「無理しなくていいのに」
 の何気ない一言は、ルーメンの自尊心をひどく傷付けた。優しく人当たりのいい彼がその痛みを表に出すことはなかったが、それでも呑気なように見えて聡い「Dr」だ。こてんと可愛らしく首を傾げた少女のような指揮官は、純粋がゆえの残酷さで言葉を重ねた。
「だってあなた、普通の人なのに」
 ルーメンの笑顔がこわばったことに気付いたエリジウムが、すぐに挨拶の場をお開きにしたけれど。あれ以来、彼はの前でうまく笑えずにいる。
「正直なところ、あなたが羨ましいです」
「藪から棒だな」
 御曹司とは思えないほど傷の多い体に新たに傷をこさえたシルバーアッシュは、拗ねたような顔をしながら手当を行うルーメンにも気を悪くした様子もなくさらりと答えた。ルーメンを厭う様子もなく、淡々と雑談に応じるような口振りだ。これが強者の余裕なのだろうかと考えてしまう卑屈さがまさしく凡人のような思考で、ルーメンは密かに唇を噛み締めた。
「君の欲するものは私の中にはあるまい」
「そんなことは、ないと思いますが……」
 明晰な頭脳。優れた戦闘能力。「ドクターの盟友」をほとんど知らないルーメンが表層的なイメージだけを捉えても、彼はドクターの目に留まるものを少なくとも二つは持ち合わせているのだ。
「私を羨む材料は手段に過ぎない。望む結果を見据えるべきだな」
 謎かけのような物言いをするのは、非凡な人の特徴なのだろうか。それでも「めいゆー」とが慕うシルバーアッシュは案外、を構成する全てのものに少し優しい傾向があった。それはつまり、ルーメンに対しても彼に対価を求めない慰めを与えるということでもある。
「彼女は稚いほどに素直だろう。だからこそ、君のような人間にとっては時に苦痛となる」
「……僕のような『平凡な』人間ということでしょうか」
「『善良な』人間ということだ」
 それだけ言って、応急処置の出来栄えを確認したシルバーアッシュは満足げに立ち上がる。彼にはまだ、の隣で過酷な戦闘に立ち向かうという責務が残っているのだ。同じ昇進メダルを手にしていても、ルーメンとは全く異なる場所にいる。それは彼にしかできないことではあるが、同じようにルーメンにしか成せないことはある。そうわかってはいても、あの苺飴のような透き通った赤い瞳に「盟友」として映る彼がやはり、羨ましかった。
 曰く、「普通の人」。シルバーアッシュ曰く、「善良な人間」。ルーメンは特別な何かをいつかこの手に収めたいと願って生きている。初めて出会った日のの言葉には、夢を抱くことさえ否定されたような気持ちになってしまったけれど。の前ではうまく笑えないとわかっているのに、の傍に近づくことをやめられなかった。あの赤い瞳に映ること、あの鈴の鳴るような声に指示されること、その一つ一つに今まで感じたこともないほどに胸が高鳴って、どうにも冷静ではいられなくなる。これはあの人に認められたいという欲求の表れなのだろうか、それとも異なる感情なのだろうか。わからないから、ルーメンは今日も彼女の隣を目指して戦場を這いずっていく。炎よりもずっと甘く冷たいあの瞳の赤色が、今のルーメンの目指す灯りなのだろう。
「だいじょうぶ?」
 差し出された手は、ひどく小さくて白かった。ルーメンを見下ろす目は、相変わらず彼のことを見ているようで見ていない。この人の瞳に本当の意味で映るものとはいったいどんなものなのだろう。叙事詩に歌われるような英雄か、伝説に謳われるような怪物か。どちらにしろ、ルーメンとは縁のないような「とてつもないもの」に違いなかった。
「……ありがとうございます、ドクター」
 小さな手を握り返すのには、あの日小舟で戦士たちを引き上げるために手を伸ばすことよりよほど勇気が必要だった。この脆く柔らかい手が、このロドスにおいてルーメンが触れたもっとも恐ろしいもののひとつだった。そして瞬きもせずにこちらを見据える、透き通った赤い瞳を直視することができないからルーメンは結局凡人なのだろう。
「無理しなくてよかったのに」
「そうですね、シルバーアッシュさんが皆斬り伏せましたから」
「あなたの弾は治療用でしょう?」
「その弾が、あなたに必要だったら恐ろしいと思って」
「だから来てくれたの?」
 ルーメンの力が必要になる事態が恐ろしいと思いながらも、そのような事態だったらと危惧して戦場の中を掻い潜ってやって来る。きっとにとって、彼の行動はひどく度し難いものだろう。それでも純粋で素直な瞳は、一度ぱちりと瞬きをすると案外優しい形に細められた。
「そう、嬉しいな」
 きっとこんな表情を、は他の何人にも見せているに違いない。ルーメンだけに与えるものなど、この特別な人にはひとつもないのだ。結局のところルーメンは、灯台の彫刻によじ登った九歳のジョディ少年のままだ。永遠に特別な何かを手にしようと無謀なことをして、傷を負う愚かな憧れ。あの日海の向こうに特別な灯りを見ようとして脚に傷を負ったように、の瞳の向こうに輝くものを見ようとして分不相応な望みの対価を支払っている。それだけのことだ。だがそれでも、どうしてこんな「自分だけのもの」ではないはずの小さな笑みに胸を突き動かされるのだろう。どうしてこんなにも喉が、何とも定まらない言葉を発しようとして引き攣ったように動くのだろう。
「ドクターも笑うんですね」
「ルーメンよりはうまく笑うと思う」
 誤魔化すように冗談めいて口にした言葉には、予想外の返答があった。きっとこの人は、ルーメンの笑みがぎこちなかろうが完璧な作り笑いだろうが同じことだろうと思っていたのに。けれどルーメンがそのことを深く考える前に、何かに興味を惹かれたようにはルーメンの歩む方向とは異なるところへ行ってしまう。ルーメンに与えられた彼女の時間はほんの一瞬で、けれどそれでいいような気もした。
 視線の先に、エリジウムが手を振っているのが見える。彼は知らない土地で店を探すのが得意だろうか。どうしてか無性に、苺の色をした飴を口の中で転がして帰りたいような気分だった。
 
221110
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