※レオントゥッツォの妹設定
ディーマお兄ちゃんがくれたレモンパイの味を、今でも覚えてる。
私はとあるファミリーのさるお方の私生児、らしい。お母さんが死ぬ前に教えてくれた。でもマフィアなんか関わったり頼ったりしちゃダメだよって、怖いくらいに真剣な顔で言い残した。お母さんは私を産んだことは後悔してないって言ってくれたけど、お父さんの愛人になったことはずっと後悔していたみたい。私のことを「たったひとつの宝物」って呼んで大切に可愛がってくれた一方で、お父さんのことは生活から全部消し去るくらいに怖がっていた。お母さんは私を産んだあと、ずっとお父さんから逃げていたんだって。なんで愛し合った人から逃げるんだろう? 小さい私にはわからなかったけど、お母さんはとにかく必死に逃げ続けていた。死ぬ時まで。
でもお母さんも私も全然逃げられてなかったんだって、ディーマお兄ちゃんが来てわかった。お母さんが死んだ次の日、ディーマお兄ちゃんは何人かのスーツの人たちを連れて現れた。子どもでお金もない私に代わって、お母さんのお葬式を全部手配してくれた。私たちの生活からは考えられないくらい立派なお墓と、ちゃんとしたお葬式。ディーマお兄ちゃんが私に最初にくれたのは礼服だった。ボタンがいっぱいでネクタイなんて結び方もわからなくて、ディーマお兄ちゃんに手伝ってもらってやっと着れた。
「気の済むまで好きにさせてやれって、ドンは言ってたが……まだ若いのにお気の毒だったな」
私と手を繋いでお墓の前に立って、ディーマお兄ちゃんはそう言った。私はあんまり賢くなかったけど、お母さんはお父さんから逃げてるつもりでずっと全部知られてたんだって、なんとなくわかった。お父さんやディーマお兄ちゃんにはお母さんの居場所を知ることも、私のサイズにぴったりのお洋服を持ってきてくれることも、立派なお葬式を挙げることもすごく簡単なことなんだって、そう思ったら怖くなった。だからお母さんは逃げてたんだって、あんなに真剣に「関わるな」って言ったんだって、少しわかった気がした。
「、本当に行かないのか?」
お葬式が終わったあと、私はディーマお兄ちゃんに礼服を返した。もう着る場所なんてないって思ったから。ディーマお兄ちゃんは私が名乗る前から私の名前を知っていた。出会ったその日から当たり前みたいに私の名前を呼んで、それが自然なことみたいに私の頭を撫でた。ディーマお兄ちゃんは私がお父さんの元で暮らした方がいいって思ったみたいだったけど、お父さんはお母さんの「好きにさせてくれてた」みたいに、私にもそれを許してくれたみたいだった。働き口なんて子どもの私にはすぐには見つからないだろうって思ったけど、劇団の下働きで雇ってもらえた。お父さんやディーマお兄ちゃんのおかげだって、誰も言わなかったけどそうなんだろうなって思った。シラクーザでマフィアの子どもに生まれて、マフィアと関わらずに生きていくことなんて本当にできるのかな? お母さんの写真の入ったロケットを握り締めてそんなことを考えてみたけど、答えてくれる人なんているわけがなかった。
「新聞配達の仕事を始めたんだって?」
月に何度か様子を見に来てくれるディーマお兄ちゃんは、私が掛け持ちで始めた仕事をやっぱり当たり前みたいに知っていた。危ないからやめた方がいいって、もしかして生活費が足りてないのかって心配してくれた。
「ううん、その……レモンパイが食べたくて」
私はディーマお兄ちゃんに嘘をついた。誰にも話してないから、嘘をついてもわからないかもって思っちゃった。私はお父さんとディーマお兄ちゃんにプレゼントを買いたかった。それは日頃受けてる『恩恵』に対する純粋なお返しの気持ちだったのかもしれないし、もしかしたら借金の返済みたいに、お父さんたちから受け取ってしまったものへの借りを少しでも減らしたかったのかもしれない。何か返せば繋がりも薄くなるんじゃないかなって、幼稚だった私はそう考えた。そう考えてることを知られたくなかったから、生活には困らないけどささやかな贅沢がしたい、そんなふうに嘘をついた。少しでも本当に聞こえるように、通りの角に新しくできたケーキ屋さんの話をして。仕事の帰りに通りかかるたび、これからオペラを観に行く人や観てきた人が宝石みたいなケーキやタルトを食べながら観劇の話をしていて、ちょっと真似したくなっちゃったんだって、そんな話をした。
「なんだ、そんなことか」
ディーマお兄ちゃんはどこかに電話をかけると、数十分後にはスーツの人がアパートのドアを叩いた。その人から紙の箱を受け取ったお兄ちゃんは、「ほら」と笑ってそれを私にくれた。
「これ……」
「食べたかったんだろ? 毎週でも持ってきてやるから、新聞配達なんてもうしなくていいよな」
紙の箱を開くと、まだ温かいレモンパイがふたつも入っていた。レモンカードもメレンゲもパイ生地からこぼれそうなくらいたっぷり詰まっていて、いい匂いがして、私の手には大きすぎるくらい贅沢に切り分けてあった。
「ディーマお兄ちゃん……」
「どうした?」
私が困ったように見上げると、ディーマお兄ちゃんは首を傾げた。私はお母さんのロケットを握り締めてから、そっと紙の箱をお兄ちゃんに差し出した。
「『マフィアの人から物をもらっちゃダメ』って、マンマが……」
私の言うことは、きっとひどく矛盾していたと思う。お葬式もあげてもらって働く場所ももらって、今更だって。でも私は今まで、お兄ちゃんが持ってきてくれるお花もお洋服も全部返してきた。だからお兄ちゃんもそういう『お土産』はもう持ってこなくなって、これ以上受け取らなくていいんだって安心してたのに。お母さんの言うことは、マフィアから何も受け取らないなんてことは、非現実的なのかもしれない。けど私にそれを言い付けたときのお母さんの顔が、今でも怖いくらいに思い出せるから、だから私はお母さんの言うことを守りたかった。
「……賢いマンマだな」
ディーマお兄ちゃんの声が、すっごく冷たくなった気がした。でも、びっくりして見上げたお兄ちゃんはいつもみたいに笑っていて、私はあんしん、
「けど、お前にそれを言うべきじゃなかったな」
お兄ちゃんは、私の首に手を伸ばした。ロケットを掴むと、ぶちっと簡単にそれを鎖からちぎってしまって。え、と私が声を出す間もなく、ロケットを開いてお母さんの写真をまじまじと眺める。「綺麗な人だな」ってお母さんを褒めて、そして、開いたままのロケットを、ぐしゃっとレモンパイに押し付けた。
「ほら、。口を開けて」
クリームの中にロケットを押し込んで、ディーマお兄ちゃんはにこにこ笑ったままレモンパイを掴んで私の口元に押し付けた。甘いメレンゲの匂いと、レモンの匂い。唇に押し付けられたパイ生地が崩れて、ぽろぽろとシャツの上にこぼれ落ちた。
「早く食べないと、マンマが溶けちゃうだろ?」
真っ白になっていた私の頭に、ディーマお兄ちゃんの言葉が突き刺さった。お母さん。お母さんの写真、あれしかないのに。あんなふうにクリームに押し付けたら、汚れてダメになっちゃう。私はディーマお兄ちゃんがぐいぐいと押し付けてくるレモンパイを必死に食べた。贅沢なほど大きくカットしてもらったレモンパイは私の口には入り切らなくて、口元がクリームで溺れてしまいそうなほどだった。咳き込んで、泣きじゃくりながら食べるレモンパイは甘ったるくて涙や涎が混ざって、ひどい味がした。ディーマお兄ちゃんはにこにこしながら私がレモンパイを食べるのを見守っていた。初めてのお給料で買ったピッツァを一緒に食べたときと、同じ笑い方をしていた。
「ゔ、ぇ……っ」
お母さんのロケットは、齧らずに済んだ。押し込まれたクリームの中から口に鉄の味が広がって、私はそれを吐き出した。メレンゲやカスタードに塗れてどろどろになっているそれを、それでも私はぎゅっと両手で握り締めた。
「もう一個食べるよな? 」
ディーマお兄ちゃんが、もうひとつのレモンパイを手に取って笑った。私はもうレモンパイなんて食べたくなかったけど、お兄ちゃんがクリームで汚れた私の手をロケットから引き剥がすみたいに撫でたから、ぶんぶんと頷いて口を開けた。ディーマお兄ちゃんは私からお母さんを簡単に奪ってしまえるんだ。今度は優しく、私の口の大きさに合わせてゆっくりとレモンパイを食べさせてくれたけど、口の中にずっと鉄の味が残っている気がして、その日から私はレモンパイが嫌いになった。
次の日、新聞配達の仕事はクビになっていた。お母さんの写真はところどころがよれたり剥げたりしてしまっていたけど、ロケットも写真も丁寧に拭いて窓辺に干した。それなのに仕事から帰ってきたら窓が割れていて、写真はどこかに飛ばされてしまったのか跡形もなくて、ロケットは車に轢かれてひしゃげてしまっていた。壊れた窓を見たお兄ちゃんは「可哀想にな」って言って修理の手配をしてくれた。私はもう泣くこともできなくて、お母さんの言いつけを守ることはすごく難しいことなんじゃないかって汚れたロケットを洗いながら考えた。贈り物を拒むことさえできないのに、どうやってマフィアと関わらずに生きていけるんだろう?
ディーマお兄ちゃんは本当に毎週ケーキを持ってきてくれた。私の首にロケットのチェーンだけが残っているのを見ると、新しいアクセサリーをくれるって言った。断ったら次はチェーンを食べさせられるのかなって思って、欲しいとも要らないとも言わずにその日の夜にお母さんのお墓にチェーンとロケットの残骸を埋めに行った。次に会ったお兄ちゃんは私の首が空いてるのを見ても何も言わなかった。それが当然みたいに、シンプルで綺麗なネックレスをつけてくれた。私はイチゴのタルトを嫌いにならずに済んだけど、その代わりに私自身のことを嫌いになっていくみたいだった。
「ディーマお兄ちゃん、あのね、これ……」
副業はできなくなったけど、食欲が落ちていったおかげで貯金は思ったより早くにできた。私はお兄ちゃんにカフスを贈った。お父さんがどんな人かは知らなかったから、良いところのお茶菓子の詰め合わせを渡してもらうことにした。
「俺にくれるのか? ありがとな、嬉しいよ」
ディーマお兄ちゃんは優しいから、紳士的にプレゼントを受け取ってくれた。ネックレスのお返しだと思ったみたいで、子どもがそんなこと考えなくていいんだぞって頭を撫でてくれた。お兄ちゃんは私に会うときによくそのカフスをつけてくれていた。でも、少しも「返せた」気がしないのはなんでだろう。お母さんのお墓参りも最近はあまりできてなくて、尋ねることのできる相手はいなかった。
「責任を取らなきゃな、お嬢様」
お兄ちゃんは優しく笑って、私の頭を撫でてくれた。私は必死にスコップで穴を掘っていた。新都市に関わる騒ぎ――ベルナルド・ベッローネやその息子のレオントゥッツォたちが起こした騒動――の後、ディーマお兄ちゃんは私を劇団まで迎えに来て「お嬢様」と呼んだ。今まで一度も、そんなふうに呼んだりしなかったのに。お兄ちゃんは私が責任を取らないといけないって言った。私のお父さんとお兄ちゃんが、ディーマお兄ちゃんたちファミリーを裏切ったから。血の繋がってる私も責任を取らなきゃいけないって、そう言って私を車に乗せた。後部座席でディーマお兄ちゃんの隣に座らせられて、脚を組んだディーマお兄ちゃんに肩を抱かれて、少しも生きた心地がしなかった。ディーマお兄ちゃんはすごく怒っていた。すごくすごく、見たこともないくらい、怒っていた。私の父親がベルナルド・ベッローネで、レオントゥッツォ・ベッローネはお母さんの違うお兄ちゃん。そんなふうに言われてとても信じられなかったけど、写真で見たレオントゥッツォさんは私を男の子にしたみたいに私にそっくりで、信じるしかなかった。私が働いてた劇団も劇団長をしていたベルナルドさんのツテで紹介してもらったんだって、言われてみれば納得できることばかりで、何よりディーマお兄ちゃんは本当に本当に怒っていたから、少なくともお兄ちゃんの感じている怒りだけは真実なんだってわかった。私はディーマお兄ちゃんを裏切ったベルナルドの娘で、レオントゥッツォの妹。今日初めて知ったことだからって、それで許されるわけがないってわかっていた。知らなくても、ベッローネの恩恵を受けて生きてきた。お母さんがマフィアに関わるなって言ってた理由がやっとわかった。そして、それが到底叶うはずもなかったことも。
「お前は昔からいい子だったよな、」
どこかの空き地に連れて来られて、スコップを渡されて、穴を掘れって言われた。私の手にはすぐに水ぶくれができて破けて、スコップの硬い柄に擦れて血まみれになったけど、お兄ちゃんが私を見下ろしてたからどんなに手が痛くても死に物狂いで掘り続けるしかなかった。雨が降っていて濡れた土は重くて、掘るたびに崩れて泥になる足元のせいで靴には冷たい泥が染み込んで、沈んだ踵からつま先までぐしゃぐしゃに濡れてしまって。痛いのか冷たいのか怖いのか気持ち悪いのか、わからないままにずっと掘り続けた。夕方に連れて来られて、お腹が空いて力なんて出なくて、たぶん私が感じている恐怖や必死さに反して作業はずっとのろのろとした進みだったと思う。それでもディーマお兄ちゃんは待っていてくれた。どのくらい穴を掘り続けたのか、ようやく私の腰よりも地面の方が高くなるくらいになって、髪も頬も土でどろどろなのにディーマお兄ちゃんはいつもみたいに私の頭を撫でてくれた。
「母親の言い付けをちゃんと守ろうとして、俺の言うこともよく聞いて、子どもなのにプレゼントまで用意してくれたよな。お前は本当に……家族を裏切らない良い子だったよ」
スコップが、手からするりと抜けて足元に突き刺さった。もう手足の感覚なんてなくて、お兄ちゃんが頭を撫でてくれてるその手で小突きでもしたら私は簡単に倒れてこの穴に埋まるんだろう。そう思った。
「。俺たちはファミリーだよな?」
ディーマお兄ちゃん。優しいディミトリお兄ちゃん。お兄ちゃんの顔にはもう、笑顔なんて浮かんでいなかった。街灯が逆光になってお兄ちゃんの顔はよく見えなかったけど、瞳孔の開き切った目が私をじっと見下ろしていることははっきりとわかった。私にはレオントゥッツォというお兄ちゃんがいるらしいけど、私のお兄ちゃんはずっとこの人だった。怖くて優しくて、お母さんのお葬式をあげてくれて、私にレモンパイを買ってきてくれて、私からお母さんを奪って、レモンパイを嫌いにさせた人。私の『家族』が、穴の縁にしゃがみ込んで私に手を差し伸べてくれていた。この手を取れば、怖くて優しいディーマお兄ちゃんはまた私と一緒にピッツァを食べてくれる。この手を取れば、もう私はお母さんの言ったことを守れない。お母さんの言いつけを守るためには、お母さんと同じになるしかない。冷たい土の下に埋もれることだけが、マフィアから逃げる唯一の方法だった。
「……ディミトリお兄ちゃん、」
私は差し出された手に縋った。お父さんとレオントゥッツォはファミリーのいない世界を作ろうとしたみたいだけど、私はファミリーに縋るしかなかった。レモンパイは嫌いだけど、土の味はもっと知りたくなかった。泥と血に塗れて皮も剥けた汚い手を、ディーマお兄ちゃんは愛おしそうに大切に両手で包み込んでくれた。お前は本当の家族だって、そう言って私を穴から引き上げてくれた。
お兄ちゃんが誰かを呼ぶと、何人かのスーツの人が現れて私の掘った拙い穴を立派な墓穴に広げていった。そして、車のトランクからずた袋みたいに引きずり出された誰かがその穴に投げ捨てられて、埋められた。
「お前はああならないよ」
スーツのジャケットを私に被せてくれたお兄ちゃんはそう言った。私は家族だから、ああやって捨てることはないって。私は安心したのか疲れたのか、瞼が鉛みたいに重くなる。寝ても良いって、お兄ちゃんは言ってくれた。お前の好きなものを用意しておいてやるから、楽しみにしてろって。起きたときにはレモンパイがあるんだろうな。暗澹とした気持ちで、私は雨の味がする眠りに落ちた。
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