「めいゆうぅ~……!」
 よろよろと両手を伸ばし、縋るようにとてとてと歩み寄ってくるドクター。まるで親とはぐれた幼子のようなその姿にふっと笑みを漏らし、シルバーアッシュは駆け寄ってきた「盟友」を抱きとめた。小さな身体をぽすりと胸に収めると、見逃した外傷や異常がないかを改めて確認する。まるで迷子から帰ってきたように愛らしくぐずるだが、つい先程までテロ組織に拉致監禁されていたとは思えない呑気な様相だった。
「危ない目には遭っていないな?」
「怖かったよ~……豆大福に詰められて出荷されちゃうかと思った……」
「この私がついていたのだ、無事で然るべきだがやはり元気な姿を見ると安心するものだな」
 この会話は果たして噛み合っているのだろうかと周囲のオペレーターやアーミヤが顔を見合わせるが、本人たちはそれらの視線など歯牙にもかけず無事を喜び合っている。高級そうなスーツにひしっとしがみつくをイェラグ出身のスチュワードなどはぎょっとした顔で二度見していて、ひょっとするとドクターが誘拐されたという知らせを聞いたときより顔色が悪いかもしれなかった。顔を青くしたスチュワードの肩を、カーディとアドナキエルが励ますように叩く。日頃スチュワードに世話を焼かれる彼女たちではあるが、故郷の貴人に非常にフランクな態度を取るドクターを前にして今だけはその問題児ぶりも可愛いものなのだろう。
「……縛られた痕があるな」
「そう、危うくモンブランにされるところだったよ!?」
「あの者共は命が惜しくないようだ」
「経費の使いどころがおかしいよね、こんなに頑丈な縄なんて使わなくても抜けられないのに」
 またもや噛み合っていない会話を繰り広げながら、シルバーアッシュはの服の裾を捲り上げ手首にわずかに残った赤い痕を検分する。服の上から縛られていたこともあり、痛々しいというほどのものでもないのだが。カランドの冷気が遠く離れたこの地に突如舞い降りてきたかのごとき寒気を感じて、ロドスの面々は身震いした。今回ドクター救出の作戦立案を行ったのはと同等なまでに卓越した指揮能力を持つシルバーアッシュだが、作戦を遂行したのは当然ロドスのオペレーターたちだ。「友人」と表現するにはいささか危ういほどに傾倒している彼だが、さすがに他所の指揮においては自国の一件で見せたようなある種のえげつなさは鳴りを潜めている。ケルシーやドーベルマンが胡乱な顔をして許可を出したほど、「穏便で安全な」作戦だったのだ。
 しかし、今身震いする彼らはまさかと思いつつも疑わざるを得ない。彼にとってふざけたほどに不利な条約を呑んでまで希った「友」の危機に瀕して、雪山の策謀家は氷雪の下に潜む雪鬼を呼び出す気なのではないかと。平たく言えば、あの「ちょっと痛そうかな」程度の縄の痕への報復のために、彼「らしい」策謀を巡らせてロドスが関知できない私兵を動かす気なのではないかと。けれど彼らの中で膨らんだ不安や疑惑は、間の抜けた物音によって霧消させられることとなった。
「くしゅっ」
 可愛らしいくしゃみはこの重々しい空気にはそぐわなかったが、きっとそれはロドスにとっても誘拐犯の彼らにとっても福音であっただろう。真顔になったシルバーアッシュが、テキパキとを抱き上げて帰り支度を始める。美しくも危険な雪豹の優先順位がの健康管理に移ったことに喜ぶべきか、呆れるべきか。なんとも言えない面持ちで、ロドスの面々も撤収の準備を始めるのだった。
「あったかーい」
 もふもふだ、と喜びながらシルバーアッシュの尻尾を首に巻き付けて遊ぶ。恐れ知らずは幼子の特権であると思いつつ、シルバーアッシュは「盟友」の好きなようにさせていた。二人の目の前にはチェス盤があったが、シルバーアッシュの膝の上に座って同じ側から対局するという奇妙な構図になっている。けれど執務室という閉じられた空間で、その可笑しさを指摘する者はいない。
「……なかなか鋭い手だな」
「そう? よくわかんないや」
 反対側から駒を動かすハンデは交互に負っているが、はその無邪気さに見合わず時折瞠目するほどの手を打ってくる。無垢でどこか抜けた、記憶を失う前とはまるで別人という評価の。彼女が時折戦場で見せる冷たいまでの冴えは、やはり記憶を失おうとも「ドクター」であることの証左なのだろう。こうして共にチェスに興じるときに垣間見える、何も考えていないような様子からは想像もつかない一手も。とはいえ本人は無自覚なようで、せっかくの賭けの対象に「ケーキ!」と愛らしいおねだりをする様を見れば到底噂に聞くような冷酷無比な指揮官と同一人物とは思えないのだが。
「先日お前に無礼をはたらいた蛮勇の徒だが」
「うん? 蛮友?」
「お前の友は私だろう? それで、あの犯罪者たちだが」
 指先でポーンを弄びながら、シルバーアッシュはに誘拐犯の末路をどう伝えるのが最善か思案する。記憶を失う前はむしろ「同類」であっただろうだが、今はお菓子の家で生まれ育ったような純真さだ。彼女を見ていると現実など小麦粉とバターに混ぜて焼き込み、甘ったるい生クリームで塗装して色とりどりの果物で飾り立ててやりたくなる。真っ赤に熟れた苺など、彼女の瞳とお揃いでより愛らしいだろう。けれどそんなものは錯覚で、ドクターと呼ばれる彼女は庇護など必要としないロドスの大黒柱だ。それがわかっていて守ってやりたくなるのは、シルバーアッシュの私情に他ならない。上機嫌に揺れる雪豹の尾が、するりと細い首を撫でた。
「彼らは、私の元で存分に働いてもらうことにした」
「そうなの? シルバーアッシュは優しいね」
「…………」
「あ、ううん。優しいね、『エンシオディス』」
「そうだ、それでいい。我が盟友よ」
 満足気に白い頬に指を這わせるシルバーアッシュに、はくすくすと笑って身を委ねる。勿論犯罪者を「働かせる」とは一般的な雇用の意味ではなく、むしろ肥料のそれに近い比喩だ。だがそれを理解していようがいまいが、にとっては何も変わらないだろう。「盟友」のしたことだからという許容は、信頼とは似て非なるものだ。いつか自分たちはチェス盤を挟んで向かい合うことになる。だからここに、全幅の信頼という美しい感情はない。それでもは友のしたことを許すだろう。シルバーアッシュも、に許されることをわかっていて血と泥を雪で拭うのだ。いつか互いを陥れるその時になっても、はシルバーアッシュを許す。この友人関係に信頼はなく、故に裏切りもなく、そして憎しみも芽吹かない。あるのはただ、閑寂な癒しと許容。周囲に人が溢れているのに分かち合うことができない者同士、孤独の形が重なってしまった。だからこそ自分たちは友でいられるのだ。愛でもあり情でもあり、けれどいつかは道が分かたれることを許せる間柄。こんなふうにいられる相手は、シルバーアッシュにはしかいない。同様に、にとっても孤独を分かち合う相手が自分だけであればいいと願う。
「――お前の抱えている問題を解決できるのは、この私だけなのだからな」
 に度々聞かせているその言葉は、むしろ祈りのようでもあった。がそれに頷き「盟友」と彼を頼りしがみついてくることは、カランドの威光より遥かに現実的な恩寵であろう。彼は敬虔であった。おそらくはこの世界で誰よりも孤独な「ドクター」との友情に、誰よりも献身的で誠実であった。
「あっ」
「どうした?」
「隠れなきゃ! シデロカに、ケーキ禁止令出されてたんだった……」
 チェス盤の乗ったテーブルには、シルバーアッシュの手土産でもあり彼女の「犯罪」の証拠でもあるケーキの空き箱。時計が指し示すのは、定期的にの様子を見に来るシデロカとの約束の時間の1分前。何事にも妥協しないシデロカなら、定刻ぴったりにこの部屋のドアをノックするだろう。そこで証拠の隠滅をするのではなくシルバーアッシュごと狭いテーブルの下に隠れようとするを見ていると、他者に対しては「愚か」だと評するはずの行為ですら肯定的に思えるのだから全く盲目なことであった。
「『全て私が食べた』、その証言で事足りるだろう?」
「ええ、そんなの君に悪いよ」
「いいや、共犯という肩書きを背負いたいだけだ」
「悪い友達だね」
「そうだな、『悪い友達』だ」
 その口についたクリームを拭ってやれば、穴だらけの隠蔽は完璧だ。もっともシルバーアッシュがに甘いのは周知の事実であるから、この後は二人揃って生真面目なシデロカに説教されるのだろうが。菓子の食べ過ぎとその隠匿で説教されるなど、何年ぶりのことであろうか。が逃げ出せないよう腰に手を回し、長針の動きを眺める。友というものは、悪さをするのも叱られるのも一緒だろう。それが妙に可笑しくて、シルバーアッシュはその冷ややかな麗貌に似つかわしくない人間くさい笑みを浮かべたのだった。
 
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