それきり、田崎がを買うことはなかった。の方も、旅館で自分から話しかけてくることはなかったし、機関生たちと飲みに行けばあの静かな微笑みを浮かべている姿は変わらなかった。小田切が時々に話しかけたそうにしていたが、田崎がそれについてやめた方がいいと言うことも背中を押すこともなく。そうしているうちに訓練も終わり世界各地を飛び回るようになって、機関生で連れ立ってあの店に行くことはなくなった。
「逃げた?」
 久々に任地から戻ってきた田崎が気紛れに顔を出した旅館で聞いたのは、が失踪したという話だった。口元をお盆で覆った女給は、噂話が好きなのだろう。目をきらきらと輝かせて、この客も密かに人気の高かったの失踪にショックを受けているに違いない、とさも痛ましそうな顔をして詳らかに話し始めた。
「そうです、姉さん、子どもができて。女将さんに堕せって言われて、そのときは頷いていたんですけど、その日の夜にいなくなっちゃったんです!」
 のいなくなった売上の穴は痛い。店の者は躍起になって彼女の行方を追ったらしいが、まるで雲か霞かのようにの痕跡はどこにもなかった。しかし女給や小間使いなど、ほとんどの者はにいたく同情したらしい。皆、優しいを母や姉のように慕っていた。いなくなったのは残念だが、きっと腹の子の父親と駆け落ちでもしたに違いない。今頃どこぞの土地で幸せに暮らしていてくれればと、いっそ美談めいた調子での失踪は語られていたのだった。
 自分の子だ。田崎はそう確信していた。ひとの子など、あの女は愛せない。堕胎から庇って出奔するなど、なおさらありえないことだった。それでも、意外に思う気持ちがあったのも確かだ。は、最後まで田崎を拒んでいた。自分が化け物であることを、受け入れられずにいた。今度こそ本当の化け物を孕んでしまったは、一体どんな気持ちで独り宛てもない夜へと足を踏み出したのだろう。
田崎がを追うことはなかった。探すこともしなかった。田崎には孕ませた女よりも優先順位の高いものが山ほどある。ただ、このまま一生会えないのは勿体無いかもしれないと、そう思った。思った、だけだった。
 ***
「……私は、もう一生会うことはないだろうと思っていましたけれど」
「奇遇だな、俺もそう思っていた」
 深く被った帽子の下から現れた顔には一瞬凍り付き、ややあって脱力しながら溜め息を吐いた。お元気そうで何よりです、と言ったその声は嫌味でも懐古でもなく、ただただ平坦な社交辞令だった。
敗戦の後、解体され散り散りになったD機関。行くあてがないわけでもなかったが、あの時より優先順位が高かったものの全てが無くなった。子どもの顔を見て、ついでに張り手の一発でも食らっておくのも悪くない。そう思い立ち、田崎はを探し出したのだった。
あの後は、運良くと言うべきか金持ちの身重の婦人に拾われ、乳母として片田舎の屋敷に身を寄せたらしい。人のいい夫妻はの過去について何一つ詮索することはなく、は無事赤子を生んだ。それからは屋敷の使用人として、母子で慎ましくも穏やかに暮らしていたらしい。屋敷に住み込みでいいと言う夫妻の申し出を固辞して、小さな長屋のひとつを借りて暮らしていた。
「……俺の子だな」
「判っていたから、ここに来たのでしょうに」
 ぎゅうっとの腰にしがみつく我が子を見て、思わず素の言葉が出てしまう。子どもは息子だった。そして、笑ってしまうほど田崎の幼い頃に瓜二つだった。
「かあさん、この人まさか、ぼくのおとうさん?」
 はその問いに自ら答えることはなく、判断を委ねるように田崎を見る。田崎がしゃがみこんで子どもと視線を合わせると、は意外そうに目を瞠った。
「そうだよ。俺が君のお父さんだ」
 驚いたように身じろいだに、思わず苦笑が漏れる。おそらくは田崎がこのまま自分のことを隠したまま去ると思っていたのだろうし、実際田崎もそうするつもりだった。けれどこの息子ときたら、どうしようもなく田崎にそっくりなのだ。中身までそっくりなのではないかと考えるとなかなかにぞっとして、このまま野放しに帰るわけにもいかなかった。
「ああ、あなたが噂のろくでなし」
「……
 一体何を言ったのかと、田崎はにじとりとした視線を向ける。けれど息子ときたら、全く同じような半目で田崎を見て言ったのだ。
「かあさんが言ったんじゃないよ。こんなにいいひとをほったらかしにした父さんはきっととんでもないろくでなしだって、みんなが言ってるだけだから」
 ああ、この子どもはまさに田崎の息子だ。化け物の子だ。もうちょっとの生温いところが遺伝すればよかったものを、田崎がそのまま小さくなったかのようないけ好かない子どもだ。結城中佐が見たなら、機関に勧誘するに違いない。
「かあさんにたたかれたいなら、おれがたたいてあげるけど」
 母さんの尻叩き、死ぬほど痛いんだ。そう呟いた我が子の哀愁すら漂う姿に、思わず田崎は視線を泳がせる。子どもらしい姿を、ここに来て初めて見た気がした。どうせ息子が子どもらしからぬ悪辣な手段でを助けようといらぬ知恵を働かせて、を怒らせたに違いない。原因から顛末までありありと想像できるほど、田崎は会ったばかりの我が子のことを理解してしまっていた。
「ご近所にろくでなしと噂されるだろう父親は、嫌か?」
「どうせそのうち、もとからいたみたいに仲良くなってるんでしょ。そういうの得意そう」
、お前教育を間違えてるぞ」
「そうは言っても、やっぱり父親に似たものですから」
 静かで穏やかで、素朴な笑顔。聡い息子は、この笑顔の下の狂気にとっくに気が付いているのだろう。けれど奥底には触れていないはずだ。あの傷は、今や田崎だけのものなのだから。
「……まずは仕事を探さないとな」
「おれのないしょく一緒にやる?」
 抱き上げた息子があまりに可愛げのないことを言うので、軽く額を指で弾いた。いくらなんでも、息子に内職の部下として使われるのはあまりに父親としてのメンツが立たない。『母親』が、この子どものために立派に働いてきたのだから。
「苗字はひとまず、田崎でいいか?」
 に問うと、お好きなように、とでも言うように肩を竦めた。田崎という名前が偽名だったことも、まっとうな仕事をしていないことも、気付いてはいたのだろう。それより何とお呼びすればいいですか、と訊かれて田崎はにこりと笑った。
「『あなた』でも『Darling』でも、好きなように呼んでくれ」
 化物とひとでは、家族になれないかもしれない。化け物同士なら、案外うまくやれるかもしれない。はどうやら息子を愛したようだった。息子も、を愛している。ひとに執着したことはなかった。囚われるものは作るべきではなかった。だが、化け物なら愛せるかもしれない。今はもう、囚われてもいいかもしれない。田崎は、妻になる女の手を取った。
「家族になろう」
「……はい」
 あたりまえの、ありふれた幸せではないかもしれない。夢見た未来とは違うかもしれない。それでもあの日、どうしてかお腹の子を守りたいと思ってしまった。恨みに思っていたかもしれない男の顔が脳裏を過ぎって、胸の内の衝動に突き動かされるままに飛び出した。息子が生まれてからは幸せだったが、田崎を求めることはしなかった。けれど、握られた手が、田崎の言葉が、どうしてか悲しいほどに嬉しい。きっとこれは幸せと名付けるべきものだろう。は静かに泣きながら、田崎の冷たい手を握り返した。
 
170513
Plaudite, acta est fabula.
拍手を、芝居は終わりだ。
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