「おい」
マルクスがホムラの肩を掴んだ刹那、ホムラの隣にいたエンジュは咄嗟に「姉の」間合いから逃げるための歩数を数えた。案の定、肩の手を振り払ったホムラは既に蹴りを繰り出していて。巻き添えで鼻先を掠めた長い脚に体勢を崩したエンジュは、受身も取れないまま無様に床に倒れ込む。そのまま這いずるようにして二人と距離を取ったエンジュは、殴り合いを始めた兄姉を青い顔のまま見上げた。
「姉さま、兄さま……」
か細い震え声で制止のために呼びかけても、互いの息の根を止めることに集中している二人にそんな声が届くはずもなく。鈍い殴打の音や、互いに掴んだ頭を壁やテーブルに打ち付ける派手な音がリビングに響く。張り替えたばかりの飾り棚のガラスも、どちらのものかもわからない蹴りが突き破っていた。喧嘩の原因など、エンジュにわかるはずもない。この二人は毎日のように喧嘩――というにはあまりに激しい殴り合いをしていて、互いに本気で相手を殺しにかかっているようにしか見えない。非力なエンジュがそれを止められるはずもなく、大抵はエンカクに連れられて被害を受けない他の部屋に避難するのだけれど。今日ばかりはどうしても気になるものがあって、エンジュはおろおろとふたりの背後にあるマグカップに視線を向けた。
(みんなで、お揃いなのに……)
今日はホムラと二人で、街に出かけてきたところだった。可愛らしい雑貨屋で、ホムラとエンジュはきょうだい四人で使うマグカップを選んだのだ。ホムラは「あの馬鹿の分は要らない」と顔を顰めていたけれど、マルクスの分だって買ってきてある。月の出費のうち半分が兄と姉の喧嘩の修繕費になるのはいつものこととはいえ、お揃いのマグカップが一度も使われることなく壊れてしまったらきっととても寂しい。そろりそろりと二人の間合いに入らないように気をつけながらマグカップを回収しようと動き始めたエンジュの襟首を掴んだのは、やはりと言うべきか弟の手だった。
「自殺なら、もう少しマシなやり方を選べ」
「エンカク……その、自殺じゃなくて……」
おずおずと二人の後ろにあるマグカップを指さしたエンジュは、二人の心配自体はしていない。平和主義に見えてその実自分のことしか考えていないエンジュも結局この家の人間だなとは思いつつも、人体から出ていいものではない音を響かせる兄姉を一瞥してエンカクはエンジュの腕を引いた。
「諦めろ」
「でも……」
「ホムラなら『また買いに行けばいい』とでも言うだろう」
買った当人たちですら、あんなものに本当の意味で執着などしていないのだ。それなのに惜しんで取りに行って怪我をするなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。ましてや、この女が傷でも負ったなら自分が原因であることなど棚に上げてあの兄は「自己管理もできないのか」とエンジュを責めるに決まっているのに。未だにちらちらとマグカップを気にしているエンジュを脇に抱えて、半ば無理やり避難させる。部屋を出る直前にホムラがマルクスにマグカップを投げつけるべく掴んで振りかぶっているのが見えて、心底馬鹿らしいと思ったのだった。
210212