――姉さま、姉さま。
昔から、エンジュはわかりやすくホムラを慕っていた。ホムラが少し年の離れた妹を猫可愛がりしていたのは単純に同性のきょうだいというものがエンジュしかいなかったのもあるし、子どもの頃からドブのごとき人間性を隠しもしなかったマルクスや気難しく人に慣れないエンカクに比べればよほど扱いやすかったというのもある。それを言えばホムラもエンジュも子どもの頃から今に至るまで欠点は変わりなく、ホムラは『普通』のごっこ遊びにかまけて本質を見ることはなかったしエンジュもまた人の顔色ばかり窺って自己主張などしない子どもであったのだが。ともかく、その欠点すら噛み合ってホムラとエンジュはうまくやれていた。人形のように可愛らしい妹をまさしく着せ替え人形にして遊ぶ姉に、末弟のエンカクは度し難いものを見るような目を向けていたが。従順で、いつもニコニコと言うことを聞いてくれて「姉さま」と無邪気に慕ってくれる可愛い妹。マルクスが『おままごと』と嘲るのは奇しくも的確な表現ではあったのだが、如何せん本人たちがその関係で満たされてしまっている以上的確だろうと正確だろうと何の妨げにもならなかったのだ。つまるところ、ホムラはエンジュに懐かれている。ものすごく。
「……むー、」
「よしよし」
体が冷えるよ、とホムラはエンジュの背中からずり落ちたブランケットをかけ直す。月の障りがひどく重いエンジュは、不機嫌なくせに甘えたになるという可愛らしい暴君ぶりを発揮する。エンジュにとって「優しくて怖いことをしない姉さま」であるホムラに引っ付いて離れず、珍妙な唸り声を上げてご機嫌ななめであることを主張するのだ。ホムラがエンジュに構うことでこの時期特有のイライラや情緒不安定も和らぐようなので、これ幸いと甘やかしているのだが。『妹』らしい我儘も顔を覗かせ、ホムラがメールを確認しようとスマホを弄ろうものならそんなものより私を撫でてと言わんばかりに頭をぐりぐりと押し付けてくる。普段は努めていい子にしているエンジュがこんな風に甘えを見せるのは珍しく、マルクスやエンカクには見向きもせず自分にくっつくのをいじらしいと思う気持ちもあった。それだけ余裕がないエンジュの不調を手放しで喜ぶわけにもいかないが、可愛いものは可愛いのだから仕方ない。
「ほらエンジュ、お前の好きなココアだよ」
「…………」
「お前、その毎回の嫌がらせやめたら?」
「嫌がらせじゃなくて場を和ませるジョークだろ? お前は本当に何もわかってないな」
「天岩戸になってたら世話ないけど」
ソファに座っている姉妹の前に、マルクスが膝をつく。その手にあるのは生理中のエンジュがあまり好まない銘柄のココアで、案の定無言でぷいっと顔を背けたエンジュはもぞもぞとホムラの影に引き篭もる。呆れたように忠告するも、マルクスは小馬鹿にしたような表情を浮かべてホムラを鼻で笑った。いよいよ呆れたホムラは、肩を竦めてエンジュの頭を撫でるけれど。ホムラの背中に頭を埋めたエンジュは、マルクスの呼びかけをすっかり無視している。野生の勘か防衛本能か、そういうものが強くなるのか生理中のエンジュは日頃の関係からは考えられないほどマルクスに対して塩対応だ。いい気味だ、と思いつつもマルクスがそれすら楽しんでいるような様子でいるのが鬱陶しい。普段は思いつきで虐めてみたり気分で暴力を振るったりする最低の兄のくせに、エンジュが甘えているとわかると嬉々として甘やかしにかかるのだ。その手際が妙にいいのも、そのくせわざとエンジュに素っ気ない反応をされる構い方をするのも理解し難いし気に食わない。エンジュの機嫌が下降しているのを見抜いて即座に毛布を用意したのはマルクスであるし(その毛布をエンジュにかけてあげたのはホムラだが)、手早く水と薬を用意したのもマルクスだ(むうっと頬を膨らませて動きたがらないエンジュを宥めて薬を飲ませたのもホムラだが)。別棟に住み込みの若い衆たちを使わずに自ら動くあたり、マルクスなりにエンジュを可愛がっているつもりなのかもしれない。それにしたってお姫様に傅く従者のように甲斐甲斐しくエンジュに尽くすマルクスの姿は、ホムラをして薄ら寒いと感じさせるものがあった。
「……放っておけば適切な休養をとる人間を、なぜそうも構い倒すんだ」
心底理解し難いと言いたげな顔をしてリビングに入ってきたのは、末弟のエンカクだった。上の兄姉とは違い生理中のエンジュには必要以上に接触しようとしないエンカクは、エンジュの不機嫌が構う相手がいるからこその甘えであるときょうだいの誰よりも理解している。あれやこれやと世話を焼いて不機嫌なエンジュをわざわざ可愛がるホムラやマルクスの思考が度し難いのだろう、水だけ取りに来たらしいエンカクはソファに近寄りもせず冷蔵庫に向かう。「薄情な弟だなぁ」とわざとらしく眉を下げるマルクスに、エンカクは黴の生えた蜜柑を見るような目を向けていた。
「お前の姉さんが心配じゃないのか?」
「毎月のことだろう。そいつは一人なら大人しく部屋にこもって休んでいる」
わざわざ構うから不機嫌になったり我儘を言ったりするのだと、エンカクはエンジュの方を一瞥もせず言った。マルクスの言うように薄情なわけでも心配していないわけでもなく、むしろ兄姉に構われることで余計な体力や気力を使っているのではないかと思っているだけなのだが。とはいえ体調の悪い人間が人恋しくなる状態にあること自体は理解しているため、兄姉を強く止める気もない。様式美のようになっているこのやり取りが無駄に自己犠牲的なエンジュのガス抜きになっているというのなら、それはそれで良いとは思っていた。
「……エンジュ、部屋で寝る?」
「む……」
それでもエンカクの言葉を気にしたらしいホムラが、ぽふぽふとエンジュの頭を撫でながら問う。ぴったりとホムラの二の腕に頬を押し付けていたエンジュが、うりうりと頭を押し付けるように動かした。全く返事になっていないが、おそらく部屋に戻ることを拒否しているのだろう。あるいは、ホムラから離れたくないのだ。本当に、甘えたのエンジュはいつにも増して可愛い。
「気持ち悪ぃ顔だな」
「お前こそデレデレと気持ち悪い、セメントで型を取って自分の顔を見てみたらどうだ」
エンジュを撫でながら表情をわずかに緩めるホムラに、マルクスが吐き捨てるように罵倒を放つ。ホムラもホムラで遠慮なく「死ね」と同義の罵倒を返すが、いつものように殴り合いに発展はしなかった。少なくとも今は二人とも、どうしようもなくエンジュに甘い。けれどこの可愛い妹が選ぶのは、デレデレと腐った餅のように相好を崩している兄ではなく一見いつもと表情の変わらない姉なのだ。ホムラにはそれが少し、優越感のようなものさえ感じられて愉快である。そう思うのは、罪深いことかもしれないが。
「…………」
姉を独り占めしたがるエンジュの不機嫌は、可愛らしい。それが本当に『可愛らしい』だけで済ませていいものか深く考えないところが、ホムラの欠点であり美点でもあった。
210307