※ディミトリ姉設定
思えばディミトリは、幼い時分よりとても面倒見のいい性格をしていた。というより、そうならざるを得なかったのである。何しろ彼の姉ときたらシラクーザ人のくせにカミサマなんてものに恋をしてしまって、慈愛だの奉仕の精神だのというものを頭から素晴らしいものだと思い込んでしまっていたのだ。誰彼構わず博愛の精神とやらで助けて周り、感謝の百倍の面倒ごとを呼んでくるイカれた女と血が繋がっていれば、その首が明日もばかげた幸福と平等をうたっていられるように面倒を見てやるしかない。畢竟、という姉がその本物の善意で引き起こす面倒ごとの処理はディミトリが請け負うようになっていた。
脳みそまで愛という名の綿あめが詰まっているこの女を、ディミトリ共々ベルナルドが拾ってくれていなければ今頃どうなっていたことか。マフィアという後ろ盾あってこその今だというのに、あの脳髄キャンディー女ときたら「これも主の御心によるものですね」などとのたまうものだから(しかもベルナルドの目の前で!)、よほどその口にヌガーでも突っ込んで黙らせてやろうかと思ったものだ。幸いというべきか、ベルナルドはのそういうところをあまり気にしていなかったが。けれどディミトリはこのシナプスまで糖蜜に漬かったような女のことが存外嫌いではなかった。何度言っても鍵をかけない教会の扉――「神の家は常に開かれているもの」だそうだが、シラクーザでそれをしようものならマフィアの取引場所や抗争や密談だのに使われてしまうと口を酸っぱくして言い聞かせている――その扉を開けた先、ただ祈りを捧げるだけで何もかも満たされたように安らかな顔をするがいる。祈りが終われば振り向いて、何よりも愛しい
隣人を見る目でディミトリに笑いかけて言うのだ。
「主のご加護があらんことを」
かつて、あの教会に立ち入らない神父に「ラテラーノはサンクタしか救わない」と
現実を告げられてもなお、信仰という
夢に生きる筋金入りの
馬鹿。血のように赤い色の髪をしたループスは光輪など持たないくせに、その純粋すぎる
愚かさをもってかの神父に祝福された。ディミトリは炎より激しい姉の信仰に、淡く育ち始めていた恋心を灼かれてしまったのだ。が焦がれるように見つめているのはただ目にも見えない「神」のみで、その唇から紡がれる愛は美しい信仰で、ちっぽけな体と命、そのすべてを祈りに捧げて生きている。
それならそれで、よかったのだ。恋は潰えようと、愛おしかった。神の前にディミトリの稚い恋が破れようと、姉は全てに平等だった。どこぞのファミリーが「お友達とお話」していれば、『寄ってたかって弱いものいじめとは何事ですか!』と首を突っ込み、ナイフを向けられているのに言葉と拳でどうにかできると思っていて、間に入ったディミトリが彼らを「黙らせて」やれば『主と隣人の愛に感謝します』などと呑気に十字を切る。助けたはずの「弱者」に『あんたが首を突っ込んだせいで』と至極真っ当な恨みを向けられても、『主があなたをご覧になっているからこそ私を遣わせたのでしょう』と頓珍漢に胸を張る。放っておけば相手のファミリーにまで乗り込んで「解決」を図りかねないから(実際そうなったことは一度や二度ではない)、ディミトリが裏で手を回して「穏便に」済ませてやるのである。二人並んで歩く帰り道、恩知らずにもやれ暴力は良くないだのと眠たい説教をしてくるのさえ愛おしい。ナイフが掠めた頬に手を当て痛ましそうな顔をする姉こそが、ディミトリにとってのカミサマだった。治療アーツが使えるわけでも奇跡を起こせるわけでもない、無力な手のひら。この手がただの擦り傷に容赦なく消毒液を浴びせ、ガーゼを貼る。行き場のない誰かの手を引き、時には叱咤するために頬を張り飛ばし、またある時には行くべき場所へと背中を押す。聖書のページを捲り、リンゴの皮を剥き、シーツを洗い、ロザリオの珠をひとつひとつ数えて祈る。特別な力は何もない、ありふれた手のひら。誰のものにもならない平凡な温もりが、ディミトリにとっての信仰だったのだ。
「あの赤毛のイカれシスター、ついに聖書の代わりに法典を咥える気になったのか?」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべたその男の言葉を、ディミトリは最初理解できなかった。どこかのしょぼくれたファミリーの一員であろうその男は、明らかにディミトリとが姉弟であることを知っていて挑発していた。ひとまず男の顔面を内面に見合った醜さに整形してやって(ディミトリは姉以外の人間に舐めた態度を許すほど寛容ではない)、潰れた鼻を押さえながら泣く男が「それ」を話すのを根気強く聞いてやった。右手をフォークが握れないようにしてやってなお男がそれを喚くものだから、ディミトリはようやく男が挑発のためだけにでたらめを並べたわけではないと理解したのだ。けれど、だって、ありえないだろう。
「姉さんに、恋人だって?」
左手の指を一本一本ライターで炙ってやったのは、もはや尋問のためではなかった。男は自身の見たものをすっかり話し終えてしまっていた。修道服ではなく流行りのワンピースを着て男と劇場に入る赤毛のループス。それは親密そうな空気で、腕などを組んでいたのだとか。オペラの間も男はステージの上など全く見ておらず女ばかり見ていて、女は男から贈られた胸ポケットの花を気にして落ち着かなさそうにしていたという。ディミトリはタバコにそうするように、男の手を踵で踏み躙った。
「だって、主は男女が結ばれることを禁じておられないでしょう?」
事もなげに女はのたまった。ディミトリが常の軽口も笑みもなく詰め寄ったというのに、まったくいつも通りの顔をしていた。飾り気のない修道服に身を包み、けれど小さな花瓶にたった一輪のガーベラを活けていた。が子どもたちから花を受け取ることは珍しくない、時折酔狂な市民から感謝の花束を贈られることもある。けれどディミトリには、その少しばかりくたびれた花がくだんの男に贈られたものだとわかってしまった。ディミトリは今すぐその手から花を取り上げてタバコのように踏み躙ってやりたい衝動を、どうにか堪えなければならなかった。姉が左手に指輪をしているのを見たその瞬間、感情が具象化するのなら姉とディミトリは骨も残さず焼けていただろう。それほどの怒りを湛えて、ディミトリは静かに問いかけた。
「まさか本気じゃないでしょう」
「まさかって、何がです? 私が彼と結婚することですか? 主に誓いを立てるのに冗談なんて言いません」
「いったい姉さんはどうしてしまったんです、そんなことを言い出すなんて……」
そんなこと、という言い様が姉の神経を逆撫でしたらしい。は相手の男がいかに人間的に素晴らしい男かを延々と聞かせてくれた。やれ、を何度も助けてくれたことがあるだとか。を馬鹿にせず、共にシラクーザの地に本物の信仰を築いていこうと言ってくれただとか。が信仰そのものからその道を行くのなら、自身は法の面で支えるとまで決意してくれた、だとか。法、という言葉にディミトリはピクリと反応した。兄弟分を軟弱にした「公正な」裁判官の姿が脳裏を過ぎる。いっそ笑い出したい気持ちで、ディミトリはもうひとつだけに問いかけた。
「相手の男は何の仕事を?」
「裁判官です。正しさを愛する人ですよ」
「……裁判官。へえ」
それはもはや独り言だった。どうにか哄笑は胸の内に収められていたが、上がった口の端を見咎めたが何が可笑しいのかと眉を顰める。ディミトリは黙って首を横に振った。もういい。もう十分だ。こんな茶番はもう、腹一杯だった。姉はかつてディミトリの恋を博愛という火に焚べてしまったのに、今度はその愛まで裏切りという泥で踏み躙るのだ。
ディミトリは路地裏で男の死体を見下ろしていた。この男に対する憎しみや嫉妬はあるが、もう死んでしまった男にそれ以上何をするでもなくディミトリはタバコを取り出した。雨期で湿気ったタバコはさして旨くもないが、一仕事終えた後の頭の切り替えには十分だった。それにしても、つまらない仕事だった。
「姉さんはこんな男がよかったのか?」
心底不思議そうな呟きに、答える者はいない。を助けたというなら、ディミトリが物心ついてから今日に至るまで姉を助けた回数を数えてみようか。けれどディミトリはそんなことに見返りなど求めていなかった。それこそが姉の説く無償の愛というものではなかったのだろうか? ディミトリが愛するように姉もまたディミトリを愛することが正しいのなら、姉はこんなつまらない男などに向ける分の愛など一片も持たなかったはずだ。やはり神の教えなどくだらない。けれど、姉が信じているのなら何でもよかった。姉がそうしたいのなら支えてやろうと思っていたし、実際誰より献身的にディミトリは姉を支えていた。それなのに姉はこんな男を愛したのだから、不思議な話だった。
ディミトリがこの男に仕掛けた罠はとても単純で、粗末なものだった。その辺のギャングの子どもですら気付く程度の、ちゃちなものだ。こんなもので命を落とした男はとても間抜けで、きっと生きていたところでディミトリのようには姉を支えてやれなかっただろう。姉は愚かだ。マフィアであるディミトリが見返りを求めない愛をもって支え続けていたのに、よりにもよってそのマフィアの軛の象徴――すべての狼たちに首輪を嵌めたミズ・シチリアの傀儡である裁判官などを選んだのだから。姉が誰も選ばないならそれでよかった、姉がカミサマなどという虚像に恋をし続けるのならそれでよかった。それなのに、はディミトリを裏切った。雨などでは到底消せない炎が、ディミトリの胸の内で燃え盛っていた。
「ああ、よかった。生きていたんですね、姉さん」
の目には何も映らなかった。ただ爆音の名残と激痛だけが、今のを満たしていた。聞き慣れた弟の声がして、の体を助け起こす。動かされることにさえ全身がバラバラになりそうなほどの痛みが走って、けれどの喉からは悲鳴さえ上がらなかった。乾き切った唇が、かすれた呼吸を漏らす喉が、ディミトリに何かを問いかけようとしていた。
「俺も今日だけ、かみさまってものを信じてみることにしたんです。姉さんはかみさまが好きだから、きっと『それ』に委ねた方が幸せだろうと思って」
愛おしそうに、ディミトリはの頬を撫でる。両目を覆うように巻かれた包帯が、ディミトリの出した答えだった。
「姉さんがあの爆発で死んだなら、俺も姉さんの後を追うつもりでした。でも、ほら、姉さんは生きてる。姉さんは許されたんですよ」
最後まで、ディミトリは姉をどうするべきか葛藤していた。それは報いを受けさせるか否かという悩みではなく、如何にして報いを受けさせるかという悩みだった。姉はきっと、ディミトリの手で裁いてもその怒りをわかってくれやしないだろう。よほど自身の手でこの怒りの炎を知らしめてやりたかったが、ディミトリは苦渋の末にひとつの爆弾を教会に仕掛けた。人が一人死ぬか否か、微妙な火薬の量に調整して神を試したのだ。結果として、は生き残った。両目には破片が突き刺さって失明し、腹にも大きな傷を負ったが、こうしてベッドの上で呼吸をしている。ディミトリは姉の体を抱いて煤けた頬に頬擦りをした。
「俺も許されたようです。 ……姉さんにもはらわたがあったんですね」
姉の諳んじていた聖書によると、神を試してはならないらしい。けれどディミトリは教徒ではないのだ。ディミトリが信じていた神さまは、ディミトリを裏切った。その報いに光を奪い、裂けた腹に見えたはらわたを撫でて、ディミトリは姉を許すことにした。憎しみの炎はずっと燃え続けていたが、憎いままでも許すことはできるのだ。それが愛するということなのだと、この姉が教えてくれた。
「でぃ、み、とり、」
薬指を失った左手が伸ばされる。美しい手だ。その手が彷徨っているから首に導いてやったが、姉はディミトリを殺そうとはしなかった。はディミトリが憎くないのだろうか? 怒りはしないのだろうか? 最愛の神の怒りなら、甘んじて受けるつもりだった。
「あな、たを、ゆるしましょう、……ディーマ」
「……姉さん?」
その瞬間、胸の内を灼き続ける炎さえ、いっとき凍り付いたような気がした。幼い時にしか呼ばれなかった愛称に、懐かしさなど覚える暇もなかった。けれどそれはきっと気のせいなのだろう。爆風で焼け爛れた左手を握り締め、ディミトリはその手の甲にキスを落とす。自身は存外、姉を本当に尊いものだと思っていたのかもしれない。けれどもう、全てが焼けてしまったのだ。ディミトリが全て、焼いてしまった。今更後悔などできるはずもなく、ディミトリは姉を一時の安息に預けてやるのだった。
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