「お前は観賞用の花だったようだ」
嫁いで三年、未だ子を成さぬエンジュにテレシスはそう言った。嫌味や当てこすりではなく、純粋に思ったことを口にしただけなのだろう。その声色は、いつもの通り淡々としていた。
――テレシス様はお優しい。
この家の者が、ひそひそと言葉を交わしているのを聞いた。その通りだと、エンジュも思う。それはテレシスの言葉とは違ってエンジュへの皮肉でしかなかったが、実際エンジュはこの家で果たすべき役目を果たせていないのだ。言われても仕方の無いどころか、兄であるマルクスに比べればそれこそまだ優しいほとだ。先日久しぶりに会ったマルクスは、開口一番「役立たず」とエンジュを罵った。数年前、テレシスがエンジュを未来の伴侶にと望んだときの喜びようが嘘のようだった。テレシスが望んだのは、エンジュの血筋と大人しく聞き分けのいい妻に過ぎないが。それでも、次代へと繋げることのできない血筋などその意味の大半を失うのだ。テレシスが旧くから続く血筋を望んだのは、この男社会においてありえないと言っていい「妹の家督相続」に対抗するためではあるけれど。先代の指名とテレジアの人望があってもなお、才気溢れる嫡男であるテレシスの地位は揺らがない。きっとそれは、エンジュを娶らなくとも変わらなかっただろう。皆もそう思っているからこそ、石女の妻を排して新しい相手を迎えるべきだとテレシスに進言するのだ。
「なぜ、私を離縁なさらないのですか?」
「必要がない」
部下の持ってきた釣書を、テレシスは一瞥もせずにエンジュに渡して処分するように言いつけた。疑問や意見を持つことは求められていないと知ってはいたが、ふと口にしてしまったそれにテレシスはやはり淡々と返事をしてくれる。周囲も、当人である妻ですら離縁を反対しない状況だというのに。顔に出ていたのか、エンジュを見下ろしたテレシスは珍しく言葉を続けた。
「お前にも、私にも不妊の原因はない。問題のない者を遠ざけて、新しく相手を見繕うのは時間の無駄だ」
「そうなのですか……?」
「お前を排して迎えた女が子を産めば、その女は図に乗るだろう。当たり前の責務を果たすだけのことなのに、お前と比較して優れている気になる」
そういうものなのだろうか、とは思うもテレシスがそう言うのならエンジュはただ頷くだけだ。そも、夫に対して疑問を持つことを許してくれているだけで十分すぎるほど寛容だ。その当たり前の責務すら果たせていないエンジュを置いておくことに問題はないのだろうか、などと問うことはない。テレシスは、エンジュが心配するようなことなど全て考えた上で結論を出しているのだ。その決定に口を挟むことなど烏滸がましく、エンジュの浅い考えなどテレシスの邪魔にしかならない。彼の言うことに従って動くこと以上に、彼の役に立てることはない。陰口を言われるのも広い屋敷に居場所がないのも辛くはあったが、テレシスに逆らうことの方がよほど恐ろしかった。テレシスは決して愛情ゆえにエンジュを庇っているわけでも、エンジュという人間に寄り添ってくれているわけでもないのだ。ただ、彼の見ている盤面の中でエンジュはまだ妻である方が都合がいいというだけのこと。エンジュが異常なまでに従順なのは本人の性質とマルクスの躾の賜物でもあったが、テレシスが周りに「そうさせる」男であることも大きいのだろう。エンジュに自覚はなかったが、子どものことさえ除けば彼女は「テレシスの妻」としてうまく噛み合っていた。彼の望んだ通りの「意見を持たず、夫に従い、妻としての役割を果たす」女である、という意味ではあるが。
「跡継ぎがどうしてもできなければ、妹に産ませて養子に迎えるつもりでいる」
「それを、テレジア様は……?」
「こういう家に生まれた女の役割など、他に無い」
当然のように、テレシスは言う。女の意見も、同意も必要としていない。悲しいことだとは、思わない。そういうふうにエンジュは教育されている。それに、ある意味ではそれこそがこの兄妹にとって最善の落としどころになるだろうことも理解できた。いくら先代の指名があり本人も上に立つ者としての才覚を備えているとはいえ、テレジアは女であり妹だ。彼女が「本家」を担うことは、外部からも手出しを誘う。先代の遺志を尊重するとしても、彼女が将来産む子を跡継ぎに据えるのがもっとも現実的だ。例え自分の直系ではなくとも、妹との争いを収め自身の主導で家を存続させることを目的としているテレシスには妥協できる範囲なのだろう。そう、わかってはいるのだが。
(テレジア様はきっと、ご自身の子が道具のように扱われるのを良しとはなさらない)
優しい人だ。敵対している兄の妻であるというのに、エンジュに家での立場がないことまで気にかけてくれて。テレシスがエンジュを「妻」という道具として扱うことに、誰よりも憤っていた。男に逆らわないことを叩き込まれて育ってきたエンジュが戸惑うほど、彼女は優しくて、眩しくて。そんなテレジアが、家を存続させるための装置として子を産まされることを許容するだろうか。そんなことを考えるのが、既にテレシスに対する不遜であることに気付いてエンジュは口を噤む。ただ、テレジアには彼女の思うように幸せになってほしいと思う。それくらいには、エンジュも恩というものを知っていた。
「……どうした」
「いえ、何も……」
「そうか」
何もない、などとエンジュの言葉を額面通り受け取ったわけではない。ただ、興味が無いのだ。エンジュの内心など、テレシスは知る必要を感じていない。その距離感は、普通の夫婦であれば寂しくて耐え難いものだったはずだ。けれど、エンジュにとっては歪な安堵をもたらしてくれる。テレシスは、エンジュの心を乱さない。あの烈しい炎のような弟と、違って。
――お前は幸せにはならないだろうな。
結婚式の前日、エンカクに言われたことを思い出す。幸せか不幸せか、そんなことを考える必要は今のエンジュにはない。テレシスの支配と無関心は、エンジュにとって居心地のいい静けさだ。それでいいのかと、弟も義妹もきっと言うのだろう。それでいいのだと胸を張って言う勇気は、未だ得られそうになかった。
210409