息もできぬような愛情を一身に注がれることを幸せというなら、はきっと幸せなのだろう。ヴェインはが罪悪感を抱くほどひたむきに、を一心に愛してくれた。けれど今でも、ヴェインは真っ直ぐ見つめるには少し眩し過ぎた。
は結局、ヴェインに恋はできなかった。家族としての愛情も強くは抱けず、日々申し訳なさだけを募らせている。ヴェインがどんなに優しく触れてくれてもその腕は恐ろしくて、どんなに甘い言葉をかけられても心のどこかにある冷たい氷は溶けなかった。どうしてこんなにヴェインのことを信頼できないのだろうと、自己嫌悪にすら駆られる。それでもやっぱり、ヴェインのことが怖いのだ。優しいのに、を大切にしてくれているのに、どこか話が通じていないような、そんな恐ろしさがあった。
「どう、しよう……」
 ひとりきりの家で、は途方に暮れて呟いた。お腹に手を当てて、カタカタと震える。
ここはヴェインの借りた家だ。結婚を承諾せざるを得なかったあの日の夜に、幸せで蕩けそうな笑みを浮かべたヴェインに手を引かれてここにやって来た。家の中は既に綺麗に整えられていて、家具や細々とした食器などもの分まで用意されていて、背筋がぞっと震えたのも覚えている。初めての夜に、ひとつしかないベッドに優しく押し倒されて泣いてしまったを、ヴェインは責めなかった。「の心の準備ができるまでは、俺は何もしないから」と、笑って許してくれた。初めてだものな、と言われたときに沸き上がった恐怖については意図的に目を逸らした。何故初めてだということを知っているのかと思ったが、のように恋人もなく過ごしている少女であれば予想はつくだろうと自身に言い聞かせた。ヴェインは年上の青年らしい余裕と穏やかさをもって、を大事に扱ってくれた。寄り添って眠るのは恥ずかしかったしヴェインの腕の中にいると心臓がバクバクと煩かったが、共に生きるという決めた以上ヴェインに歩み寄る努力はしたかった。
 けれど、だんだんヴェインの瞳に宿る感情は熱を帯びていって。約束通りヴェインはに手を出すことはなかったが、日を追うごとにヴェインの表情は変化していった。ふとしたときに気付く、を見つめるヴェインの熱っぽい瞳。眠りに落ちるとき、遠慮がちに抱き締めてくれていた腕は何かを堪えるように強張るようになった。いくら異性に疎いでも、ヴェインが欲情を精一杯抑えているというのは予想がついた。日々温度を増していく熱は、いつか耐え切れないような爆発をするのではないかと思えば怖くなって。ある夜躊躇いがちに訊かれた、「触っても、いいか?」という言葉に、今度は拒否を示せなかった。
その夜のことは、あまり覚えていない。とても長い夜だったような気がする。ヴェインはやはり穏やかで優しかったが、ずっとのことを離してくれなかった。やはり自分は相当に我慢を強いてしまっていたのだと申し訳なく思うと同時に、もしあのままヴェインを遠ざけ続けていたらどうなってしまっていたのかと想像して怖くなった。もうほとんど意識も擦り切れて動けないを抱き締めて、ヴェインはずっとお腹を撫でていた。胎に吐き出した熱がここに息づくようにと、繰り返し願っているようにも思えた。それから毎日のようにヴェインに求められたが、行為が終わるとヴェインが腹を撫でるのは変わらなかった。優しい手のひらの熱にヴェインの執着を感じて、背筋が寒くなった。
「どうしよう……」
 そして、ヴェインの願いは結実したらしい。このところ吐き気や目眩が続くからと、思い切って産婆に相談したら妊娠で間違いないだろうと言われてしまった。おめでたいことであるはずなのに、体の震えが止まらない。いっそヴェインに黙って流してしまおうかとも思った。は薬師だ、堕胎も自力でできなくはない。だが、堕ろすにしても覚悟が決めきれなくて。は人並みに命を愛し、まっとうな倫理観をもって育ってきた普通の人間だ。薬師として、人の命の尊さも痛いほど身にしみてわかっている。そんな自分が、ひとつの命を殺すのか。けれど、この子を愛せるかもわからない。未だ、ヴェインの愛情も受け止めきれずにいるのに。
「ただいま、
「っ、ヴェインさん……おかえりなさい」
 ドアが開いて、両手に大量の紙袋を持ったヴェインがにこりと笑う。慌てて荷物を持とうと駆け寄っただったが、ヴェインはそれを制止してテーブルの上に紙袋を置いた。
、走ったりしたら危ないだろ? もうだけの体じゃないんだぞ?」
「……え?」
 一瞬、ヴェインの言葉が理解できなかった。否、頭が理解を拒んだ。ひょいっとを抱き上げたヴェインが、服越しにの腹にキスを落とす。まだ聞こえないはずの鼓動を求めるように腹に耳を当てて頬をすり寄せたヴェインが、喜色の滲んだ声で囁いた。
「ありがとうな、。俺、すっごく嬉しいよ」
「どうして、知って……?」
「え? 、今日城の産婆さんのところに行ってただろ? あの人から教えてもらったんだ」
「…………」
 そういう、ものなのだろうか。確かにヴェインはの夫だから、知る権利がある。産婆も、ヴェインに訊かれたら答えない理由はない。けれど、うまく言えないけれど、何かずれているような、暗いものに気付きたくない自分が、いるような気がした。
が妊娠に気付くなら、そろそろかなって思ってさ。のこと、ずっと見てたんだ」
 この人は、いったい何を言っているのだろう。じわりと冷汗が滲むが、ヴェインの腕に抱き上げられているは逃げたくとも逃げられない。
「赤ちゃんが生まれたら、もっと家族らしくなれるかなあ?」
 を見上げる穏やかな瞳の奥に、焼け付くほどの熱情が垣間見える。壊れ物を扱うように、ヴェインはそっとを椅子に下ろした。「今まで以上に栄養のあるもの作らなきゃな!」と言って笑うヴェインが怖かった。優しいのに、とても大切にしてくれるのに、怖くて仕方なかった。
「俺を愛して、
 の両手を柔らかく握り締めて、ヴェインが切なそうに笑う。はただ、黙って俯いた。ヴェインはわかっているのだ、がヴェインを愛せないことも、それでも宿った命を殺すことができないことも。全部わかっていて、ただ笑う。はヴェインが怖い。真っ直ぐなのに、優しいのに、時々底の見えない恐ろしさがある。激しい熱情に焼き尽くされてしまうような、そんな恐怖がある。それでもどこか可哀想なひとだと思うようになってしまった。きっとは、ヴェインを愛せない。それでも拒絶することもできないのだろう。酷いのは自分だ、とは静かに瞼を下ろしたのだった。
 
180107
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