彼の姉はいつも乾いた風の中にいた。風が流れるように生きる人だった。
「ご覧、朔。山の向こうから鳥が渡ってくる、季節が変わるんだ」
 という人は草原の人だった。見渡す限りの地平線、遮るもののない夕焼けの中、人影はまるで赤に溶けて沈むかのよう。白い頬も真っ赤に染まる夕陽を浴びて、彼は姉の指す遥か遠い山脈に鳥の影など見つけることはできなかった。馬上の姉の腕の中、ただ幼さという名の檻、あるいは揺籠の中にいた。固い土に僅か生えた新芽を羊が食む春、命が蠢き踊る短い夏、ゆっくりと長く静けさへと移りゆく秋、何もない青い空へとまっすぐにただ伸びていく竈の煙を見上げる冬。大地と空の隙間に風が流れるように生きる、そんな姉の傍で彼は少なくない年月を過ごした。
 姉の歌は旋律ではなかった。それは大地の息吹で、命の律動で、戦いの喘鳴。そして、狩人の沈黙。彼の聞く子守唄は、姉や彼女の寄り添う人々が奏でる営みの音だった。
「お前は馬乳酒を嫌うね。昔の私と同じだ」
 苦笑しながら、姉は皮袋の水を分けてくれた。並ぶ天幕の中で一番皺くちゃの婆殿だとて知らない幼い姉の姿。姉の口からしかその話を聞けないことは残念でもあったが、同時にそれでいいと思っていた。自分が知らないのなら、他の誰も知らなくていい。そんな安堵を、朔と呼ばれた子どもはひっそりと抱き締めていた。
「姉上はなぜ食べるのですか」
 人の理の外に在るが、草原の人より平野の人より、彼より高くに在る姉が、こんな地べたで命の少しばかりを拾うように食べて暮らしていることが理解できなかった。馬の頬ずりを受け、人の赤子のおしめを替え、弦の張り替えで指先を固くし、鷲と共に鳥だの兎だのを狩って。この地べたに無数にある矮小な命のひとつひとつと自身をまるで同列のように見て、矢をつがえて放つ。大地から命をほんの少し切り出して、食べる。それがどうしてもわからなくて、彼は姉に問うたのだ。
「いのちだからだよ」
 よく研がれた小刀で鹿の腹を開きながら姉は答えた。その手つきは丁寧で、けれど無駄がなく迅速だった。すうっと何の抵抗も無いかのように腹を裂き、内臓を取り出していく。腹に溜まっていた血が掻き出され、ぼたぼたと地面に染み込んでいった。赤い染みに躊躇うことなく皮を剥いで、白や薄桃の混じる肉が覗く。血抜きを知らなかった頃の彼は、無造作に真っ二つにした獣から顔面に血を浴びて姉に叱られたものだ。生き物の体のつくりを熟知した指が、骨からするりと外すように獣を肉に解していく。命が食べ物になる。こんな矮小な命の最後のひとかけらまで、この尊いひとを満たす肉になる。
「命だから殺す、命だから食べる。私も命だから」


 風の人と、草原の人々に姉はそう呼ばれていた。という名を知るのは草原でただ一人彼だけであった。すなわちそれは、世界に彼だけということでもある。
「姉上」
 だから彼はその名を呼ばなかった。風も鳥もこの草原も、すべてがその名を知らなくていいと思った。
 姉は弟に草原で、自分の傍で生きてほしかったのだろうか。姉が望みとしてそれを口にしたことはなかったけれど、草原での生き方は全て彼女が教えてくれた。狩りも遊牧も琴の弾き方も、天幕の張り方もその下での生活も、狼を畏れ敬えどその命を奪う在り方も。ただ彼は、それらと共に生きることはなかった。姉は毛皮細工も帯作りも得意だったが、弟のために何かを作ったことはなかった。あるいは彼が草原で生きると決めたならば、それらを贈る心づもりだったのかもしれないが。
「どうして、」
 夜空に浮かぶ星のひとつひとつまで見分けられた瞳が、今はただ彼だけを見ていた。焚き火の横で星を導に歩く方法を教えてくれた唇は業火の熱でひび割れて、吐いた血で赤く濡れていた。黒くさらさらと風に揺れた真っ直ぐな髪は、炎に爆ぜて焼け焦げていた。
「どうして、などと。姉上、貴女はそのように愚かな方ではないはずだ」
 命の狩り方は、昔に姉が教えてくれた。苦しませずに最低限の傷で、すみやかに絶命させる。だからこれは狩りなどではないのだ。刀も弓も罠も、姉が全て教えてくれた。今、姉の胸を貫いているのは彼の手刀だ。姉の知らない――あるいは姉が見ようとしなかった彼によって、姉は『喰われる』。乾いた風はよく燃える。業火の中で、姉のその全てを呑み込もうとしていた。
「食べることは命の巡りだと貴女は言った」
 いずれ風の中に斃れ、土に還る。はきっとそうやって生の果て、命の中へ還るつもりだったのだろう。だから彼は姉を喰らった。を喰らって、彼が斃れなければ姉はもうどこへも巡らない。ただ彼だけのだ。幼い彼が、かつてそう望んだように。姉は苦しいだろう、溢れる血は肺に溜まる。貫かれた肺は空気と血に晒されて酷く痛む。それでも簡単には事切れない生き物だ。姉は尊いひとなのだ。いつも彼を腕に抱いて、彼より何でも知っていて、彼を庇護するつもりでいた。兎を足に掴む鷲のように、姉はかつて彼の上に君臨していたのだ。けれどもう彼は幼い蛇でも兎でもない、彼女を喰らえる生き物に成った。理というものが姉を弟の上に置くなら、それを捻じ曲げて姉を弟の裡に収めるために。摂理なんてもので、いつもこのひとは彼を見下ろしていたのだ。
「我々はきっと傲慢なのでしょう」
「傲慢なのはお前だけだ」
「よもやお気付きでない、姉上。それともまた気付かぬふりか。貴女の傲慢が私を育てた」
 朔、その名を躊躇いもなく口にした。いつだってその声は彼を縛った。共に生きろと言わなかったのは、彼女が言えば本当になるからだと知っていたからだろう。ああ、美しくて憎らしい姉上。どんな生き物より強く駆けて、高く翔んで、やっと今日この足元に落ちる。
「傲慢で、臆病な弟。お前は怖いから口に出せないのだ」
「口に出さずとも、お気付きでしょう。今日から過ごす腹の中で、何年気付かぬふりが続くかお試しになるがよろしい」
 そうして彼は姉を食べた。大切に大切に食べた。血の一滴も余さず啜った。どこにも行かぬように、ただ自身のほかのどこにも還らぬように。
 姉から教わったような敬意と畏れは、きっとどこにもなかった。ただ愛と憎悪のみが、姉を喰らった全てであった。


230312
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