった。醜い歪みの反転が、あの静かで穏やかな微笑みだったのだ。生き地獄の泥を啜って生きてきたにとってあの旅館程度の辛酸など、味さえ感じなかったに違いない。という人間の生は、とうの昔に終わっていた。慈母のごとき振る舞いは、愛されなかった名残か、愛せなかった後悔か。の傷を暴いた田崎は、珍しく上機嫌を表情に露わにして旅館へと向かったのだった。
 
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