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作品ID:143
こちらの作品は、「激辛批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約11890文字 読了時間約6分 原稿用紙約15枚
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雨よ、雨よ
作品紹介
死神は花を引き抜かなければならなかった。アンデルセンの「あるお母さんの物語」のパラレル。
それでも死神は花を引き抜かねばならなかった。
新しい命の花は、まさに古い花が引き抜かれた跡地にしか根を下ろすことはできないから。
死神に感情はない。
かつて可憐な花を咲かせようとも。
蕾に対する慈しみも、引き抜かれるであろう花に対する憐憫もあろうはずがなく。
花は等しく咲いて散る。
1
その時胸がちくりと痛んだ。
己の胸に爪を立てたわけではない。やわらかく濃い茶をした土を掘り起こそうとしただけだ。
これ以上干渉してはいけない、茶トラの猫はそう思った。ゆっくりと前脚をおろし、地面に鼻を近づけて匂いをかいだ。土の中は、どこか懐かしい匂いがした。その理由を、猫は漠然とながら学んでいた。
立ち去らねばならない、誰に言われたわけではないのに猫は後ずさり、やがて踵を返した。
背後では無慈悲な死神が、泣き崩れる人間の母親を表情なくに見下ろしているのだ。その母親は息子の魂を死神に連れ去られ、魔女に子守唄を、野バラに傷みと引き換えにぬくもりを、湖にここまで来る代償として真珠のような両の目玉を、それぞれ差し出したのだ。
母親は死神の花畑に来て、目が見えないにも関わらず息子の命の花を探し出した。けれども、息子の魂を連れ帰った死神は花を引き抜いたのだった。
猫は一部始終を見ていた。己は人間ではなかったけれども、同じ女として胸が痛んだ。泣けぬ目から涙がこぼれたかもしれない。
涙、ではなかった。
猫が空を見上げると、灰色の空から雨粒がぽたりぽたりと落ちてきているところだった。
このところ連日寒々とした小雨が降り続いていた。春の長雨は花を催すといわれている。
事実、死神の花畑には、明るい空へと自身を咲かせるために、希望を抱いている蕾が無数にある。
雨が上がったなら、地平線の果てまで続く花畑は色とりどりの花を一斉に咲かせるだろう。けれど息子の命の花、サフランははかなくうなだれていた。
猫はもう一度背後を振り返った。母親は顔を覆って未だ慟哭している。目を失ったにも関わらず、指の間から透明な涙があふれていた。彼女を気の毒に思いはしたが、自分にはどうすることもできなかった。
すでにその場所は、他の花が咲くための準備をしているのだ。つまり、新たな命が生まれようとしている。自分ができることといえば、死神の逆鱗に触れ、己の命の花を抜き取られないようその場を去ることだけ。なのに死神はどこまでも無表情だった。
2
「それならお前の持っているその魚を私に頂戴な」
曇り空よりは明るいブルーの毛並みをした猫が言った。腹が減ってはいたが、しかたがない。茶トラの猫は、しずしずと獲れたての魚をブルーの猫に差し出した。代わりに行くべき道を教えてもらうためだ。
ブルーの猫はごろごろと喉をならし、実にうまそうに音を立てながら魚にかぶりついた。食べ終えると、舌で丁寧に前足を舐めて、尻尾をぱたぱたと振ってみせた。
「では教えてあげる。この道をまっすぐに向かいなさいな」
茶トラの猫はブルーの猫が指す方向に目をやった。茨が続く細い道である。茶トラの猫は手短に礼を言った。食料を分けてあげたのだから、これ以上へりくだらなくてもよいだろう。
茶トラの猫は歩き出した。歩く途中で張った乳房から乳が流れてきた。本来なら三匹の子猫が吸い付くはずだった。与える相手はもういない。
歩き続けてどれくらいの時間が経っただろう。ブルーの猫にご馳走をあげてしまってから、水一滴さえ猫は口にすることはなかった。
自慢の艶やかな毛は、からまり泥で汚れていた。旅立つ以前より身体は細り、とうとう乳も出なくなった。目がかすみ、睡眠を必要としていたが、猫は歩き続ける。
どうして、どうして。
考えないようにしていたのだが、歩みをとめた途端に脳裏を横切る怒りと悲しみを伴う疑問。猫は空を見上げ、沈黙を守り続けている月ににゃあと鳴いてみせた。月は、この先茶トラの猫がどんなに罪を犯そうとその口を開くことはない。忠告もしない。
茶トラの猫はひとりぽっちだった。
「どこにいくつもりだ」
顔を上げると、目やにで片目がつぶれた白猫が立ちはだかっていた。白猫は茶トラの猫を一周し、嘗め回すように見つめた。
茶トラは雄猫の意図を察し、ふんと鼻を鳴らした。ひとりぽっちであり、そうでありたいと願った。
だが白猫は構わず後をついてきた。茶トラの猫が応じないと知ると、強引にのしかかってくる。茶トラは身体を揺すって振り払おうとしたが、雄猫は爪をたてて必死にしがみついてきた。にゃあ、茶トラは泣きたくなった。
ついに追いかけっこが始まり、筋力の落ちた茶トラはひょろひょろと駆け出した。けれど野の生活を送っていた白猫は、まるで弄ぶように茶トラに追いついたり離れたりを繰り返し面白がり精神を追い詰めていった。
「もう、許してくださいな」
「いいや、許しはせん」
体力の尽きた茶トラは地面にへたり込んで、弱々しく懇願した。
「私は行かなくてはいけないのです」
「どこへ行くつもりだったのだ」
さして興味もないだろうに、事が終わるとせせら笑いながら白猫が問いかけた。
「神のところへ。我が子を奪ったものに復讐をするのです」
「そうかい。では、礼の代わりに教えてやろう」
白猫は満足しており、そしてなにより神への道を知っていた。
3
代償として教えてもらった道を進み、茶トラの猫は神の地へとたどり着いたのである。
猫の身体はすでにボロボロであった。空腹に倒れそうになるものの、目的を遂げるまでは死んでも死にきれないと思った。
「綺麗」
猫は思わずそう洩らした。
広がる大地に隙間なく敷き詰められた花々たちは、どうしてか同じ種のものが集まって植えられてはいなかった。コスモスの隣は向日葵であり、その隣はすみれと蒲公英というように、背丈もばらばらである。けれど斑な色は全体を通して見れば斑ではなく、一枚の絨毯であった。
「おや、めずらしいね。今日はよくお客が来ることだよ」
くすんだ赤色のワンピースを着た老婆が、腰を屈めることなく声をかけてきた。猫は声のした方を見上げてこたえるように一声鳴いた。
「ずいぶん汚れているね。いったいなにをしに来たのだろうね」
抜けた前歯から息を洩らしながら老婆が笑った。猫は毛が逆立つのを感じた。
「神様にお願いを。我が子を返して、と。我が子を奪った黒い鳥達の命と引き換えに、我が子を生き返らせてと」
「神――ね」
老婆は喉をひきつらせた。猫は底意地の悪い老婆の視線を受けて身構えた。
「そうとも、ここは神の家だ」
猫はほっと胸を撫で下ろしたものだ。
「では、神様に会わせて下さい」
猫は丁寧にお辞儀をした。けれど老婆は鼻で笑った。猫は喉の奥まで出かかった言葉をぐっと堪える。
「お願いいたします」
「なに、あの方は丁度来客中だよ」
老婆は顎をしゃくった。見れば背が高く、白髪でぎょろりとした目の老人が花畑の真ん中に立っていた。彼は視線を落とし、何事か呟いている。よくよく見れば、老人の視線の先には青いサフラン――今にも枯れてしまいそうな――を庇うような姿勢で、老人を見上げている中年の女がいた。
猫は首を傾げた。老婆が指し示した老人は、骨と皮の貧相な老人で、猫が想像し探していた神とはかけ離れていた。神は慈愛溢れる方だったのではないか。
「お前が捜し求めている神様だよ。あの方は今、息子の命を救うために、魔女に子守唄を、野バラを抱きしめて温めさせ、湖に真珠のような両の目玉を差し出してここにたどり着いた女と対面している。見えるかい、今にも枯れてしまいそうな青いサフランを。ここに咲く花はすべて命の花でね、あの息子の命の花がサフランなんだよ。あの女は神様にそのサフランを引き抜かせまいと守っている。神様もね、母親の情に驚きはしているさ。ねぇ、お前。神様はそれでも命の花を引き抜くと思うかい?」
猫は老婆を見上げた。
「神様なのでしょう? 慈悲深いお方ですわ、命の花をむやみに引き抜くはずがありませんもの」
そう、神であれば女の祈りを聞き届けてくれるはずだ。故に自分は長い道のりを歩いてきたのではなかったか。我が子を死に至らしめた憎き鳥に復讐するために。
猫は鳥が無残に雷に打たれて死ぬのを想像して笑った。
老婆は口角を上げたに過ぎない。
「なぜ命あるものは死ぬのか考えたことはあるかい」
老人をまっすぐ見つめる猫に、老婆がささやくように背後から言った。猫はゆっくりと振り返り、首を傾げる。
神がいる場所で死について語ることは相応しくないように思えた。だのに猫は老婆から目を離せなかった。
「考えよ」
老婆の視線は恐ろしく冷ややかで、猫は視線を逸らした。心臓を鷲づかみされたように、きんきんと胸が痛み窮屈さに身体が強張る。
視線の先には老人の姿をした神と、中年の女がいた。
神は一言を女に投げかけた。女はわっと声をあげ、地面に突っ伏してサフランの花を抱きかかえる。
「神を疑ってはならないよ」
老婆の声が冷たく響いた。
猫は彼らから目を離せなかった。
神が腰を曲げ、手をあげると女がふわりと浮き上がって離れた場所に落ちた。
女は呆気に取られて神はどこかと探した。
神は――、
「あいにく、あの方はこうも呼ばれているんだよ」
ゆっくりと青いサフランを根元から掴み、一気に引き抜いた。
「あの母親がよくわかっているかもしれないね」
根についた土はほんの少しだった。引き抜かれた途端、サフランの花は干からびて茶色になった。
女が空洞の眼を開き声にならない声を上げる。
「――死神と」
老婆の声は逐一洩らさず猫に届いていた。そして女の悲鳴を聞こうが、花を引き抜こうが、まったく表情を変えない神――死神とも言われる老人の顔も、目を逸らすことなく見続けていた。
4
空を見上げるとどんよりとした灰色が広がっている。どれくらい空を見上げていただろう。今にも泣き出しそうであるのに、堪えているのか冷たい雨粒は落ちてこなかった。
猫はじっと女を見つめていた。
受けた衝撃はひどく猫の心をえぐった。
瞬きをするのさえ忘れた。
足は自然とそこだけ茶色がむき出しになった場所に向かう。
猫は死神と女の中間に座り込んだ。
そして猫は死神を見上げた。
「なんだ、お前は」
「なぜ、引き抜いたのです」
「なんだとっ」
途端死神は眉を吊り上げて叫んだ。
猫は毛を逆立て、体勢を低くしてうなってみせた。
「あなたが私の息子達の命を奪ったのですね、たやすく。まだ花は地面に根をしっかりと張っていなかったかもしれませんのに」
「どういう意味だ」
「花を咲かせ、種を落さず、どうして次の花が咲きましょう」
事実、女の息子の花が植わっていた場所は、土があるだけである。種がこぼれる前に、球根が育つ前に引き抜かれたのだ。
睨み付けていなければ今にも飛び掛ってしまいそうであった。
「命の花であるならば、尚のこと。どうかお慈悲を、息子の命を返していただきたいのです」
「息子とな? ははっ、わしは毎日たくさんの花を引き抜いておる。どれが息子の命の花だったか覚えておらぬよ」
猫はにゃあと鳴いた。
神が命の花を引き抜き、あまつさえぞんざいな扱いをしていようと、誰が想像したであろうか。命は、大切に慈しまれなければならないはずだ。
「では、私の命と引き換えに、息子の命を助けてくださいまし」
死神は奇妙なものを見るような目つきで、猫を見下ろした。
「枯れた花をどうやって生き返らせるのだ。またどうして花を交換できる?」
「それは」
「わしは当然のことをしているに過ぎない」
背後にいる女が声を上げて号泣した。猫は首だけ振り返る。慰めの言葉すら思いつかない。
だが猫はもう一度死神に縋った。
「ここに、そのサフランを」
前脚で指し示したのは、死神が引き抜いたばかりのサフランであった。
「植えて水をあげれば根を張ります。今一度花を咲かせることだって可能でございましょう」
女が声を上げた。本来在るべき目の場所は、黒くぽっかりと穴が空いている。彼女はそうしてまで息子を追いかけてきたというのに。
死神は猫を凝視した。そして鼻をならす。
「匂いをかいでみろ」
猫は最初なにを言われたのかわからずきょとんとしたが、死神の視線の先を見て心臓が高鳴った。猫の懇願を聞き入れてくれたのかと思ったのだ。だが、それにしては匂いをかいでみろとはいったいどういうことだろう。
猫は恐る恐る花畑に脚を踏み入れ、命の花を踏まないように慎重に歩いた。
種類や丈のまったく異なった花々が、まるで猫の身体に吸い付くように纏わりついた。
花が引き抜かれた跡は、崩れかけた小さな穴が空いている。花の大きさに比べ、根はそれほど張らなかったようだ。もっと深く掘ってみよう、猫はサフランを埋めるため穴を大きくしようと思いついた。すれば今度はもっと根が広がっていくだろう。
だが、胸に痛みを覚えたのは穴に前脚をかけたときだった。
なにか脚に虫でも当たったのだろう、猫は胸の痛みの原因を探ろうと鼻を近づけた。
「!」
どこか懐かしいにおいがした。
猫は一歩後ずさり、その匂いはなんだったか思い出そうとした。乳のにおいだと気付くまで、そう時間はかからなかった。
5
雨が小降りになってきて、やがて止んだ。
猫は中年の女と並んで花畑を見ていた。
固く閉じていた蕾が時間を早送りするように、首をもたげて手を広げるように一斉に咲いた。すでに咲いていた花々たちは、雫を受けて光を反射し輝いている。
猫は目を細めた。
花畑の向こう側にはトンネルの入り口のように虹がかかっていた。
昨夜の苦い出来事は嘘のように穏やかな風が吹いた。すると葉や花がこすれる音がする。
花はよく手入れが行き届いていた。どの花も花柄は除去されており、葉には害虫被害は見当たらない。土はふっくらと空気を含み、猫の体重でさえ脚が沈む。
猫は他の花を踏まないよう気をつけながら、サフランの引き抜かれた跡地の側に座り込んだ。尾でぱたぱたと地面を数度叩く。
「猫さん、」
背後で命の花を引き抜かれた息子の母親が立っていた。猫は振り返らず、尾を振る。
「なぜそこから動かないの」
猫はこたえなかった。母親――ジーナがため息を吐き出す。
「確かめたいのです」
言葉はすんなりと喉を通った。猫は柔らかな土の匂いが忘れられなかった。
「確かめずにはいられないのです」
「そう」
ジーナは深く追求はしてこなかった。彼女の身体は当然の如く猫よりも数十倍大きい。花畑に入ることはためらわれたのか、小道で猫の背中を見つめていた。
それは何日も続いた。
猫は陽が暮れてもその場を動かなかった。ただ一点を無表情に見つめているばかりである。食事や水など、一切口にしなかったが不思議と腹は空かない。気分が悪くなることもなかった。それはジーナも同じなのだろうか。待っているかのように猫の背中を見つめ続ける。彼らは身じろぎひとつしなかった。
死神は日に何度も花畑に現れた。花を一つ一つ丁寧に見ていき、枯れそうな花があれば容赦なく次々と引き抜いていった。
引き抜かれた花はその場には捨てず、必ず持ち帰って処分しているようだった。猫は死神の仕事をくまなく観察した。死神はとても忙しそうであり、声をかけるのをためらわれる。作業は夜を徹して行われており、死神は休むひまなく動き回る。彼は常に無表情であったが、一瞬だけ緩むときがあった。それは濃い茶の土にひょっこりと現れた新芽をみかけたときだった。
やがて猫は立ち上がりジーナを一人残して死神の元に向かった。
猫は死神の足に頭をこすり付けた。
「お手伝いいたしますわ」
死神は猫を一瞥しただけでこたえなかった。
ここ何日か雨が降り続いていた。どんよりとした日が続き、猫の心も滅入っていた。猫は手身近にある花を見て、葉が枯れかけのものがあれば口にくわえてはがしてやった。落ちた花柄は一箇所に集める。すると召使の老婆が無言でそれを処分してくれるのだ。降り続ける雨は時折花に傷を負わせる。もともと水を好まない花もまとめて花畑に植わっている。そのような花は傾かせることでたまった雨水を土に還してやる。命の花というだけあり、持ち主の精神状態も影響しているらしい。いくら水が苦手の花でも、持ち主の精神力が高ければ易々と枯れたりはしないそうだ。
猫は必死に働いた。広大な土地なので単純な作業の繰り返しでもすべてを一日で終えることはできなかった。いつの間にかジーナも手伝うようになっていた。だが結局、花を引き抜くという大仕事は死神が行っていた。引き抜く基準はよくわからなかった。他にもっとしおれている花があるにもかかわらず、まだ元気な花を引き抜くこともあった。
猫は何日か死神と共に仕事をしてわかったことがある。死神は花を花としているということだ。
ある日、猫は花の手入れをしながらふと立ち止まった。何のことはない。勢いがなく、蕾もない黄色いパンジーが目に留まったのだ。猫はそのパンジーに引き寄せられるようにふらふらと近付いた。そしてぶるっと電気がはしったように身体が震えた。
「猫さん、疲れたのかしら」
ジーナがいたわりの声をかけてきた。
「いいえ」
もし人間の手があったなら包み込んで守ったであろうその花は、まさしく自分の命の花だった。盲目にもかかわらず息子の命の花を見つけたように、猫もまた己の命の花を見つけたのだ。しかし、なんと哀れな姿だろうか。蕾のすべては咲き終わり、花柄は摘まれるのを待っている。
もしこの花が己ではなく、まったくの他人であれば、なんの感情もなく花柄を摘み取ったであろう。
「ああ、見つけてしまった」
己の寿命を知っているのと同じに等しい。命の花は種も球根も残さない。にもかかわらず、死神が引き抜いた跡地には必ず別の花芽が顔を出した。
「なんて貧相な花なのでしょう」
命の花は持ち主そのものを体現しているかのようだった。
猫は呑まず食わずでやせ細り、毛並みは最悪で絡まっていてどうしようもない。連日の雨は猫をすっかり綺麗にするには優しすぎた。
「わたしもとうとう死んでしまうのね」
そこで猫は自分の死よりも、ここに来た目的を思い出した。けれど不思議なことに当初に抱いていた憎しみはこれっぽっちも湧き上がらなかったのである。
猫は咲き終わったパンジーの花柄を優しく口でちぎってやった。何個も何個も。とうとう小さな株にあったすべての花柄は取り除かれた。葉は鮮やかであるのに、花を失ったそれは一回り小さく見えた。けれど猫は葉に茎にキスを繰り返し、頭を擦り付けた。するとなぜだか心地よく、優しい気持ちになれるのだった。
そこへ死神の手が割り込んできた。深い皺が刻まれ、血の気のない老人の手だった。
猫は気配に目を開け、死神を見上げた。彼に表情はなく、どうやら猫の命の花を引き抜こうとしているらしい。今にも自分の命が尽きようとしているにも関わらず、猫は微笑んで見せた。
「猫さん」
ジーナが遠くで叫ぶ。
おかしいわね、ジーナはすぐ側にいたのに……、猫はまどろみを覚えた。地面に伏せ瞼が落ちてくる。猫はまるで雲に乗ったようなふわふわとした感覚に尻尾を一振りした。
6
花は花でしかないのだよ。
雨の匂いがした。
花は待っている。全身を潤し、自分を艶やかにするための小道具を。
これから成長していくための糧を。
7
遠くの方で子猫たちの悲鳴が聞こえた。
母親である茶トラの猫は、心臓が跳ね上がる。猫は慎重に周囲を見渡した。ダンボールの中に敷かれた新聞紙と、毛だらけのピンクの毛布を頭で小突き回す。昨夜まで自分の側にいた息子達がいない。
猫は駆け出した。
コンクリートの塀を一瞬で飛びつき、蹴る。
もう一度か細い声が聞こえてきた。ついで羽音が。
聞き覚えのある音に戦慄が走る。毛が逆立ち、低いうなり声が口から洩れた。
猫は必死で走った。
あの声が聞こえなくなる前に。それは覚悟であった。
残酷な黒い赤が飛び散っていることの、覚悟だ。
「ぼうやっ」
たどり着いたとき、三匹の子猫たちは無残な塊と化していた。頭上では黒く大きな鳥が、肉塊を足とくちばしをつかって器用についばんでいた。
猫は呆然と鳥を見上げた。瞬間、目が合う。
その目は、ぎょろりと大きく飛び出している。いくら威嚇をしても動じない鳥は、猫に敗北と屈辱を植えつけた。
猫は地面に視線を落とした。
点々と続く赤の雫の先に、ころりと転がっている小さな丸があった。目が突付きまわされ、潰され、舌を出したままの、汚れた、それは、自分の。
「―――っ」
虚ろな黒い目がこちらを見つめている。
――なぜ助けてくれないの?
母猫は動けなかった。
今すぐにでも駆け寄りたい衝動があるのに、我が子の頭上を飛び回る黒い鳥は、いやらしくこちらを見遣る。その目には侮蔑の色が滲んでいた。母猫の勇気のなさを蔑んでいた。
猫は足がすくんでいた。震えて一歩が出ない。
尚も鳥は子猫をついばんでいる。
赤い液体が目の前を飛び回る。
猫は一切をあきらめた。どうして動けようか。
8
お願い、水を。起き上がった茶トラの猫は、目の端に涙を溜めていた。
ゆっくりと首を巡らし、今現在を認識する。目の前には、己の命の花があった。猫はそれを見てわずかに苦笑する。
夢を――見た。
動悸が治まらない。猫は低くうめいた。
背をそっと支えてくれるジーナが、水の入ったひしゃくの口を猫に近づける。猫は一口舌で掬い取った。
「わたしの命はあるのに。ここにありますのに、どうして息子たちは召されてしまったのでしょう」
「猫さん……」
見れば己の花の横にぽっかりと穴ができている。死神が抜き去った直後だと知れた。
「いいえ、いいえ」
死神は、ただ花を引き抜いたに過ぎない。
猫はジーナの懐に顔を押し付けた。しばらくして、猫はジーナから離れた。
「どこへ」
ジーナがすかさず声をかけてくる。顔のふたつの空洞が、まるで我が子の目のように見えた。猫はびくりと身体を震わせ、一歩、二歩と後退する。
彼女が猫に追いすがろうとすればするほど、助けてくれない母親を責めるわが子に見えた。
「ええ、仇を討たなければ」
「猫さん?」
「討つわ。そのためにここに来たのです」
己の手に余るのなら、神様に。神様にできないのなら、今度こそ自分が。
猫は踵を返し、花畑の中を全速力で走り始めた。あの憎き黒い鳥を脳裏によみがえらせれば、命の花がたやすく見つかるような気がした。
地の果てまで続きそうな花の中を、乱暴に猫は駆け抜けた。土が身体に降りかかり、軟らかな茎が何本か折れたかもしれない。花びらも多数散った。だが猫はそんなことに構っていられなかった。たかだか、そんなこと。そう、そんな簡単なことだから自分でもできる。ここではあの黒い鳥より、自分の方が強いのだ。
猫はうっすらと笑っていた。
「猫さん!」
全てを許してしまった、あきらめてしまったジーナが叫ぶ。猫は振り返らなかった。
息が切れるころ、ようやく猫は目的の花のひとつを探し当てた。広大な花畑に、何日もかかるかと思ったが、意外に早く見つけたことに猫は声高く鳴いた。
その花は黒い鳥とは似つかわしくなく、小さく可憐なすみれであった。花芽がいくつもつき、雨が降ればいよいよ満開になるだろう。猫はその小さな株に向かって低くうなった。
「よくもっ」
猫は間を置かず飛び掛った。茎の根元に牙を食い込ませ、首を振って力いっぱい引き抜いた。けれど、根はしっかりと大地をとらえているのか、また茎には傷一つつかずその場に居座っている。猫はうなって何度もその細い茎に噛み付いた。
「なぜっ」
身体は土にまみれていた。上下左右にいくら引っ張っても抜けないのだ。猫は鼻の奥がつんとしてきた。
すると不意に目の前に黒い影がさした。猫は動きを止める。
「神様」
荒い呼吸の中、猫の表情は輝いた。ようやくここで、死神、否、神は猫の願いを聞き届けてくれる。
長く骨ばった手がぬっと差し出される。猫は邪魔にならないように、一歩脇に避けた。
瞬間。
強い衝撃が身体を突き抜けた。目の前が白くなる。
猫は身を翻す暇なく、身体をしたたかに地面に打ち付けた。猫はおそるおそる顔を上げると、口をへの字にまげ、眼光鋭い死神が拳を固く握りしめ立ちはだかっていた。
猫はその恐ろしさと理不尽さに歯を食いしばった。
なぜ、は言い尽くした。ではあとはどの言葉を出せば運命は変わるのだろうか。
猫は地面に顔を押し付けた。
死神は踵を返し去っていった。遠くで何事もなかったかのように作業を進めている。
猫は慰めの言葉が見つからないほど慟哭した。
「猫さん、雨が降るわ」
気がつけば、ジーナが労わるように猫を膝に乗せ背中をやさしく撫でてくれていた。猫は嗚咽が込み上げるのを必死で堪え、その優しさに縋った。
空を見上げればぽつぽつと灰色の雲から雫が落ちてきていた。
「寒いのです、ジーナ」
「温めてあげるわ、猫さん」
猫は目を閉じ、ジーナの懐に強く頭を押し付けた。
春の雨は花を促すために咲く雨である。あのスミレは、明日にでも咲くだろうか。
「猫さん、いいものを見せてあげる」
ジーナは猫を抱いたまま立ち上がって歩き出した。その足取りはしっかりしたものである。彼女に目がないのだということを、猫は忘れそうになった。
しばらく歩き続けて、やがてジーナはある場所で止まった。その頃には雨はもう少し強くなっていて、ふたりの体温を容赦なく奪っていく。しかしジーナは自分のことよりも猫を気遣った。
そこは一番最初に猫がたどり着いた場所であった。そしてジーナの息子の花が植わっていた場所だった。穴が空いていた跡地はすっかり平らになり、なによりひとつの小さな双葉が顔を出していた。
「ああっ」
猫はジーナの腕から飛び降り、そろそろと芽に近付いた。
くんと鼻を近づければ思わず涙ぐみそうになる。
「死神さんは、花を引き抜かなければならなかったのよ」
ジーナは優しく声をかけた。
「そうでなければ、新しい命は一体どこに生まれればいいの?」
猫は涙の代わりに何度も何度も若葉を舐めた。そして自分の腹をいとおしく見つめる。この中には、あのときに出会った片目のつぶれた白猫と自分の子がいる。猫はその新芽がまさしく我が子の命の花だということを知った。かつて死神がサフランの跡地の匂いをかいでみろとは言ったが、新しい命の匂いだとは気がつかなかった。本能のみが気がついていた。故に猫はあの時その場を立ち去ったのだ。
いよいよ雨足は強くなり、見れば若葉は少しずつ背丈を伸ばしていった。
腹には我が子の命が。
込みあがるものは、温かい感情だった。猫はゆっくりゆっくりと歩き出す。
「あの方は当然のことをしているだけさ。つまり、芽を育て、間引きをし、水をやって肥料をやる。花柄を摘み、枯れた葉を取り除いてやるのさ。それがたとえ命の花であっても、花に変わりはないだろう? 少々、世話に対するセンスは悪いがね。神だ、死神だといわれる所以はあっても自覚はないだろうさ。
だれが彼を慈悲深いと言ったんだい? ああ、花にかける愛情は果てしないさ」
猫の背後で、召使の老婆が声をかけてきた。死神の手伝いをしている最中は遠くから見守るだけで、声をかけることは一度としてなかったのに。
神を疑ってはならない、老婆はもう一度言った。
神の愛を疑ってはならないのだ。
たとえそれが求める種類の愛とは違っても。
そしてそれは、そこかしこに散らばっているのだ。
死神は花を引き抜く。
しかしながら、命の花を育て咲かせるのもまた死神ではなかったか。
猫はいとおしさと切なさと、そしてこれから生まれてくるわが子のために、今一度空に向かってにゃあと鳴いたのだ。
新しい命の花は、まさに古い花が引き抜かれた跡地にしか根を下ろすことはできないから。
死神に感情はない。
かつて可憐な花を咲かせようとも。
蕾に対する慈しみも、引き抜かれるであろう花に対する憐憫もあろうはずがなく。
花は等しく咲いて散る。
1
その時胸がちくりと痛んだ。
己の胸に爪を立てたわけではない。やわらかく濃い茶をした土を掘り起こそうとしただけだ。
これ以上干渉してはいけない、茶トラの猫はそう思った。ゆっくりと前脚をおろし、地面に鼻を近づけて匂いをかいだ。土の中は、どこか懐かしい匂いがした。その理由を、猫は漠然とながら学んでいた。
立ち去らねばならない、誰に言われたわけではないのに猫は後ずさり、やがて踵を返した。
背後では無慈悲な死神が、泣き崩れる人間の母親を表情なくに見下ろしているのだ。その母親は息子の魂を死神に連れ去られ、魔女に子守唄を、野バラに傷みと引き換えにぬくもりを、湖にここまで来る代償として真珠のような両の目玉を、それぞれ差し出したのだ。
母親は死神の花畑に来て、目が見えないにも関わらず息子の命の花を探し出した。けれども、息子の魂を連れ帰った死神は花を引き抜いたのだった。
猫は一部始終を見ていた。己は人間ではなかったけれども、同じ女として胸が痛んだ。泣けぬ目から涙がこぼれたかもしれない。
涙、ではなかった。
猫が空を見上げると、灰色の空から雨粒がぽたりぽたりと落ちてきているところだった。
このところ連日寒々とした小雨が降り続いていた。春の長雨は花を催すといわれている。
事実、死神の花畑には、明るい空へと自身を咲かせるために、希望を抱いている蕾が無数にある。
雨が上がったなら、地平線の果てまで続く花畑は色とりどりの花を一斉に咲かせるだろう。けれど息子の命の花、サフランははかなくうなだれていた。
猫はもう一度背後を振り返った。母親は顔を覆って未だ慟哭している。目を失ったにも関わらず、指の間から透明な涙があふれていた。彼女を気の毒に思いはしたが、自分にはどうすることもできなかった。
すでにその場所は、他の花が咲くための準備をしているのだ。つまり、新たな命が生まれようとしている。自分ができることといえば、死神の逆鱗に触れ、己の命の花を抜き取られないようその場を去ることだけ。なのに死神はどこまでも無表情だった。
2
「それならお前の持っているその魚を私に頂戴な」
曇り空よりは明るいブルーの毛並みをした猫が言った。腹が減ってはいたが、しかたがない。茶トラの猫は、しずしずと獲れたての魚をブルーの猫に差し出した。代わりに行くべき道を教えてもらうためだ。
ブルーの猫はごろごろと喉をならし、実にうまそうに音を立てながら魚にかぶりついた。食べ終えると、舌で丁寧に前足を舐めて、尻尾をぱたぱたと振ってみせた。
「では教えてあげる。この道をまっすぐに向かいなさいな」
茶トラの猫はブルーの猫が指す方向に目をやった。茨が続く細い道である。茶トラの猫は手短に礼を言った。食料を分けてあげたのだから、これ以上へりくだらなくてもよいだろう。
茶トラの猫は歩き出した。歩く途中で張った乳房から乳が流れてきた。本来なら三匹の子猫が吸い付くはずだった。与える相手はもういない。
歩き続けてどれくらいの時間が経っただろう。ブルーの猫にご馳走をあげてしまってから、水一滴さえ猫は口にすることはなかった。
自慢の艶やかな毛は、からまり泥で汚れていた。旅立つ以前より身体は細り、とうとう乳も出なくなった。目がかすみ、睡眠を必要としていたが、猫は歩き続ける。
どうして、どうして。
考えないようにしていたのだが、歩みをとめた途端に脳裏を横切る怒りと悲しみを伴う疑問。猫は空を見上げ、沈黙を守り続けている月ににゃあと鳴いてみせた。月は、この先茶トラの猫がどんなに罪を犯そうとその口を開くことはない。忠告もしない。
茶トラの猫はひとりぽっちだった。
「どこにいくつもりだ」
顔を上げると、目やにで片目がつぶれた白猫が立ちはだかっていた。白猫は茶トラの猫を一周し、嘗め回すように見つめた。
茶トラは雄猫の意図を察し、ふんと鼻を鳴らした。ひとりぽっちであり、そうでありたいと願った。
だが白猫は構わず後をついてきた。茶トラの猫が応じないと知ると、強引にのしかかってくる。茶トラは身体を揺すって振り払おうとしたが、雄猫は爪をたてて必死にしがみついてきた。にゃあ、茶トラは泣きたくなった。
ついに追いかけっこが始まり、筋力の落ちた茶トラはひょろひょろと駆け出した。けれど野の生活を送っていた白猫は、まるで弄ぶように茶トラに追いついたり離れたりを繰り返し面白がり精神を追い詰めていった。
「もう、許してくださいな」
「いいや、許しはせん」
体力の尽きた茶トラは地面にへたり込んで、弱々しく懇願した。
「私は行かなくてはいけないのです」
「どこへ行くつもりだったのだ」
さして興味もないだろうに、事が終わるとせせら笑いながら白猫が問いかけた。
「神のところへ。我が子を奪ったものに復讐をするのです」
「そうかい。では、礼の代わりに教えてやろう」
白猫は満足しており、そしてなにより神への道を知っていた。
3
代償として教えてもらった道を進み、茶トラの猫は神の地へとたどり着いたのである。
猫の身体はすでにボロボロであった。空腹に倒れそうになるものの、目的を遂げるまでは死んでも死にきれないと思った。
「綺麗」
猫は思わずそう洩らした。
広がる大地に隙間なく敷き詰められた花々たちは、どうしてか同じ種のものが集まって植えられてはいなかった。コスモスの隣は向日葵であり、その隣はすみれと蒲公英というように、背丈もばらばらである。けれど斑な色は全体を通して見れば斑ではなく、一枚の絨毯であった。
「おや、めずらしいね。今日はよくお客が来ることだよ」
くすんだ赤色のワンピースを着た老婆が、腰を屈めることなく声をかけてきた。猫は声のした方を見上げてこたえるように一声鳴いた。
「ずいぶん汚れているね。いったいなにをしに来たのだろうね」
抜けた前歯から息を洩らしながら老婆が笑った。猫は毛が逆立つのを感じた。
「神様にお願いを。我が子を返して、と。我が子を奪った黒い鳥達の命と引き換えに、我が子を生き返らせてと」
「神――ね」
老婆は喉をひきつらせた。猫は底意地の悪い老婆の視線を受けて身構えた。
「そうとも、ここは神の家だ」
猫はほっと胸を撫で下ろしたものだ。
「では、神様に会わせて下さい」
猫は丁寧にお辞儀をした。けれど老婆は鼻で笑った。猫は喉の奥まで出かかった言葉をぐっと堪える。
「お願いいたします」
「なに、あの方は丁度来客中だよ」
老婆は顎をしゃくった。見れば背が高く、白髪でぎょろりとした目の老人が花畑の真ん中に立っていた。彼は視線を落とし、何事か呟いている。よくよく見れば、老人の視線の先には青いサフラン――今にも枯れてしまいそうな――を庇うような姿勢で、老人を見上げている中年の女がいた。
猫は首を傾げた。老婆が指し示した老人は、骨と皮の貧相な老人で、猫が想像し探していた神とはかけ離れていた。神は慈愛溢れる方だったのではないか。
「お前が捜し求めている神様だよ。あの方は今、息子の命を救うために、魔女に子守唄を、野バラを抱きしめて温めさせ、湖に真珠のような両の目玉を差し出してここにたどり着いた女と対面している。見えるかい、今にも枯れてしまいそうな青いサフランを。ここに咲く花はすべて命の花でね、あの息子の命の花がサフランなんだよ。あの女は神様にそのサフランを引き抜かせまいと守っている。神様もね、母親の情に驚きはしているさ。ねぇ、お前。神様はそれでも命の花を引き抜くと思うかい?」
猫は老婆を見上げた。
「神様なのでしょう? 慈悲深いお方ですわ、命の花をむやみに引き抜くはずがありませんもの」
そう、神であれば女の祈りを聞き届けてくれるはずだ。故に自分は長い道のりを歩いてきたのではなかったか。我が子を死に至らしめた憎き鳥に復讐するために。
猫は鳥が無残に雷に打たれて死ぬのを想像して笑った。
老婆は口角を上げたに過ぎない。
「なぜ命あるものは死ぬのか考えたことはあるかい」
老人をまっすぐ見つめる猫に、老婆がささやくように背後から言った。猫はゆっくりと振り返り、首を傾げる。
神がいる場所で死について語ることは相応しくないように思えた。だのに猫は老婆から目を離せなかった。
「考えよ」
老婆の視線は恐ろしく冷ややかで、猫は視線を逸らした。心臓を鷲づかみされたように、きんきんと胸が痛み窮屈さに身体が強張る。
視線の先には老人の姿をした神と、中年の女がいた。
神は一言を女に投げかけた。女はわっと声をあげ、地面に突っ伏してサフランの花を抱きかかえる。
「神を疑ってはならないよ」
老婆の声が冷たく響いた。
猫は彼らから目を離せなかった。
神が腰を曲げ、手をあげると女がふわりと浮き上がって離れた場所に落ちた。
女は呆気に取られて神はどこかと探した。
神は――、
「あいにく、あの方はこうも呼ばれているんだよ」
ゆっくりと青いサフランを根元から掴み、一気に引き抜いた。
「あの母親がよくわかっているかもしれないね」
根についた土はほんの少しだった。引き抜かれた途端、サフランの花は干からびて茶色になった。
女が空洞の眼を開き声にならない声を上げる。
「――死神と」
老婆の声は逐一洩らさず猫に届いていた。そして女の悲鳴を聞こうが、花を引き抜こうが、まったく表情を変えない神――死神とも言われる老人の顔も、目を逸らすことなく見続けていた。
4
空を見上げるとどんよりとした灰色が広がっている。どれくらい空を見上げていただろう。今にも泣き出しそうであるのに、堪えているのか冷たい雨粒は落ちてこなかった。
猫はじっと女を見つめていた。
受けた衝撃はひどく猫の心をえぐった。
瞬きをするのさえ忘れた。
足は自然とそこだけ茶色がむき出しになった場所に向かう。
猫は死神と女の中間に座り込んだ。
そして猫は死神を見上げた。
「なんだ、お前は」
「なぜ、引き抜いたのです」
「なんだとっ」
途端死神は眉を吊り上げて叫んだ。
猫は毛を逆立て、体勢を低くしてうなってみせた。
「あなたが私の息子達の命を奪ったのですね、たやすく。まだ花は地面に根をしっかりと張っていなかったかもしれませんのに」
「どういう意味だ」
「花を咲かせ、種を落さず、どうして次の花が咲きましょう」
事実、女の息子の花が植わっていた場所は、土があるだけである。種がこぼれる前に、球根が育つ前に引き抜かれたのだ。
睨み付けていなければ今にも飛び掛ってしまいそうであった。
「命の花であるならば、尚のこと。どうかお慈悲を、息子の命を返していただきたいのです」
「息子とな? ははっ、わしは毎日たくさんの花を引き抜いておる。どれが息子の命の花だったか覚えておらぬよ」
猫はにゃあと鳴いた。
神が命の花を引き抜き、あまつさえぞんざいな扱いをしていようと、誰が想像したであろうか。命は、大切に慈しまれなければならないはずだ。
「では、私の命と引き換えに、息子の命を助けてくださいまし」
死神は奇妙なものを見るような目つきで、猫を見下ろした。
「枯れた花をどうやって生き返らせるのだ。またどうして花を交換できる?」
「それは」
「わしは当然のことをしているに過ぎない」
背後にいる女が声を上げて号泣した。猫は首だけ振り返る。慰めの言葉すら思いつかない。
だが猫はもう一度死神に縋った。
「ここに、そのサフランを」
前脚で指し示したのは、死神が引き抜いたばかりのサフランであった。
「植えて水をあげれば根を張ります。今一度花を咲かせることだって可能でございましょう」
女が声を上げた。本来在るべき目の場所は、黒くぽっかりと穴が空いている。彼女はそうしてまで息子を追いかけてきたというのに。
死神は猫を凝視した。そして鼻をならす。
「匂いをかいでみろ」
猫は最初なにを言われたのかわからずきょとんとしたが、死神の視線の先を見て心臓が高鳴った。猫の懇願を聞き入れてくれたのかと思ったのだ。だが、それにしては匂いをかいでみろとはいったいどういうことだろう。
猫は恐る恐る花畑に脚を踏み入れ、命の花を踏まないように慎重に歩いた。
種類や丈のまったく異なった花々が、まるで猫の身体に吸い付くように纏わりついた。
花が引き抜かれた跡は、崩れかけた小さな穴が空いている。花の大きさに比べ、根はそれほど張らなかったようだ。もっと深く掘ってみよう、猫はサフランを埋めるため穴を大きくしようと思いついた。すれば今度はもっと根が広がっていくだろう。
だが、胸に痛みを覚えたのは穴に前脚をかけたときだった。
なにか脚に虫でも当たったのだろう、猫は胸の痛みの原因を探ろうと鼻を近づけた。
「!」
どこか懐かしいにおいがした。
猫は一歩後ずさり、その匂いはなんだったか思い出そうとした。乳のにおいだと気付くまで、そう時間はかからなかった。
5
雨が小降りになってきて、やがて止んだ。
猫は中年の女と並んで花畑を見ていた。
固く閉じていた蕾が時間を早送りするように、首をもたげて手を広げるように一斉に咲いた。すでに咲いていた花々たちは、雫を受けて光を反射し輝いている。
猫は目を細めた。
花畑の向こう側にはトンネルの入り口のように虹がかかっていた。
昨夜の苦い出来事は嘘のように穏やかな風が吹いた。すると葉や花がこすれる音がする。
花はよく手入れが行き届いていた。どの花も花柄は除去されており、葉には害虫被害は見当たらない。土はふっくらと空気を含み、猫の体重でさえ脚が沈む。
猫は他の花を踏まないよう気をつけながら、サフランの引き抜かれた跡地の側に座り込んだ。尾でぱたぱたと地面を数度叩く。
「猫さん、」
背後で命の花を引き抜かれた息子の母親が立っていた。猫は振り返らず、尾を振る。
「なぜそこから動かないの」
猫はこたえなかった。母親――ジーナがため息を吐き出す。
「確かめたいのです」
言葉はすんなりと喉を通った。猫は柔らかな土の匂いが忘れられなかった。
「確かめずにはいられないのです」
「そう」
ジーナは深く追求はしてこなかった。彼女の身体は当然の如く猫よりも数十倍大きい。花畑に入ることはためらわれたのか、小道で猫の背中を見つめていた。
それは何日も続いた。
猫は陽が暮れてもその場を動かなかった。ただ一点を無表情に見つめているばかりである。食事や水など、一切口にしなかったが不思議と腹は空かない。気分が悪くなることもなかった。それはジーナも同じなのだろうか。待っているかのように猫の背中を見つめ続ける。彼らは身じろぎひとつしなかった。
死神は日に何度も花畑に現れた。花を一つ一つ丁寧に見ていき、枯れそうな花があれば容赦なく次々と引き抜いていった。
引き抜かれた花はその場には捨てず、必ず持ち帰って処分しているようだった。猫は死神の仕事をくまなく観察した。死神はとても忙しそうであり、声をかけるのをためらわれる。作業は夜を徹して行われており、死神は休むひまなく動き回る。彼は常に無表情であったが、一瞬だけ緩むときがあった。それは濃い茶の土にひょっこりと現れた新芽をみかけたときだった。
やがて猫は立ち上がりジーナを一人残して死神の元に向かった。
猫は死神の足に頭をこすり付けた。
「お手伝いいたしますわ」
死神は猫を一瞥しただけでこたえなかった。
ここ何日か雨が降り続いていた。どんよりとした日が続き、猫の心も滅入っていた。猫は手身近にある花を見て、葉が枯れかけのものがあれば口にくわえてはがしてやった。落ちた花柄は一箇所に集める。すると召使の老婆が無言でそれを処分してくれるのだ。降り続ける雨は時折花に傷を負わせる。もともと水を好まない花もまとめて花畑に植わっている。そのような花は傾かせることでたまった雨水を土に還してやる。命の花というだけあり、持ち主の精神状態も影響しているらしい。いくら水が苦手の花でも、持ち主の精神力が高ければ易々と枯れたりはしないそうだ。
猫は必死に働いた。広大な土地なので単純な作業の繰り返しでもすべてを一日で終えることはできなかった。いつの間にかジーナも手伝うようになっていた。だが結局、花を引き抜くという大仕事は死神が行っていた。引き抜く基準はよくわからなかった。他にもっとしおれている花があるにもかかわらず、まだ元気な花を引き抜くこともあった。
猫は何日か死神と共に仕事をしてわかったことがある。死神は花を花としているということだ。
ある日、猫は花の手入れをしながらふと立ち止まった。何のことはない。勢いがなく、蕾もない黄色いパンジーが目に留まったのだ。猫はそのパンジーに引き寄せられるようにふらふらと近付いた。そしてぶるっと電気がはしったように身体が震えた。
「猫さん、疲れたのかしら」
ジーナがいたわりの声をかけてきた。
「いいえ」
もし人間の手があったなら包み込んで守ったであろうその花は、まさしく自分の命の花だった。盲目にもかかわらず息子の命の花を見つけたように、猫もまた己の命の花を見つけたのだ。しかし、なんと哀れな姿だろうか。蕾のすべては咲き終わり、花柄は摘まれるのを待っている。
もしこの花が己ではなく、まったくの他人であれば、なんの感情もなく花柄を摘み取ったであろう。
「ああ、見つけてしまった」
己の寿命を知っているのと同じに等しい。命の花は種も球根も残さない。にもかかわらず、死神が引き抜いた跡地には必ず別の花芽が顔を出した。
「なんて貧相な花なのでしょう」
命の花は持ち主そのものを体現しているかのようだった。
猫は呑まず食わずでやせ細り、毛並みは最悪で絡まっていてどうしようもない。連日の雨は猫をすっかり綺麗にするには優しすぎた。
「わたしもとうとう死んでしまうのね」
そこで猫は自分の死よりも、ここに来た目的を思い出した。けれど不思議なことに当初に抱いていた憎しみはこれっぽっちも湧き上がらなかったのである。
猫は咲き終わったパンジーの花柄を優しく口でちぎってやった。何個も何個も。とうとう小さな株にあったすべての花柄は取り除かれた。葉は鮮やかであるのに、花を失ったそれは一回り小さく見えた。けれど猫は葉に茎にキスを繰り返し、頭を擦り付けた。するとなぜだか心地よく、優しい気持ちになれるのだった。
そこへ死神の手が割り込んできた。深い皺が刻まれ、血の気のない老人の手だった。
猫は気配に目を開け、死神を見上げた。彼に表情はなく、どうやら猫の命の花を引き抜こうとしているらしい。今にも自分の命が尽きようとしているにも関わらず、猫は微笑んで見せた。
「猫さん」
ジーナが遠くで叫ぶ。
おかしいわね、ジーナはすぐ側にいたのに……、猫はまどろみを覚えた。地面に伏せ瞼が落ちてくる。猫はまるで雲に乗ったようなふわふわとした感覚に尻尾を一振りした。
6
花は花でしかないのだよ。
雨の匂いがした。
花は待っている。全身を潤し、自分を艶やかにするための小道具を。
これから成長していくための糧を。
7
遠くの方で子猫たちの悲鳴が聞こえた。
母親である茶トラの猫は、心臓が跳ね上がる。猫は慎重に周囲を見渡した。ダンボールの中に敷かれた新聞紙と、毛だらけのピンクの毛布を頭で小突き回す。昨夜まで自分の側にいた息子達がいない。
猫は駆け出した。
コンクリートの塀を一瞬で飛びつき、蹴る。
もう一度か細い声が聞こえてきた。ついで羽音が。
聞き覚えのある音に戦慄が走る。毛が逆立ち、低いうなり声が口から洩れた。
猫は必死で走った。
あの声が聞こえなくなる前に。それは覚悟であった。
残酷な黒い赤が飛び散っていることの、覚悟だ。
「ぼうやっ」
たどり着いたとき、三匹の子猫たちは無残な塊と化していた。頭上では黒く大きな鳥が、肉塊を足とくちばしをつかって器用についばんでいた。
猫は呆然と鳥を見上げた。瞬間、目が合う。
その目は、ぎょろりと大きく飛び出している。いくら威嚇をしても動じない鳥は、猫に敗北と屈辱を植えつけた。
猫は地面に視線を落とした。
点々と続く赤の雫の先に、ころりと転がっている小さな丸があった。目が突付きまわされ、潰され、舌を出したままの、汚れた、それは、自分の。
「―――っ」
虚ろな黒い目がこちらを見つめている。
――なぜ助けてくれないの?
母猫は動けなかった。
今すぐにでも駆け寄りたい衝動があるのに、我が子の頭上を飛び回る黒い鳥は、いやらしくこちらを見遣る。その目には侮蔑の色が滲んでいた。母猫の勇気のなさを蔑んでいた。
猫は足がすくんでいた。震えて一歩が出ない。
尚も鳥は子猫をついばんでいる。
赤い液体が目の前を飛び回る。
猫は一切をあきらめた。どうして動けようか。
8
お願い、水を。起き上がった茶トラの猫は、目の端に涙を溜めていた。
ゆっくりと首を巡らし、今現在を認識する。目の前には、己の命の花があった。猫はそれを見てわずかに苦笑する。
夢を――見た。
動悸が治まらない。猫は低くうめいた。
背をそっと支えてくれるジーナが、水の入ったひしゃくの口を猫に近づける。猫は一口舌で掬い取った。
「わたしの命はあるのに。ここにありますのに、どうして息子たちは召されてしまったのでしょう」
「猫さん……」
見れば己の花の横にぽっかりと穴ができている。死神が抜き去った直後だと知れた。
「いいえ、いいえ」
死神は、ただ花を引き抜いたに過ぎない。
猫はジーナの懐に顔を押し付けた。しばらくして、猫はジーナから離れた。
「どこへ」
ジーナがすかさず声をかけてくる。顔のふたつの空洞が、まるで我が子の目のように見えた。猫はびくりと身体を震わせ、一歩、二歩と後退する。
彼女が猫に追いすがろうとすればするほど、助けてくれない母親を責めるわが子に見えた。
「ええ、仇を討たなければ」
「猫さん?」
「討つわ。そのためにここに来たのです」
己の手に余るのなら、神様に。神様にできないのなら、今度こそ自分が。
猫は踵を返し、花畑の中を全速力で走り始めた。あの憎き黒い鳥を脳裏によみがえらせれば、命の花がたやすく見つかるような気がした。
地の果てまで続きそうな花の中を、乱暴に猫は駆け抜けた。土が身体に降りかかり、軟らかな茎が何本か折れたかもしれない。花びらも多数散った。だが猫はそんなことに構っていられなかった。たかだか、そんなこと。そう、そんな簡単なことだから自分でもできる。ここではあの黒い鳥より、自分の方が強いのだ。
猫はうっすらと笑っていた。
「猫さん!」
全てを許してしまった、あきらめてしまったジーナが叫ぶ。猫は振り返らなかった。
息が切れるころ、ようやく猫は目的の花のひとつを探し当てた。広大な花畑に、何日もかかるかと思ったが、意外に早く見つけたことに猫は声高く鳴いた。
その花は黒い鳥とは似つかわしくなく、小さく可憐なすみれであった。花芽がいくつもつき、雨が降ればいよいよ満開になるだろう。猫はその小さな株に向かって低くうなった。
「よくもっ」
猫は間を置かず飛び掛った。茎の根元に牙を食い込ませ、首を振って力いっぱい引き抜いた。けれど、根はしっかりと大地をとらえているのか、また茎には傷一つつかずその場に居座っている。猫はうなって何度もその細い茎に噛み付いた。
「なぜっ」
身体は土にまみれていた。上下左右にいくら引っ張っても抜けないのだ。猫は鼻の奥がつんとしてきた。
すると不意に目の前に黒い影がさした。猫は動きを止める。
「神様」
荒い呼吸の中、猫の表情は輝いた。ようやくここで、死神、否、神は猫の願いを聞き届けてくれる。
長く骨ばった手がぬっと差し出される。猫は邪魔にならないように、一歩脇に避けた。
瞬間。
強い衝撃が身体を突き抜けた。目の前が白くなる。
猫は身を翻す暇なく、身体をしたたかに地面に打ち付けた。猫はおそるおそる顔を上げると、口をへの字にまげ、眼光鋭い死神が拳を固く握りしめ立ちはだかっていた。
猫はその恐ろしさと理不尽さに歯を食いしばった。
なぜ、は言い尽くした。ではあとはどの言葉を出せば運命は変わるのだろうか。
猫は地面に顔を押し付けた。
死神は踵を返し去っていった。遠くで何事もなかったかのように作業を進めている。
猫は慰めの言葉が見つからないほど慟哭した。
「猫さん、雨が降るわ」
気がつけば、ジーナが労わるように猫を膝に乗せ背中をやさしく撫でてくれていた。猫は嗚咽が込み上げるのを必死で堪え、その優しさに縋った。
空を見上げればぽつぽつと灰色の雲から雫が落ちてきていた。
「寒いのです、ジーナ」
「温めてあげるわ、猫さん」
猫は目を閉じ、ジーナの懐に強く頭を押し付けた。
春の雨は花を促すために咲く雨である。あのスミレは、明日にでも咲くだろうか。
「猫さん、いいものを見せてあげる」
ジーナは猫を抱いたまま立ち上がって歩き出した。その足取りはしっかりしたものである。彼女に目がないのだということを、猫は忘れそうになった。
しばらく歩き続けて、やがてジーナはある場所で止まった。その頃には雨はもう少し強くなっていて、ふたりの体温を容赦なく奪っていく。しかしジーナは自分のことよりも猫を気遣った。
そこは一番最初に猫がたどり着いた場所であった。そしてジーナの息子の花が植わっていた場所だった。穴が空いていた跡地はすっかり平らになり、なによりひとつの小さな双葉が顔を出していた。
「ああっ」
猫はジーナの腕から飛び降り、そろそろと芽に近付いた。
くんと鼻を近づければ思わず涙ぐみそうになる。
「死神さんは、花を引き抜かなければならなかったのよ」
ジーナは優しく声をかけた。
「そうでなければ、新しい命は一体どこに生まれればいいの?」
猫は涙の代わりに何度も何度も若葉を舐めた。そして自分の腹をいとおしく見つめる。この中には、あのときに出会った片目のつぶれた白猫と自分の子がいる。猫はその新芽がまさしく我が子の命の花だということを知った。かつて死神がサフランの跡地の匂いをかいでみろとは言ったが、新しい命の匂いだとは気がつかなかった。本能のみが気がついていた。故に猫はあの時その場を立ち去ったのだ。
いよいよ雨足は強くなり、見れば若葉は少しずつ背丈を伸ばしていった。
腹には我が子の命が。
込みあがるものは、温かい感情だった。猫はゆっくりゆっくりと歩き出す。
「あの方は当然のことをしているだけさ。つまり、芽を育て、間引きをし、水をやって肥料をやる。花柄を摘み、枯れた葉を取り除いてやるのさ。それがたとえ命の花であっても、花に変わりはないだろう? 少々、世話に対するセンスは悪いがね。神だ、死神だといわれる所以はあっても自覚はないだろうさ。
だれが彼を慈悲深いと言ったんだい? ああ、花にかける愛情は果てしないさ」
猫の背後で、召使の老婆が声をかけてきた。死神の手伝いをしている最中は遠くから見守るだけで、声をかけることは一度としてなかったのに。
神を疑ってはならない、老婆はもう一度言った。
神の愛を疑ってはならないのだ。
たとえそれが求める種類の愛とは違っても。
そしてそれは、そこかしこに散らばっているのだ。
死神は花を引き抜く。
しかしながら、命の花を育て咲かせるのもまた死神ではなかったか。
猫はいとおしさと切なさと、そしてこれから生まれてくるわが子のために、今一度空に向かってにゃあと鳴いたのだ。
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