その日は、どうにも面白くない朝だった。
「いない?」
鸚鵡返しにきょとんと首を傾げたに、ビクターはおずおずと頷く。彼は、主が不在の部屋をノックしようとしたに親切心からそれを教えたのだ。びくびくとした様子を隠し切れていないのは、相手が「ハンター」であることよりも「」であることに原因が偏っている。荘園の新入りとしてウィリアムやナワーブによく絡まれている彼は、「天使さま」の恐ろしさを嫌というほど聞かされていた。もっとも、それに誇張が含まれていないと言うと嘘になるのだが。名のある芸術家が手がけた一級品の彫刻のごとき麗しさと、その美しさ故の冷たい雰囲気。柳眉を僅かに顰めただけでも、その美貌は見る者に威圧を与える。足に押し付けられる愛犬の鼻先の生暖かさに励まされながら、ビクターはどうにか言葉の続きを紡いだ。
「昨日から、言ってました。明日は暫く空ける、って」
「……そう」
「よ、余計なお世話でしたら、すみません」
「いえ。感謝するわ」
全くそうは聞こえない礼を告げられたビクターは、冷水を打ちつけられたようにぴしゃんと飛び上がる。カツカツと硬質なヒールの音を響かせて去っていくの背中が見えなくなると、ビクターはほうっと深い安堵の溜め息を吐いたのだった。
誰もいない荘園の裏庭で、はひとりベンチに腰掛けぼうっとしていた。ここはエマの「最愛」がいる方の庭ではないから、比較的静かに過ごすのに向いている。今日は珍しくふたりともゲームの予定が入っていない日だから、ここで一緒に時間を過ごそうと思っていたのに。約束していない自分が悪いのは、百も承知であるが。けれどイソップは大抵いつでも部屋にいるし、でなければあの妙に賑やかな集団に引っ張り込まれている。それが二人の、暗黙の了解のようなものだと思っていた。訪ねれば、迎えてくれることが。
(よくよく考えれば、そうでなくてむしろ当たり前ね)
イソップがそこにいる日常に、慣れすぎていたのだろう。贅沢なことだと肩をすくめると同時に、当たり前のように享受していた幸福を改めて実感する。愛する人がそこにいて、振り向いてくれて、名を呼んでくれる。そんな些細で贅沢な幸せはやはり、自分で捕まえに行かなければ。元より待っているだけというのは、性に合わない。ぬるま湯のような暖かい光の射し込むベンチから立ち上がり、は裏庭を後にする。その背筋は、いつものように美しく真っ直ぐに伸びていたのだった。
201028
雪冠さんとイソガブに感謝を込めて