「目をつぶって、耳を塞いで、しゃがんでいて」
そう言って、ホムラはぎこちなく笑ったのだ。姉に言われた通り道端にしゃがみ込んだエンジュは、ホムラがチンピラ共を殴りつける音を意味もなく数える。それ以外に、することもなかったからだ。兄弟に助けを求めようという発想はなかった。いろんな意味で嫌がるであろうホムラの心情を慮ったという殊勝な理由ではなく、単純にこの程度は姉にも自分にも脅威ではないということを知っているから。ホムラはエンジュと比べるべくもなく強いし、どうせ兄に言い付けられた若衆が三人ほどその辺りに控えている。万が一ホムラが大人しく絡まれていたなら、その腕を掴んで恫喝した無知で哀れな小僧を殴り飛ばしていたのは彼らだったのだろう。どちらにせよエンジュは、ただ大人しく邪魔にならないよう縮こまっているだけでいい。悲しくなることもないくらいに慣れてしまった、姉妹の日常の一部。今までもこれからも、ずっと『そう』だったはずのこと。
「――危ない!!」
だから、『それ』は異分子だった。非日常で、異常だった。その日現れた「彼」が、ホムラを変えてしまったのだ。
「姉さま、……」
「どうしたの、エンジュ」
「……いいえ、痛くないですか?」
おかげで痛くないよ、そう言ってホムラは笑う。その笑みからおよそぎこちなさというものが失われつつあることを、果たして自覚しているのだろうか。あまり動かないホムラの表情筋を、笑顔が自然になるほど動かした『誰か』。エンジュは、それがあの日姉の助太刀に入った青年であることを知っていた。ウンと名乗っていた、朗らかな青年。正義感に溢れ、あの日独りで戦っていたホムラを助けた。彼女の矜恃を傷付けることなく、ただ見過ごしておけなかったのだと誠実な瞳で告げて。あの日以来、姉はエンジュにも教えてくれない「どこか」に出かけることが多くなった。兄の調べでは、探偵事務所に出入りしているのだそうだ。マルクスは「どうせすぐに飽きる探偵ごっこ」と言っていたけれど、エンジュにはそうは思えなくて。けれどどうしてか、マルクスに言えなかった。姉が、彼らに関わるようになって怪我が増えていることも。それと比例するように、笑顔も増えていることを。意図的にホムラから目を逸らそうとしているマルクスは、行動そのものは把握しても微細な変化など気にも留めない。エンジュとて似たようなものだ。ホムラが元々鉄面皮の人でなければ、絶対に気付かなかった。姉の変化に気付いた今だって、どうしたらいいのかわからない。なんとなく嫌、と靄のかかったような鬱屈とした気持ちが、何によるものなのか。嫉妬や寂しさでは、ないのだろう。おそらくこれは、この家で唯一自分に優しくしてくれる人を奪われるかもしれないという危惧だ。愚かしくて浅ましい、自分勝手な不安。姉の幸せや将来を、考えてやれないのか。それでもエンジュは、黙っている。いつかホムラはエンジュよりも彼らを大切に思って、この家を出て行くのだろう。その日までエンジュはただ、手のひらから零れ落ちていく姉の愛を眺めているだけ。エンジュには、彼らに匹敵する理由がない。「姉さま」が惜しいわけでも、「ホムラ」が惜しいわけでもない。ただ「優しいひと」を失うのが嫌だという気持ちでは姉を引き留めるなど烏滸がましいと、わかったような顔をして。そうして全て失う日まで、否、失った後も、「いい子のエンジュ」でい続けるのだ。
「姉さま」
「どうしたの、エンジュ」
姉は、本当に柔らかく笑うようになった。胸の奥にある不安さえ照らして溶かし出すような、温かな笑顔。この笑顔を作ったウンを憎いと欠片も思えないから、エンジュはいつかホムラに置いていかれるのだろう。
210823