「言えばいいのに」
 突然どこからともなく現れて、脈絡のないことを言う。オーエンは、本物の幽霊であるホワイトよりもよほど幽霊らしい存在だった。もっとも、魂を隠しているオーエンもある意味幽霊のようなものなのかもしれないが。
「言えばいいって、何のことだ?」
 カインはオーエンを警戒してはいるが、口も聞きたくないというわけではない。同じ賢者の魔法使いとして、ある程度の相互理解と協力関係を築かなければならないとは思っている。そのニヤニヤと愉しそうな表情を警戒しながらも、一応は会話を繋ごうとした。
「『帰らないで』」
「……?」
「賢者様に。言えばいいのに」
「そんなこと、どうして言わなきゃいけないんだ」
「だって、思ってるんでしょ。帰らないでほしいって。ずっとここにいてほしいって。思ってることは、素直に言った方がいいんでしょ?」
「そりゃ、この世界を気に入ってくれたらいいとは思ってるけどな……」
 違うだろ、とカインは頭に手をやる。何が違うの、と問いかけるオーエンの目は、もう笑ってはいなかった。煮え切らないカインの反応が、もうつまらなく思え始めているのだろう。オーエンのおもちゃにはならない、そう思えば自分の答えが正解だったのかもしれないが。
「賢者様が帰りたいって思ってるなら、無理に引き留めるようなことを言っても仕方ないだろ」
「ふーん……騎士様はそれでいいんだ?」
「やけに突っかかってくるじゃないか、オーエン」
「だって、騎士様が可哀想だから」
「可哀想だって?」
「そう。この世界のことも、賢者様のことが大好きな騎士様のことも、みんなみんな放って帰っちゃってもいいだなんて」
「…………」
「思ってないくせに」
 オーエンのものである赤い瞳と、カインが奪われた黄色い瞳。並んで見上げてくるその色を鏡合わせに見返して、カインは溜め息を吐いた。
「この世界は賢者様の世界じゃないって、よそ者だって賢者様を虐めたのはお前だろ、オーエン」
「冷たいことを言うんだね」
「お前がな。けど、賢者様に帰る世界があるのは事実だろ?」
「帰ってもいいの?」
「賢者様が帰りたいなら……」
「騎士様は、賢者様なら誰でもいいんだ? あの賢者様じゃなくても、『賢者』の力を持っていたら誰でも? 一緒に過ごしたのが誰だって良かったんだね、酷いなぁ」
「……そういうお前は」
「僕? 賢者様なら誰でもいいに決まってるよ。誰だって変わらない。繰り返し、厄災と戦わされるだけ。誰が賢者だって、変わらないからどうだっていいよ」
 ニヤニヤと、オーエンの顔に笑みが戻ってきている。嫌な流れだと、カインは顔を顰めた。どうせ、オーエンの言葉はその場任せの戯言だ。わかっているのに、反応してしまう。ではなくても誰だっていいだなどと、そんなこと。
「優しい賢者様だよねえ。いつ自分がいなくなってもいいように、次の賢者様が僕たちとの関係に困らないように、賢者の書を作るんだってさ」
 カインの元にも、は賢者の書に記すべきことを尋ねに来た。そう、優しい子だ。そして、いっそ残酷なくらいに自分の立場を弁えすぎている。あくまでこの世界にとって必要なのは「賢者」にすぎないのだと、「」ではないと理解してしまっているから、そんな優しさを見せる。この世界には、「賢者」がいさえすればいい。では、なくとも。
「破いちゃえばよかったんだよ」
「何……?」
「そんなもの必要ないって、『様』がいてくれればいいって、賢者の書を破いちゃえばいいんだ」
 クスクスと、愉しそうに笑う。子どものように、無邪気に。
「帰るなんて言わないでくれって、甘えればいいのに」
「……そんなことを、俺は思っていない」
「本当に?」
「ああ、本当だ」
 いつものように、「つまらない」と臍を曲げてどこかに行くだろう。そう思ったカインの予想を裏切って、オーエンは腹を抱えて笑い出した。ケラケラと、心底愉快でたまらないといったふうに。
「……賢者様、帰れるといいね」
 笑いすぎて零れたらしい涙を拭って、オーエンはにこやかに目を細める。あれだけを引き留めるように唆しておいて何を言うのかと思えば、オーエンは三日月のように口の端を吊り上げた。
「騎士様は、賢者様が帰るまで自分の気持ちもわからないんだ。絶対に届かない場所に賢者様が帰ってしまってから、『帰らないでほしかった』って馬鹿みたいに泣くんだよ。楽しみだな」
「お前な……」
「賢者様、早く帰れるといいね。手伝ってあげようかな」
 ひとしきり笑ったオーエンは、おどけるように身を乗り出してカインの表情を覗き込む。そこに何を見出したのか、ひどく満足気な顔をしてオーエンは姿を消したのだった。
 
200611
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