「……ツイてねぇ」
 チッ、と舌打ちが暗い部屋に響く。離れた場所から聞こえる喧騒に眉を顰めて、溜息を吐いた。まさか人間が「魔力を感知して警報を発する装置」を所持しているなど、想定外だったのだ。しかも、もはや音響兵器と呼んでも差し支えないほどの。たかが田舎の豪族の家にそんなものがあるなどと思わずに侵入したブラッドリーたちは耳を劈くような警報に耳を塞ぎ、わらわらと湧いて出てきた人間たちの唇の動きを読んで装置の存在を知った。さすがにこのまま計画を断行はできないと散開したが、詳細を調べて再度盗みに入るためにブラッドリーは敢えて手近な建物に転がり込んだのだ。部下たちも、各々の判断でそれぞれアジトに戻るなり中継地点に集まるなり行動しているだろう。慎重な部下――ネロなどはブラッドリーがこうして現場近くに残ったことに小言を寄越すだろうが、いつものことだ。調べようと思った者が調べるために動くのが手っ取り早い、と『よりによってボスのお前が』とまだ言われてもいない説教に脳内で反論した。
「ンだよあの趣味の悪ぃ警報は……」
「嫌な音よね、鉄の板を引っかいたみたいな音。こんなところまで聞こえるし、近所迷惑だわ」
「……あ?」
 独り言に、返事があった。それも、ひどく能天気そうな女の声だ。更に言うなら、女というより子どもの声。見下ろした先では、暗闇の中で灯りも持たずにしゃがみ込み、ニコニコとブラッドリーを見上げる少女がいた。
「…………」
 反射的に銃口を突きつけようとして、思い留まる。突然現れて話しかけてきた子どもに驚きはしたが、どう見てもこれは危害を加える必要のある人間ではない。見知らぬ男を見つけて叫び出さず呑気に話しかけてくるあたり、口を塞ぐ必要もない。一瞬の間に様々なことを判断した結果、ブラッドリーは特に脅しつけるようなことはせずに口を開いた。
「いつからいた」
「あなたが転がり込んでくる少し前から」
「この屋敷の人間か?」
「そうよ」
「『黙ってろ』って言う必要はあるか?」
「今のところないわ。その代わり、私のことも黙っていてほしいのだけれど」
「……俺が誰に言いつけるってんだよ」
「それもそうね」
 妙に物分りのいい少女は、ブラッドリーの隣から立ち上がる。そのまま部屋の中を移動すると、台のようなものの前で手を動かし始めた。
「お隣さんには入れなかったみたいだけれど、代わりにこの家で盗みをするのはやめてほしいの」
「てめぇの言うことを聞く義理があるとでも?」
「今から作るわ」
「あ?」
「あなたを共犯にするのよ」
 そう言って少女が差し出してきたのは、分厚いサンドイッチだった。
「あの警報、フィガロ様にいただいたものなんですって。隣のご主人がいつも自慢しているの」
「フィガロの野郎かよ……道理で趣味が悪ぃわけだ」
 床に少女と並んで座り、サンドイッチを頬張る。ネロが作ったものとは比べ物にもならない、適当に野菜と肉を挟めるだけ挟み込んだ代物。そんなことにはお構いなしに、ブラッドリーは少女の倍以上の速さでサンドイッチを平らげていく。あの悪趣味な警報へのムカつきを、むしゃむしゃとパンに齧り付くことで咀嚼していった。野菜は本来好まないが、一緒くたに挟まれたそれをわざわざ引っ張り出して捨てるほど卑しくはない。燻製肉の濃い味と野菜の瑞々しさが、存外悪くない組み合わせだというのもあった。
「何代か前のご当主が、フィガロ様にお泊まりいただいたとき『ご滞在の証に』って頼み込んで作っていただいたんですって。あのお屋敷のご当主は、代々その自慢ばっかりしているのよ」
「ハッ、フィガロに嫌がらせされてんじゃねえか。どうせ当時の当主とやらも鬱陶しいヤツだったんだろ」
 魔王と呼ばれたオズの兄弟子にして、長命で強大な魔法使い。あの男のことだから、気まぐれに人間の街を歩くのも逗留した場所で人間に縋られるのもよくあることなのだろうが。あの警報というにはあまりにもけたたましく耳障りな音は、侵入者よりむしろ家人に騒音被害をもたらしている。こんな田舎町で代々フィガロの逗留を自慢する種を求めてくる鬱陶しい人間への、ささやかな意趣返しだろう。あるいは虫の居所が悪かったのか。どうせフィガロ本人は、そんな玩具を作ってやったことなど街を出た翌日にでも忘れているに違いない。ぺろりとサンドイッチを平らげたブラッドリーは、「もう一つ寄越せ」と少女に手を突き出した。まだ自分の分を半分も食べていない少女はブラッドリーの要求通り、その手に二個目のサンドイッチを置く。少女がブラッドリーに夜食を分けているのは、別に盗人をもてなすようなおめでたい頭をしているからではない。この屋敷で盗みをはたらくなという要求も、倫理道徳に則ったものではなかった。
『この家で盗みが起きると、この先夜間の巡回や警備が厳しくなっちゃうでしょう。そうなったら、私がこうして盗み食いできなくなって困るの』
 少女――というこの家の少女は、妾の子なのだそうだ。田舎貴族の面子のためだけに引き取られはしたが、義母や異母兄弟たちに虐められ満足に食事も与えられない生活をしている。そのためこうして夜な夜な食料庫に忍び込んで、最低限の食事を摂っているらしかった。
「あの警報、ちょっとした魔力に反応してよく鳴るの。そのくせ大袈裟に泥棒が入ったなんて言い触らすのはいつものことだから、うちは何もしないけど」
「なるほどな、それで俺様を買収してえってわけだ」
 利口なガキじゃねえか、とブラッドリーは鼻を鳴らす。寝間着こそそれなりに上等な布地だが、その袖から覗く手首は異様に細い。子どもということを差し引いてもあまりに細い体は、転んだだけでどこかが折れそうなほどだ。髪や肌も貴族の子どもにしては状態が悪く、身なりの良さとの落差が薄気味悪い。貴族の私生児の扱いの悪さなど、どこでも聞くような話だ。家もなく野垂れ死ぬことも珍しくない貧民の子どもに比べれば、ずっとマシな生活をしている。けれど自らの境遇を嘆いてただ堪え忍ぶのではなく、図太く食料庫で自ら食事を作り腹を満たす貴族の子どもはそうそういない。おまけに、これからの盗み食い生活に支障が出ないように侵入者に共犯になれと持ちかけてくるなど。
「お腹が空くのは惨めだわ。お隣さんが盗みに遭うのは困ったことかもしれないけど、少なくとも私の食生活よりは大事じゃないの」
 そう言って、ブラッドリーに三個目のサンドイッチを差し出す。それを受け取って、ブラッドリーはにやりと笑った。
「いいぜ、取引成立だ」
 死の盗賊団の首領を相手に、自らの盗み食い生活を守るべく取引を持ちかけた少女。本来の目的はまだ果たせていないが、そう悪くない夜だと思った。

「よお、夜食のお嬢サマ」
「ブラッドリー、こんばんは」
 結局、あの豪族の「お宝」とは警報装置そのものだったらしい。いくらフィガロから貰い受けたものとはいえ、宝を守るべき装置が家宝などとは馬鹿ではなかろうか。人間の部下に外させた警報装置は、適当な好事家に売り飛ばした。つまらない結果に終わった仕事だというのに機嫌のいいブラッドリーに部下たちは首を傾げていたが、彼の関心はとうにガラクタからあの日出会った子どもに移っていた。あれ以来たびたび訪れるようになった真っ暗な食料庫で、「共犯」関係は続いている。少女は食事を、ブラッドリーは外の話を提供して。たまに、ネロから簡単な調理のレシピも預かって渡してやった。油や調味料をなるべく使わない素朴なレシピを求めたことにネロは怪訝な顔をしたが、「覚えのいいガキがいンだよ」といえばどこか呆れた顔をしつつも黙ってメモを用意してくれた。そも、レシピなどただの口実のようなものだ。美味い飯が食いたければ、ネロに頼めばいい。ブラッドリーがちょくちょくこの薄暗い食料庫に顔を出すのは、この利発な少女との会話を楽しんでいたからだった。
「見て、ブラッドリー。シュガーをたくさん作れるようになったの」
「おう、上等じゃねえか」
 は、魔法使いだった。とある夜に台所代わりの机から皿が落ちそうになったのが、空中で止まって。魔法で落下を止めようとしたブラッドリーは、を振り向いて本人も驚いていることに笑ったものだ。それ以来、ブラッドリーはに魔法の手解きじみたことをしてやっていた。が手のひらいっぱいに差し出したシュガーも、ブラッドリーが教えてやった結果だ。は物覚えがよく、向上心がある。親切や同情ではなく、今の自分の生活を自らの力で良いものにしたいというの気概を気に入って教えてやっていた。
「これだけありゃ、報酬はこのくれぇだな」
「いつもありがとう、ブラッドリー」
 シュガーと引き換えに差し出した硬貨を、は嬉しそうに受け取った。シュガーを卸す代わりに、報酬を支払う。共犯だけではなく、師弟というほどでもなく、取引相手でもある。奇妙な関係だが、面白くもあった。
「これで、妹に新しい靴を買ってあげられる」
「てめえの靴はいいのかよ」
「私の足はもう大きくならないみたいだもの。妹は、まだまだ大きくなるから」
 には、同じ母を持つ妹がいた。妹は魔法使いではなく人間で、同様この屋敷に引き取られ本妻たちに虐められている。がこの屋敷に留まり続けている理由が、その妹だった。
「妹は私と違って、大人しくて可愛いから父に少し気に入られているの。将来はそこそこの家に嫁がせてもらえるみたいだから、それまでは私がちゃんと守らないと」
 それが、の口癖だった。本妻やその子どもたちから庇うことこそしないが、人目につかないところで父親はの妹を可愛がっているらしい。こっそり寝る前に部屋に訪れて、おやつを与えたりもしてやっているのだそうだ。かといって本妻たちに逆らってまできちんとした生活を保証したりはせず、将来はこの家から出してやると言うだけなのだからいい加減なものだった。
「私はどこにでも行けるし、どこにでも行く。でも、妹が得意なことは私と違うから」
「得はねえぞ」
「やりたくてやってる。だからいいの」
 ハキハキと喋るの表情には、迷いも後悔もない。冷めないうちに、とはブラッドリーに木製の深皿と匙を寄越した。ふわりと柔らかい匂いのするそれは、大きく切った肉とじゃがいもがごろごろと浮かぶシチューだ。魔法を使えるようになってから、ネロのレシピにも助けられての作れる料理はどんどん増えていった。
「お前、うちのキッチン担当に弟子入りできるかもな」
 さっそく肉を頬張りながら満足げに冗談を飛ばすブラッドリーに、も「就職先のひとつに考えておくわ」とにこやかに返す。なら、性別を変える魔法もあっさり覚えて本当に盗賊団の扉を叩いてきそうだと思った。こうして夜中に声量を気にせず談笑しているのも、が防音の魔法をかけているから家人に気付かれることはない。妹のことさえなければ、は本当にどこにだって行くのだろう。例え魔法使いではなかったとしても、その足で。のそういうところを、ブラッドリーは気に入っている。だから面倒も見てやるし、忠告もしてやるのだ。新しい魔法を知りたがるに返事をしつつ、温かいシチューをがつがつと平らげていく。濃厚なチーズの混ざったミルクが、塩で仕込んだ肉に絡んでちょうどいい甘さだった。最近は食料庫の材料を盗むだけではなく、少し離れた町で食材を買って隠しているのだという。年々強かになるの成長が楽しみでもあったし、その背中を押しているのが自分であるというのはなかなか悪くない気持ちだった。だからこそ妹のことなど捨て置けばいいのにと思わなくもなかったが、それはの譲れない部分なのだろう。子どもだろうが女だろうが人間だろうが、生きる上で譲れないものがあるというのは嫌いではない。は利発な魔法使いであるとはいえ、内向的で年相応に甘えを残した幼い子どもを連れて放浪するのは現実的ではないことを弁えている。虐めこそあれ最低限の衣食住と命、多少の教育が保証されているこの屋敷を自立まで利用するのが、自身と妹ふたりのためであると理解して留まっていた。が妹の自立を見届けて旅立つまで、あと数年といったところか。それまでブラッドリーとは、どれだけ盗み食いの共犯を重ねていけるのだろうか。が魔法で捕まえたという川魚の丸焼き、キノコと肉を細かく切って蒸してもちもちとした生地に包んだもの、ブラッドリーが土産にくれてやった大きな貝を使ったスープ。盗み食いの数だけブラッドリーはに魔法や外の話を教えてやっていたし、その分親しみにも似た何かを抱いてきた。それは、恋愛だの情だのといったものではなく。強いて言うなら、妹のようなものだろうか。けれどやはりこの関係は、「共犯」という響きが最もしっくりくるのだ。
「一人で生きれるようになったら、ブラッドリーの言ってた魔法使いたちを見に行きたいわ」
「言っとくけどな、間違ってもアイツらに呑気に話しかけたりするんじゃねえぞ」
「遠巻きにひと目でも見ておきたいの。もしうっかり出くわしても逃げれるように」
 珍獣か、あるいは猛獣か。ブラッドリーが色々と語って聞かせたせいで、の中の北の魔法使いたちはだいぶ偏ったイメージになったようだった。あるいはそれが、のような小さな魔女もどきにとっては正しいのかもしれないが。
「ミスラとオーエンは、出会うこともすんな。とにかく近付くな、逃げとけ」
「オズ様は?」
「アイツは城に近付かなきゃ攻撃してこねえ。城に近寄んな」
「双子様とフィガロ様は、関わっちゃいけないのよね」
「そうだ、ヤツら見かけは『お優しい魔法使い様』だけどな。中身はえげつねえぞ」
 ブラッドリーが、今の会話に挙げられた魔法使いたちと同列に語られる「恐怖」であることを、は知っている。知った上で、ブラッドリーとの共犯関係を保っている。けれど、ブラッドリーに外での庇護を求めることはない。がブラッドリーに頼ることがあっても、他の手下たちと同様に下っ端として雇ってくれという形だけだろう。
「で、それが終わったらどこに行くんだ」
「……迷ってる。したいことがたくさんあるの」
 魔法の勉強もしたい。ちゃんとしたキッチンで料理もしたい。服や化粧にだって興味がある。商売にも興味があるし、地に足のついた生活にも憧れがある。やりたいことを指折り数えて並べていくは、顔を上げてニコッと笑った。
「ひとつずつ、やっていくわ。魔法使いの人生って、とても長いんでしょう?」
「十年や二十年なんざ、あっという間だぜ。この家を出て行くまでの数年も、後から思えば一瞬になる」
 口の端を吊り上げてニヤッと笑ったブラッドリーの言葉で、の笑みに僅かな影が差した。俯くことなどほとんど無いが、そっと目を伏せる。
「……ブラッドリーにとって、この『共犯』も一瞬?」
 その声には、少しだけ拗ねたような響きがあった。賢い子どもの滅多に見せない年相応の幼さに、ブラッドリーはぱちりと瞬きをする。この子どもは、自分がブラッドリーの中で須臾の存在であることに拗ねているらしい。利口で強かで前向きな現実主義者であるの珍しい不満顔は、見慣れた笑顔と同じくらい印象的だった。しばし呆気に取られたブラッドリーは、フッと口の端を持ち上げて笑う。可愛いと、顔立ちの整った者など見慣れたブラッドリーが思ったそれは容姿に対する客観的評価ではなかった。
「てめえがいい女になる頃に、答えてやるよ」

 そんな、他愛もないやり取りを思い出す。真っ白な雪に、飛び散る赤色。横転した馬車。壊れた馬車の部品が腹に突き刺さって死んでいるその女は、数年間ブラッドリーと『共犯』だったあの少女だ。「どういうことだ」と、ブラッドリーの吐いた息が白く染まった。
「嫁に行くんじゃなかったのかよ」
 つい数日前に、そう言って笑っていた。もう二度と、笑うことはない。馬車の下敷きになったを中心に、雪が真っ赤に染まっていく。今日、は遠くの貴族に嫁に出されるはずだった。を虐めていたはずの本妻がその利発さを目に留めて、ここ二、三年は実子と変わらないほどに目をかけてやっていた。今も、義母が見繕ったのかそこそこ上等な衣服を身に纏って。盗み食いをする必要もほとんどなくなり、代わりに淑女らしい作法を身につけていたことを知っている。嫁ぎ先の家の者がの盗み食い生活とその共犯を聞けば卒倒するだろう、などと暗い食料庫で笑い合ったものだった。「またいつか、会えるといいね」などと、物分りよく笑うこの女の鼻を明かしてやりたくて、ブラッドリーは花嫁を奪いに来たのだ。そのはずが何故、は死んでいるのだろう。待ち伏せていたブラッドリーがいつまで経ってもやってこない馬車を探しに道を辿れば、そこにあったのは原型も留めないほど壊れた馬車と死んだ女だけだった。後にわかったことだが、この女が自分の自由を引き換えにしてまで守っていたはずの妹が、姉を殺せと命じたらしい。自分を可愛がっている父に泣きつき、部下に馬車を爆破させて。ずるい、と。頭が良くて、何でもできて。だけ、義母に虐められなくなって。田舎貴族の私生児には立派すぎる嫁ぎ先まで用意してもらって、ずるい、と。
「……将来有望だったのにな、お前は」
 見る見るうちに、事切れた女の体が石に変わっていく。魔法の勉強もしたい。ちゃんとしたキッチンで料理もしたい。服や化粧にだって興味がある。商売にも興味があるし、地に足のついた生活にも憧れがある。やりたいことを指折り数えて並べていたあの日の少女は、何一つ叶わないまま物言わぬ石になった。
 ――ねえ、あのね、ブラッドリー。盗賊は財布や荷が重い人を助けるのが仕事なんでしょう?
 が悪戯っぽく笑ってそんなことを言い出したのは、何を食べた夜だったか。ひき肉の腸詰を、長いパンに挟んでかぶりついたり。猟師と物々交換で手に入れたという丸々とした鳥肉を分け合った日など、気分が良くなってに酒を飲ませたりもした。口に入れた途端ほどけるほど煮込んだ柔らかな白身魚は、ブラッドリーには少し物足りなかったがは気に入ってよく食べていて。ネロが持たせてくれたマシュマロを、それぞれの魔法で火を起こして炙ってココアに浮かべたこともある。一晩に一品だけ、それが共犯関係の決まりごとだった。
 ――私が死んだら、石を食べて助けてくれる? 天国にマナ石なんて、重たくて持っていけないから。
 それが、共犯関係の最後の品書きだ。約束をする気はなかったから、「気が向いたらな」と返したけれど。果たしてブラッドリーは石と化した女に跪くように手を差し伸べ、小さな欠片をひとつ手に取った。そう、特別強い魔力ではない。けれど、ブラッドリーは躊躇うことなくその石を口に含む。ブラッドリーに子どもらしい淡い好意を向けていた利発な少女への、手向けであり餞だった。燃え上がるような危険な恋でも、穏やかで美しい愛でもない。田舎の屋敷の片隅、暗くて寒々しい貯蔵庫。華やかな恋も胸を打つような愛も、これからの長い人生でいくらでも得られたはずだった。弱い者から死んでいく。北では当たり前の摂理で、だけが無念の死を遂げているわけではない。だからこれは、憐憫ではないのだろう。ただ、惜しかった。いつかブラッドリーの心を強く掴むようないい女になっていたはずのがこうして死んだのが、残念だと思った。
「一瞬だけどな、」
 あの日の問いに、今答える。永きを生きる魔法使いにとって、自分と過ごした時間は一瞬なのかと拗ねていた。確かにブラッドリーにしてみればなど子どもで、共犯関係だった数年など一瞬だ。それでも。
「俺の奪う価値のある一瞬だったぜ」
 強く、自由なブラッドリーへの憧れ。慕情。食らったマナ石を通して、の想いが流れ込んでいた。淡い魔力は、ブラッドリーのそれと混ざって同化していく。たったひとつの外界との繋がりだから当然と言ってしまえばそれまでだが、はずいぶんブラッドリーを慕っていたようだ。がブラッドリーに石を食べてくれと願っていたのは、このわかりやすくも慎ましい初恋を最期に明かしたかったからなのだろう。長い時間を共に歩める存在ではないとわかっていたから、最後の最後に伝えられれば満足だった。けれどその時は、こんなに早く訪れるはずではなかったのに。
「……ネロに、部屋の準備は要らなくなったって断らねぇとな」
 新入りが来ると、伝えておいた。前もってブラッドリーがそんなことを言うのは初めてだったから、失礼にもネロは「熱でもあるのかよ」と疑ってきたが。そういえばは、ネロの料理を食べたがっていた。本当なら今頃、それが叶うことを知ってはしゃぐが見られたはずだった。残りのマナ石を拾い上げて、何も無いこの場所を去る。の行きたがっていた場所全てに訪れてやることはできないが、地底湖に沈めて弔ってやろう。はよく、ブラッドリーのマナエリアの話を聞きたがったから。今まで何度も繰り返してきた感傷の、ひとつにすぎない。きっとこれからも、似たような感傷を幾つも抱えるのだろう。との日々も、いつかは遠い記憶の思い出になっていく。抱えた命の、ひとつになっていく。けれど今だけは、永遠にも勝る一瞬だと。そんな疵を抱えて、ブラッドリーは独り帰路に就くのだった。
 
201010
ムムさんとの「なまえちゃんのマナ石食べる話書きましょうよ!」って合同企画的な取り組みです。楽しいご提案をありがとうございました!
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