ごめんなさいと、いつだって謝りたかった。こうべを垂れて、地面に額を擦り付けて、誠心誠意詫びたかった。そんなものを望んでいやしないと、そんなことをしたところで何の意味もないと、わかっていたから抑えられただけで。
「無一郎、」
 自分の名前すら忘れてしまっているのではないかと、無性に怖くなって名を呼んでしまう。ものをあまり覚えていられなくなった弟は、きっと今首を傾げたことすら明日には忘れてしまうのだろう。
「姉さん」
 無一郎の姉は、優しくて柔らかくて温かい。それだけで、きっとじゅうぶんだった。誰に言われなくとも、このひとはとても大切なひとだと知っている。無一郎の血潮も、肌も、髪も、心の臓も。彼の細胞のひとつひとつが、のぬくもりとその安らぎを覚えていた。
無一郎の姉は、あまり体格に恵まれていない。生まれついて足が不自由な姉は、いつも這うようにして無一郎の帰りを出迎えた。その姿を見るたびに、このひとが大切だったのだと思い出す。姉、という響きは何度聞いても不思議な感覚を伴って無一郎の胸をざわめかせた。寂しそうな笑顔が切なくて、思い出してあげたいけれど。姉のやわらかな太腿に頭を預けて、優しく髪を撫でられる。無一郎はこの時間が幸せだと呼べるけれど、姉にとってはそうではないのだろうか。この家と姉の存在はどうにかぼんやりと憶えていられるけれど、ふとした拍子に忘れてしまうかもしれない。それでもいつものように「どうでもいい」と割り切ることができないくらいには、この安らぎをいとおしく思っていた。
「姉さん、」
「なあに?」
「呼んでみただけ」
「そうなの」
「うん」
 ふわりと笑う姉のもう片方の膝は、いつも空いている。頭を全て乗せてしまったほうが楽なはずなのに、どうしてかこの体勢がいちばんしっくりくるのだ。姉のもう片方の手は、その脚の上に乗せられているだけだ。それを目にするたび何か思い出せそうで、何も思い出せない。ふわふわと霞む思考の中、ただぎゅっと姉の手を握り締めた。
「…………」
 すやすやと眠りに落ちた小さな弟の重みと、空虚な右の膝。そこにいたはずの、もうひとりの弟。ふたりの弟のことを思うと、とうに涙も枯れた瞳が乾くように痛む。いてもいなくても同じ、そんな言葉がふと頭をよぎった。姉弟の静かでちいさな世界を壊した鬼の暴言は、今でもの胸に深く突き刺さっている。弟は違う、今ここに生きている無一郎も、あの日死んでしまった有一郎も、世界になくてはならない存在だった。たとえ弟が鬼殺の剣士にならなかったとしても、は胸を張ってそう言えただろう。
 ――姉さん、逃げて!
 弟ふたりに庇われて、逃がされて。不自由な足を引きずって、人を呼びに山を下った。蒸し暑い中、土の上を這って。毒虫にも刺されたし、汗で土がどろどろとまとわりついて、一刻も早く助けを呼びたいのに、はあまりに惰弱で蛞蝓のような速さでしか山を下りれない。有一郎の怪我が泣きたいくらいに心配で、鬼に立ち向かっていった無一郎のその後が心配で、弟たちの無事を胸が張り裂けそうなほどに祈りながら切れた手で必死に土をかいた。熱さと疲労で朦朧とする意識を引き戻してくれたのは、涼やかなほどに白いあまねの手で。碌に声も出ないから事情を聞き出したあまねは、人を連れて弟たちの元へと駆けてくれた。産屋敷の娘のひとりに預けられたは、そのままどこかの屋敷へと運ばれて。情けなくも気を失ったが目覚めたとき、有一郎が死んだのだと聞かされた。会わせてもらえた無一郎も、包帯で体のほとんどが覆われていて。有一郎は、無一郎を守ったのだ。無一郎は、ひとりきりで戦って。はただ、生かされただけだった。今もそう、霞柱の身内だからというだけの理由で、分不相応な屋敷にいることを許されて。ほとんど屋敷に戻ることもない無一郎の留守を、守り続けている。昔も今もあの時も、何もできないまま。いてもいなくても、同じ。
「……姉さん」
「無一郎?」
「また、変なこと考えてる」
「っ、」
 起きていたらしい無一郎が、の手を握ってぼんやりとしたまなこを向ける。息を呑んだは、きゅうっと胸が締め付けられるように痛んだのを感じた。下手くそな笑みを作って、なんでもないよと答える。それは有一郎の口癖だった。「姉さんはいいから座ってて」と言われるたびに、自分がいなければ弟ふたりの暮らしはもっと楽になるのではないかと考えて、そして。「変なこと考えないでよ」と見透かされたように有一郎に窘められた。
「無一郎、あのね、」
「うん」
「……無一郎」
「うん、姉さん」
 無一郎の手を、両手で握り締める。刀を握り二ヶ月で柱に登り詰めた無一郎の努力を、はずっと傍で見てきた。見ていることしか、できなかった。たくさんの人の命を背負って、柱としての責務を背負って。この上、有一郎の魂まで背負おうとしているように見える。それほどまでに、今の無一郎の言動は有一郎を彷彿とさせた。
「姉さん、僕、姉さんが好きだよ」
 にこにこと、無垢な笑みを浮かべる無一郎。稚いその笑みは、紛れもなく無一郎のものであるのに。そう、ここにいるのは無一郎だ。無一郎だけの、はずだった。
「いなくならないでね、姉さん。ここにいてね、僕はすぐ忘れちゃうから……ここにいてくれないと、きっとわからなくなってしまうんだ」
「うん、無一郎……ここに、いるよ」
 小さな手は、どれだけの鬼を殺してきたのだろう。どれだけの命を、助けてきたのだろう。きっと無一郎は立派な人間だ。人々を守れる強い人間だ。だけどきっと皆を守る無一郎のことを誰も守ってやれないから、だから有一郎はあんなに怒っていたのだ。あんな態度をとってまで、半身を守ろうとしていたのだ。
「もっと呼んでほしい」
「うん、無一郎」
 忘れないように。全てを背負い込んでしまわないように。祈るように、手を包み込む。嬉しそうに笑う弟は、今手を握られて笑ったことも忘れてしまうのだろうか。理由は覚えていなくてもいい、些細な出来事をいくら忘れてしまっても構わない。それでもどうか、安らいだことだけは覚えていてほしいと、願った。
 
190415
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