何でもいい、そのきらきらとした瞳からひとつでも奪ってしまいたかった。お兄ちゃんお兄ちゃんと無邪気に駆け寄ってくる、幼い妹から。かっこいいと、嘘偽りない純真な憧れは無様に負けを迎えるキバナの試合に向けられている。その綺麗な憧れがせめて勝者であるダンデに向けられていたなら。或いは、この言葉が無責任な慰めや励ましであったなら。それならキバナは、ここまで惨めな気持ちにはならなかっただろう。小さな妹は本心から、兄を慕って賞賛していた。
「お兄ちゃん、キバナお兄ちゃん」
「どうした? 可愛い妹よ」
「サインがほしいの、お兄ちゃんの」
ぐ、と笑顔が引き攣りそうになるのを堪える。この小さくて可愛らしいファンがキバナのサインを求めてきた第一号なのだと、もじもじとキバナのリーグカードを差し出す妹は知るまい。一番になれないキバナの一番を、この無垢な妹は奪っていこうとしているのだ。何も知らない妹は、悪くない。悪くなければ、許されるのか。このどこまでも稚く純粋な好意で、キバナの劣等感は爆発寸前まで追い詰められていた。
「なら、お兄ちゃんと約束だ」
「やくそく?」
「はこれから、ポケモンバトルをしちゃいけない。ポケモンを捕まえてもいけない。ポケモンに近付かない。それが守れるなら、オニイサマのサインをやろう」
「ポケモン、だめなの?」
「ああ、ダメだ。じゃないと、お兄ちゃんはどこか遠くに行っちゃうぞ。一生会えなくなる」
軽い気持ちだった。意地悪と無理難題で、妹のお願いを遠回しに諦めさせようとしたのだ。けれど、不安そうに表情を翳らせた妹はそんな無茶に頷いてしまったのだ。瞳を潤ませ、怯えたように身を縮こまらせたくせに「わかった」と頷いた。キバナは、子どもの世界の狭さを見くびっていたのだろう。
「お兄ちゃんの言うこと、ちゃんとまもるよ……! だから、」
どこにも行かないで。そう言って、妹はキバナのユニフォームの裾をぎゅうっと握り締めた。必死に自分に縋る妹の可哀想な姿を見て、背筋にぞくりとよくない熱が走る。その時キバナは初めて、この妹にどうしようもない愛おしさを抱いたのかもしれなかった。
***
「くんはポケモンを持たないのか?」
「悪いなダンデ、こいつはポケモンが苦手なんだ」
わしわしと、大きな手がの髪をかき回す。快活で優しくてかっこいい兄が言うには、はポケモンを怖がっているらしい。ぬいぐるみや画面越しに見る分には平気なのだが、兄の手持ちですら近寄ろうとすると体が強ばるのだから兄の過保護も当然かもしれなかった。どうしてポケモンを恐れているのか、自身は覚えていない。キバナによると、小さい頃に野生ポケモンと遭遇して怖い思いをしたからなのだそうだ。いつだってを一番に守ってくれるキバナが「ポケモンに近付いちゃダメだぞ」と言うのだから、それに逆らうこともなく生きてきた。ポケモンがいなくても、周りの同い年の子どもたちがチャレンジャーとして旅立ってもは寂しくない。誰よりも優しくて大好きな兄が、一等を大切にして溢れんばかりの愛情を注いでくれたから、不満に思うことなどなかった。
「くんもポケモンが好きだろうに」
額縁に入れて飾っているキバナのサインを見て、ダンデは不思議そうに首を傾げていた。「好きと苦手は矛盾しないだろ」と、キバナは呆れたように肩を竦める。ダンデはこれから、弟とその幼馴染にポケモンを渡しに行くらしい。良かったら一緒にポケモンを選ばないかと、誘いに来てくれたらしかった。ダンデがナックルシティを後にして、見送りから帰ってきたキバナはこっそりとに囁いた。
「お兄ちゃんもな、昔お前のことが好きで苦手だったよ」
「そうなの?」
驚くと同時に、少しだけ背筋がひやりとする。大好きな人に苦手と言われるのは、過去形であっても好意が並列でもどきりとさせられるものだ。けれどを見下ろすキバナの顔はとても優しくて穏やかだったから、安心してその手に頬を擦り寄せた。
「ああ。でも今はお前のことが本当に大好きだ、わかるだろ?」
頷くことすら必要ないほど、その瞳には慈愛が満ちていた。返事の代わりに抱き着いたを軽々と抱き上げて、キバナはぐりぐりと頬を押し付ける。愛おしくてたまらないと、軽い痛みとそれ以上の温もりが伝えてくれていた。
「お前のことが大好きだよ」
本当に大好きだ。そう呟いた兄は、心の底から安堵しているように見えた。何に安心しているのか、何に脅かされていたのか、にはわからない。けれどを守ってくれる兄をまた、も一番に守りたかった。だからそっと、兄の温もりに寄り添う。才能を捨てて憧れを選んだことを、きっとは一生知らずに生きていくのだろう。
220611