夏の似合わない女だ。うっすらと汗の滲む白いうなじを見下ろして、エンカクは思った。殊更幽霊のような浮世離れした印象が増すという意味では、ある意味夏も似合っているのかもしれないが。とはいえ、どの季節がこの女に相応しいのかといえば首を捻らざるを得ない。強いて言うのなら冬だろうが、共通点を挙げるのならその白さと空虚さばかりだ。結局、姉はこの世に繋がりを持たない生き物なのだろう。それこそ、幽霊のように。光に透けそうなほど白い肌は、兄が厳重にUV対策を言いつけている成果が馬鹿らしいほど現れていた。姉のために日傘を差してやるエンカクは、さぞかし「優しい」弟だろう。
「……重くない?」
「俺を馬鹿にしているのか?」
「そうじゃなくて、その……」
「問題ない。要らない気を回すな」
 ただ、この女が自分で傘を持ったときに開く距離が疎ましいだけだ。それだけの理由で、シンプルとはいえ明らかに女物とわかる日傘をエンカクは姉の代わりにその手に持っている。決して献身だの優しさだの、そういった温いものではないのだ。
「…………」
 エンジュの視線の先には、蝉が転がっている。須臾の命を終えかけ、生きているのか死んでいるのかも曖昧な代物だ。そういえばこういうものをエンジュが気にしたことは案外ないな、とエンカクは横目で姉のつむじを見下ろしながら思う。哀れみもしない。気持ち悪がることもない。ただ、いつもなら見えていないかのようにさり気なく避けて歩くだけだ。
「今度は蝉が怖いのか?」
「ううん……」
 艶やかに太陽光を反射するローファーは、転がる虫を綺麗に避けた。その白く細い指先が小さな命の残滓を拾い上げることは、ない。
「あの人、道の蝉を退けてくれたの」
「……テレシスか?」
「……兄さまの前で、呼び捨てにしないでね」
 怖いもの知らずだと、エンジュは弟のことを思っているのだろう。少しだけ青ざめた頬と、遠くを見るような視線。曰く、兄に命じられたデート――実際には見合いのようなものだが――そこで、エンジュの手を引いていたテレシスは道に落ちていた蝉を無造作に足で退けたのだそうだ。互いに響かない社交辞令ばかりの会話をしながら、なんてことのないように。たまたまエンジュの足の向かう先にいた蝉をそうして道端にやって、そのまま蝉のことは話題にすら上らずテレシスは歩き続けた。婚約者となるだろう男に大切にされた話であるというのに、エンジュの顔には嬉しさや照れのひとつも浮かんでいない。むしろ、何かを憂いているような。
「あの男、お前を蝶よ花よと丁重に扱うだろうな」
「…………」
「お前は幸せになれないだろうさ」
 ただ、出来のいい人形のように取り扱われるだけだ。あの男は、エンジュに恋などしていない。愛も抱かないだろう。必要だから、傍に置くだけ。ホムラでもエンジュでも良かったものを妹の方にしたのは、ただ大人しくて扱いやすいからだ。つまるところ、テレシスはエンジュに興味がない。関心がないからこそ優しくできるという点では、似た者同士だった。エンジュもそれは、わかっているのだろう。
「馬鹿な女だ」
「……そうね」
「誰よりも我儘なくせに、従順ぶるんだな」
「私は私のしたいように、してるの」
「確かにそうだ。お前はそういう人間だ、『姉さん』」
「…………」
「我儘のひとつも言えないのか?」
 日傘の作る影の中、炎色の瞳が揺らめく。腹立たしいほど綺麗に、その橙を細めてエンジュは笑った。
「『紫陽花が見たい』」
 とうに盛りの過ぎてしまった花が見たいと、まるで脈絡のない『我儘』をエンジュは口にする。このつまらない生き物なりに、ふざけているつもりなのだろうか。探そうとして探せないわけではないが、その意図は散った花を盛りに戻してみせろという無理難題だ。エンカクが花の散る姿を好んでいるのを知っていて、そんなことを口にしている。ああ、これは八つ当たりだ。本当に可愛らしい我儘だ。兄のためなのか家のためなのか自分のためなのか、考えようともしないまま嫁いでいこうとするどうしようもない女の精一杯の皮肉。少なくともエンジュは、こんな我儘を他の誰にも言わないのだろう。
「ああ、わかった」
 エンジュは、やはりエンカクに関心がないのだろう。この程度の言葉で弟を突き放して、傷付けたつもりになっている。せいぜい、この女の部屋の窓から見える庭を溢れるほどの紫陽花でいっぱいにしてやろう。この女はこれからの人生で紫陽花を見るたびに、自分が幸せではないことを思い出すのだ。幸せになろうともしなかった、自分のことすら放り出した幽霊のようないい加減な人生であることを。
「楽しみにしているといいさ、『姉さん』」
 積み重なった傷がこの女に何をもたらすのか、完全に読めているわけではない。ただ、涙のひとつくらい零せばいいと思った。自分の前で泣けばいいのにと、それはある意味『弟』らしい甘えなのかもしれなかった。

210725
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