月の無い晩だった。遠くに任務に出ていた無一郎から明日には帰れそうだという連絡をもらって、弟の帰りが嬉しくてつい食材を買い込んでしまった。には少し重たいその荷を抱えて、夜道を歩く。
(少し、遅くなっちゃった)
ふろふき大根を初めとして弟の好きなものを作ろうと、あちこちに足を伸ばしてしまった。早めに帰って下拵えをしたいと、杖を握る手に力が篭もる。できる限りの早歩きで急ぐの目に、ふと人影が見えて。
「……?」
辻に立つ、青年のような影。今の時代の男性には珍しく、長い髪を頭の高いところで結わえている。腰に刀を帯びていることもあり、まるで侍のようだとは思った。軽く会釈をして、通り過ぎようとする。けれど、それは青年が振り向いたことで叶わなくなった。
「……ッ!!」
振り向いた青年は、鬼だった。目を見開いて凍り付いたように動けなくなったを、静かに見据える鬼。六つ目に、痣。その異様な風体は、かつて姉弟の暮らしを壊した化け物の記憶を一瞬で脳裏に蘇らせた。無一郎が、人々を守るために戦っている怪物。鬼殺隊の柱の姉でありながら、生涯で鬼を目にするのはこれで二度目だ。けれど、大切に隔離されて守られていたにもわかる。この鬼は、有一郎を奪った鬼よりずっと高みにいる生き物だ。愕然と鬼を見つめて震えるを表情の読めない目で見下ろすその鬼の瞳には、上弦の壱という数字が刻まれている。弟から、聞いたことがあった。瞳に数字を刻まれた鬼は、十二鬼月という特別な鬼なのだと。人を多く喰らい力をつけ、無惨に血を多く与えられた鬼。それも上弦の壱ということは、鬼の中で最も強い存在だ。それに気付いて、ざあっと血の気が引いた。十二鬼月でなくとも、鬼殺隊が雑魚鬼と呼ぶような鬼であってもを殺すことなど容易い。けれど、どうしてこんなところに上弦の鬼がいるのかと思うと嫌な予感しかしないのだ。この鬼は、無一郎の居場所を知って殺しに来たのではないのかと。
「継国の、血裔か……」
「つぎ、くに……?」
ふと、その鬼が口を開く。聞いたこともない名を、は震える声で繰り返す。を殺すでもなく、その鬼は心底からの哀れみの色を浮かべてを見下ろした。
「その脚は……生まれついての不具か……」
「……っ、」
「刀を……握ったことも……ないだろう、継国の……私の血胤が……斯様に哀れな娘とは……」
ざり、と砂利混じりの土を踏んで、鬼が近付いてくる。思わず飛び退くように足を引いたは、荷物の重みで杖を取り落とし尻餅をついてしまう。それでもやはりただただ哀れみだけを浮かべている鬼は、地面に倒れ込んだに合わせてしゃがみ込んだ。差し出された手の意味が理解できずに、は地面に手をついて後退る。継国という名に覚えはないが、を血裔だとか血胤だとか呼ぶこの鬼は。何をもってそう判じたのかはわからないが、を自分の子孫だと言っているのだ。そんなはずはないと思うのに、鬼狩りの側に属する自分たちの先祖が鬼などであるはずがないと思うのに、いやに胸がざわめく。の頬に手を当てて無理矢理顔を上げさせた鬼の目が何を見ているのか、にはわからなかった。
「私は……継国巌勝……」
お前は私の子孫だ、とその鬼は告げた。圧倒的な強者を前にただ震えるの頭に、巌勝と名乗った鬼の手が添えられる。頭蓋を握り潰されるのか、首の骨を折られるのか。思わず涙を浮かべて固く目を瞑ったに与えられたのは、痛みではなかった。まるで慈しむように、その手がの髪を撫でる。鬼が人間を殺しもせず、ただ頭を撫でている。あまりに不可解な事態に目を瞠ったの頬にぽろりと落ちた涙を、鬼の指がそっと拭った。
「っ、」
弟の手ではないそれが触れることに、反射的に顔を背けて拒絶してしまう。けれど鬼は気を悪くした様子もなく、ただ三対の目でじっとを見下ろしていた。
「哀れな、娘だ……他人の手を、借りねば……生きることも……儘ならない……」
淡々と告げられた言葉に、嘲りの色はなかった。けれど、それはいつかの鬼の嘲りよりも深く深くの心に突き刺さる。それはいつも、の胸の奥にわだかまっていたものだ。誰かの助けを借りなければ生きていけない自分が、生きていていいのか。優しい弟を助けるべき自分が、弟の存在に救われ続けている。何も知らないはずの鬼の言葉は、あまりに的確にの胸を貫いて。
「ただ生きることも……つらいだろう……」
憐れだ、とその鬼は繰り返した。愕然とするの頬を、するりと撫でる。斬りつけられたように痛む胸が、じくじくと昏い感情を滲ませた。そんな場合ではないのに、逃げなければいけないのに。憐憫が、痛くて。思わずぎゅっと杖を握り締めたけれど、鬼がその杖をするりと取り上げた。ばきりと、鈍い音がして杖が折られる。の骨をも同じように折れるだろうその手で、鬼はそっとの首に触れた。身構える間もなく、とんっとうなじに軽い衝撃が与えられる。
「――……、」
意識がぶつりと落とされる刹那、その鬼が何か呟いていたような気がした。
200114