「継子? やですよ」
杏寿郎の提案に、はにべもなく首を振った。刀の鍔に指をとんとんと当てて、言葉を選ぼうとして、やめていた。
「私にそんな技量があると思ってるなら杏寿郎さん、それは買い被りが過ぎるってものですよ」
「俺は真剣なのだが」
「そりゃあ杏寿郎さんは真剣ですよ。杏寿郎さんはいつだって真剣です。それはわかってます」
「それなら、俺が単なる同門の誼で言っているわけではないということもわかるだろう」
「わかりますけど、無理です」
「何故だ」
「無理なんです、ごめんなさい」
それは理屈になっていない言葉だったが、いつも飄々としているに急にしおらしくされるとそこを突くのも憚られてしまう。もしかしたら杏寿郎がそういう性格であることをわかっていてここぞというときに態度を変えているのかもしれないが、いかんせん杏寿郎はそれをあくまで可能性として留めておくだけの善人であった。
「鬼はちゃんと狩りますし、命令なら何でも……は、聞けないですけど、まあ死にに行けと言われたら死なない程度に戦います。それで許してくれません?」
「だが……」
「炎柱の継子になるべき人間は、きっと他にいますよ」
励ますように、が杏寿郎の背中を叩く。そこで千寿郎の名前を慰めにでも出さないあたり、残酷なのか優しいのか。人の顔も表情もわからないは、時々ひどく残酷に現実を突きつける。それが発揮されないのは煉獄の家の者に対するときだけで、それは彼女なりの親愛の示し方なのだろう。
「……私は、杏寿郎さんにも感謝してます。千寿郎くんにも、槇寿郎さんにも」
もちろん瑠火さんにも、とは続ける。生者の顔の区別のつかないは、幼い頃周りの人間に大層気味悪がられた。唯一認識できる死者の顔をじっと眺めている様を指して、不気味だと直截に罵られたこともある。けれども煉獄の家の人間は誰一人として、彼女のそれを悪し様には言わなかった。全てに投げやりになった槇寿郎だとて、彼女を失顔症のことで罵ることはなかった。剣の才能が無いだとか炎の呼吸など極めたところで無意味だとかは言うものの、彼にもまだ言ってはならないものを区別する程度の分別は残っているのだろう。
「大丈夫ですよ、杏寿郎さん。いつか杏寿郎さんが本当に継子にしたいと思う人を、継子に迎えればいいんです」
「俺は本当に、君を継子にしたいと思っているぞ」
「……はい、そうですね」
笑顔を作るのに、少しだけ失敗した。そんな表情では頷く。頭の横で結ばれた髪が、俯いたの顔を隠した。
「しかし無理強いは良くないな。気が変わったらいつでも言ってくれ」
「杏寿郎さんこそ、気が変わったらいつでも言ってくださいね」
互いに、気が変わることなどないと知っている。それでも、この軽口が境界線だった。杏寿郎もも、これ以上は互いに踏み込めない。それ以上深く踏み込むには、互いを傷付ける覚悟が必要だった。剣の間合いを測るよりも、よほど掴めない距離。仮にも幼馴染として生きてきたはずなのに、未だに互いの距離は読めないでいる。ゆらゆらと揺らめくとの距離は、近付けば遠ざかり遠ざかれば近付くような、不安定で曖昧なものだった。ずっと傍にいたはずなのに、杏寿郎は未だにのことがわからない。と違い杏寿郎は、その顔をとして認識できる。いつも薄く笑んでいるようなその表情も、ずっとずっと見てきたはずなのに。杏寿郎がいわば直情的でがそうではないとしても、杏寿郎はあまりにを知らなかった。近すぎてぼやけてしまうのか、遠すぎて見えなくなってしまうのか。即断即決型の人間に見られやすい杏寿郎だが、思慮が浅いというわけでは決してない。という幼馴染は、常に彼の思考のどこかには引っかかっていた。
「……俺は君が心配だ」
「そうなんですか?」
「君が心配だ」
「二回も言いますか」
はきっと、鬼殺隊に個人的な執着は持っていない。煉獄の家が代々鬼殺隊の炎柱として務めを果たしているから、煉獄の家の者が鬼殺隊にいるから、だからは鬼殺隊にいるのだろう。杏寿郎がいなければ、は鬼殺隊から去っているに違いない。どこかにふらりと消えてしまいそうなその影を、杏寿郎は目で追ってしまうのだ。認めたくはないが、が鬼殺隊にいるのは人助けのためでも使命感でもあるまい。鬼に恨みや怒りを抱いているわけでもない。ともすれば、鬼を斬ることに何の感情も抱いていないかもしれない。には必死さが足りなくて、鬼殺隊の中にもきっと彼女を快く思わない者はいるだろう。けれど憎しみや使命感に囚われていない彼女だからこそ見えるものもあるのではないかと、杏寿郎は思っていた。
「……杏寿郎さんの声、私は好きですよ」
「そうなのか? それは喜ばしいな!」
唐突な好意の発露に、杏寿郎はニッカリと笑う。どんな顔をしていようが、にはわからないと知っていても。それでも殊更に、の前では笑顔をはっきりと作った。彼女の世界の生者の誰もがのっぺらぼうだとしても、もしかしたら、いつかは、あるいは。そんなことを、願ってしまうのだ。
「杏寿郎さんの声、耳を突き抜けるほどハキハキしていますからね。間違えようがなくて良いと思います」
「わかりやすいのは良いことだな!」
「……明るい性格って良いですよね」
「うん? そうだな」
の手が、杏寿郎に伸びる。もにもにと杏寿郎の頬に触れるの手は、顔のかたちを確かめるように顎や耳に触れた。奇矯な行動にも特に抵抗を示さずに触れられるがままの杏寿郎を前に、はどこか不満げに眉を顰める。
「杏寿郎さんはきっと、おそろしく呑気な顔をした御仁なのでしょうね」
「自分の顔のことについては、なんとも言えんなあ。母上と父上にいただいた顔だから、悪くはないと思うが」
「自分で言っちゃいますか、それ。しかも杏寿郎さんって、顔は槇寿郎さん似だって聞きましたよ?」
「そうだな」
「瑠火さん成分はいかほど」
「母上にはさほど似ていない」
「じゃあやっぱり呑気なお顔なんですよ。そういうことにしておきましょう」
ぱっと離されたの手を取り、自らの手と重ね合わせる。決して女性らしくはない、戦闘や訓練で固くなった手のひら。けれど杏寿郎の手で覆ってしまえるほどに小さく、指も細い。この手のかたちを覚えていようと、杏寿郎は思う。の本当が顔に無いのなら、世界に触れるこの手に本当は宿るのかもしれない。黙って手のかたちを確かめる杏寿郎に、は何も言わない。けれど戸惑うように動いた指先に、杏寿郎は目尻を緩めたのだった。
190308