実のところ千寿郎は、のことを苦手に思っていた時期がある。いつものっぺりと凪いだ瞳と貼り付けたような笑顔がちぐはぐで、まるで出来のいい人形を見ているようで怖かった。人は、人間に似せた像の精巧さが高まったある一点でそれに嫌悪感を覚えるらしい。当時の千寿郎がに抱いていた感情は、それに近かった。
さんは不真面目ですね」
「毎日全力だと、死んじゃうからね」
 唐突な罵倒にも聞こえるその言葉に怒ることもなく、はぺらりと書物をめくった。昔はこの呑気さも苦手だったのだ。千寿郎や杏寿郎が死に物狂いで修行している横で、のんびり空を眺めていたりして。槇寿郎も指導に手を焼いていた。それなのに、ふらっと最終戦別に行って帰ってきてしまったのだ。非才に悩む千寿郎の隣で、大して努力もしていないのにあっさりと千寿郎が欲しかったものを手に入れたは柱に届くような強さを持っていないけれど、それでも任務から死なずに帰ってくるだけの強さは持っていた。千寿郎がに捻くれた憎悪を抱かなかったのは、生来の善良さがあってこそだろう。一部の口さがない隊員たちは、のことを悪し様に罵ったりする。けれどそれに便乗して陰口を言うほど千寿郎の性根は曲がっていなかったし、何よりこの不気味な少女を可愛がっていた母や兄が悲しむと思ったからの前では愛想笑いを絶やさなかった。無論それも、の前では無意味なことでもあるのだが。
さん、疲れていませんか?」
「こんなに怠けていて、疲れたらすごいことだよ」
 書き物をする千寿郎の横で転がって、にこにこといつもの笑みを浮かべて本を読む。その笑顔がの死に物狂いの努力の結果だと知らなければ、千寿郎は今でものことを苦手に思っていたままだっただろう。
 ――もう何年も、前の話だ。
 その日千寿郎は、初めて稽古から逃げたのだ。杏寿郎が自分を探す声に耳を塞いで、こっそりと屋敷の裏に隠れて。そこで見かけたの姿に、千寿郎は反射的に低木の陰に隠れたのだ。に見つかればきっと杏寿郎のところに連れて行かれると思ったし、何より自分の平凡さに打ちひしがれている今と話したくはなかった。自分がちっぽけで嫌な人間だと、思い知らされたくなかったのだ。
さん、何をしているんだろう……)
 けれど結局の様子が気になってしまうのだから、千寿郎は良くも悪くも優しい人間なのだろう。こっそりと伺い見たは、見たこともないような真顔でもにもにと自分の頬を触っていた。
「口角を上げて、目の力を抜いて……」
 何やらぶつぶつと言っているは、唐突にいつもの笑みに似た表情を作る。けれどそれもすぐに溶けて消えて、はまた何事か思案しているようだった。ぺらりと紙をめくる音がして、はまた何事かぶつぶつと呟く。
「これが『笑う』、これが『泣く』……」
 いったい何をしているんだろうと、千寿郎はの様子をじっと見てしまう。けれどそのとき、背後から肩を掴まれて。
「ここにいたのか、千寿郎!」
「あ、兄上……」
「どうしたのだ、稽古に顔を出さずに……具合でも悪いのか?」
「……あ、」
 ぱくぱくと、金魚のように無意味に口を開閉させてしまう。杏寿郎に会いたくなくて逃げたのだと、言えるわけもなく。けれど咄嗟の言い訳も、思いつくはずもなく。心配そうに千寿郎を見下ろす杏寿郎には、わかるまい。杏寿郎のことが好きで、尊敬していて、憧れているからこそ、今だけはその顔を見たくなかったのだ。
「……あれ、杏寿郎さんが先に見つけちゃったんですね」
 ひょいっと顔を出したに、千寿郎は飛び上がりそうになった。「どういうことだ?」と首を傾げる杏寿郎に、はにこりと笑う。
「千寿郎くんと、隠れんぼしてたんですよ。私が鬼だったんですけど見つけられなくて」
「……なるほど、勝敗がつかないままに勝負を投げ出すわけにはいかなかったのだな!」
「まあ今杏寿郎さんが見つけちゃいましたから、やり直しですけど」
「ところで、もう稽古の時間なのだが」
「えー、まだ勝負がついてないんですよ」
「……仕方ない、半刻だけだぞ?」
 わー、とが嬉しそうな声を上げる。「真剣勝負ですから、杏寿郎さんは入ってきちゃダメですよ」と杏寿郎を追い立てたに、さして抵抗することもなく去って行った杏寿郎。去り際にぽんぽんと千寿郎の頭を叩いた杏寿郎に、俯いた千寿郎の瞳にじわりと涙が滲んだ。
「……よし、じゃあ半刻の間はのんびりしよう」
 杏寿郎が去った途端そう言ったに、思わず千寿郎は吹き出す。
「か、隠れんぼは、いいんですか?」
「千寿郎くんがひとりになりたいなら、それも吝かではなく」
「……いえ、もう大丈夫です」
「それはよかった」
「ありがとう、ございます……」
 にも、おそらく杏寿郎にも、見透かされていた。優しい嘘で千寿郎を庇ったに、頭を下げる。守られて惨めな思いもあったが、やはり千寿郎はどうしても卑屈になりきれなかった。
「その……さんは、何をされていたんですか?」
「……見てた?」
「見てしまいました」
「そっかー」
 懐からゴソゴソと紙を取り出したは、それを千寿郎に見せる。そこに描かれていたのは、人の表情らしきものとどこか見覚えのある字だった。
「これは……?」
「瑠火さんがね、作ってくれたんです。これが『笑っている顔』で、これが『怒ってる顔』って、ひとつひとつ描いて教えてくれたんですよ」
「母上が、」
 は、目や鼻などの個々の輪郭は認識できる。ただそれらを統合して「顔」や「表情」として認識することができないから、「顔がわからない」と言うのだ。瑠火はそのそれぞれの顔の部位の形で表情を読み解くことを教えたらしい。無論人の表情は千差万別であり、口角が上がっていれば笑っていて嬉しい、などは限らないけれど。ひとつひとつの部位は読み解けても、それを統合させるのはにとっては至難の業だったけれど。それでもが今もなお人の顔の形を覚えようとしているのは、確かにそれで読み解ける世界があったからだった。
「瑠火さんはね、最初ご自分の顔で教えようとしてくださったのだけれど」
「……母上は、表情が硬かったらしいですからね」
「そう、『見本にならない』って落ち込んでいらしたよ。それで、筆を執ってくださって」
 使い込まれた紙は、それでも大切に扱われていたことがわかる。瑠火が感情を表情に出すのが不得手だったように、は表情から感情を察することが不得手なのだ。千寿郎たちが当たり前のようにできることが、には恐ろしく遠回りの道なのだと。そう気付けば、千寿郎の胸に凝っていた嫌な感情は少しだけ軽くなった。
「……さん、あの」
「うん? どうしたのかな千寿郎くん」
「僕も、母上の続きを書きます。いろんな表情とか心情を、文章や絵で描きます。お役に立てるかは、わかりませんが……」
「……ありがとう、千寿郎くんは優しいですね」
 その表情ひとつない真顔は、の素の表情なのだ。そこに、いつもの貼り付けたような笑顔が浮かぶ。けれど、それに対する嫌悪感はもう無かった。
「これは、『嬉しい』で合ってます?」
「合ってますけど、ちょっと下手です」
「千寿郎くんのそういうところ、私は好きですよ」
 そうして、は今も千寿郎の隣でにこにことしている。気を抜くとすぐに真顔に戻ってしまうらしいは、言い換えればいつも気を張っているのだ。表情や感情の理解を諦め切れず、常に目に映る全てから必死に情報を読み解こうとして。の前で表情を作ることは、無意味ではないのだ。杏寿郎はまだそれを、知らないようだけれど。
さんは真面目ですね」
「それは初めて言われたかな。あ、いや瑠火さんにも言われたかも」
 妙な姿勢で身を起こしたに、思わず笑ってしまう。兄にはもう少しだけ内緒にしておこう。の前で殊更に笑顔を作る杏寿郎が微笑ましいとは、一生面と向かっては言えないに違いなかった。
 190319
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