※既知トリップを書こうとしていた途中でトリップでなく転生では?と気づいてしまった話


「綺麗な卵があるの」
 何と伝えたらいいものか、そんな表情で暫し思案していた聡い女性は丁寧な発音でそう言った。その柔らかい白い掌に、本当に卵を抱えているのかのように。薄い瞼はゆっくりと閉ざされて、脳裏に彼女にとっての「卵」を思い浮かべているに違いなかった。
「それはとても大切で……まんまるで、歪みなく美しい流線形で……もしかしたら綺麗に彩色されてるかもしれない」
「イースターエッグみたいにか?」
「そう、イースターエッグみたいに」
 真剣な顔で問うダンデと、くすりと笑って頷く。菫のような髪と艶やかな褐色の肌はそっくり同じ色をしているのに、まるで他人のようだった。
「大切に抱えてるの、宝物だから。けど、その卵は壊れてしまうことが決まっていて」
「どうにかして守れないのか?」
「どうしても守れないの。いつまでも、大切にしてあげたいのに」
「ケースに入れて棚にしまいこもう」
「それでも壊れてしまうの。チョロネコのイタズラでも、誰かの不注意でも、もしかしたら天災でも。いつかは壊れてしまうことだけが決まっていて、どんなに守りたくても叶わない」
「それが悲しいのか?」
「悲しかった。壊れた卵を直したとしても、新しい卵を手に入れたとしても、壊れることだけは変えられないから」
 でもね、と金色の瞳が花開くように瞼の下から現れる。ダンデの「卵」があるならきっと、こんな色をしているのだろう。
「卵は壊れなきゃいけなかったの」
「どうして?」
「だって壊れないと、雛は羽ばたけないでしょう」

 たったひとり、世界から放り出されてしまったような人だった。ハロンの家で家族やウールーたちに囲まれていても、ひとりだけ迷子のような印象を受ける。菫色の髪も褐色の肌も金色の目も、大人になってもあどけない顔立ちまですべてダンデの血縁であることを誰も疑いもしない容姿なのに。という姉は神様が気まぐれに「ダンデ」をコピーアンドペーストして作り出したような(向こうの方が姉なのに)、そんな存在だった。
 姉が浮いていたのは、その奇妙な存在感だけによるものではない。言動――特にポケモンに対する態度が、子どもの言うことにしても周囲の理解を超えていたからだった。「本当にポケモンだ」「現実だと覚える技が4種類だけなんてことはやっぱりないんだね」「努力値の概念ってあるのかな」「でも個体値なんて誰も知らない方がいいよね、ガンダムSEEDの世界になっちゃう」「ポケモンって生きてるんだ……」、エトセトラ、エトセトラ。思えばあの頃のは、とても無邪気だった。素直に純粋に、思いついたままのことを口にしていた。けれどそれらの言葉は、少なくともにとっては、本当は言ってはならないことだったのだろう。「賢すぎるから、検査に行くんだって」と大人に手を引かれて大学に行った日以来、ダンデはあの手の言葉を一度も姉の口から聞いていない。
 末は博士か、そんなふうに期待混じりに言っていた母も純粋だったのだろう。姉貴は賢いから遠くの学校に行っちゃったんだな、そうウールーに語りかけたダンデも大概無垢だった。はただ、異常な子どもとして知能を疑われていただけだったのだと今ならわかる。大学で何があったのかが語ったことはないが、リーグでまことしやかに囁かれている噂によれば『狂人と紙一重の天才少女の助言』を元にガラルのポケモン研究が発展した側面もあるのだという。誇張も大いに含まれているのだろうが、まるで知っているかのようにポケモンに関する法則を語る幼い姉の言葉が、一定の裏付けを得られたことは確かなようで。「そうである」という最初から確信してその裏付けを得ることと、幾筋もの可能性がある中で数多の実験結果から「そうである」結論に至ることは似ているようで全く違う。答えを知ってからその解法を得ることの方が、ゴールを知らないままに彷徨うより早いこともあるのだ。公にはされていないしこれからもされないだろうが、あの当時ガラルでポケモン学に携わっていた者は一生「」という少女のことを忘れられないだろう。
『君は誰にポケモンのことを教えてもらったの?』
『ううん、違うよ』
『君が考えたり、思いついたりしたの?』
『違うよ』
『じゃあ、どうやって……』
『たとえば、何かの本で読んだり、テレビで見たり、噂話で聞いたり。確かに「ここで」って言えるような記憶はなくても、どこかで見て聞いて「知ってる」ことって、あるでしょう?』
 これが当時の『研究』における、最後の会話記録だ。リーグ委員長になった権限で、ようやく閲覧できた。中身はなんてことのない会話に思えるが、当時を知るマグノリア博士は少女――の言葉にゾッとしたのだという。
「恐ろしかったですね。だって彼女の言う『本で読んだり、テレビで見たり、噂話で聞いたり』というのはつまり『世界に知れ渡っている常識』とも言い換えられるでしょう。そんな世界は、どこにもありませんから」
 幼い少女特有の、空想でもない。あれは妄想や狂気でもなく、空が青いことを当たり前に語る人間の目だったという。自分たちの知らない世界をまるで存在するように語る少女を前に、自分たちの見てきたものは一体何なのかという不安に駆られる。子どもの戯言を前に馬鹿げていると言うには、当時と言葉を交わした者たちの抱く恐怖は深かった。という子どもがいったい『何』なのか、これ以上突き詰めることに本能的な恐怖を覚えてを家に帰した。本当の事情を知らない周囲は『天才』を学者の道に進ませたかったようだが、がその道を選ばなかったことにマグノリアは心底安堵したという。はマグノリアたち学者にいくつかの質問をした。自分の知っていることがどれだけこの世界の常識からズレているのか、それを確かめているかのようだったと博士は語った。エイリアンが地球人に溶け込もうとしているようだったと、若い学者はぼやいたらしい。
『せっかく頭がいいのに、博士にならなくていいの?』
『私、知ってるだけで賢いのとは違うの』
 だから学者になっても何もできないと、興味もなさそうに肩をすくめたという。礼儀正しく学者たちに頭を下げて、「変なことばっかり言ってごめんなさい」と研究の場を荒らしたことを謝罪した。
「時々、思うのです。あれから何度も、嘘だとか偶然だとか本当の天才だったとか……そういう議論はありましたが」
 マグノリアは、ダンデを見据える。チャンピオンであった頃のダンデには見せたこともないような、どこか弱々しい眼差しだった。
「彼女は本当に、『ただ知っていただけ』。最初から最後まで、あの子は本当のことしか言わなかった」
「姉は、『ポケモンのこと』を知っていたと?」
「もう少し正確な物言いをしましょう。彼女は『ポケモンのいるガラルという世界』を知っていた、これも真に的を得ているとは思いませんが」
 ダンデは姉に助けられている。ブラックナイトにおいて、はムゲンダイナの攻撃からダンデを庇い――そうして病室から消えた。ロトムの入っていないスマホの履歴からは、ただダンデの戦いを観戦していたことしかわからなくて。ダンデの敗北を見届けて、どこかに消えてしまった。
「おそらく、ブラックナイトのことも『知っていた』のでしょう。彼女は度々私たちに、忠告じみたことを言っていましたから」
「それも……『本で読んだり、テレビで見たり、噂話で聞いたり』?」
 吐き捨てるように、ダンデは言う。悪かったのは自分なのかもしれない。がマクロコスモスでローズの後援を受けてガラル資源学の研究に携わっていた理由も、結局はそこに帰結するのかもしれない。言えない理由があるのだと、そう言ってくれればそれで良かった。けれどダンデは本心を見せない姉を信用せず、警告を撥ね付け、そうして姉が予見した通りあの日あの場所に立った。子どもたちが、あの場所に来ることも止められなかった。だからダンデはリザードンにホップたちを守らせ――ダンデ自身は、に庇われる羽目になった。
「姉は俺に失望したのでしょうか」
 だからいなくなってしまったのだろうか。信じなかったから、言うことを聞かなかった挙句に意識不明の重体にさせてしまったから。「俺は君のことを姉だと思えない」などという酷い言葉を投げつけてしまったから。だからは、もうダンデの姉でいることに嫌気が差してしまったのだろうか――
「お忘れのようですが」
 ぴしゃりと叱咤するように、マグノリアの言葉はダンデの頬を打った。先ほどの老いが見え隠れする瞳とは一転、厳格な視線がダンデに向けられている。
「あの子の弟は、あなただけではありませんよ。『ダンデ』に失望しようと、幻滅しようと、呆れようと…… 」
「俺が失望されていることは、否定してくれないんですか?」
「それは本人の口から否定してもらいなさい。ともかく、仮にあなたに愛想を尽かしたとしてあの子が姿を消す理由にはなりません。『弟』を守ろうとしているのなら尚更です」
 だからきっと、まだ成すべきことがあるのだろうと。やることがあるから、そのために動いているだけなのだろうと。けれどマグノリアはそれを慰めのつもりで口にしたわけではないだろう。つまるところは、家族にどう思われようと関係ないのだ。弟たちを不安にさせたり悲しませることよりも、目的の方が大事で。いつもはそうだった。ホップは最初から最後までのことを疑うことなく信じていたが、ダンデは怒りにも似た感情を覚えていたのだ。何も言わずに一方的に「守る」などと思われていても、ホップやダンデたち当の弟がそんな姉に何を感じるのかを無視されては感謝どころか不安になる。は勝手なのだ。自分勝手で、独善的で、人の気持ちをわかろうとしない。ダンデが突き放したことに傷付いていなくなったのなら謝りたかったが、まるで堪えておらず既に『次』のことを考えているというのなら話は別だ。捕まえて、一言叱ってやらねば気が済まない。いつまで自分たちの気持ちを蔑ろにするつもりなのかと。そう、思うのに。
「……俺がチャンピオンになった日のことです」
「私に思い出話をするのですか? そういうのは老人の特権ですよ」
「まあ聞いてくださいよ。俺がチャンピオンになった日、姉はハロンの家族と一緒にお祝いしてくれました。いつもみたいに、できるだけ自然に見えるように努力したような笑顔で」
 あの頃はまだも表情を作るのが下手だった。とはいえ、他の家族にはわからなかったようだが。ダンデは勘が鋭いのか、『そういうもの』に敏感で。ガラルでは珍しいヒトカゲを手持ちにしたときも、10歳でチャンピオンになったときも、その後無敗記録を更新し続け節目の行事で顔を合わせたときも。ずっとは、その場に相応しい反応を綺麗に演じていたように思えた。関心がないからあんなふうに表情を作るのかと思っていたが、元から『知っていて』驚けないから初めて知ったような反応を演じるしかなかったのだろう。
「そんなあの人が、泣いていたようなんです」
 が病室から消える前、最後に様子を見に行った看護師がその姿を見かけたらしい。スマホを前に俯いて、顔を覆って泣いていたと。静かに、しかし深く悲しみに暮れているように見えたから、ひとりにしてあげるべきだろうとその場を離れたと。もっとも患者がいなくなるという結果を生んだその判断を、看護師は悔やんでいるようだが。
「俺が負けて、泣いたんです。誰も見ていない、表情を取り繕う必要のない場所で。俺のために、あの人は泣いたんです」
 の行動の理由を、ダンデは何度も考えた。姉はブラックナイトを阻止しようとしているようには見えなかった。最後の最後まで、むしろローズに加担しているように思えていた。ガラルの未来だとか千年後のエネルギーの枯渇だとか、そんな遠くて大きいものを見て家族のことなんて二の次なのだと――そう、思っていたのだ。
 けれど姉の足跡をなぞった今、かつてはそんなはずがないと否定した「弟たちを守ろうとしていた」という周囲の言葉がすんなりと胸に入ってくる。
『あなたに、贈り物をしたかった』
『千年後のエネルギーだって? そんなものを俺に贈ってどうするって……』
『違うの。もっと近い、ずっと傍にある、明日……』
 ムゲンダイナの攻撃で重傷を追った姉を、病院に運ぶ間に交わした僅かな会話。が気を失ってしまったから、その続きは聞けなかったけれど。「もっと近いチャンピオン戦」「ずっと傍にあるポケモンバトル」、それを守りたくて、無事な形で贈りたくて、姉はたった一人何年も奔走し続けて。そうしてダンデにとってのひとつの終わりを見届けて泣いたのは、『知らなかった』からなのか。それとも、『知っていて』なお受け入れ難いことだったからなのか。
「あの人は俺に『明日』を贈りたかったのだと言いました。それならあの人は俺が『明日』をどう過ごしたのか聞く義務がある。そうでしょう?」
「あの子がそれを、もう『知っていた』としても?」
「本人の口から聞くものでしょう、そういうものは」
「……それもそうですね」
 がどんな『明日』をダンデに過ごして欲しかったのか、それも訊いてみたい。それら全てを聞いて、どんな『明日』を過ごしたのか全部話して、そしてダンデは姉に伝えたいことがある。
 ――少しの後悔もない、いい一日だった。
 全てに納得しているわけではない。より良い明日にする努力を、やめるわけでもない。それでも、選択の結果どんな結果に転ぼうとも、「これが正しかった」と言えるようにしてみせる。誰かが自分のために尽力していたのなら、尚更。
「姉はきっと、どんなポケモンより捕まえるのは大変でしょうね」
「……あの子に同情します」
「でも、捕まえますよ」
 太陽より眩しく、にっこりとダンデは笑う。本当に幼い頃のもこんなふうに笑っていたと、マグノリアはふと思ったのだった。


230311
BACK