「あんまり物騒なことばっかり言うなよな!」
 ドラゴンスパインの絶景を前に、「鮮血が映える」とはしゃぐ様子を見せたタルタリヤに空飛ぶおチビさんは苦言を呈した。人差し指を立て、小さい子に言い聞かせるように眉をひそめて。それこそ小さいパイモンがそんな真似をするのは背伸びをしている子どものようで面白く、余計声を立てて笑ってしまったタルタリヤは雪玉を持った彼女に追いかけ回される羽目になったのだが。旅人たちから離れ、今日の夕飯となるであろう兎を狩ってその身を捌く。雪で血を拭い、赤く汚れた白を見て思い出すのはいつだって姉の最期だった。

「アヤックス、ひとりで出かけたら危ないでしょう」
 は、彼の兄姉の中でも一等心配性で口うるさく、世話焼きで優しい姉だった。きょうだい一人一人に手の回らないほど忙しい母親を手伝い、弟妹たちの面倒を見ていたせいもあるのだろう。「普通」の感覚を有する家族たちから見れば「いささか行き過ぎたほどにやんちゃ」なアヤックスに、はいつも眉をひそめてお小言を寄越した。腰に手を当てたり、人差し指を立てたり。お説教の内容など右から左のアヤックスは、くるくると変わる姉の表情や仕草ばかり眺めていた。それでもアヤックスは、のことを他の兄姉同様に愛していた。柔らかくて暖かくて、かしましい春の小鳥のような人。ぴーちくぱーちくと歌うような声は、例えお小言でも聞いていて心地が良かったのだ。もしかしたら他の弟妹たちにも優しいを少しでも独り占めしたくて、余計にやんちゃをしていたのかもしれない。もっともそれは、今でこそそう思うのかもしれないが。
「ひとりで森に行ったら危ないって、父さんも言ってたでしょう? 姉さんでも兄さんでもいいから、誰かに連れて行ってもらって……」
「兄さんも姉さんも弱いのに、一緒に行ってももっと危ないんじゃないの?」
「アヤックス、またあなたはそんなこと言って! 確かにあなたはこの家一番の暴れん坊さんだけど、危ないのは魔物だけじゃないって散々言われてるでしょう」
「ひとりで行けるのに……」
 傍から見れば、拗ねた生意気な子どもそのものだったろう。姉にぐいっと頬を引っ張られ、じたばたともがく少年。それでもは最後には、「そんなに行きたいんだったら」と籠を手にアヤックスを森に連れて行ってくれるのだ。薪を集めたり僅かな食べ物を探したり、冬の森に出かける口実はそう多くはない。「姉さんのお手伝い」と言いながらも、実際はアヤックスの子守りのつもりだったのだろう。姉はずっと、アヤックスのことを守られなければならない弟として認識していた。本当に、愚かな人だった。

「――だから、ひとりでいいって言ったのに」
 ぽたり。滴ったのは、涙などではない。古ぼけたナイフから伝い落ちたのは、獣臭い血だった。耳に痛いほどの静寂が広がる森の中、息をしているのは彼だけだ。狼の群れをナイフ一本で殺し尽くした少年は、背中を裂かれて絶命している姉の前に膝をついた。
「姉さんは馬鹿だよ。あんなに『離して』って言ったのに」
 森の奥で、飢えた狼の群れに囲まれて。咄嗟に籠を狼に向かって投げつけたは、アヤックスを抱えて走り出した。獣の脚に敵うはずもないのに。アヤックスがいくら「離して」「ぼくが戦えるよ」「倒せるよ」と訴えても、愚直なまでに弟を抱え込んで離さなかった。スカートに噛み付かれ、雪に足を取られ、爪に髪を乱され、それでも駆けた時間はそう長くなかった。背中に爪を受け、脚に噛み付かれ、呆気なく倒れて。けれど、獣の牙が白い首を蹂躙することはなかった。ようやく緩んだ姉の腕から解放されたアヤックスが、瞬く間に狼を斃したからだ。
「姉さんは弱いのに」
 姉の行動は、アヤックスには理解し難いほど愚かだった。小さな弟がいくら強くても、年長者として彼を戦わせて隠れるなどできなかった「姉」の心などわかるはずもなかったのだ。切り裂かれた背中から、じわじわと雪に赤い色が広がっていく。アヤックスが今しがた掻き切った狼から流れるものと同じはずなのに、どうしてか姉の赤色だけは恐ろしいほど綺麗に見えた。
「きれいだな……」
 まだ湯気が出るほど温かい、姉の躯。姉は愚かだが、美しかった。アヤックスとでは、あまりに見ているものが違いすぎたのだ。アヤックスは弱肉強食の世界に生きる戦士であり、は弟妹を大切にするありふれた少女だった。愛ゆえにアヤックスを離せなかった姉の愚かさは、守りたかったはずの弟にはただの無駄死にしか映らない。それでも死したの姿は、アヤックスの心に深く印象付けられた。すら、思いもよらない形で。
「……あたたかい」
 深く抉られた背中の傷に、頬を寄せる。滑らかな白い肌と、凄惨な赤い傷。まだ残っている温もりは、いつも姉の腕の中で得ていたまどろみをアヤックスにもたらした。手袋を外し、姉の体を抱き締める。いつも姉が親愛を込めてアヤックスの額にそうしてくれたように、アヤックスはある種の敬意をもって姉の頬に口付けをした。姉は弱く愚かだが、その死はひどく美しかった。一面の白を、命の色が染めていく。いつまで経っても帰ってこない姉弟を大人たちが探しに来るまで、アヤックスはずっと姉の体を抱き締めていた。悲嘆に暮れてそうしているのだと幼子を憐れんだ大人たちは知らないのだ、アヤックスが流した涙は悲しみではなく感動のそれであると。

『アヤックス』
 白い吹雪の中で、幻影が語りかけてくる。冬の国に置いてきたその名を今でも呼んでくる、愚かな人。たおやかで白い手は、武人であるタルタリヤよりとっくに小さくなっていた。
『危ないわ、アヤックス。雪はクレバスも崖も隠してしまうって、父さんが言っていたでしょう?』
「大丈夫だよ、姉さん。いつまでも心配性だね」
 降りしきる雪の中では、いつも姉の幻に会える。昔と変わらず心配性で口うるさくて、そして赤く染まった白い幻は何よりも美しかった。伸ばされた手に、触れることはできないけれど。死んだ姉の温もりは、タルタリヤの身の内にある。姉の幻はいつも弟を古い名で呼んで、お小言を口にして、雪が止めばいなくなってしまう。相変わらず、勝手な人だった。自分の頭がおかしいのか、超常現象に触れているのか、きちんと考えたことはない。もっとも美しい人が目の前に現れる、タルタリヤにとってはそれだけが事実だった。
『兎を狩ったの? 狼が寄ってくるから、血の匂いに気をつけないと』
「あはは、姉さんが心配することじゃないよ」
『もう、あなたはいつも姉さんの言うことを聞き流すんだから……』
「姉さんは弱いからね。それより、姉さんに似ている子がいるんだ。いつも仙霊みたいに浮いていて、口うるさくて白くて……」
 姉にそっくりな様子でタルタリヤを窘めるパイモンの姿を思い出しながら、くすくすと笑う。けれど彼が小さな知り合いのことを語り切る前に、ふっと溶けるように姉の姿は消えてしまった。「おーい!」と遠くから彼を呼ぶ噂の当人とその相棒の姿を目にして、雪が止んだのだと知る。大きく手を振る彼らに手を振り返しながら、タルタリヤはさして今しがたの幻を惜しむ様子も見せずに斜面をひとりで下り始めた。
「お前、誰かと話してたのか?」
「俺の姉さんだよ。今度紹介してあげようか」
「また適当言って……」
「酷いな相棒、とても綺麗な人なのに」
 肩を竦めるも、旅人とパイモンの興味は既にタルタリヤの持ち帰った兎に向いていた。シチューが食べたいとはしゃぎ出すパイモンを呆れた様子で眺めつつも、旅人の口元も綻んでいる。
「俺の姉さんも、シチューが好きなんだ」
「まだ続けるの?」
「お前の姉さんはスネージナヤにいるんだろ?」
 そう、の躯は故郷の雪の下に眠っている。けれど、タルタリヤはずっと姉と離れずにいる。愚かな人だから、まだ弟を守らなくてはならないと思っているのだろう。が生きていたら、きっと他の兄姉と変わらない「弱くて愛おしい家族」だった。こんなに馬鹿馬鹿しいほどに恋しいのは、あの赤色を魅せてくれたからだろう。姉の最期の温もりは、タルタリヤの心臓に息づいている。いつかアヤックスだった青年が雪原に斃れる日まで、タルタリヤはあの赤を忘れないだろう。


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