「姉さん、起きなくていいのか」
 少し呆れたような声には目覚めた。ガタゴトと、優しく重い騒音が心地良い微睡みに引き留めようとする。名残惜しくもそれを振り払って瞼を押し上げると、の肩を掴んで揺り起こす弟越しにサファイアのドームが広がっていた。
「――うみ、」
「ああ、海だ。姉さんがあんなに夢見てた」
 それなのに寝こけているなんてと非難がましい目を向けられるが、は途端に弾むような気持ちで弟を押し退け車窓に貼り付く。また呆れたような呟きが耳をチクチクと刺したが、その声もどこか楽しげだった。
「見て、ソーンズ。銀の雪が舞ってる」
「そうだな。それに、薄緑の絹も泳いでいる」
 果てしなく深い青の流れに舞う白はきらきらと輝きながらふわりゆらりと流麗な線を描いて、窓の外を流れていくのは若芽を摘んで染めたような初夏の薄緑を揺らめかせる海草たちだ。珊瑚の瓦斯灯が、一定の間隔で景色の中を流れていく。車窓の向こうには、姉弟が幼い頃夢見て語り合った想像そのままの「うみ」が広がっていた。
「この列車はエーギルの都まで行くのかしら」
「切符を見るといい、路線図もさっきもらったろう」
 言われてポケットを探るも、切符はすぐに出てきたが路線図はどうにも見当たらない。弟に言えば彼の路線図を見せてくれるだろうが、この年頃になって口が達者になった弟にまた何やら叱られるのが嫌ではまだポケットを探るふりをしていた。
「エーギルの都はどんなところかしら」
 何度も同じ質問をして答えがとうにわかっている問いかけを賢い弟が嫌うと知っていて、それでも今まで何度口にしたかわからないその問いを口にした。人間、誤魔化そうとするときに、咄嗟に全く思いもつかぬことは言えないものである。頭の回る弟は姉の誤魔化しもその理由も見透かしたように黙ってこちらを見ていたが、お決まりの流れに合わせて口を開いてくれた。
「――――――」
「え?」
 急に水圧が強くなったように何も聞こえなくなり、けれど聞き返しても同じように弟の言葉は聞き取れない。弟が悪意で何かしたでもなかろうに、意地悪をされたような――拗ねたような気持ちになって俯くと、重厚な造りの内装に相応しくないリノリウムが一瞬本来の床に重なって見えた。
「海溝が向こうに見える、揺れるから座ろう」
 回る口のわりに案外優しいまま育った弟は、急に不機嫌になった姉を丁寧に座席に腰掛けさせた。その大きな褐色の手が触れる温かさに、知らず詰めていた息を吐く。
「……あなたは嫌にならないの?」
「何がだ?」
「何が、って、」
 がたん。あまりに大きく揺れたものだから、舌を噛みそうになったは恨みがましげに窓の外を見遣った。咄嗟にを庇う体勢をとっていた弟は「まだ海溝は先のはずだ」と言って窓に顔を近付けた。
「魚だ。瓦斯灯に貝が集まって、道を失ってぶつかったんだ」
 大した事故じゃないという弟の言葉通り、揺れに止まっていた電車はやがてごとりと動き出す。窓を覆うように流れてきた「魚」の大きなひれは、藍鼠色のローブのように広がり、水流に煽られて消えていった。
 それきり静かになって、車窓の外には美しい海底の景色が広がる。どこまでも雄大な青、ごつごつと大きな岩が描く海底の線。珍妙な姿の生き物もいれば、見慣れた形の魚もいる。ただ一色の青色に見えて、光に淡く透き通るところ、影にひそむ狩人のような暗さが凝るところ。たくさんの命が蠢いていて、けれど冷たい水と海の雪を隔てて静かに息をしていた。遠く、海溝より遥か遠く、ぽつぽつと灯るのはエーギルの街だろうか。海の底の光景を貴石になぞらえるのなら、あの光が最も尊いダイアモンドなのだろう。
「――『海の中では雪が星座を描くんだ』」
 口ずさむように、弟が言葉を紡ぐ。その続きを、は知っていた。
「……『いや、星座や雪というのも正しくはない」
「地上での概念で最も近いというだけで――まあいい、とにかく踊る雪の描く図は決まった形になんて定まらない」
「すべてを描いて、すべてを描かない」
「何者にも見えて、何者にも見えない」
「紺碧に舞う白銀を見つめ続ける者だけが、それに名前をつけるんだ』」
 歌うように、エーギルの姉弟は幼い日の言葉を口に乗せる。銀を躊躇いなく石臼で挽いて宵闇に流し込んだら――実際そんなことにはならないと科学が証明していても――きっとこんなふうに銀の雪は舞うのだろうと、はしゃいで語り合ったのだ。激しく、或いは穏やかな海流が、雪の軌跡を描いていく。目を凝らしてじっと見つめて、何かの形を見出して、また散って。
「海の雪は死骸だと言うわ」
「空の星もきっと死骸だろう」
「空と海はこんなに違うのに」
「海と空はこんなに似ている」
「ひとはどうして海で息ができないのかしら」
「ひとは空を飛べないのと同じだ」
「ほんもののエーギルは海に生きるのに」
「俺たちは海底のエーギルじゃない、ひとが鳥じゃないように」
 がたんごとん。向かいに座る弟の琥珀の色は、朝露に濡れたように光っていた。泣いているのかもしれないし、瓦斯灯の輝きを反射しているだけなのかもしれない。がたんごとん。何もかもが宝石のように美しいこの海で、どうして弟の瞳ばかりさみしく思えるのだろう。琥珀は地上の石だからだろうか。この広くてただ綺麗な海で、ひとりぼっちなのだろうか。――がたんごとん。
「俺たちは」

「――姉さん!」
 ぴ、ぴ、と無機質だが一定の規則で動く音は、心地良い微睡みの中にを引き留めようとする。それを許さないのはぎゅううっと握られた手の痛みで、そこから熱いお湯を流し込まれたようにいのちのぬくもりが全身に行き渡ったような気がした。「目を覚ました」「待ってブラザー、3ヶ月も眠っていたんだ……」「まず先生を呼ばなきゃ」「呼びかけ続けて」「血が止まっちゃうから、力を弱めて」……がやがやと耳元で音がする。潜った水の向こうで聞こえるように、近いのに遠くの声のようだった。
 知らない天井だ。リノリウムの床も見える。五体はどうやら満足で、ここは目指していた場所なのだろうか? 自分たちは辿り着いたのだろうか。深海教会のローブが、記憶の端にチラつく。けれど何より、目の前の琥珀色に問うべき言葉があった。酸素マスクを外す手はおぼつかず、慌てたような声が静止するけれど弟が代わりに外してくれる。その手つきは丁寧で、けれど震えていた。
「――『私たちはどうしてわざわざ列車に乗るの?』」
「『ふたりぼっち、一緒に海を行くためだ。ひとりで泳いでいくには、きっとさみしい場所だから』……」
 ここにはあの日ふたりで空想を描いたノートの切れ端はない。泣いている弟がいて、痛いほどにを抱き締めた。


230216
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