「ちゅーして、甘利」
仰せのままに、そう嘯いて甘利はの手を取りキスをする。けれど強請った当人のといえば、不機嫌そうな表情でむすっと頬を膨らませた。
「ひどいのだわ、甘利。そういうことじゃないって、知ってるくせに」
「なんのことでしょうか、お嬢様」
「もう……もう!」
ぷくっと膨らんだ頬に甘利が二度目のキスを落とすものだから、の機嫌はますます下降していく。膨れた真っ白な頬は、餅かマシュマロのようだと思えて甘利は和んだ。自分が不機嫌を露わにしているにも関わらず妙ににこやかな甘利に、の決して長くはない導火線に火が点いた。
「ひどい、ひどいのだわ! 甘利ったら私で遊んでいるのでしょう!」
「いえ、そのようなことは決して」
「嘘をおっしゃいな! この緩みきった頬に何か釈明はあって?」
「あたた、痛い、痛いですお嬢様」
「他に言うことがあるのではなくて~?」
ギリギリと持てる力の精一杯で頬を抓るに、甘利は堪らないといったふうに両手を挙げる。は気の済んだところで手を離しはしたものの、じとっとした目を甘利に向けた。
「……甘利みたいな悪いひと、私見たことがないわ」
「それは大変ですねお嬢様。この世の中には俺以上に悪い男など腐るほどいますよ」
「もう一度頬を抓られたいのかしら」
婉曲に世間知らずだと言われたは、再び甘利の顔に向かって手を伸ばす。けれど甘利はするりと身を躱し、茶をお持ちしましょうとスマートに微笑んだ。
「……気障なのだわ」
腰に手を当て、は甘利の背中を見送る。和服の似合わない男だと、ふと思った。足元に擦り寄ってきた飼い猫を抱き上げて、は語りかける。
「ねえ、知っていて? 甘利は昔、スパイだったのだそうよ」
言われてみればそんな気もするけれど、想像もつかないわ。は溜め息を吐く。紳士の偽装をして、世界を縦横無尽に駆け回るスパイ。背広は甘利にさぞかし似合うだろうが、そもそも外のことをよく知らないにとって甘利の話は御伽噺と大差なかった。
甘利は、父がどこからか連れてきた使用人だ。仕事がなくなって暇そうにしていたという理由で、のお目付け役を任ぜられた不憫な男だ。厳格な父が連れてきたとは思えないほど柔軟な思考を有する男で、軽薄に笑うかと思えば時折深く思案する様子も見せる。外界との接触を持たないが甘利に夢中になるのは、必然のようなものだった。そして甘利は、気まぐれかもしれないがの好意に応えてくれた。それはの父がかつての甘利の上司で、現在の雇い主であるがゆえの追従かもしれない。父に言いつけられているであろう自分の監視に、その立場が便利であるからかもしれない。それでもは、甘利が好きだった。
「きっとお父様も甘利も、私のことを愚かだと思っているのだわ」
縁側に腰掛けて、膝の上に下ろした飼い猫を撫でる。猫が飼いたいと漏らしたその日のうちに、甘利がどこからか連れてきた猫だ。闇のように真っ黒な、けれど人懐っこい猫だった。
「お前と甘利と、何が違うのかしらね」
の気を引いてこの屋敷に閉じ込めておくための、鎹に過ぎない。この広すぎる純和風の屋敷から逃げ出したところで、四方八方深い山なのだからどこに行けるわけもない。それが解らないほど愚かではないと思っているつもりだが、父が何事も徹底する性格であるというのは嫌というほど知っていたので、今更反抗する気も起きなかった。父は今、何かしら新しいことを始めようとしているらしい。甘利はきっと、その準備が整うまでの暇潰しのようなものでここにいるのだろう。
「甘利はきっと、私を置いていくわ。それも、平気な顔をして。私はいったい、どこに行けばいいのかしらね?」
「ひどいですね、お嬢様。俺はどこにも行きませんよ。貴方を何処にも行かせもしません」
背後から突然声がするのは、未だに慣れない。尾を踏まれた猫のようにびくっと飛び上がると、地面に投げ出された猫が不機嫌そうな鳴き声を上げて受身をとった。そのまま歩き去っていこうとする猫を追おうとするも、甘利がの肩をやんわりと掴んでお盆に乗せた茶菓子を差し出す。振り向きもしない黒猫に、は裏切り者、と小さく呟いた。
「ひどいのは甘利だわ、心にもないことばかり。本音はお父様がこわいんでしょう」
「……まあ、確かに怖いですけどね。貴方が何処かに消えてしまったりしては、死ぬより恐ろしい目に遭わせられそうだ」
「いっそ痛い目をみればいいのよ。そうだ、一度逃げてみようかしら」
「やめてくださいね、お嬢様」
呆れたように玄米茶を差し出す甘利に、はぺろりと舌を出す。一口湯呑を傾けると、ほっと心の落ち着く味が口内に広がった。見飽きるほどに見続けてきた庭に目をやれば、やはり可愛げのない言葉ばかりが口をつく。とんでもない天邪鬼だと自分でも思うのだが、どうしても止められない悪癖だった。
「……甘利は追ってきてくれるのでしょうね。お父様が困るから」
甘利がから目を離さない理由も、父が困るのも、愛情ゆえなどではないことをとうの昔に解っていた。は父の持つ無数の装置のひとつに過ぎないのだ。一生使わないかもしれない罠のひとつとして、こんな馬鹿げた手間をかけて維持している装置の一つ。父にとっては、実子はそんなものでしかない。解っていたから、ここにいた。
「そんなことばかり言われると、泣きたくなってしまいますよ」
「泣けばいいのだわ、本当に私のことが好きだというのなら。私、わかっていてよ。もう子どもじゃ、ないんだもの」
「――」
つんとそっぽを向くと、普段滅多に呼ばれない名前を呼ばれる。驚いて振り向いた刹那、少しかさついた熱が唇を掠めた。何が起こったのか判らずぽかんと硬直しているの後頭部を押さえてぐっと引き寄せ、甘利はの唇に今度はしっかりと自らのそれを重ねる。忽ち真っ赤になって目を見開いたを、鋭い光を宿した瞳で見据えて甘利は囁いた。
「俺の気持ちもわからないようじゃ、まだまだ子どもだ」
更にもう一度、唇を奪われる。甘利の言葉に、一瞬で沸騰した頭がぐらぐらと揺れる。
(……ずるいのだわ)
そう、甘利はずるい。ひどいひどいと言いつつも、そうではなくて。泣きたいほどに性質が悪く、悲しいほどに狡猾だ。それでもいいと思ってしまうのだから、なおのことずるい。
ぽろりと、熱い涙がこぼれ落ちる。その涙に唇を寄せた甘利から、は一生離れられないに違いないのだ。
170526
しば子さんのサイト「或る夜」一周年記念に捧げます。おめでとうございます!