「……困るの」
 本当に、本心から、エンジュは困っているようだった。形のいい眉を下げ、大きな瞳に憂いを宿して僅かに俯いている。白魚のような指には少し無骨すぎるように見えるスマートフォンを持ち、足元に落ちている『袋』を見下ろす。その袋から覗いている白い粉が決して砂糖だの小麦粉だの紛らわしくも微笑ましいものではないことを、エンジュは理解してしまっていた。
「ごめんなさい。あなたは悪くないかもしれないけど、私を恨まないで。ごめんなさい、困るの。こんなものを見てしまったら、私、兄さまに言わないといけなくて」
 その声は、寒々しいほどに透き通っていて。空々しいほどに空虚で。痛々しいほどに淡々としていて。そして心做しか、どこか迷惑そうだった。
「ごめんなさい。知らないふりは怒られるの。全部兄さまにはわかるから。だから私が見つけなくても、きっとあなたは見つかってた。だから私を恨まないで、私に怒らないで。同じことなの、ぜんぶ同じこと」
 炎色の瞳に映っているのは、憐憫だろうか。怒りも呆れもない、静かな瞳だ。滔々と語られる言葉をただ、男は呆然と聞いている。強いて言うなら、運が悪かったのだ。かかってきた電話を取ろうとしたエンジュが、路地裏に入って。そこでたまたま、薬の取引をした後の男にぶつかってしまって。悪いことに、衝撃で手を滑らせた男が薬の入った袋を取り落として。地面に落ちたその袋から覗く粉を、エンジュが目にしてしまった。ただそれだけのことだ。棺桶の中で祈りの言葉を聞く死体のように、男は今しがたぶつかった少女の言葉を大人しく聞いていた。暴れることも、混乱することもなく。突然現れて意味のわからない言い訳をする少女に、絶句しているわけでもなく。ただ、理解してしまったのだ。自分が「終わり」だということを、その少女の瞳で揺らめく炎を見て知ってしまった。さながらエンジュの言葉は、終末を告げる天使の声だった。
「兄さまは、『それ』を禁じてるの。だから……ごめんなさい」
 少女の影から、鴉のように黒い何かが飛び出してくる。それが何か認識することもなく、男はアスファルトと熱烈な抱擁を交わす羽目になった。
「お前は本当にいい子だね、エンジュ」
 ニコニコと、マルクスは機嫌良さげにしていた。近頃縄張りシマに流入していたドラッグの売人を、エンジュが見つけた男から芋づる式に引きずり出したらしい。実際『外』に引きずり出されたのはワタ・・であるが、それが誰のものかなどエンジュは考えない。そんなことを考えても、無為で無益で無駄なことだ。百害あって一利ないどころか、さらに一害積まれるだけ。ただエンジュはマルクスに従い、言うべきことは言って関わらざるべきことには関わらなかった。それでいいのだと、マルクスは笑みを深める。あの男たちだって、人のシマで余計なことをしたから内臓で路線図を描く羽目になったのだ。この世界では、過不足がないのが一番だ。余計なことはせず、求められたことは果たす。それだけが、エンジュの知る生き方だった。
「うちで薬はご法度だからね、お前のしたことは正しいよ。お前は自慢の妹だ、可愛いエンジュ」
「ありがとうございます、兄さま」
 事件の全貌など、エンジュは知らない。そういうのは、マルクスやエンカクたちがどうにかすることだ。ホムラなら何か知っているかもしれないし、エンジュは姉の生き方を否定も肯定も軽蔑も尊敬もしないけれど、エンジュ自身はその生き方に倣おうとはしていなかった。だって怖いのだ。知らなくていいことを知るのは、怖い。エンジュはホムラのように、正義感と勇気で立ち上がることはできない。いつだってエンジュの足元には、地下室に続く暗闇がぽっかりと口を開けていた。
「それじゃあ今回の報酬は、お前の口座に振り込んでおくよ」
「兄さま、私、そんなの……」
「ああ、お前はいい子だからね。『そんなことのためにしたんじゃない』、そうだろ? でも受け取っておきなさい。お金は大事だからね」
「でも……」
「大丈夫だよ、エンジュ。お前が『見なければ見なかったことにしていた』ことなんて、兄さまはわかってるんだから。何も怖がらなくていい」
「っ、」
『彼ら』か。否、エンジュの護衛につけられている『若いの』はエンジュに輪をかけて寡黙だ。その言動を逐一報告するような愚を、犯しはしない。ただ、マルクスがエンジュの何もかもを解っているだけで。全てを、掌握しているだけで。何も驚くようなことはないと、兄は笑う。そうするように育てたのは自分なのに、何を怒ることがあるのかと肩をすくめる。
「受け取っておきなさい。エンジュ」
「……はい、兄さま」
 それは、命令だった。マルクスがどういう意図をもってエンジュ個人に資産を持たせているのか、エンジュにはわからない。けれどマルクスには、その先それがどう動くかまでわかっているのだろう。報酬などではないのだ、きっと。マルクスが思い描いたように何かを動かすための、工程に過ぎない。金もエンジュも、道具という意味では同列だ。あのアスファルトに転がった白い粉も男も臓物も、何もかも。マルクスの前では等しく平等で、その例外はふたつだけ。エンカクという弟と、ホムラという妹。執着と嫌悪という異なった方向性ではあれど、儘ならない存在に心を揺らがされていることには変わりない。世界でいちばん怖くて、それなのにどこか哀れな人。エンジュは兄のことを、そう評している。そして自分はそんな人の道具として一生を終えるのだと、理解している。変わらない。変われない。自分たちは、きっとずっと変われない。変わっていくのは、あの二人だけだ。
『なぜあんな男の歓心を得たがる』
 弟が度々、エンジュに問うこと。なぜこんな『兄』に従順でいるのか。好かれようとするのか。嫌われることを恐れるのか。兄のために行動しようとするのか。その理由の一端を、考えてしまった。兄は変わらないから、怖くない。変わっていく彼らは、怖い。マルクスが利用価値以外のささやかな何かをエンジュに見出しているように、エンジュも兄に拠り所のような何かを感じ取っているのだ。エンカクにもホムラにも、理解できまい。彼らは本当に強いから、選べないことの苦痛は知っていても選ばなければならないことを苦痛だとは思いもしない。エンジュにとって、最も近いのは鏡合わせのような弟のエンカクだ。最も好きなのは、怖くない姉のホムラだ。けれど最も嫌われたくないのは、少しだけ理解できてしまう変わらない兄。エンジュは何も選びたくない。選びたくないから、支配してくれる兄の元にいたい。きっとそれで、良いはずだった。
 
210731
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