――何も。できないのが悲しいのだという悩みは、ひどく贅沢なものだろう。何もできないくせに、何不自由なく生きることを許されている。これを幸福と呼ばずして辛苦と呼ぶ自分は、罪深い人間に違いなかった。
さんはもう少し、自分に自信をお持ちになっては?」
 と並んで痛み止めを作りながら、しのぶは柔らかく微笑んだ。無一郎の意向もあってあまり霞柱の屋敷から出ることのないは、せめて少しでも役に立ちたいと思って始めた医学の勉強も然程進められずにいることに複雑な気持ちでいた。そう思い詰めてはいけないと、しのぶは言ってくれるけれど。
「まだ、何も足りないんです。もっとがんばらなきゃって、」
 みんな、ここにいることを許してくれるけれど。が居心地の悪さを感じないようにと、役目を与えてくれるけれど。それでもはいつだって無力感を拭いきれずにいる。誰かの助けを借りずには生きられないから、助けてくれる人たちの役に立ちたい。何の役にも立てないのなら、せめて誰の迷惑にもならないようにひとりで消えてしまいたいという気持ちすらある。そうした方がいいとさえ思っていながらも、無一郎のことを思えばそれもできない。たったひとりの家族は唯一の守るべきものであると同時に、の唯一の心残りでもある。の膝に頬を擦り寄せてにこにこと純粋無垢な笑みを浮かべる無一郎を独りになど、できるわけがなかった。
「……さんは、さんが思う以上に必要な人ですよ」
「しのぶ様は、優しいのですね」
さんの方がよほど、」
 誰に、必要とされているのか。しのぶがあえて言葉にしなかった部分を読み取ってなお、しのぶは優しいとは言う。しのぶは個人としてももちろんや無一郎に好意や仲間意識を抱いてはいるが、それ以上に鬼殺隊の霞柱とその心を繋ぐ姉としてふたりを大事にする気持ちの方が強い。致し方ないとはいえそれを知っていてなお微笑むは少し、しのぶにとっては眩しかった。
「どこに行ってたの、姉さん」
 屋敷へと戻ってきたを迎えたのは、ぽすりとした柔らかい衝撃だった。その頬には切り傷だろうか、うっすらと赤い線が引かれていて。心臓が嫌な音を立てて、「どうしたの?」と無一郎にわかりきったことを問うてしまう。鬼と戦った傷だ、大切な弟は今日も誰かを守って傷付いたのだ。慌ててその傷に触れないように頬を抑えたに、無一郎は「ああ、これ……」とどこかどうでも良さそうに瞳を動かした。けれど、ふと思い直したようににこりと笑う。
「ちょっと切っちゃったんだ、手当てしてもらってもいい?」
 もちろんと、は頷く。弟の白い頬から手を離して、救急箱を取りに行く。名残惜しそうに自らの頬を押さえた無一郎の動きは、振り向いたには見えていない。姉のたおやかな手が触れていた頬を包む込むように抑えて、無一郎はどこか遠くを見るようにの小さな背中を追いかけたのだった。
「……姉さん、今日も胡蝶さんのところに?」
「ええ、今日は痛み止めの作り方を教わっていたの」
「そっか」
 無一郎の声はいやに乾いて響いて、はふるりと背中を震わせて振り返る。けれどそこにはいつものようににこにこと幼い笑みを浮かべる弟がいたから、きょとんと首を傾げたまま薬箱を手に取った。
「無理しちゃだめだよ、姉さん」
「無理なんて、」
 無一郎の方が、よほど。薬箱を抱えるの手に重ねられた、無一郎の手。家事での手が荒れることすら厭う無一郎に守られた無力な手と、多くの鬼を斬ってなお自らに厳しい鍛錬を課し続ける硬くなった手。生きる世界が違うのだと、その手の違いが示しているようで。
「姉さんがいないと、たぶん僕はけっこうだめみたいだから」
「そんなこと……」
「だめなんだよ、きっと」
 無一郎の手が、そっとの頬に触れる。「だめでいさせて」と囁いて、無一郎は掠めるようにに口付けた。記憶のない無一郎にとっては形のある「守るべきもの」であり、「帰る場所」であり、「愛するもの」なのだろう。いつ戻るともしれない記憶よりよほど確かな、無一郎の繋がり。失ってはならないのだと自分に言い聞かせて、もっと確かで深いものが欲しくなる。手を繋いでも足りない、抱き締めても足りない、口付けても足りない。ならどうすればその形は確かなものになるだろう。無一郎の姉は、いつまで無一郎だけの姉でいてくれるのだろう。無一郎はまだ、その答えを知らなかった。ただ、姉の柔らかい手のひらがそこにあることに無性に安堵した。
「姉さん、すき」
 柔らかくて、白くて、無一郎よりも少し体温は低い。頬をすり寄せると、少しだけ薬草の匂いがする。無一郎のあどけない仕草に応えるように、は無一郎の頬を優しく包んで撫でてくれる。これはきっと幸福の形だ。幸も不幸も霞の彼方に置き去りにしてしまった自分が、今唯一確かめられる形。だからこの手は、きっと離してはならないのだろう。
「姉さん、あのね」
 するりと、今度は無一郎の手がの頬を包み込んだ。ちうっと可愛らしい音を立てて、の薄紅色の唇に吸い付く。手当てがまだなのにとは思うが、結局はただ身じろいだだけだった。
「好きな人同士ですること、俺知ってるんだ」
「……?」
 無一郎の手が、素早くの手首を捕らえる。そのまま体重をかけるように押し倒され、は驚いて無一郎を見上げた。
「……、っ、」
 だめ、その言葉が思わず口を突きそうになっては反射的に唇を噛み締める。嫌な予感がするのだ。それでも、だめと言えない。に、言えるわけもなかった。
「初めてだし、聞いただけだし、うまくできるかわからないけど」
「……無一郎、」
「大丈夫だよ、姉さん。きっと優しくする」
 懇願するような弱々しいの声に、無一郎はにこりと無邪気な笑みを浮かべる。畳の上に押し倒されて、少しだけ背中が痛い。けれどそれよりも、ばくばくと心臓が煩く鳴り響くほど怖かった。
「あのね、無一郎……あのね、」
「大丈夫」
「無一郎……」
「姉さんは心配しないで、何も怖くないから」
 あまり感覚のない脚に、無一郎の手が触れる。着物越しにわかるほど、その手は熱くて。今にも泣きそうな顔で口を開いたに、無一郎は口付ける。こんなに姉は小さかっただろうかと、無一郎は首を傾げた。
(思い出せないはずなのに)
 何かが違うと。何かが足りなくて、どこか違えているような。そんな違和感を覚えて、無一郎はこめかみに手をあてる。
(何も違わないよ)
 頭の中の声を、振り払う。無一郎は何も違えていない。最愛の姉を、失いたくない。確かなものが欲しい。ただそれだけだ。無一郎はが好きだし、も無一郎のことが好きだ。だから、間違ってなんかいない。ぽっかりと半分、胸の中に空いた穴のような虚しさは、きっと姉との繋がりが埋めてくれる。人と人か足りないものを補い合うなら、無一郎との在るべき形は「こう」だと思うのだ。
「泣かないで、姉さん」
 未知の行為に対する怯えだろうか。既にこぼれ落ちそうなほどの涙が溜まっている目元を、そっと拭う。それを舌先でちらりと舐めて、の帯に手をかけた。
 
190702
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