「どうかなエンジュ、兄さまに似合うかい?」
やや芝居がかった口調は、いつからこの兄の常となったのだったか。それでも不思議とその声色は大仰ではなく兄に馴染んでいて、『マルクスという人間は生粋の演者である』というネット上の言葉に内心ひっそりと同意したものだ。もっとも兄本人は、その評に冷笑を浴びせていたけれど。くるりと回ったマルクスが身に付けているのは、光を全て吸い込むほどに黒いカソックだ。次の映画で着る衣装を特別に持ち帰らせてもらったのだと、エンジュに披露してくれた。
「とてもよくお似合いです、兄さま」
神父の格好は本当にとてもよくマルクスに似合っていたから、本心からの賛辞を贈る。整った顔に綺麗な笑みを浮かべたマルクスは、嬉しそうな声を上げてエンジュを抱き上げくるくると回った。長い衣装の裾が、空気を孕んで大きく膨らむ。
「お前がそう言ってくれるなら、主演も無事こなせるよ」
「私の言葉なんて……兄さまはお一人で何でもこなせてしまえるのに」
「本当にそう思うか?」
タチの悪い冗談だと、エンジュはころころと笑う。エンジュの言葉など関係なく、マルクスは自分自身のためにどんな役だって演じきってしまうだろう。誰かのために、などこの兄にいちばん似合わない言葉だ。そして、そんな兄のことをエンジュはエンジュなりに尊敬している。独りで立って、独りで歩いて行ける人。敵は多いし味方は少ないけれど、元から味方を必要としない兄の寂しい強さは怖いくらい魅力的に思えることもあった。エンカクやホムラには、到底言えないけれど。婉曲な表現でそう伝えると、マルクスは心底愉しそうに笑う。「お前は本当に聡い子だよ」と嗤うその表情は、神というより悪魔にでも仕えていそうなものだった。人格も纏う雰囲気も軽薄で、ともすれば下品ですらあるのに、真面目なサラリーマンやら敬虔な神父の役が似合うのはどうしたことか。マルクス七不思議とネットでは言われていたな、と他愛もないことを思い出した。
「まあそれはいいけど、収録じゃあ雪山に登らされるんだ。全く勘弁してほしいよな」
「CGを使わないんですか?」
「話題作りだとさ。古い人間は必要のない手間をかける若者が大好きなんだ」
「そう、なんですか……」
「勘弁してほしいよな、」
エンジュをソファに下ろしたマルクスが、ぽつりと同じセリフを繰り返す。それはまるで台本の一節のように現実味が無くて、それなのに妙に本心くさく聞こえる。首元のロザリオを摘んで口付けたマルクスは、その美声で朗々と謳うように脚本を諳んじた。リビングのソファの上で、普段着の妹を前にしていてもマルクスの演技は揺らがない。あるいは本当に、この兄にとって演技は呼吸と同等なのかもしれなかった。
「お前に祈ろうかな」
「?」
エンジュの太腿に顎を乗せて、マルクスは言う。何の話だろうと首を傾げるエンジュに微笑んで、少し眩しそうに目を細めた。
「神に祈るシーンだよ。生憎、俺はカミサマとやらを信じていない」
「それで、私に?」
「そう、俺の可愛い天使。神なんかに祈るより、きっと迫真の演技になる」
この人に「真に迫る」ものなどあるのだろうかとは思いつつも、エンジュの手を取って指先に口付けるマルクスに照れくさい気持ちになる。時々兄は言葉遊びのように、エンジェルやアンジュとエンジュを呼ぶけれど。そんなふうに自分のことを呼ぶのは、マルクスくらいだ。周囲のエンジュに対する評価は、「氷のような女」なのだから。案外兄馬鹿な一面もあるのだろうか、とエンジュの手を取って遊ぶマルクスの顎を撫でる。もし自分がこんなに救われない神父を前にした天使なら、きっと憐れに思うだろうと曖昧な笑みを浮かべたのだった。
210417