いつだって姉は、陽炎よりも遠いところにいた。
「もう刀は持たないことにしたんだ」
龍門の一角、とある薬屋の軒先で隻腕の女はそうのたまった。じろりと見下ろす「弟」の眼光にも怯まず、呑気に茶を啜っている。エンカクに出された茶は、一度も手をつけられることなく虚しく湯気を立てていた。
「そんなことは聞いていない」
「ああ――この腕? 私の自業自得だから、気にしないで」
「誰も慰めてなどいない。お前を責めているんだ」
「……なんで?」
席を勧めても、腕を組んでホムラの正面に立ったまま動かない。静かな声に問われて、そんなこともわからないのかと言いたげにエンカクは舌打ちをした。
「お前は腕を捨てたんだ」
「そこまで言う?」
「言うとも。お前は俺から逃げるために、その腕を捨てたんだ」
エンカクは、苛立っている。その純粋な怒りはホムラに向けられているようでもあり、エンカク自身に向けられているようでもあった。
「卑怯な女だ。勝ったままで逃げるつもりか」
「逃げるも何も、私はただ君に相対するに相応しくなかった。それだけのことだよ」
「何をふざけたことを。俺は心底渇望していたんだ、お前に勝つ日のことを」
「君に負けるって、死ぬってことじゃない?」
「だから何だ?」
「死んだらこうしてお喋りをすることも、一緒にお茶を飲むこともできないんだよ」
「……本気で言っているのか?」
正気を疑うような目で、エンカクはホムラを見ていた。ああ、やはり弟は自分とは違う生き物なのだ。そして、弟の方は自分を同類だと思っていたらしい。死闘の果てに命を散らすことを、至上の喜びとするような。そんな生き物だと、誤解してくれていたらしい。ほんの少しの畏れを矜恃で隠して、ホムラは紅を引いたように赤い唇ですうっと弧を描いた。
「本気だよ。失望してくれても構わない、私はずっと君とこうしたかったんだ」
「……こんなことが、か?」
会話は険悪で、エンカクは出された茶に手もつけていない。それでもどこか満足げに笑うホムラに、エンカクは眉を顰めた。
「理解し難いな」
「うん、そうだろうね。だから私は腕を失くしたのかもしれない」
淡々とした言葉には、嫌味や当てこすりの意図は感じられない。ホムラ自身、そんなつもりなど一切無いのだろう。だが、エンカクは苦々しい顔付きになった。自分の湯呑みを掴んで、冷めきった茶をひと息で呷る。
「あれ、もう帰ってしまうの」
踵を返したエンカクの背中に、ホムラの声がかかる。惜しむようなその声色が本心だろうからこそ、エンカクは渋面を作った。
「もっといたらいいのに」
「……お前がそんな温い生き物なものか」
刀の柄に手をやって、エンカクは一度だけ振り返る。その炎色の目は、同じ目をした女のぺたりとした袖を捉えていた。
「俺がお前を損なったのか?」
「思い上がらないで。私は元から『こう』なんだ。ずっとそうだった」
自分のせいで腕を失くしたからそんな温い生き物になったのかと、弟は言う。あくまで穏やかな声で反駁するホムラの言葉を黙って聞いていたエンカクは、やがて深々とため息を吐いて姉に背中を向ける。そこにあるのはホムラへの失望ではなくエンカク自身への怒りであると、嫌味なほどにホムラは理解してしまっていた。
210125
五反田さんちの「姉」がどうしても書きたくて……自己解釈なので事故ってたら申し訳ないです。