「それじゃあ、いってきます。姉さん」
「うん……いってらっしゃい、無一郎。気をつけてね」
 怪我をしないでね、とか。忘れずに帰ってきてね、とか。いつ帰ってくるの、とか。かけたい言葉なら、山ほどあった。鬼と戦うときに無傷を念頭になど置いていられないだろうし、一番記憶のことで不安なのは無一郎本人だ。任務がいつ終わるのかなど、無一郎だとて知りたいことだろう。たくさんの我儘が、口を突きそうになる。無一郎はそれを優しさや心配だと言ってくれるけれど、には自己満足だとしか思えなかった。だから、口を噤む。無理しないでと、ただ玄関まで見送りに出ることすら心配してくれる優しい弟に、自分の我儘まで背負わせたくはなかった。
「痛そうな顔してる」
「え?」
「姉さん、どこか痛いの? 薬が必要? 人に言って買ってこさせようか」
「……ううん、大丈夫。薬は必要ないの、無一郎」
「でも、痛そうだよ」
 誤魔化せや、しないのだ。いくら言葉を呑み込んだところで、聡い弟はの表情から葛藤を汲んで心配してくれる。それが嬉しくて悲しくて、は胸の痛みを堪えながらも自然と笑うことができた。
「姉さんはね、無一郎が可愛いの。可愛くて仕方ないの」
「可愛いと、痛いの?」
「痛いのとは、少し違うの。怪我でも病気でもないから、薬じゃ治らないのよ、無一郎」
「どうしたら、治る?」
「……無一郎が、」
「うん、」
「無一郎が、笑ってくれたら」
 本当は、早く帰ってきてほしい。無事に帰ってきてほしい。けれどその言葉が、もし無一郎の枷になってしまったらと思うと怖くて堪らない。無一郎は、優しい子だ。の願いを覚えている限り叶えようとしてしまう。もしの不用意に発した言葉のせいで、無一郎が怪我をしたら、帰ってこなくなってしまったら。そう思うと、先のことなんて願えない。今この時だけのことしか、願えなかった。
「……姉さん、もう痛くない?」
「うん、ありがとう、無一郎」
 ふにゃっとした笑みを浮かべた無一郎が、に抱き着く。切なさを堪えて無一郎を抱き返し、もどうにか笑みを作った。
 ――もう少し、自分の望みを口にしてはどうかな。
 産屋敷からの手紙には、そう書かれていた。いくらが拙い隠し方をしたところで、あの現人神のようなひとには簡単に見抜かれてしまうのだろう。産屋敷は、優しくて、少しだけ怖い。いろんな人を導いて、勇気づけて、自尊心を与えてくれる。と無一郎が生きているのだって、彼のおかげだ。何ができるわけでもないは、いくら彼に頭を下げたとて足りないのだ。鬼を殺せるわけでもなく、しのぶにいくらか医学や薬学を教わっているけれど精通しているとは言い難い。そんなが無一郎の傍で姉として生きていられるのは、ひとえに産屋敷の温情に他ならない。それでも時々、怖くなるのだ。見返りを求めない優しさなど、本当の善人か狂人しか持ち得ない。産屋敷はそのどちらでもない。むしろ、見返りを求められた方が安心するほどだ。けれどは何も求められない、何もできないから。それなのになぜ、柱である無一郎の傍にいることを許されているのだろうと怖くなる。は考えてしまうのだ、がここにいられる理由を。無一郎の帰る場所として、無一郎が鬼殺隊に帰るために、ここに留め置かれているのではないかと。
(それこそ無意味な憶測、だけれど)
 そんな価値にはにはないと、自分自身が誰よりもよくわかっている。いっそ無一郎の生きる枷になれたら、どれだけ良かっただろうか。無一郎はがいなくても鬼殺隊に帰ってこられる。弟は鬼を憎んでいる。記憶そのものは失っていようと、鬼という種に抱いた強い怒りを細胞の一つ一つに刻んでしまっている。無一郎が忘れようと、無一郎に助けられた人々はそのことを忘れない。無一郎には、もうとっくに居場所ができていた。など、きっといてもいなくても変わらない。けれど産屋敷は、の抱いている僅かな不信感も自嘲も、手に取るようにわかっているのだろう。それでいて、「それも君たちに必要なことだよ」と肯定してしまうのだろう。脚の悪いの負担にならないように作られた家屋、この家と何不自由ない生活を与えてくれたのは産屋敷だ。溺れるような優しさが、少しだけ怖かった。
「……!」
 とっとっとっ、と軽い足取りで駆け寄ってくる弟を、玄関先で抱き留める。玄関に座るに頭から滑り込むようにして抱き着いた無一郎は、の胸に顔を埋めて幸せそうに息をした。
「ただいま、姉さん」
「おかえり、無一郎」
 無事に帰ってきてくれてありがとう、姉さんと呼んでくれてありがとう、その思いを胸には無一郎をぎゅうっと抱き締める。嬉しそうに目を細めた無一郎は、「姉さん、いい匂い」と頬を緩めた。
「……!」
 急にばっとから離れた無一郎が、ぺたぺたと確かめるようにの顔を触る。くすぐったいながらも好きなようにさせて首を傾げるに、無一郎は真剣な顔で尋ねた。
「姉さん、どこも痛くない?」
「……うん、痛くない。痛くないよ、無一郎」
 出かける前の、他愛もないやり取り。まさか覚えてくれているとは思わなくて、は胸がいっぱいになる。なんて尊い、ことだろうと。ただ無一郎が帰ってきてくれるだけで泣きたいくらいに嬉しいのに、無一郎の優しさに本当に泣いてしまう。覚えていてくれてありがとうと、何度も繰り返すに無一郎は本当に嬉しそうに笑う。
「僕はね、姉さんがここにいてくれるから帰ってこられるんだ」
 だからどこにも行かないでと、ここにいてねと、無一郎はの柔らかな胸に頬を擦り寄せた。
「姉さん、だいすきだよ」
「無一郎……」
 無一郎の拠り所が自分であることを、思い知らされる。きっと無一郎のためにものためにも、今の関係は良くないに違いない。それでも、仄暗い幸福感を認めざるを得なかった。
「お土産があるんだ、姉さん。おまんじゅう食べよう」
「うん、お茶にしようね、無一郎」
 ゆっくりと立ち上がって壁伝いに歩くを、無一郎が支えて歩いてくれる。「僕が忘れても、姉さんが覚えていてくれるから」と旅先で見聞きしたことを話してくれる無一郎に、うんうんと相槌を打った。記憶を保つことさえ不安定な弟が、と話したことを覚えていて口に出してくれたことが嬉しくて。
「姉さんが嬉しいと、僕も嬉しい気がする」
 の手を取って、柔らかく笑う無一郎は、の優しい弟だ。外では合理的を突き詰めた思考が冷たいと思われていることも、畏怖を込めた眼差しで見られていることも、は知らない。霞柱の時透無一郎は、には遠い存在だった。無一郎も自覚があるのかないのか、の前だと殊更に無邪気に振る舞うから。が思うほど、無一郎は儚く脆い存在ではない。けれどにとっては無一郎は今でも、一人では寝られないままの小さな無一郎なのだった。
 
190507
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