この家に自分がいていいのだろうか、と時折エンジュは思う。姉は「当たり前」と言ってくれるし、弟は「逃げたら連れ戻す」と怖い顔で言う。兄の考えていることは、よくわからないけれど。それでもエンジュに刺青を刻ませたのは、長子である彼だった。もっとも彼はいずれどこぞの協力組織にエンジュを
嫁がせるつもりらしいけれど、それでも一応この世界の人間として認めてくれているということなのだろうか。腰に刻まれた刺青は家族との繋がりでもあり、呪いのようでもあった。
「義理事に招かれたんだ。エンジュ、俺とエンカクのスーツを手配しておいて」
「はい、兄さま」
「来月の中頃になるが、そうだな、その日は家から一歩も出てはいけないよ」
「はい、兄さま」
「お前はいい子だ。あれももう少し扱いやすければな……」
この場合、兄が指している「あれ」は姉のことだ。姉と兄は、殺し合い寸前のような喧嘩をしょっちゅうしている。掴みどころのない兄に小学生のような態度を取らせる姉のことを、エンジュはある意味すごいと尊敬しているのだけれど。姉は兄に言われたからといって、本当に家から一歩も出ないなんてことはしない。「暇だね」と思い出したように呟いて、カフェにでも行こうかとエンジュに手を差し出してくれるのだ。そんな姉の優しさに、エンジュが応えられたことはないけれど。兄の言い付けに背いて家を出ようとすると、ガタガタと震えて立っていられなくなる。時には過呼吸すら起こすエンジュを、姉は可哀想なものを見る目で見下ろすのだ。そして、「いい子で待ってて」と一人で外に出てお菓子やらを買ってきてくれる。姉の優しさを無下にすることが苦しくて、けれど兄の言い付けに背かずに済んだことに安心すら抱いている。そんな卑怯で弱い自分のことが、ずっと嫌いだった。ホムラは兄の「折檻」を受けても、平然とした顔で殴り返すのだ。エンジュは地下室に続く階段に近付くことすら怖くてできないのに、姉はいつも凛と兄の前でも背筋を伸ばしていて。焦がれて、憧れて、少しだけ眩しい。
「姉さまは、いい人ですよ」
「うん? ああ、そうだね。お前は本当にいい子だ」
「私じゃなくて、姉さまが……」
言い募ろうとするエンジュは、ニコニコとしたマルクスの深い笑みを見て思わず言葉を失う。兄は笑ったままなのに、黙れと言われている気がしてエンジュは口を閉じる。そんなエンジュを見て満足気に頷いたマルクスは、エンジュの腰に手を回して刺青のある辺りを撫でた。機嫌がいいときの兄の癖に、エンジュは詰めていた息を吐く。本当に自分が情けなくて、嫌になる。慕っているはずの姉のささやかな名誉ひとつ、守れやしないのだ。
体育のために髪を結い上げた姉の姿を、エンカクは教室の窓からじっと見下ろしていた。別にいつもと違う姉の髪型に惹かれたわけではなく、姉の観察は習慣のようなものだ。特にあれは先日折檻を受けたばかりだから、見える部分に傷が残っていやしないかと気になっただけで。もっとも、兄は何か意図がない限りはあれに対して誰かの目につく場所に傷を残しなどしないだろう。そもそも、エンジュに対しては精神的な苦痛を与える「躾」がほとんだ。商品のようにあれを扱っている兄は、その価値を損ねるようなことはわざわざしない。実際、今露わになっている首筋にはエンカクのように包帯も巻かれていなかった。
――どっちが悪いんだ?
姉であるエンジュを犯したのは、数日前のことだ。家に二人きりになった日に、組み伏せて、犯して、初めてを奪った。きっかけが何だったのか、エンカク自身よくわかっていない。兄の許可なく外出してはいけないという馬鹿げた言い付けを愚直に守るエンジュに苛立ったからか、苛立つエンカクに怯えるエンジュが可愛らしく思えたからか、掴んだ手首の細さに昂ったからか。ともかく、エンカクは兄が管理していた商品の価値を損ねた。だから兄は問うたのだ、悪いのはどちらかと。責のある方に二人分の折檻を受けてもらうと、いつもの軽薄さを引っ込めた酷薄な目で弟妹を見下ろした。「俺がしたことだ」「私が悪いです」と重なった返事を聞いて、兄は慈悲深い笑みを顔に貼り付けていた。そして、「なら二人とも折檻だ。二人とも、二人分受けてもらうよ」とエンジュから地下室に引き摺っていったのだ。
――お前たちはお互いを思いやれる優しい子に育ったんだな、俺は嬉しいよ。嬉しさのあまり、反吐が出る。
どちらも悪いという結論になったところで、この兄は二人に罰を分かち合わせることなどしない。それをわかっていてあの女が「私が悪いです」などとのたまったのは、耐えられないからだ。犯された被害者のくせに、エンカクだけが自分の分まで罰を負わされることに耐えられない。あの男も、わかっていてそう言ったに決まっている。自分の見えないところで嬲られた後のエンジュの姿を見せられることが、エンカクにとって一番の罰になることも。頬を張られて正気に戻されたエンジュが、それから弟が罰を受ける姿を見せられて更に傷付くことも。最初から何もかもわかった上で、ああ言ったのだ。本当に、姑息で狡猾でいやらしい男だ。そういう男が長子だとわかっているのにエンジュに手を出してしまったことを、後悔する気はないが。
「……くん、あの、エンカクくん」
遠慮がちな声に、視線を窓の向こうから戻す。何やらもじもじとした女生徒が、エンカクのことを窺っていた。
「あのね、提出物のプリント……」
「……ああ」
何を求められているのか察したエンカクは、さっさと机の中からファイルを取り出してプリントを女生徒に差し出す。頬を赤らめてそれを受け取った女生徒がいそいそと戻っていく姿を最後まで見送らず、また窓の外に視線を向ける。女生徒の去っていった方向で華やいだ声が上がった理由は知っていたが、それに興味を示すことはなかった。自分が同級生たちには「そういう家」の人間として遠巻きにされていることも、それでも容姿の良さやどこか影のある雰囲気に惹かれて好意を寄せる者がいることも、どうでもいい。彼が高校生という身分でいるのは人生における通過儀礼にすぎず、この学校を選んだのはエンジュがいるからだ。ただ、それだけのことに過ぎない。
――エンジュ、君、顔色が悪いよ。先生には言っておくから、保健室で休みなさい。
――ドクター、でも……
――君に何かあったら、ホムラに殴り飛ばされるんだよね……
――は、はい、わかりました。
夏でも全身完全防備の怪しい姿をしたその人間は、「ドクター」と呼ばれている事務員だ。日差しの強さに目眩を覚えたらしいエンジュに、授業を休むようにと忠告して。自分のためには休めないエンジュの性情を知ってか、「自分が困るから」という体でうまく納得させたドクターにエンカクは目を眇めた。あの「ドクター」が何を知っているのか、全ては把握していないが。少なくとも彼は自分たちの「家」のことを知っていて、ああいう態度を取るのだろう。
『エンカク、だめ、』
ゆるして、とずっと泣き喘いでいた姉の姿を思い出す。目が眩みそうなほど眩しい日差しの似合わない、影の濃い女だ。上の姉とも似ていないエンジュは、いっそ兄の方に似ているのかもしれなかった。けれどあのおぞましい兄とは、やはり重ならない。あれの腰に刻まれた蓮の花の刺青は、犯して始めてその容を知った。エンジュの肌を目にする機会など、ホムラですらそうそう無いだろう。そういうもの、は全て兄が掌握している。名前を呼ぶのも反吐が出るが、兄というのも虫唾が走る。あの花を暴いたことに、やはり後悔はない。汗ばんだ白い肌、何度も刺青をなぞる指に震える背中、紅潮する頬。すべてが、エンジュを兄の手から奪い取った証だ。ドクターに連れられて校内に戻っていくエンジュが、一瞬エンカクの方を見たような。そんな気がして、ふっと口角を吊り上げた。
210125