※すごく今更なネタ
※ふんわり時代パロ

「私の弟になりませんか」
 姐さん方のように蠱惑な流し目もできず、色香の纏う声も出せず、ただ必死に声をかけた相手はきっちりと詰襟を留めた真面目そうな学生だった。彼が人より目立つのは、不安な日の夕焼けのごとき緋色の髪だろうか。汚れも曲がってもいない黒い帽子のつばの下に見えた双眸も同じ色、よくよく見れば左目が金色に光った気がしてどきりとさせられたが、薄い唇が笑みの形に歪んだのに気を取られて視線はそこから外れた。
「はい、なりましょう」
 簡潔な返事であった。少年とも青年ともつかない彼の声はたいへん賢そうで、静かで、それでいて力があった。喜ぶより戸惑うより先に、彼の言葉の続きを待ってしまった。あの声にはそういう力があるのだ。有無を言わさず、従いたくなるような。背筋に支配という概念を流し込んで姿勢を正させてしまうような。そんな彼に声をかけてしまったのが幸運なのか不運なのか、は知らない。きっと一生、考えることはないだろう。
「では一緒に帰りましょう、姉さん」
 僕の下宿はどこそこです、今日から姉さんも一緒に住んだらよろしい、そんな彼の言葉にただ頷きながら手を引かれた。声をかけた側であるが置いていかれるほどの勢いであった。それでも水の流れるように彼の話すのや手を引いて歩くのは自然で、は半分ぼうっとしながら流されているようでもあった。初めて触れる男(といって良いのか悩むほど綺麗で、男性的な威圧やむさ苦しさは感じさせない人であったけれど)の手は水仕事もするよりよほど手荒れもなく、ただ剣道か何か習い事をしているのか胼胝の感触があった。真面目に学業や武道に勤しんで、正しく生きてきたのだろう。
 たいへんなことをしてしまったとは我に返って震えた。この人は見知らぬ他人が「姉弟になる」という可笑しな話を鵜呑みにして、あまつさえほんとうにしようとしてくれているのだ。とんだ善人だ、対して自分は詐欺師のようだ。「ようだ」ではなく実際騙しているのだ。はひどい罪悪感に駆られた。今すぐ手を解いて、地べたに額を擦り付けて謝りたくなった。それで手を離そうとして、離れない。「あの、」と話しかけようとして、例の双眸と目が合う。にこりと微笑まれる。どうぞと促されるのに、どうしてか言葉が出てこない。喉に「ごめんなさい」が貼り付いて乾いてしまったようだった。そうしては結局彼の家に着くまで、家に着いても、本当のことを言えないままだった。

「姉ができたよ」
 唐突にすぎる赤司の言葉に、反応は三者三様であった。
「おめでと〜、赤ちん」
「赤司くんもとうとう不良の道を……」
「姉ができるとはどういうことなのだよ」
 ただどうでもいい紫原、本来の意味を知っている黒子と知らない緑間である。ちらりと緑間を見た黒子は、純真な彼の耳を汚さないよう慎重に言葉を選ぶ。
「大丈夫なんですか、と君に聞くのも烏滸がましいですが……」
「ああ、君は案外耳年増だったね黒子。問題ないよ」
 一応は心配しているのに耳年増とはまた失礼な返しであるが、この場にいない青峰だの黄瀬だのに比べればまだ可愛い軽口である。女給の仕事はもう辞めているだとか、家でよく働いてくれているだとか、赤司が黒子の心配事を解消してやっている間も緑間は赤司に兄でもいて嫁を迎えたのだろうかと首を捻っていた。
「元々女給の仕事も向いていない人でね。『弟』も僕が初めてだそうだ。運が良かった」
「どちらの運です」
「さあ、僕ということにしておこうか」
「住み込みの家政婦を雇ったのか?」
 ここに来てようやく会話に追いついた緑間である。微妙にずれた勘違いをしているが、知らない方が幸運であろう。この場合はもちろん、緑間の。
「というか、声をかけられたんですね」
「お前に直接雇ってくれと声をかけるとは、恐れ知らずな女性なのだよ」
「恐れ知らずか。臆病なわりに大胆だと思ったけれど、そうとも言える」
「わかっていて頷いたんですか?」
「僕は緑間ほど純粋ではないよ」
「俺は赤司ほど家柄がいいわけではないが」
「それで、その子の何が良かったわけ〜?」
 混沌としていく会話に突如として参加したのは紫原で、その手には大福が握られている。彼が『弟云々』を理解しているかは不明であったが、その彼によって脱線しかけた話題は元の筋に戻った。
「熱烈だと思ったんだ」
 腕を組み、その時を思い出すかのように目を細めた赤司。実際がその時の心情を表したなら熱烈などではなく切実と表現するのだろう。けれど彼の心に残ったのは『熱烈』であった。ならば彼にとっての真実は、切実でも懇願でもなく熱烈なのである。
「すとん、と胸に落ちてきた。いや、刺さったのかもしれない」
「ペンでも投げつけられたのか?」
「緑間君は黙っていましょう」
「気付いたら拾っていてね。家に持ち帰っていた」
「やはりペンの話だろう」
「ミドチンうるっさい……」
 大福の粉のついた手でぐいぐいと緑間を押しやる紫原と、大真面目に話を聞いているつもりだったので顔を顰めて押し返す緑間。子ども二人の喧嘩が始まったのを尻目に、黒子は赤司に問うた。
「端的にまとめると、如何わしい喫茶店の女給にならざるをえないほど追い詰められていたであろう女性に職と家を与えた美談ですが」
「いや、もっと簡潔だ。僕に姉ができた」
「それでいいんですか?」
「最初からそう言ってるだろう」
 ああこれは惚気だな、と黒子はようやく気付く。気付かなければこのまま「そうですか、良かったですね」と帰れたのに、気付いてしまった。一応の反抗として視線で辞去を求めるも、当然笑顔で却下される。
「可愛い人だよ。弟になってくれと頼んだその帰り道で、もう土下座でもして忘れてくれとでも言い出さんばかりだった」
「赤司君に声をかけてしまったんですからね。同情しますよ」
「毎日必死に働いてね、立派なものだよ」
「不良少女を更生させたわけですか」
「とんでもない、元から『悪い子』ではないだけだ。そうでなければ琴線にも触れない。それよりも僕としてはもう少し遊んでほしいくらいでね。観劇や純喫茶に連れ出そうとしているんだが、顔を真っ青にして断られるものだから……いい息抜きを知らないか?」
「僕にそれを聞きますか」
「こうした話の様式美だろう」
 つまるところ赤司はただ「姉さん」の話をしたいだけで、黒子の意見など端から必要としていない。まったくいい迷惑であるが、日頃から傲慢なほど落ち着き払っているこの学友が浮かれている姿も珍しく、もう少し茶番に付き合ってもいいかという気持ちにもなったのだった。
「謝らせてあげた方がいいですよ」
「知っている」
「そうでしょうね。でも、その気はないんでしょう?」
「天女の類の話を知っているか? 黒子」
「赤司君は脈絡というものを覚えた方がいいですよ」
「必要な場ではそうしているさ。ともかく、そういうことだ」
「僕は君が買い被るほど賢くはないんですが……」
「つまりある日突然訪れた幸運というものは、そのきっかけを返してしまうと手元から離れてしまう。そうして二度と訪れはしない。だから僕は彼女に謝らせない。そういうことだ」
 天女の羽衣しかり、いわば赤司の意図的な「勘違い」との罪悪感から生まれた姉弟ごっこは、運命というには脆すぎるのだ。簡単に「他人」に戻るには惜しい人だと、そう赤司が考えているうちはの罪悪感は解消されないまま募っていくのだ。ある意味自業自得であるが、それにしたってとんでもない鬼札を引き当ててしまった「姉君」に、黒子はいたく同情した。
「――征十郎さん、ご歓談のところすみません」
 噂をすれば影である。おずおずと襖を開けて顔を出したに、赤司はにこりと微笑んだ。
「どうしました、姉さん」
「御学友の皆さんも、夕飯はこちらで……?」
「あー、俺大盛りねー」
「俺は遠慮する。気遣い感謝するのだよ」
 は影の薄い黒子には気付いていないようであったし、もう十分話には付き合っただろう。緑間と共に帰るつもりで帰り支度を始めるが、そこで初めて気付いて驚いた声を上げたに黒子は苦笑した。「赤司の姉」と言われれば十人のうち十人が首を傾げるであろう、平凡な人である。どこにでもいる髪や目の色、可愛らしい部類ではあろうがよほど印象に残らない顔立ち。それでも赤司にとってはこの人が突如舞い降りた幸運なのだ。どちらが捕まえる側で、どちらが捕まえられたのやら。それを問うたところで、あの「僕ということにしておこう」という小憎らしい言葉が返ってくるに決まっている。それでも何だかんだ赤司と「姉弟生活」を送れているようだし、そも赤司に声をかけれた時点で見た目にそぐわぬ剛胆さ――或いは図太さを持ち合わせているのだろう。まあ何にせよ、仲良くやってくれることに越したことはない。存外柔らかい笑顔を「姉さん」に向けている赤司を横目に、黒子はようやく惚気話から解放されると軽く肩を回したのだった。


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