「ああ、遅かったな」
 エンカクが部屋に入ったとき、マルクスはそう言っておもむろに振り返った。右手の中にある端末を握り潰したいのを抑え、今にも兄を殴りたいのも堪えて。その体の下に裸のエンジュがいなければ、端末に送り付けられた写真のことがなければ、エンカクは兄を殴り殺していただろう。
「お前、自分で思ってるよりこいつのこと好きじゃないだろ? 普通は王子様よろしく駆け付けると思うけどな」
「……俺はそれの『王子様』などではない」
「冷たいんだな。もっと優しいと思ったばかりなのに」
「お前が俺をどう思おうとどうでもいい、それを離せ」
「おい、自分たちの立場をわかれよ。末子が俺に命令するつもりか?」
 暗に、どころか明確にマルクスはエンカクを脅していた。エンカクの端末に送り付けられたのは、ひと目で犯されているとわかるエンジュの写真だった。今マルクスの下でぐったりと失神しかけているエンジュがどんな目に遭ったかなどと、想像に難くない。なぜこの男に隙を見せるのかという怒りも当然あったが、もはやエンジュのそれは病的ですらある。そしてそれ以上に、マルクスへの激しい怒りがふつふつと煮えたぎっていた。
「自分のものに手を出されるのは不愉快だ」
「お前のもの? おい、エンジュ……逆だろう、なあ。お前は弟ひとり御しきれていないのか? あまりにも情けないよ」
「……ぅ、」
「返事もできないのか、本当にお前は愚図だなあ。ところでエンカク、お前は何を根拠にこれが自分のものだと主張するんだ?」
「何?」
「妹は兄のものだろう」
「姉は弟のものだ」
「はは、聞いたか? エンジュ、お前弟にもモノ扱いされてるんだな」
 エンジュの髪を掴んで無理やり顔を上げさせたマルクスが、へらへらと愉快そうに笑う。花壇を踏み荒らされるような不快感に、エンカクは反射的にその手を掴んでエンジュの頭から退けさせていた。途端に笑みを引っ込めたマルクスが、つまらなさそうに目を細めてエンカクを睥睨する。
「お前、本当に立場がわかっていないな」
「俺のものに触れられるのが不快なだけだ」
「今更じゃないか、そんなの」
「……どういう意味だ」
「ああ、もしかしてこれが処女だったから自分が初めての男だと思ったのか? お前、意外と可愛いところがあるじゃないか」
「…………」
「そうだな、処女だったよこいつは。だって俺が挿れたのは、尻の穴だったんだから」
 みしりと、エンカクが掴んだマルクスの腕が軋んだ。顔を顰めて腕を振りほどいたマルクスの口元は、それでも愉快そうに吊り上がっている。怒り心頭といった表情で自分を睨めつけているエンカクの内心を見透かしたかのように、肩を竦めてぺらぺらと語り出した。
「いや、まさかお前たちが俺のことをそんなに信用してたとは思わなかったな。悪いなあ、弟妹に愛されていて嬉しいよ。てっきり、わかっているのかと思っていたが」
「……貴様、」
「エンジュ、お前も俺のこと信じてたのか? 可愛いなぁ。『お前が大人しくしてるならあいつには手を出さないでやる』なんて、普通信じないだろう」
「え……?」
 呆然と顔を上げたエンジュの頬は、何ともつかない液体に塗れて悲惨なことになっていたけれど。それでもその絶望に塗り変わる一歩手前のような愕然とした表情は、マルクスがかつて何をしたのかエンカクに理解させるには十分すぎた。「エンカク、」と弱々しい声で名前を呼んでエンカクをぼうっと見上げたエンジュは、それ以上を言おうとはしない。訊いてしまうのが、怖いのだろう。嘘だと言ってほしいと縋るようなエンジュの目は、けれど既に現実を理解していた。
「ごめんな? エンジュ、エンカク。俺、お前たちに同じこと言って二人とも犯してたんだよ。エンジュはともかく、エンカクがそれで言うことを聞くとは思ってなかったが……いや本当に、俺たちは思ったよりも仲の良いきょうだいだったんだなあ。感慨深いよ」
「……あ、」
 ぱしりと、エンジュが自分の口を覆う。吐き気を堪えているようにも、叫び出したいのを抑えているようにも見えた。刀の柄に手をかけそうになるのを僅かに残った理性で押し留めながら、エンカクはゆっくりと息を吐き出す。殺すのは易いが、それはこの最悪にふざけた男の願望を満たす行為だ。喜ばせるだけだとわかっていて、その思惑に嵌ってやるわけにはいかなかった。例え、自分と姉の尊厳を最低な形で踏み躙られたとしても。
「エンジュのことはお前の代用品くらいに思ってたけど、それでも売ったあとは時々後悔したんだよ。まさかお前が後を追って飛び出すくらい、こいつを大事にしてるとは思わなくてさ。それに、よく見るとこいつも可愛いだろ? 商品価値を下げたくなかったからあの時は尻で済ませてたけど、やっぱり女であることがこれの唯一の価値だな。エンジュが生きててまた会えて、本当に嬉しかったよ。しゃぶるのは下手だけど、それを差し引いても体は最高だ。顔もお前によく似てるし」
「な?」とエンジュの頭を掴んで、軽く揺さぶるマルクス。泣きながら何か不明瞭な呻き声を漏らすエンジュから、マルクスはパッと急に手を離して。ぼすりとシーツに頭を沈める形になったエンジュは、押し殺すように泣いて震えている。きっと、この男にされたことがまざまざと思い出されて耐えきれないのだろう。エンカクとて、歯を食いしばって屈辱に耐えていたのが無駄だったと知って怒りで震えそうだった。幼かったエンカクが姉を良いようにされないためには、下劣な兄の要求を呑む以外に方法が無く。今にも殺してやりたいという激しい怒りが宿った目を見下ろして、この最低の兄は愉快そうに笑ったものだった。口にするのもおぞましいような、吐き気を催す行為をエンカクに強いて。それでも同じように汚らしい行為を姉にされることを思えば、それに対する怒りが己が身を踏み躙られる屈辱に勝った。兄の言うようにエンジュを大切にしていたわけでも、マルクスのことを信用していたわけでもない。ただ、自分のものを他人に良いようにされるのが許せなかっただけで。エンカクに対するようにはエンジュに執着していなかったマルクスは、エンジュを金持ちの変態に売ろうとしていた。だから、買い手がつく前に傷物にしようとするなどとは思えなかっただけだった。この男の悪辣さを見誤っていたのが腹立たしく、同時にこの男は自分で言うよりエンジュにも執着があったのではないだろうかと冷静な部分が思う。どうせ傍目にはわからないからと、商品管理に手を抜く男ではない。人間に対してはあまりに最低でいい加減でふざけた男だが、自分の「仕事」に対しては気味が悪いほど徹底しているのだ。それが商品にするつもりだったエンジュにも手を出していたということは、本人が思うよりもエンジュに執着があったのだろう。あるいは、それすらエンカクに対する執着によるものかもしれないが。弟を犯しただけでは飽き足らず、歪んだ欲をその弟によく似た妹にまでぶつけて。エンジュもどうせ兄の言うことを聞いたのは「自分のせいで弟が酷い目に遭うのが耐えられない」からだろう。互いに自分のために互いを守ったつもりになっていた姉弟を見て、マルクスはずっと一人で腹を抱えて笑っていたのだ。本当に、反吐が出る。そしてこの男が再び現れて、何事もなく終わるはずがない。犯されてボロ雑巾のようになったエンジュだとて、マルクスにしてみればほんの暇潰しのようなものだろう。エンカクを怒らせるのに丁度いい手段で、エンカクなら絶対にしない表情を浮かべるエンジュが面白くて遊んだだけだ。ましてや今のエンジュはあの時の子どもではなく「女」なのだ、この兄にとってはさぞかし面白い暇潰しになったのだろう。
「まぁでも、ひとつのものを食べ続けるのも飽きるだろ?」
「…………」
「ああ、お前は意外と一途なんだな。エンジュだけで満足なのか。俺はちょっと欲張りだから、きょうだいみんなで仲良くしたいけど」
「気色の悪いことを言うな、反吐が出る」
「でもお前は俺に逆らえない。そうだよな?」
 トントンと、マルクスはエンジュから取り上げたらしい端末をつついた。エンカクに画像を送り付けてきたのは、その端末を勝手に使ってのことなのだろう。写真での脅しなど、わかりやすいブラフだ。例えエンカクが兄の端末を全て壊したところで、この男は姉をどうにでもできる術を持っている。何よりこの女自身が、兄の支配に囚われているのだ。そして、如何なる犠牲を払ってでも兄に抗うようにはエンジュはエンカクを愛していない。怖い思いをしたくないだけのこの姉が、兄に従うことを自分で選んでいる。自分という存在を刻みつけるべく姉の体を隅々まで暴いて蹂躙してきたつもりだったが、犯されたことでエンジュはすっかり兄のお人形であることを思い出してしまったらしかった。そんな姉をなお奪おうと思うなら、対価を払うのはエンカクだ。心底、腹立たしいことではあるが。
「何が目当てだ」
「なんだ、結局姉思いなんだな。思ったより素直じゃないか」
「舌を抜かれたいのか?」
「冗談の通じないやつだな、お前は。ほらエンジュ、弟をあやしてやれよ」
 マルクスの手がまたエンジュの髪を掴む前に、エンカクがエンジュを抱き寄せる。けれどマルクスはそれを不快に思うような様子も見せず、むしろ愉しそうに笑った。
「お前、咥えさせたことないんだってな? 少しは使えるようにしておいたから、しゃぶってもらったらどうだ」
「……何だと?」
「っ、」
「ああ、それとも咥えさせるのが嫌いなタイプか? いつもどうやってそいつを抱いてるのか、見せてくれよ」
 ヘラヘラと笑う兄の顔面を、殴りつけたくなる。姉を犯すことで支配権を奪ってきたエンカクにそう言うのは、姉弟の行為すら兄の支配下に取り込もうとしているからなのだろう。エンジュとエンカクの間にどんな関係があろうと、結局弟妹はマルクスの管理下にある存在に過ぎないのだと。そうやってまた二人を「調教」しようとしているのだ。カタカタと震えているエンジュの体を、キツく抱き寄せる。肩に指が食い込むほど強く掴んでいるのに、エンジュはいつものように痛いと言わなかった。心底、兄に怯えている。自分の上着を脱いでエンジュにかけてやったエンカクは、刀の柄に手をかけた。それを見たマルクスは、白けたような顔をして肩を竦める。
「おい、違うだろ。こんなつまらない殺意は求めてないぜ」
「誰がお前を殺すと言った?」
 エンカクが抜いた刀の切先を向けたのは、エンジュだった。目の焦点が合っていないエンジュは、自分の首に刃が添えられていることにも気付いていない。マルクスの眉が、ぴくりと動いた。
「お前にそいつが殺せるものか」
「試してみるか?」
「それで俺を脅したつもりかよ」
「少なくともこの首を落とせば、これはお前から解放される」
 脅しているのはマルクスかもしれないが、エンジュが死ねばその脅しに意味はなくなる。エンカクには最初から、脅迫など何の意味も持たない。元々エンジュの死に執着しているエンカクにしてみれば、遅かれ早かれ落とす首である。兄が関わるのは業腹ではあるが、それでも兄に言われてのことではなく自分から望んで殺すのなら許容できる終わりだった。マルクスが引き下がるのならそれはそれでよし、エンジュを殺せるのならまたそれも良い。どちらにせよ、この兄の人形遊びに付き合ってやる気など微塵もなかった。
「……萎えた」
 ニヤニヤ笑いを引っ込めたマルクスが、ガタリと立ち上がって椅子を軽く蹴る。震えているエンジュにはもはや見向きもせず、スタスタとドアに向かった。
「写真は消してやるよ。一度失敗したネタでまた脅すのも馬鹿らしいからな」
「それはこいつに直接言え」
 エンカクの言葉には答えず、マルクスはヒラヒラと手を振って部屋を出て行く。エンカクの元に残されたのは、未だに正気に戻っていないエンジュだけだ。エンカクが刃を収めても、マルクスが置いていった端末を回収しても、はらはらと涙を流してどこともつかぬ宙を眺めている。あるいはエンジュがこんな状態だから、マルクスはあっさりと引き下がったのかもしれなかった。
「おい、『エンジュ』」
 あえてそちらの名前で呼んでやったというのに、エンジュは薄く柔らかそうな唇を引き結んでいるばかりだった。元々エンカクの羽織りやすいよう大きめに作られている上着は、華奢な姉に被せられていると冗談のように肩が余っている。綺麗な容姿のわりにどこか少女めいた怯えを見せる姉ではあったが、今ここで泣いているのは確実に兄の従順な人形だった頃のエンジュだ。膝裏と背中に手を回して抱き上げると、ゾッとするほど軽い。太腿から伝い落ちた液体が床にぱたぱたと丸い染みを作って、エンカクは嫌な顔をして床を見下ろした。けれどそれらを後回しにして、エンジュをシャワールームに連れて行く。こういうときは、熱い湯を頭から浴びせるのがいい。焼けるほどの熱さに、ここが深海ではないことを思い出せるのだから。小刻みに震えている体は、エンカクのものだ。熱を与えて、焼き付けて、何度でも思い出させてやろう。やはりエンカクは、エンジュの『王子様』などではなかった。
 
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