「鬼の顔の方が多いかもしれないですね」
 覚えてる数。なんてことのないように呟いたに、杏寿郎は顔を顰めた。は生者の顔が認識できない。彼女の抱えている障害に苦い顔をするのはもっぱら杏寿郎ばかりで、当の本人は飄々としたものだった。は杏寿郎の同門だ。父の槇寿郎が剣を棄ててからも煉獄の家に通っている変人であり、千寿郎の面倒をよく見てくれている友人であり部下だった。そんな彼女は人の顔より鬼の顔の方が知っているかもしれないと、ころころ笑う。死人の顔しか認識できないという、杏寿郎には想像もつかない世界。笑い事ではないだろうと思うものの、あながち否定できない事実でもあろう。「人の顔がわからないと人の世では生きにくいが、鬼の顔がわからずとも斬るのに支障はない」というのは彼女の言だ。なるほど鬼殺隊では特にその障害は表立って問題にはなるまい。「柱の人たち、みんな服装が前衛的なので見分けやすくて助かります。ほら、偉い人の区別つかないとか大変ですし」と不死川を指差してころころと笑ったりなどは日常茶飯事なので、認識障害よりむしろ本人の性格の方が人間社会では問題である。不死川に殴られかけたに頭を下げさせたりと、杏寿郎がの世話を焼くのは幼馴染の頃から変わらない関係だった。
「いやどうしたって殺された者の顔の方が記憶に残るでしょう、皆一様に凄まじい顔してるんですから」
 思えば彼女の記憶に残る顔の大半は、恨み辛みに歪んだ鬼のものだ。それもすぐに崩れ、消えていく。人間は人間で鬼に殺された民草や鬼殺隊員がほとんどなのだから、まともな顔などろくに記憶に残ってはいまい。そんな彼女が曲がりなりにも煉獄の家の者に尽くすのは、母の瑠火への恩返しなのだそうだ。
「瑠火さん、すごく綺麗なお顔でした。私の知っているお顔の中で、いっとう綺麗で、強くて、お美しくて。あのお顔を目にすることがなければ私、とっくに世を儚んでいたかもしれないですし」
 この世でいっとう綺麗なものを見た恩返しだと、は煉獄に忠義立てしている。親にも厭まれたの面倒を親のように見てきた瑠火に、語りはしないが恩義を感じているのだろうと杏寿郎は思っている。彼女は本音を語らない。「人間顔じゃありませんよ」となかなかに笑えない冗談が口癖のくせに整っている顔が、本心の表情を映したことはあるのだろうか。顔が無いのは、或いは彼女なのかもしれなかった。
「千寿郎くん、どうしましたか。転びましたか? マメが破けましたか? お姉さんに言ってご覧なさい」
 思えばは人の表情やらが認識できないわりに、妙に感情に敏いところがある。声も出さずに泣いていた千寿郎を見つけてその頭を撫でてやっているのを見て、杏寿郎は二人に駆け寄った。は千寿郎と杏寿郎をまるで似ていないと言う。特徴的な容貌が良く似ている兄弟を前にそんなことを憚りもせずに言うのはくらいのものであった。
「……さんは、どうして僕のことは間違えないんですか? 兄上のことも時々間違えるのに」
「どうしてですかね、千寿郎くんはどうしてだと思います?」
「えっ? ええと……」
 そんなことは簡単な話で、千寿郎は隊服ではないからだ。杏寿郎はいつも隊服だから、屋敷に鬼殺隊員が来ていれば間違うこともある。けれど千寿郎の質問を適当に躱したは、その答えを避けていた。未だ日輪刀の色が変わらず隊服を纏うことのない千寿郎を、気遣っているのだろう。
「なんとお姉さんは気配で人を判別できるのです。どうだ凄かろう」
「そうなんですか!? 初めて聞きました」
、千寿郎をからかうな」
「えっ」
「あれ、杏寿郎さん。君は相も変わらず四角四面ですね」
「う、嘘ですかさん」
「そうだよごめんね千寿郎くん、杏寿郎さんが冗談の通じない融通不通人間で」
「謝るべきはそこではないぞ、
 強い眼光で見据えても、には些とも堪えないようだった。軽く額を指で弾くと、頬を膨らませながらも千寿郎に軽い謝罪をする。戸惑いながらも泣き止んだ千寿郎の手を引いて立たせてやっているは、杏寿郎とは違った形で千寿郎の支えとなっていた。真っ直ぐに誠実に千寿郎と向き合う杏寿郎と、ふらふらと掴みどころが無いながらも思い出したように手を差し伸べる。陽炎のようだと、言ったのは誰だったか。
「千寿郎くん、お詫びにおやつをあげましょう。ほら、こんなところから金平糖が」
「わぁ、今のどうやったんですか? 手品ですか?」
「種も仕掛けもございませんよ。杏寿郎さんもどうぞ」
 の差し出した金平糖を反射的に受け取った杏寿郎に、はにこにこと笑みを浮かべる。杏寿郎は実のところの笑顔が苦手だった。まるで貼り付けたようなその笑みは、いったい誰のものなのか。であるはずの彼女が、笑うと誰なのか判らなくなる。一度それを指摘したときに軽口もなく「ごめんなさい」と真顔で言われてからは、そのことに触れることもないけれど。
「金平糖はうまいな」
「はい、おいしいです!」
「そうでしょう、後で槇寿郎さんにも持って行きますね」
「ああ、頼む」
 は槇寿郎の変わりようについて何も言わない。怒鳴られても罵られても、にこにこと以前と変わりなく世話を焼いている。「槇寿郎さんは槇寿郎さんですし」と嘯く彼女には、槇寿郎の挫折も目に入らないらしい。だが本当に、見えていないのだろうか。表情の見分けがつかずとも、感情を悟り千寿郎に優しくしてやれるは、本当に槇寿郎の変化が見えていないのだろうか。何度問うても適当な答えしか返さないは、何を思っているのだろう。蜃気楼のように掴みどころのない笑顔は、昔から変わらない。その笑顔の下に隠れた本心が解らなくて、杏寿郎はがり、と金平糖を噛み砕いたのだった。
 
190228
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