「体調はどうだ、姉さん」
 それは、いつもと変わりない朝だった。体の弱いを、弟は嫌な顔ひとつ見せず世話してくれて。研究に没頭すれば他のことなど目に入らない性分なのに、の元に顔を出すのはいつも決まった時間で。朝日が昇って長い針がひとつ、短い針がふたつ回ると弟がドアをノックする。神経質なのにゆったりしたノックの音は、いつも三回。古くなったドアノブに手こずることもなく、ガチャリとドアを開ける。いつもと変わらない琥珀色の瞳は、きっとを見下ろしているのだろう。
「おはよう……ソーンズ。いつもと、変わりないわ」
「そうか」
 コトリと、ベッド脇のサイドボードにお盆を置く音。するりと手袋を外す音がして、ひんやりとした弟の手が額を覆う。体温を測って、瞼を開かせて瞳を覗き込んで。「口を開いて」と唇に指先が触れて、は大人しく「あ」と口を開く。舌を押さえて、滲む唾液も気に留めずソーンズは口腔の様子を見る。舌から指を離したソーンズが、いつも指を拭う前にべろりと唾液を舐め取っていることをは知らない。目の前にいる人間の色すら曖昧な視界は、病によるものだった。
「悪化もしていないが、快復もしていない……いつも通りだな」
「ソーンズ……」
「すまない、姉さん」
 ソーンズの声に嗤いが滲んでいるのは、自嘲だろうか。原因不明の奇病に伏せっている役立たずの姉を見捨てずに、それどころか甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる弟に感謝こそすれ謝られる謂れなどないのだ。むしろ、弟の人生を縛り貴重な時間を浪費させている自分こそが謝るべきだろう。筋力が低下して一人では起きられなくなり、視力が弱まって何もできなくなって。弟が面倒を見てくれなければ、とっくに死んでいる。否、本当ならは死んでしまうべきなのだ。これ以上弟の人生を浪費する前に。それなのに神の御心に背くのが怖くて、舌を噛み切ることさえできない。いっそ弟に頼んで、安らかに命を絶てる毒でも作ってもらえないだろうか。どこまでも弟の優しさに甘えきった、愚図で浅ましい姉だ。の澱んだ胸の内など知らないように、立ち上がったソーンズが開けた窓から入ってくる潮風は爽やかで。きっと今日も、良い天気なのだろう。眩しくて濃い青に澄み渡る空と、なお深い青に揺らめく海。イベリアの空を、はもう久しく目にしていない。弟の、陽射しに強そうな褐色の肌も。知性と探究心を宿したアンバーの瞳も。今はもう、曖昧な色としか認識できない。残された聴力も優れているとは言い難く、今や本当にただ息を吸って吐いているだけのような生き物だった。
「いつもの薬だ、姉さん」
「…………」
「……どうしたんだ」
 いつもなら、はソーンズに従って口を開けていた。この体を保ってくれる薬を、躊躇わずに飲み込んで。そうしてまた、弟に生かされる一日が始まる。けれど、今日は口を開けずにいた。崩れたルーチンに眉を寄せたソーンズが、訝しげな声を発する。できるだけ卑屈にならないように柔らかく微笑んで、は首を横に振った。
「もういいと思うの」
「何が?」
「もう、私を生かさなくていいと思うの。あなたの大事な時間を、これ以上奪いたくないから……」
「そんなことを言わないでくれ」
「でも……」
「姉さん。お願いだ」
 ひやりとした手が、の手を掴む。冷たいのに、汗が滲んでいて。弟は緊張しているのだと、胸がずきりと痛んだ。徹底した合理主義者でリアリストの弟は、回復の見込みがないを生かし続けることの無益さなど諭されるまでもなくとっくに理解しているだろう。それでもまだ、弟はの命を諦めていない。こんなに自分のことを想ってくれている家族がいるのに、先に諦めてしまうのは酷いことだろうか。けれどこの終わりのない病床生活は、水槽の中のように息苦しくて。いっそ終わらせてしまいたいと、そう願う日だってあるのだ。けれど、弟の手が痛いくらいにの手を握り締める。ぎゅっと、縋るように。
「姉さんを、神の御許に行かせたくはないんだ」
 弟は決して敬虔なラテラーノ信徒とは言い難いが、それでも父なる神の元で憩うにはまだ早いとの手を引いた。信心深いが、自殺を躊躇う気持ちも知っている。俯いたの頬をもう片方の手で包み込んで、ソーンズはの額にキスを落とした。
「口を開いて、姉さん。薬を飲んでくれ」
 ***
 姉は、海鳥の羽よりも花崗岩の灯台よりも白い人だ。浜辺に流れ着いた流木のように頼りない腕を取って歩きながら、空に浮かぶ白い雲よりなお眩しく美しい姉の白い肌を見下ろした。『弟の献身的な看病の甲斐あって』歩けるまでに回復したは、ソーンズとはあまり似ていない。先祖の誰かの血が濃く現れたのか、象牙のように白い肌と免疫力の低い体を持って生まれたのだ。幼い頃から病弱で、ソーンズのように宣教師の元で剣術や薬学を学ぶことも無く。代わりに姉を満たしたのは、ラテラーノ教への厚い信仰心だった。もう少し体が強ければ、修道女として教会に迎え入れられていただろう。俗世からも、弟からも引き離されて。エーギル人には冷たくなる一方のイベリアだが、あのリーベリ人たちは白く清らかで美しい姉のことを気味が悪いほど持て囃していた。容姿が美しく清楚で慎ましい姉は、格好の「信仰の象徴」足りうる生き物だったのだろう。だからソーンズは、姉に毒を飲ませた。
「そこに段差がある。気をつけて」
「ありがとう、ソーンズ」
 初めは、ただの好奇心だった。ソーンズは賢く知的好奇心の強い子どもで、それ故に頓着というものがなかった。水槽の中に、自作した麻痺性の毒を流し込んで。色とりどりの美しい魚たちは、次第に動きを弱めて死んだように動かなくなった。それでも彼らは、死んでなどいないのだ。生きたまま、美しいまま、ぴくりとも動かなくなって。死よりも静かな水の中は、ぞくりとするほど美しかった。
 ――あなたが神を愛すれば、神はあなたを正しく導いてくれるでしょう。
 しばらくは姉を見舞いに来ていたリーベリ人たちは、揃いも揃って節穴だった。たった一錠、ソーンズが毎朝姉に飲ませている「薬」を取り上げれば良かっただけなのに。それだけで、ソーンズの罪は暴かれ姉は救われただろうに。神の恩寵厚き乙女と祀りあげておきながら、道具にできないと見なせばほんの少しの労力すらかけることを惜しんで見捨てる。本当に愚かで、浅ましい。弟に毒を盛られ、人々に見捨てられてもなお誰も恨まず神への愛を捨てないこそが、きっと本当の信仰というものを抱いていたのだろう。非リーベリ人であるソーンズが、至高の術を修めたように。
 ――姉さんは本物のラテラーノ教徒だ。
 毒によって筋力を奪い、免疫力がつくのを妨げ、視力を衰えさせた。琥珀を錬成したような透き通った金色の瞳も、日に当たらなくなって青く見えるほど白い肌も、決して敬虔な信徒とはいえないソーンズにさえ信仰心というものを抱かせた。このまま、神にも愚かな人々にも姉を奪われずに生きていくのだと。そう、思っていたのに。
「重たくはないか」
「ふふ、日傘くらいは持てるわ」
 白いワンピースに、白い傘。ほとんど白金に近い亜麻色の髪。目や肌を傷めるからとソーンズが用意した日傘を、は嬉しそうにくるくると回していた。頼りない手足を動かしてこの世に存在する姉は、泣きたいほどに美しくて愛おしい。けれどソーンズが毒の量を減らしたのは、こうして外を元気に動き回る姉の姿を見たかったからではない。「外」には行けない姉を、永遠の白にするためだった。
「俺の腕に掴まっていて。しばらく階段が続くから」
「ええ、ありがとう」
 真っ白な石段を、海牛よりもゆったりとした速度で一歩一歩踏みしめていく。それは、まるでこれから磔にされる聖者の行進のような。真っ白な灯台の先には、どこまでも蒼い海が広がっている。還る、時が来たのだ。イベリアを覆っていた不穏の影は、ついに宗教紛争という形で現実になった。ソーンズは、この国を出て行く。けれど姉は、イベリアを捨てられないだろう。毒のためではない、その愛が故に姉はこの国を離れられない。「置いていって」と、きっと姉は言う。もうこれ以上弟の足枷にはなれないと、外の世界に足を踏み出す弟の差し出す腕を振り払う。その人生を縛っていたのは、他ならぬ自分だというのに。あるいは、ソーンズが耐えられない。外の世界にこの純白の人を連れ出して、汚してしまうのが。それはきっと、毒を盛ったことさえ後悔しなかったソーンズをして「取り返しがつかない」と予感させる忌避感だった。姉の白さは、損なわれてはならない。この白と青の静かな国に、姉は眠るべきだ。そして自分は、もう二度とこの国へは帰って来れないだろうから。
「……綺麗ね」
「見えているのか?」
「ううん。でも、綺麗だわ。やっと、あなたの色が見えた」
 眼前に広がるのは、白と青ばかりの海辺で。ようやく弟の姿を少しでもくっきりと捉えることができたと姉は笑う。もしかしたら、姉は薄々と何かを悟っているのかもしれない。聖人じみたところのある人だから。神がその耳にソーンズの罪を囁いていたとしても、彼は驚かなかっただろう。
「薬の時間だ、姉さん」
「……うん」
 それでも、はソーンズの差し出した毒を躊躇いなく飲み込んだ。いつもと違う毒を飲ませたソーンズは、ぎゅっと姉の体を抱き寄せる。数分後には意識を失う姉の体が、地面に倒れ込んでしまわないように。姉の手にあった日傘が、抱きしめた拍子に地面に転がる。腕の中の華奢な体が、言葉を発するために震えた。
「ソーンズ、」
「ああ、姉さん」
「きれいね……」
 最期の時間は、まるで永遠だった。弱々しい鼓動を聞きながら、ソーンズより少しだけ温かい体を抱き締めて。その脈が段々と遅くなっていくのを、ひたりとくっついた肌から感じ取る。霞んでいるであろう視界でソーンズを綺麗だと言う姉に、何も言えなかった。やがて計算した通りの時間で姉の鼓動が止まり、安らいだ顔で逝ったの体をもう一度だけ強く抱き締める。いずれ温もりも失せるぐにゃりとした細い体を抱きかかえて、ソーンズはざばりと海に足を踏み入れた。
「俺は行くよ、姉さん」
 足元までだった水位が、より深いところへ踏み出すごとに膝へと、腰へと上がってくる。胸まで海に浸かったところで、ソーンズは最後にの頬を撫でた。まだ、温かい。
「神様のいない国に、俺は行く。さようなら」
 横抱きにしていた骸を、そっと手放す。姉には特殊な薬を服用させ続けていたから、海水に浸せば半日とかからずその肉は泡となって溶ける。姉の骨が故郷の海に沈むのを見届けて、ソーンズはイベリアを永久に去るつもりだった。
「あなたの骨を、ひとかけらください。俺の神様が、俺を見守っていてくれるように」
 ふつふつと、白い肌に泡がまとわりつき始めた。どこの骨をもらっていくかは、もう決めている。姉は、は、ソーンズの神様は、ソーンズを許してくれるだろうか。この空の青さも神の白さも裏切って故郷を捨てる彼を、それでも姉は。
本当に、愛おしくて大切だったのだ。姉が絶対に自分を許すことを知っていて、こんなことをしてしまうくらい。姉を救ってもくれなかった神に奪われるくらいなら、自分がこの海に沈めて隠してしまおう。深い深い青の底に、神の手が届くというのなら届かせてみるがいい。本物の純白は、ソーンズが永久に持ち去るのだ。
 
210223
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