※レオントゥッツォの妹設定


「お兄ちゃん、ディーマお兄ちゃん……」
 Pronto? と低い声が呼び出し音を途切れさせた瞬間、私はただ電話口でお兄ちゃんに泣き縋っていた。ちゃんと言わなきゃダメなのに、泣いてばかりじゃ伝わらないのに、それなのに足りない頭にかき集めていた言葉はお兄ちゃんの声を聞いた途端頭の中から吹き飛んじゃったみたいだった。
、どこにいるんだ?」
 どうしたんだ、なんてお兄ちゃんは訊かなかった。私が通りの名前と見えるお店を途切れ途切れに伝えると、すぐに行くって答えてくれて。
「俺が着くまで……そうだな、歌でも歌ってくれるか? この前観たオペラ、気に入ってた歌があっただろ」
 お兄ちゃんが口ずさんだ歌い出しを、私は何も考えずに繰り返した。涙混じりの鼻声で、歌詞なんてうろ覚えで、きっとひどい歌だったと思う。けど、ディーマお兄ちゃんはずっと電話を繋げたままにしてくれた。誰も入って来ようとしない路地裏で、私は端末を握り締めたままぎゅっと目をつぶって歌い続ける。足首を濡らしていた温かいものが冷えて乾いていくのも、わずかに聞こえていた微かな呼吸音がすっかり聞こえなくなったのも、ただ歌い続けることで気付かないフリをした。

、待ったか?」
 肩を叩かれて振り返ると、視界を埋め尽くすみたいに真っ赤なバラの花束が目の前にあった。
「わっ……、」
 反射的に受け取ったその花束は、茶色くなり始めていた胸元の染みとその鉄臭さを覆い隠してくれた。頭がくらくらするくらい甘い匂いに眩暈を覚えながらディーマお兄ちゃんを見上げると、お兄ちゃんはダータに遅刻してきた男の人みたいに私のおでこに唇を寄せる。
「お兄ちゃん、あの、お花……汚れちゃうよ……?」
 お兄ちゃんが近付いてきたことで私の汚れた服に押し付けられてしまう花束がかわいそうで、私は赤くなる顔を隠すこともできないまま、もごもごと呟いた。お兄ちゃんは少し呆れたみたいに「に持ってきたんだぞ?」って笑う。劇団で働いていた頃は役者さん宛の花束を届けたり、お話ししてる間花瓶の代わりみたいに預かったりしてばかりで、私は未だにお兄ちゃんからもらうお花に慣れなかった。誤魔化すように花束を抱え直すと、咽せ返るほどの甘い匂いの中に鉄の臭いが混ざる。必死に歌い続けていたことで忘れかけていた涙と怖さが、思い出したようにぶわっと溢れ出てしまった。
「ディーマお兄ちゃん、ごめんなさい……」
 私の足元には男の人が倒れていた。こうなる前まで、ファミリーだったはずの人だった。ベッローネの隠し子だった私がお兄ちゃんに連れられてファミリーに入ったことを、この人はよく思っていなかったみたいで。私を家に送っていく途中で路地裏に押し込んで、殺そうとした。反射的にしゃがみ込んだ私にとっては運良く、この人にとっては運悪く、勢いよく突き立てたナイフが壁に刺さって抜けなくなって。目が合ったその一瞬、私は何も考えていなかった。考えている余裕なんてなかった。お兄ちゃんがくれたナイフが私のポケットにはあって、この人が壁にそうしたように私はこの人にナイフを刺していた。私よりずっと大きい体は一回刺したくらいじゃ倒れなくて、太い腕と大きな掌が悪態と一緒に伸びてきて、その手を切りつけて、痛みに屈んだこの人が睨み付けてくるのが怖くて、見ないでって叫ぶみたいに目を切りつけてしまって、そしてこの人は地面に倒れてずっと呻いていた。
、次からはトドメまでちゃんと刺さないとな」
 地面にしゃがみ込んで死体を見分していたディーマお兄ちゃんが、傷口を指先で広げるように確認しながら言った。
「目を切ったのは偶然か? 狙ってやれたなら大したもんだが、は小さいから無理だろうな。が刺すなら腹だ、それは間違ってない。腹は即死しにくいから、倒れたところを喉なり心臓なり追撃すべきだけどな」
 トドメを刺さないと反撃される可能性があるだろ? って、お兄ちゃんは立ち上がりながら笑って言った。私はお兄ちゃんの言ってることについていけなくて、立ち上がったお兄ちゃんに圧迫されるようについ後ずさってしまう。お兄ちゃんは眉をちょっと上げたけど、気にしてないみたいに私の頭を撫でた。あの夜泥に濡れて絡まってしまったから短く切った髪が、大きな手にかき回されてさらさらと揺れる。私は何て言ったらいいのかわからなくて、どうしたらいいのかわからなくて、喉に重石が詰まったみたいだった。溢れるみたいにやっと出てきた言葉は、あまりに幼稚な言葉で。
「ディーマお兄ちゃん、怒ってないの……?」
「俺がどうして怒るんだ?」
「だって、わたし、この人殺して……」
「お前を殺そうとしたんだろ? 俺はをファミリーの一員と認めてるし、そう扱うように命令もしてる。命令を守れないやつはファミリーじゃない」
「お兄ちゃんの、邪魔しちゃったのに……」
「お前に呼ばれることを邪魔だとは思わないよ」
「……それに、お洋服……汚しちゃって……」
「人を殺したんだ。服くらい汚れるだろ? また新しいのを買ってやるから、そんなに泣くなって」
 でも、でも、とお兄ちゃんは許してくれてるのに涙は止まらない。何を謝ればいいのか、何を許してほしいのか、自分でもわからなかった。泣いてばかりいても余計に鬱陶しいとわかっているのに、何かが怖くて涙が止まらない。泣き止まない私を見下ろして、お兄ちゃんは私の首元に手を添えた。前にお兄ちゃんがくれたネックレスのチェーンを指先で弄りながら、お兄ちゃんは優しい声で言う。
が謝りたいことは別にあるんじゃないか?」
「う、ん……?」
「なんでこいつはお前を襲ったんだと思う? 
「……えっ、と、私が、ベッローネだから……」
「そうだな、それで?」
「それ、で……」
 私はお兄ちゃんの質問に困ってしまった。私がベッローネでごめんなさいと、求められた時以外にそう口にすることをディーマお兄ちゃんは嫌う。だからそれじゃないことはわかるけど、私がベッローネであること以上に私の責任はあっただろうか。私が答えあぐねている間にもお兄ちゃんの指先でちゃりちゃりとチェーンが軽い金属音を立てていて、その音に急かされるみたいに私の頭はぐるぐると回るけど、回るだけで少しも答えは出てこない。助けを求めるみたいにお兄ちゃんを見上げると、お兄ちゃんはハンカチで優しく私の目元を拭ってくれた。
、俺は言っただろ? 一人は危ないから、一緒に暮らした方がいいって」
 ぐ、とハンカチ越しにお兄ちゃんの親指が私の目の下を押す。そのまま、目の縁をなぞるようにゆっくりと親指が皮膚の上を滑っていった。「あ、」と間抜けな声が喉から漏れる。お兄ちゃんは人を殺したことなんて全然怒っていなかった。私が気にしてたことなんて、ひとつも。けど、お兄ちゃんが私に本当に気にして欲しかったことに私は気付けなかった。口の中に、鉄とクリームの味が湧き上がった気がした。
「お前が大丈夫って言うから、様子を見てたが……その結果がわかるだろ?
「ご、めんなさ、」
「ああ、謝らなくていいんだ。誰だって間違うことはあるからな。は間違いに気付いたら、ちゃんと直せるだろ?」
 お兄ちゃんの指が、またネックレスを掴む。私は昔間違った。間違ったからお母さんは私の首元から消えちゃって、その次は間違わなかったからこのネックレスがある。間違えた後どうすればいいのか、私は『よく知っていた』。
「ディーマお兄ちゃん……」
「うん?」
「お兄ちゃんと一緒に、帰ってもいい……?」
 私の答えは正解だったみたいで、お兄ちゃんは満足げに目を細める。そのまま私の肩を抱いて歩いて行こうとするから、私は地面に転がっているその人が気になってお兄ちゃんを引き留めてしまった。
「お兄ちゃん、あの人……」
「ああ……、こっちで片付けておくよ」
 うっすら笑ったお兄ちゃんの顔を見て、言わなきゃよかったって後悔する。私はお兄ちゃんの「ファミリー」でお世話になっているけど、やっていることは事務員とか下働きで、あの夜みたいに「マフィアっぽいこと」にはほとんど関わらずに済んでいた。だから怖い思いなんてほとんどしなくて、不安や緊張はあったけどどうにか息ができていた。ディーマお兄ちゃんは私に仕事やマフィアのルールを教えてくれたり、いつも優しくて、私はファミリーに来たのにファミリーとしてのお兄ちゃんの怖さをどうにか見ずにいられていた。
 お兄ちゃんがマフィアらしい顔をするたび、いろんなことが怖くなる。私の『間違いを直した』ことなんてお兄ちゃんにとってはよくあるようなことで、きっとあんなの残酷でも何でもない、むしろ優しいやり方だったんだって思う。だって私は指も手足も失ってないし、仲のいいお友達やペットを殺されたりもしていない。今もあの時のことを仄めかすくらいで私は怖がって大人しくなってしまうし、ディーマお兄ちゃんにとって私は脅すまでもない子どもなんだと思う。今日までは元のアパートで暮らすことを許してくれてたみたいに、お兄ちゃんは私にいろんなことを許してくれている。でもそれってお母さんが「好きにさせてもらえていた」のと何も変わらない気がする。あの晩見た誰かの死体も、路地裏に転がったあの人も、いつかお前もこうなるんだぞって私に言ってるみたいだった。そうならないってお兄ちゃんが言ってくれたのに、けど、ディーマお兄ちゃんは土よりも深いところに私の何かを埋めてしまっている。
「……っ、」
「痛むのか?
 花束の持ち手をぎゅっと握り締めると、トゲが残っていたのかまだ包帯の巻かれている手が痛んだ。お兄ちゃんは私の手を開かせると、痛ましそうな顔をして手のひらを撫でてくれる。ディーマお兄ちゃんは怖いけど、優しい。そういう人が私の『家族』なんだって、最近の私は少しずつわかっていた。花束を片腕で抱え直して、お兄ちゃんに甘えるみたいに手を繋ぐ。少し意外そうに笑ったお兄ちゃんは、帰りにレモンパイを買ってくれるって言った。自分で自分の『間違い』に気付かなかった代償というには、だいぶ優しかった。ディーマお兄ちゃんは私がレモンパイを吐いてしまっても、それを掌で受け止めて全部食べさせてくれる。ひとつも残らず、食べ切るまで。それが優しさだと思うくらいには、私もきっとどうかしてしまっていた。


230601
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