「海に行きたいの」
滅多に我儘を言わないエンジュが、珍しくそんなことを言うから。だからエンカクは、次姉の手を引いていつもと違う電車に乗った。授業はサボることになったが、エンカクにとってそんなことはさしたる問題ではない。普段そういう小さいことを気にするエンジュも、妙に静かな顔で窓の外を眺めていた。黙ってるエンジュは本当にただ綺麗なだけの女だと、エンカクは隣に座る姉をじっと眺めて思う。ガタゴトと揺れる電車の音が、エンジュとの沈黙をぎこちなく守り続けている。陽の光に透けそうなブラウスに包まれた華奢な肩を眺めていると、おもむろにエンジュが口を開いた。
「……兄さま、怒ってるかしら」
「この程度であいつが怒るものか」
たかが一日、学校をサボるだけだ。普段から素行も良く品行方正な生徒として振舞っているエンジュが一日休んだところで、学業にも内申にも差し障りはあるまい。馬鹿正直に「エンカクと海に行ってきます」と兄に連絡していたのは呆れたが、「構わないよ。気をつけて帰っておいで」とまるで鷹揚な返信が来ていた。あの男は思い付きで妹を嬲る最悪の兄だが、ぬいぐるみを構うように甘やかして可愛がっている一面もある。ホムラが見たら、呆れて肩を竦めることだろう。よそ行きのペラッペラな笑顔で、適当な言い訳をつけて弟妹の休みを学校に連絡しているマルクスの姿が思い浮かぶようだった。普段から授業をサボることも多いエンカクには、自分が連絡してやるのは今日だけだと釘を刺すメッセージが届いていたが。むしろ兄に借りを作る方が気持ち悪いと思っているエンカクは、既読すらつけず無視をしていた。
「お前、海になんか行きたかったのか?」
「……どうなんだろう……?」
「行きたいと言ったのはお前だろう」
「なんとなく、悪いことをしてみたくて」
「悪いこと、ねぇ……」
ささやかな、本当にささやかな反抗だ。エンジュはただ、自分に許される範囲で誰かを困らせてみたかったのだろう。きょうだいは少し困らせていい相手だと無自覚ながらわかっているのだから、本当にこの女はこの女でタチが悪いものだが。エンカクを連れて来たのも、ただきょうだいの誰かが傍についていない外出を許されていないだけだ。どうしてエンジュが突然「悪いことをしたい」などと思ったのか、一応の心当たりはあった。
「嫌なら逃げればいい」
「……そうね」
唆したつもりだったが、わからないのかわからないフリをしているのか。返ってきたのは、ただ曖昧な笑顔だった。
「海って、案外静か……」
「またくだらない映画でも見たのか? 観光地でもなければこんなものだ」
「く、くだらない映画じゃないよ……」
「ホムラの借りてくる映画に、面白いものがひとつでもあったか?」
「……な、なかったけど……でも、姉さまには面白いのかも……」
「安心しろ、あれもどうせ面白いとは思っていない」
ただ陽の光を反射する青色がどこまでも続く光景に、エンジュはどこか拍子抜けした様子だった。一体何を期待していたのかと呆れ半分可愛さ半分で問いかけるも、そういえばこれは長姉の借りてくる映画に妙な影響を受けている節がある。姉ふたりがココアを片手に並んで見ている映画といえば、若い世代に流行りだというものがほとんどで。はっきり言ってあまり似ていない姉ふたりが珍しく揃ってつまらなさそうな顔をしているものだから、エンカクは呆れつつも可笑しく思ったものだった。
「面白くないのに、姉さまは映画を観てるの……?」
「お前と同じだな」
「姉さまは……私なんかに似てるって言ったら、失礼だよ……」
何か反論しようとして思い付かなかったのか、エンジュはまた鬱陶しい卑屈を口にして話を逸らす。波打ち際に近寄ってしゃがみ込んだエンジュは、ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせて遊び始めた。
「……つめたい」
冷たいと言いながらも、どこか楽しそうに手で波を受けたりして。そのままもっと深く海に腕を浸してみようとするエンジュを見て、エンカクは思わずその腕を掴んでいた。
「どうしたの……?」
「……いや、なんでもない」
何でもないと言いながら、濡れた手を離せずにいた。腕を掴んでしまった理由は、ものすごく馬鹿げていたから口にはできなかった。お前は花のくせに海水に浸かって大丈夫なのかと、そんなふうに思ってしまっただけなのだ。不思議そうに見上げてくるエンジュは、エンカクの手を振りほどかない。自分を犯した男にそんなふうに接していられるこの女もやはりどこか、「普通」ではなかった。
「……嫌なら、逃げればいい」
エンカクがまたその言葉を口にしたわけを察したのだろう、エンジュはおどおどと辺りを見渡した。まるで、この場にはいない兄に怯えているかのように。兄に聞かれるわけでもないのに、エンジュは声を潜めてエンカクの耳に顔を寄せた。
「逃げたいなんて、思ってないの。本当に」
「お前がそう言ったところで、俺はお前を攫うぞ」
「……困るの」
「誰がだ?」
「……みんなが……」
「お前のくだらない言い訳に使われる『みんな』とやらは哀れだな」
エンカクの言葉に、エンジュは痛そうな顔をする。この女をどこに売りつけるか、あの兄はいよいよ本腰を入れて思案し始めたのだ。弟に傷物にされたとはいえ、それでもエンジュという女には充分過ぎるほどの商品価値がある。高値で売り捌けるうちに、売買契約を結んでしまいたいのだろう。とはいえ、焦りを見せて買い叩かれるような真似はしない男だ。エンカクの手の届かないところにエンジュが行ってしまうのは、まだ先のはずだった。
「……家族の、役に立ちたいの」
ぽつりと、エンジュは言う。それは腹立たしいことに、この愚かな女の本心だった。
「私は、何もできないから……兄さまみたいに頭も良くないし、あなたや姉さまみたいに強くもない。できることがあるなら、したいの……」
「そう、あいつに言われたのか?」
「兄さまは……兄さまは、優しいから……」
「どうだかな」
鼻で笑って、エンカクは掴んでいた手を引いてエンジュを立たせる。細い腕も、華奢な体も、どうとでもできることを犯したときに知った。例えば今この女を抱えて海に二人で沈んでしまうことも、エンカクには容易いことだ。そんなことなど少しも警戒せず、エンジュは「弟」と海に来たのだろう。我儘を言って困らせたかったのだろうが、生憎こんなことで困るような者はきょうだいの中に誰一人としていない。むしろ滅多にない我儘が可愛いと、愛しさと執着を深めるだけだということをエンジュは知らない。まったくもって、幸せな女だ。
「あ、エンカク……アイスが売ってるんだって、行こう?」
海への興味は既に失くした様子で、エンジュはエンカクの手を引いた。マルクスがあっさりとエンジュのサボりを認めたのは、こういうところを解っていたからなのだろう。本気で海へ行きたかったわけでもなく、何かに強く焦がれることもなく。本当にしたいことも欲しいものも外にはないから、結局は家族の元に帰ってくる。「行っておいで」ではなく「帰っておいで」という言葉を選んだのも、つまりはそういうことだろう。それでもエンカクは、大人しくエンジュに腕を引かれてやる。寂れたプレハブの出店を見て楽しそうに笑うエンジュは、陽光が似合わないくせにきらきらと華やいで見えた。
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