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作品ID:612
こちらの作品は、「お気軽感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約22501文字 読了時間約12分 原稿用紙約29枚
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博愛的ロマンス
作品紹介
高2の千弥子は、ひょんなことから学習教室に通うことに。そこで出会ったスタッフの男性・水原は、千弥子が幼い頃から抱いてきた理想形に当てはまっていた。彼にすぐに恋心を抱くが…。
恋とは、突然空から降ってくる流星のようなものだ。
わたしの場合は、少し異なる。流星の粒はふわりと舞い降りて彼女の頭上で弾ける。途端、小さな魔法がかかる。まるで、ふわふわの綿飴を口にしたよう。
「あの彼(ひと)を見た瞬間、”彼が好きだ”って直感した」
胸は優しい甘さに小さく高鳴り、あたたかさが広がっていく。
これが、”恋”ですか?
あの人の顔を思い浮かべていると、安心してとってもいい心地がする。手放し難くて、いつまでもそっと抱きしめていたい感じ。夜空に星が瞬くように、わたしの心の中であの人がきらりと優しいけれど目の離せない光を放つ…。
*
「とっても甘い。ミルクティーを一気飲みした気分」
城千弥子(じょうちやこ)は、少女漫画コミックの1ページ目を開いて呟く。甘くて、胸がきゅんと締まるような恋に、一度は憧れた。今は、冷静に甘すぎると捉えている。
2週間後に学期末試験を控え、休日の昼下がりにもかかわらず机にかじり付いていた。歴史の教科書と睨み合っていた。普段は休日を半日使ってまで勉強しないので、対策に悩んだ。特に千弥子にとって一番厄介なのは、歴史だ。暗記するにも馴染みのない言葉や当時の政治制度などは、理解が難しく頭脳に長期記憶として蓄積されにくい。覚えにくいと勉強する気も削がれて、娯楽へと逃避したくなって今の状態に至る。
少女漫画は愛読する分野だが、どうも最近の作品の傾向に、自分はついていきにくい感じがあった。好きになって、アプローチして、両思いになって、キスだのハグだのスキンシップの連続から…。この恋のファストスピード化が、千弥子の価値観嗜好にはいまいちしっくり来ない。苦手な教科に混乱するよりずっとましだが。
「この作家の作風はしつこくなくてあっさりしてて好きだったんだけどな」
コミックを閉じて肘をつく。流星、魔法、綿飴…どこのおとぎ話の世界のものだろうと考えた。
尊皇攘夷、大政奉還エトセトラが、勉強に戻るよう自分を呼んでいる気がする。千弥子は無視しようとしたが、留年はしたくないので渋々コミックをどかして教科書を取り出す。
「たっだいま!」
ペンケースからシャープペンなり赤ペンなりを出していると、同部屋で妹の梓が部屋に入る。朝から遊びに出かけて、帰宅したところだった。
梓は左右で結わった髪束を揺らしながら自身のベッドに勢い良く座り込む。千弥子と同じく毛質が細かくいつも手指で毛を弄んでいた。
「春みたいな気候だった。あったかくて気持ち悪ー」
その清らかな容貌とは裏腹の毒舌が飛び出す。千弥子は反対側の梓を振り返って、妹の呑気さを羨んだ。
「1年生はいいな、そうやって遊べて。わたしもたまには羽目をはずしたいよ」
千弥子が口を尖らせると、梓は呆れた顔をする。
「1年だってテスト勉強はするよ。千弥姉の場合は普段の怠りが響いてるだけでしょ。頑張って勉強したまえ〜」
馴染みの梓の嫌味さえ今の千弥子には痛い。
「それがさあ、どうも上手くかないんだよね。今歴史やってるんだけど、教科書の項目読んだ途端頭真っ白になっちゃう」
「千弥姉って昔から社会ダメだもんね」
「梓は逆に得意でしょう?暗記のコツとか教えてくれない?」
「そっちの勉強見てたら自分の方に手が回らなくなるよ〜。ていうか、面倒くさい」
千弥子は妹の非協力的な態度にがっくりと肩を落とす。正直なところ、歴史に限らず暗記を要する教科はほとんどお手上げ状態なのだ。梓の力も借りられないとなると、どうしたものかと頭を抱える。
そんな姉のふさぎ込んだ様子を見て、梓は少し考えて、思い付いたように声をかける。
「わたしが見るのは無理だけど、他につてがあるよ」
千弥子は垂れていた頭を上げ、瞬間的に梓ににじり寄った。
「何、なに?」
「顔、コワ…。友達が学習教室に通ってるの。大学生とかがボランティアで勉強見てくれるんだって。千弥姉も期間限定でそこに行ってみれば?」
どんな案が聞けるかと思いきや、学習教室という言葉を聞いて静かに興奮が冷めていく。千弥子は塾か何かを提案されたと捉えた。
「教室って…お金かかるんでしょ。お母さんにこれ以上出費させたくないよ。ていうかわたし、部活があるし、通えない」
「そこ、市でやってるから無料だよ。塾に通うのが難しい子達のための場所なんだって」
それでも千弥子の気は進まない。千弥子は文芸部に所属していて、新入生歓迎に向けた部誌制作で忙しかった。もっとも今はテスト期間中で部活動も休みなのだが、千弥子個人は作品の制作に精を出していた。
千弥子が返事を渋っていると、梓は嫌なほどさわやかに笑う。
「まあ、気は乗らないかもしんないけど。わたしも興味あるから、お試し体験ってことで一緒に行こうよ」
何か企んでいるのではと思うほど、普段の梓では見られない眩しい笑顔だった。千弥子は梓の勢いに押されつつ、梓と一緒なら…という理由で教室に行ってみることにした。母親には、タダで体験できるからということを強調して、教室見学の許可をもらった。
*
見学当日は梓の友達・優穂(ゆうほ)と合流して行くことになっている。教室―ボクトキミという―最寄りの駅に着くと、改札付近で優穂が待っていた。梓はその姿を見つけると小走りで駆け寄る。
「やっほー優ちゃん。今日はよろしくね」
「おはよう、梓ちゃん。まさか梓ちゃんが参加すると思わなかったよ」
優穂は梓と同様に清楚な雰囲気の女の子だった。梓が「ちなみにこの人が千弥姉です」と千弥子を紹介した。
「姉の千弥子です。急に無理言ってごめんね、今日はよろしく」
「いいえ!寺河優穂です、よろしくお願いします」
頬を染めてはにかむさまは梓と反対に純粋だった。自己紹介が済むと優穂の先導でボクトキミに向かって駅北口を出た。
「ねえ優ちゃん、ボクキミには、美人さんっているー?」
「美人?なんで」
「いや~先生だけじゃなくて、生徒とかでもいると思うんだけど。いたら会ってみたいな~的なね」
「梓の面食い癖が始まった・・・。私たちの目的は勉強でしょ」
「うっさいなあ、千弥姉ったら。美人がいなきゃ勉強もはかどんないよ」
梓は無類の美人好き―驚いたことに女性に限られる―で、今回の体験参加も美人探索が真の目的だった。
「生徒はわからないけど・・・。スタッフならキレイな女の人、けっこういるよ」
「まじ!わーい、テンション上がってきた」
妹の興奮具合に苦い顔をしつつ、千弥子はスタッフ陣を思い浮かべる。どんな先生達か気になると同時に、本当にボクトキミに行くことで再来週の試験への困難を解決できるのか不安だった。その先生達の教え方で、自分の勉強の悩みは解消されるのか。
日曜日ともあってボクトキミには生徒全体が参加していた。決して広くない部屋には子どもで隅々埋め尽くされ、随分な賑わいだ。優穂がスタッフの男性に声をかけて、城姉妹のお試し体験のことを伝えた。
「君達がメールで連絡くれた、城さん?今回はうちの教室に興味をもってくれてありがとう。僕は副代表の本田です」
副代表と名乗る男性は年若く30代そこそこに見える。千弥子は緊張してお辞儀し、梓は素っ気なく挨拶する。副代表よりキレイな女性スタッフを捜して視線はあさっての方向を向いていた。
「急に連絡しましたけど大丈夫でしたか?」
「大丈夫です。親御さんは同行していないけど、行くのは知ってるんだね。今日はお試しってことで、数時間だけ他の子ども達に混ざってプログラムを体験してもらいます。君達にはスタッフが一人ついて、勉強を見ることになります」
「そのスタッフって女の人ですか?」
梓が急に割り込んでくる。きょろきょろ辺りを眺めていたが、本田の話は聞こえていたようだ。どこまで美人にこだわるのか、この妹・・・と千弥子は眉間にしわを寄せる。
「もう決まっているんだ。今日だけは男性スタッフなんだけど、大丈夫かな?」
「もちろんです。妹の言うことは気にしないでください」
「千弥姉、ひどーい」
姉妹で互いの顔をにらみ合う。本田は意図が汲めず首をかしげたが、姉妹に座席に座って待つよう言った。千弥子はスタッフ陣を観察してみる。学生から社会人、中高年もいて、幅広い年齢層が集まっていた。自分達の先生は誰だろうと予想してみるが、本田がつれてくるまで皆目見当もつかなかった。
「城さん。この人が今日君達の担当になるスタッフです」
各々の勉強が始まって、本田が担当スタッフを千弥子達に紹介する。学生ぐらいの若い男性だった。
「初めまして、今日一緒に勉強させてもらう水原慶吾(みずはら・けいご)です。よろしくお願いします」
「城千弥子と梓です。よろしくお願いします・・・」
ぼんやりと全体像しか見ていなかったので、慶吾の顔に改めて目を合わせる。慶吾は千弥子好みの容貌をしていて、一瞬ほうけた。梓に肩を突かれ我に返るが、頬は紅潮して心臓の脈が速かった。
(けっこう、好きなタイプかも・・・)
星が頭上で弾け、胸にじんわりと沁みていくようだった。それから体験中はずっと胸が高鳴りっぱなしで、宙に舞いあがるような気分になっていた。慶吾は柔らかな物言いと物腰で、城姉妹に優しく勉強を教える。結果なかなかの好評に終わり、充実した時間をもつことができた。
「あの男性(ひと)、水原さんだっけ?千弥姉にとっちゃかなりのストライクゾーンだよねー」
帰り道、まだ明るい空の下、城姉妹は担当の男性スタッフの話題で盛り上がる。正直千弥子はもう少し長く勉強していたかった。言い換えれば、慶吾との時間を望んだ。千弥子の好みを知る梓は、からかいがいがあるものを見つけてご満悦の様子だ。千弥子は満更でもなく、梓のからかいに顔をしかめることなくただ赤面した。
「こんなうっとりした気分、久々…」
心に広がった星の粒は砂糖菓子のごとく柔らかで淡い。不思議とあたたかさを含み、意外にテンションは急に上がらなかった。
お試し体験は満足に終わり、城姉妹は二人ともボクトキミの正式な利用を希望した。千弥子は試験が終わっても通い続けたいと考えていた。
*
正式な利用者となった城姉妹は、週3日、ボクトキミの運営日にほぼ休まず参加した。担当のスタッフは本田の言うとおり二人につき一人つくシステムで、幸運にも慶吾が担当となって願ったりかなったりの状況だった。毎回足を運ぶたび、慶吾のさまざまな顔を見られるようになった。千弥子の中で信頼感と安心感が強まり、慶吾への憧れも強くなっていった。彼はあまり声を立てて笑わない。静かな眼差しには慶吾の温和な人柄を表しているようだった。話し方は終始穏やかで、決して子ども達を急かさず各々のペースに合わせて指導や説明を進めた。
慶吾と交流を重ねるうち千弥子の中で一つの確信が生まれた。幼い頃思い描き、今も胸の奥で大切にされている理想の人のイメージが、慶吾にぴったり当てはまったのだ。
(この人はわたしの理想そのものだ)
その確信を得たとき、ちょうど勉強を教わっているときだった。その日梓は風邪で休み、千弥子一人が慶吾から教授されていた。梓が一緒にいないことを幸運だと思う反面、一人だけでは居たたまれないとも思って両者の間で板挟みとなった。慶吾は一対一になればその誠実な振る舞いがより見て取れる。激しい情動はないのに、緩やかに抑えとめられて身動きができない感覚があった。慶吾の言葉、表情、声一つ一つに目が離せず、その本心が知られないように必死で平静を装って説明に耳を傾けていた。
「英文法は、どんな項目にも共通するけど、例文で型ごと覚えてしまうと楽なんだよ」
今は英語の強調構文を教わっているところだ。慶吾の噛み砕いた説明のおかげで、あれほど苦手だった歴史もなんとか対策を立てることができた。暗記モノは暗記モノでも、その方法(中身)を変えて工夫してしまえば立ち向かえる。
「僕が各項目の例文を書くから、翻訳してくれる?」
慶吾はノートの白紙ページに英文を書き連ねていく。その字は繊細で、千弥子が書くそれとは正反対で、見とれた。書き終わると翻訳を促されて、はっと我に返る。
「"Do feel free to ask me if you have any questions."(質問があれば自由に聞いてください)
"I just don't like green peppers."(私はとにかく・・・グリーンペッパーが好きでない)
"It was you that said "I like you."(君が好きだと言った・・・それはあなたでした)」
最後の文の和訳を考えて、思考が止まる。慶吾は何という例文をつくるのだ。これでは千弥子自身の気持ちを書いているようなものではないか。わずかに心臓の脈が速まる。ちらりと慶吾の顔を見ると、例文を見つめて何か考え事をしている。教授法を熟考しているのだろうか。
「あの、一応書きました。ところどころわからなくて、変な訳文になっちゃいました」
「ありがとう。大丈夫」
千弥子の訳文をシャープペンでとん、とポイントする。英語と照らし合せているようだが、自分の書いたものに触れられていることにどきついた。次は赤ペンに持ち替えて英文と和文に線を引いていく。「この単語は、“ピーマン”っていうんだ・・・」と静かに解説する声が聞こえるが、自分の書いた言葉と相手の書いたそれがペンで間に線を引かれるたび、胸に花が一輪咲くようなイメージが浮かんだ。
浮遊する意識を精一杯つなぎ止めていると、勉強時間終了の時刻が近づいていた。先ほどの英文と和文が書かれたページは、慶吾による修正と解説が加えられてにぎやかな内容となっている。何気ないノートの一ページが、特別なものとなった。帰宅の電車の中、千弥子はその紙片を何度も見返した。
「今日はボクトキミ休みか・・・予習復習は怠らないようにしないとね」
千弥子はあの学習教室に通うようになって以来、急速に勉強へのやる気が増した。今日はボクトキミの休業日で、少し寂しい気もしたが勉強への前向きな姿勢は廃れていない。ただ絶えず慶吾の顔が浮かんでは消える。冷たい雨が降る一日だった。週末は必ず誰かしら外出するのが城家だが、めずらしくみんな家で過ごしている。千弥子と同室の梓も毒を吐かず黙々と机に向かっている。千弥子にはそれがめずらしく、自分から声をかけた。
「朝から静かだね、梓。真面目に勉強してるなんて何かあったの」
「集中できないから後にしてくれない。ちゃんと復習しないと、あかりんに合せる顔がないわ」
振り返らず鋭い声だけで返すと、梓は勉強に打ち込む。あかりんとはボクトキミの学生スタッフで、慶吾が休みの日代替で勉強を見てくれたことがあった。柔和な印象の女性で、美人好きの梓は一目で気に入った。
自分も似たような熱情がやる気の源なので、機嫌を損ねることもなく千弥子は自分の勉強に戻った。そのときたまたま英語をやるところで、ノートのページを前半の方へめくった。止まったページには慶吾が書いてくれた英文と自分の訳文が記されてある。
"Do feel free to ask me if you have any questions."(質問があれば、遠慮なく聞いてください)
"I just don't like green peppers."(私はどうしてもピーマンが好きになれない)
"It was you that said "I like you."(君が好きだと言ったのは、あなたでした)
その3つの文章だけが、特別な雰囲気をまとっていた。凝視していると、頭にそのときの慶吾の姿が浮かび上がる。真剣に文章を書いている横顔、繊細な書体、静かに解説する声、自分の訳した文章を指すペン先、隣り合った距離感・・・。心臓の鼓動がわずかに速くなって、たちまち胸の奥にあたたかい何かが広がっていく。指でそれらをなぞると、安心感が生まれて、祈りたい気持ちになる。
(水原さんといると、いろんなことが苦手な自分を、恥ずかしく思わなくて済む)
ほんのり両頬が紅く染まり、安らかな気分でシャープペンを握った。
「それって恋愛感情じゃないよ」
昼下がり、長女の和彩(かずさ)がつくった焼き菓子を、千弥子達の部屋で食べているとき。梓が菓子を一口含んで、千弥子に鋭い視線を向けて言い出した。そもそも話題が千弥子達の教室通いについてで、梓の美人話に次いで慶吾のことが挙がったのだ。千弥子が現在感じている慶吾への気持ちを打ち明けると、姉と妹は意味はちがうものの、決して好意的ではない表情を示した。
「信頼できるから自己肯定感が高まって、安心できて幸福感に浸る・・・なんて。恋愛っていうより尊敬の念だよ」
午前中はずっと静かだった梓は、お得意の辛口を飛ばしてくる。昔から千弥子の恋をいろいろと評価してきたが、今回は前にもましてきつい。和彩はそれを受けてより苦い顔をする。彼女だけは男性嫌いで女子高、女子大と進んだ。
「一応講師として、最低のマナーを守っての態度なんじゃない。社交辞令で繕ってる可能性も大いに考えられるわよ」
「二人とも・・・厳しいなあ。確かに漫画であるような、胸キュンとかじゃないけど。これでもどきどきはしているよ?」
「憧れ、のどきどきなんじゃないの?千弥姉って片想い歴は長くて、恋に恋するタイプだったし」
千弥子に誰かと交際した経験はなく、むしろ片思いのほうが経験豊富だ。これ以上何を言っていいかわからず、千弥子は押し黙る。
「相手は年上で男だし、気を付けなきゃ。高校生好きのロリコンかも」
「和姉、それは言い過ぎ。見た感じは草食系だよ」
長女と三女の間で好きにやり取りが交わされる。千弥子はおとなしくしていたが耐えられず、「理想の人なんだよ」と声を上げる。二人は唖然としたが、千弥子の子どもの頃から憧れていた理想像を思い出して、合点がいった。
「そう、まさしく千弥姉の理想そのものの人!それを言うの忘れてた。でも恋心ではないよ」
「人ってのはいくらでも外見飾れるからね」
結局お茶の間二人は千弥子の思いを“恋心”だと肯定せず、認めてくれなかった。ここまで人に否定されると落ち込みそうになるが、慶吾の笑顔を思い出して救われた。
(二人はああ言ってるけど、やっぱり水原さんは良い人・・・)
より彼への思いが深まった。千弥子の片思いはこの話し合いから芽吹いた。
花が咲くのは、時間の問題だった。
その日の晩、千弥子は姉と妹から散々と「恋ではない」と言われた自分の思いを検証してみたくなった。丁度梓は入浴していたため、良いタイミングだった。手っ取り早い方法が辞書―千弥子のこだわりは紙辞書である―で“恋・愛”の語句を引くことだ。そもそも愛って、恋ってどんな定義なのか。曖昧なまま存在する概念を、改めて明らかにしたい衝動に駆られた。
「こい〔こひ〕【恋】
1 特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「―に落ちる」「―に破れる」*1
「特別の愛情、切ないほどの思いか・・・。なんか違うなあ」
次は“愛”を引いてみる。
「あい【愛】
1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「―を注ぐ」
2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「―が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する―」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への―」
5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー
6 仏教で、主として貪愛 (とんあい) のこと。自我の欲望に根ざし解脱 (げだつ) を妨げるもの。」*2
「わあ・・・今度は広範囲な概念だ」
段々と頭の中がこんがらがってくる。この慶吾への思いはどの愛の概念に当てはまるのだろうか。日頃愛という存在を気軽に扱っていたが、実はかなり奥深いものなのだと知り唖然とする。上から意味を読み進めるうち、ある語句に目が留まる。五番の文末から矢印で示された、“アガペー”という言葉だ。
「あが、ぺー?聞いたことないな、何それ」
英語のアクセントではなさそうだ、ではどの言語の言葉だろう?脳内の混乱は一転して一つの新しい言葉への興味に変わる。早速“あが”の欄を探し出す。普段から紙辞書を愛用しているので探すのは苦でなかった。
「あお、あか・・・。見つけた」
「アガペー【(ギリシャ)agapē】
1 真の愛。神的愛。
2 神の、人間に対する自発的、無条件的絶対愛。新約聖書の中でのイエス=キリストの受難と復活に象徴的に示される愛。エロスと区別される。」*3
頭の中には混乱の渦の代わりに疑問符が浮かぶ。“無条件的絶対愛”など、宗教的な意味を含んでいるように聞こえる。慶吾に抱くこの優しい愛情は、こんな手の届かないような崇高なカテゴリーに入るのだろうか?千弥子は納得したようなしないような心持だった。最後の“エロス”という言葉に目が引き付けられる。
「アガペーが神様的な愛(ラブ)だったら、これはそういう・・・下心ありの愛ってこと?」
自分で言って恥ずかしくなる。イメージを膨らませるより辞書に教えてもらおうと思い、素早くページをめくり出す。“えろ”の頭文字はどうしても赤面せずにはいられない用語が並ぶセクションだった。何とか目当ての部分にたどり着く。
「エロス【(ギリシャ)Erōs】
1 異性に対する、性愛としての愛。愛欲。」*4
「あいよく・・・。これは欲がつくんだ。うーん、“欲しい”とは思わないな。どっちかっていうと」
笑顔でいてほしいとか、幸せでいてほしいとか、そんな気持ち・・・と千弥子は心の中で感情の中身を想像した。見ているだけで幸せ、と言えば、他の姉妹曰く「千弥子の片思いのパターン」になるのだろう。イメージを続けていると、昔の記憶がぼんやりとよみがえる。小学生時代、クラスメイトの男子に恋をしていた。初恋で、恋とさえ自覚していないほどの淡い感情だった。その感情は、ひたすら“大好き”に終始していた。性愛だ、愛欲だなんて、もってのほか含まれていない。
「あの頃は純粋に“あの子が好きだ”って思えたなあ。今の気持ちとは何が違うんだろう」
辞書を開いたまま、天井を仰ぐ。外の道路を走る自動車の影が反射して、星のように映っていた。
*
ボクトキミで勉強を始めて2週間が経った。今日は学期末考査の一日目だ。深夜から雪が降って湿雪が住宅街を白く覆っている。
千弥子は調子十分に支度をして、同じ高校の梓よりも早く家を出る。昨晩は慶吾の夢を見た。勉強を教える彼の横顔を見つめて、自分の思いはアガペーなのか・・・と客観している夢だった。ギリシャ語で聞き慣れない単語だが、千弥子の脳裏に強い印象を残していた。
午前中は国語系の教科が挑んできた。もともと文系コースの千弥子には怖いものではなかったが、ボクトキミ―正しくは慶吾に―でポイントを押さえて予習復習したので正答率はより上がったと思える。それより歴史が一番の難関だ。今日はこれで終わるが、明日以降のことを考えると緊張感がいっそう高まりそうだった。昼食は学校で食べていく予定で、友達とクラスで待ち合わせしていた。
「もしかして、城千弥子?」
試験会場から出て購買部を通りかかったとき、呼び止められる。振り返ると男子生徒が購買の列に並んでいて、たまたま千弥子が通り過ぎた近くに立っていた。盛大にはねた寝癖をそのままに、両目を大きく見開いている。千弥子には見知らぬ生徒だった。
「そうですけど・・・どこかで会いました?」
「やーっぱり、ジョーだ。俺のこと、覚えてない?」
周囲に、千弥子のことを“ジョー”と呼ぶのは一人もいない。男子生徒はいたずらっ子のように笑って、自分を指さしてたずねる。思い当るのは、小学生のころクラスでそのあだ名で呼ばれていたことだ。男子生徒の顔を数秒間凝視したあと、思い出の中のある子と目の前の顔がぴったり重なった。
「ひょっとして、浮田くん?」
口にした瞬間、男子生徒―浮田龍礼(うきたたつのり)の顔は明るくほころんだ。小学生のころ、初恋を寄せた男の子だった。背はあまり高くなく、千弥子とほぼ同じ目線の位置だ。顔つきや雰囲気は、当時の“勇ましい”印象からはだいぶ変わっている。
「久しぶり。何年振りだろうね?俺、途中で転校していったし。まさかおんなじ高校に進んでたとはね、奇遇っていうより運命感じちゃう」
ふざけた調子で、少し大げさに言う。千弥子はしばらく驚いて唖然としていたが、じょじょに懐かしい感情がこみ上げる。
「本当に奇遇だね。元気にしてた?」
「うるさいくらい元気よ。俺のクラスは2-Cなんだ。ジョーは何組にいんの」
「A組。普段すれ違っていたかもね」
千弥子のケータイが鳴りだす。発信者は友達からだった。それを確認して、龍礼に「友達と約束してるから、もう行くね」と告げてその場を去ろうとする。すると龍礼が軽く千弥子の肩を叩いて呼び止めた。
「ちょい待って、連絡先交換してくれる?」
「いいよ。SNSとかはやってる?」
「Ficebookだけ。でもあんま使わないから、LIEN教えて」
二人は再会の記念に連絡先を交換した。龍礼は非常に嬉しそうにはにかんで、「やったー。ありがと、また会ったらよろしく」と手を振った。千弥子も手を振り返して、止めていた歩みを進めた。
*
学期末考査が終わって、千弥子と梓は一週間ぶりにボクトキミに顔を出していた。
「歴史のテストはどうだった?」
「水原さんが言ったとおりのところが出ました。予習復習を抜かりなくやっていたおかげで、頭真っ白にならずに済みました」
千弥子はそこまで言ってふーっと安堵の溜息をこぼす。最大難関の歴史の壁はなんとか乗り越えることができた。それによって慶吾への尊敬と信頼感がより深まった。慶吾は柔らかく微笑んで「お疲れさま」とねぎらいの言葉をかける。
休憩時間にはスタッフが教室の全員にチョコレートを配った。気が付いてみると、バレンタインデーの時期だった。だが千弥子にはテストのことが最優先で甘いイベントなど眼中になかった。誰に呟いているのやら、梓が「好きな人に思いを伝える絶好のチャンスだった・・・」と、視線だけはこちらに向けて惜し気にささやく。それを受け流して、千弥子はチョコレートを咀嚼する慶吾に思い切ってたずねた。
「水原さんは・・・その、バレンタインデーとか・・・チョコレートは好きですか?」
だいぶ本心とは違う内容になったが、彼のチョコを食べる姿を黙って見るのは何となくこたえたので話しかけたくなった。慶吾はきょとんとしたが、タオルで口をふくといつもの調子で答える。
「甘いものはそんなに得意じゃないんだ。バレンタインデーだと断りにくいから、とりあえずもらうんだ。今のはビターだから抵抗なく食べられたけど」
「そうなんですか?意外です・・・」
「もらった経験はほとんどないから、そういうことしなくてもいいんだけどね」
千弥子は慶吾の意外な一面を知った気がした。こんなに紳士的な人柄なら、多かれ少なかれ毎回それなりの量を受け取っているように思える。謙遜している風でもないのできっと真実なのだろう。それでガッツポーズはしないが、どことなくほっとする自分がいた。
「水ちんって優しいからモテそうなイメージあった。実は硬派なんだ?」
梓が口を挟んでくる。視線は相変わらず千弥子に向いていて、質問した直後にウィンクをされた。「アピールのしがいがあるじゃん」と、以前あれほど認めなかったわりには積極的に推してくる。慶吾はうーんと、合点のいかない様子で首をかしげた。「モテたことはないなあ。女の子と話すのは苦手だったし・・・」と呟く。
「まじで?好きな人とかいなかったの」
梓が本気で興味をもって身を乗り出す。休憩時間はまだ終わらない。千弥子は慌てて「ちょっとやめなよ」と制止にかかる。慶吾は無表情で「どうだったかな」とつぶやく。
「けっこう昔の話で、地味だったからなあ、僕」
それを聞いて、梓はつまらなそうにあっそと、それ以上追及するのを止めた。千弥子は学生の年齢なのにそんなに昔の話なの?と疑問に思う。
「水原さん、ちょっといいですかー」
千弥子達のテーブルに女性スタッフが近づいてきた。梓お気に入りの女子大学生あかりんこと灯だ。梓は灯の気配に気づいた途端、即行で「あかりん、チョコレートありがとう。おいしかったよ」と可愛らしく言う。灯はにっこり笑い返す。
「どうかしたの、百田さん」
「今度の○×イベントの件で質問があるんですけど」
「城さん、ちょっと席を外すね」
慶吾は席を立って灯と教室奥のスタッフスペースへ向かう。千弥子は無意識に彼らの後姿を目で追う。温和な慶吾とおっとりした灯、二人はお似合いだと思う。特に灯のあのふんわりした雰囲気は内面からにじみ出ていて、悪感情抜きで可愛いと思えてしまう。ちくり、とごく小さく胸が痛んだが、千弥子自身は気付かなかった。
その晩、千弥子は梓を放って隣りの和彩の部屋に行く。長女と二人きりで、慶吾への思いについて話がしたかったからだ。和彩はサークル活動が忙しく家を空けることが多いが、今晩はたまたま帰宅していた。姉は強烈な男嫌いの点を除いては、思慮深い性格で、相談事には真剣に耳を傾けてくれる。
ノックして入室すると、部屋の主はベッドに寄りかかって読書をしていた。妹達とは違う、真っ直ぐな黒髪と勝気そうな目つき。外見だけでは決して内面を推し量れない。
「姉さん、今いい?」
「いいわよ。暇だったし。梓はうるさくなかった?」
「美人の話で留めておいたから、おとなしくしてる」
和彩はクッションをつかむと千弥子に渡して、座るよう促す。姉と向き合う形で、正面に腰を下ろした。和彩は化粧をあまり施さず、今は夜だからなのか素顔の状態だった。千弥子はやっぱり姉さんは化粧しないで十分キレイだなと思う。どちらかというと父親似の容姿で、艶やかなキューティクルは天然だ。
「人の顔じっと見て。何か話があったんじゃないの」
指摘されて我に返る。ボクトキミから帰ってから、意識がどことなくぼんやりしている。ずっと、心に芽吹いた思いについて考えていたのだ。千弥子は視線を落として少しの間沈黙する。意を決して顔を上げると、和彩はまっすぐな眼差しを向けている。
「片思いのこと。こないだ、梓も交えてわたしの“好きな人”についていろいろ話したでしょう」
「教室の講師だっけ。梓が恋愛感情じゃないとか言い張ってたやつ」
「うん・・・。姉さんも上辺だけとか云々言ってて、けっこうへこんだ」
「あのときは梓につい便乗しちゃって、ごめん。・・・けど、相手は年上だし講師っていう立場にあるから、付き合うのはやっぱり止めたほうがいいわ」
千弥子は目を閉じる。辞書で愛に関する言葉を調べて、アガペーという何やら崇高なカテゴリーを知って、彼にお似合いと思える女の人を見て・・・。自分なりに考えて検討したことを、今ここで口にして形にする。
「あのね、わたし、よく考えたの。相手のことは確かに“好き”だけど、“振り向いてほしい”とか、“付き合いたい”っていうより、相手が“笑顔で幸せでいてほしい”ってほうが強いんだ。実際、にこにこ笑ってる姿を見ると、すごく嬉しくって胸のあたりが、ほっこりする」
和彩は以前聞いたときとは違う、暗に拒否感を含んでいない、驚いた顔をする。しばらく言葉を思考して、深く頷きながらゆっくり話しだす。
「ふうん・・・それが千弥子の正直な気持ちなのね。あたしは恋愛・・・男と付き合ったことなんてないけど、あんたが言うように、恋愛感情としての“好き”は、全部“○○してほしい”で終わるわけじゃないのかも。あくまで想像だけど」
言い終わる頃には、和彩は優しい笑顔を浮かべていた。千弥子は姉は自分の思いを肯定的に受け止めてくれたと確信する。しゃんと伸ばしていた背筋が、緊張が解れることで少し丸くなる。和むと涙腺ももろくなって視界がにじんだ。
「ありがと・・・誰かに話聞いてもらいたかった。こんな物わかりのいいっぽいこと言ってるけど、現実は他の人と仲良くしてるのを見て、あっちのほうがお似合いだよね、とか心境複雑になったりもするんだ」
「ヒト、だからねえ。常に公正な気持ちではいられないでしょ。えらぶったりしないで、喜んだりもやもやしたりしてていいんじゃないの」
「お姉さま・・・!」
千弥子は心から長姉がいることに感謝したくなる。自分と梓だけの姉妹だったら、こんなこと相談できないし、ずっと一人で考えあぐねていただろう。姉に近寄ると手を握って、「パーゲンダッスアイスをおごるよ」と目を輝かせて言った。
「いいよ。ていうか、その顔気色悪いから止めて。話はもういいの?梓の気が紛れてるか心配だわ」
「一応、済んだ。部屋に戻るよ。ありがとね」
胸のつっかえが取れて千弥子はすっきりした気分で姉の部屋を出る。結果的に慶吾への思いは“振り向いてほしい”ものでなく、アピールするも何もないことを自分で明らかにした。けれど何より腑に落ちたのは、第三者―和彩がすんなりその事実を受け止めてくれたからだ。
明日になったら姉は朝早くから外出して、夜遅くまでサークル活動に精を出すのだろう。またいつ相談できるかはわからないから、この先は自分で検討することが大切になる、と千弥子は決意する。
自分の部屋に戻ると、梓はベッドに横になって眠っていた。ケータイを見ながら、いつのまにか寝入ってしまったのだろう。普段は憎たらしい妹も、寝顔は毒気がなく可愛らしい。千弥子はくすりと笑うと、起こさないようそっと布団をかけて、つけっぱなしのランプを消してやる。夜空にはまれな満月が浮かんでいる。カーテンの隙間からこぼれる月光に、この片思いが穏やかに続いていくことを願った。成就する望みをもたない思いであっても。
*
ボクトキミからの帰り道はいつもまっすぐ家に帰るが、今日は優穂も交えて喫茶店に寄り道していくことになった。女子3人ということでガールズトークに花が咲く。とは言っても話の主導権は梓が握って、優穂は相づちを打ちながら聞き役に徹している。梓の話の半分は勉強より美人スタッフのことだった。妹の美女話に冷ややかな態度を取りつつも、慶吾のことも話題にしたいと思う千弥子である。
「あかりんは癒やし系で、祭(まつり)ちゃんはスポーティ系美女って感じ!」
「そうだねー。灯ちゃんていつもほんわかしてて、一緒にいると癒やされる」
「優ちゃんが羨ましいナ。担当があかりんなんて、独占できるじゃん~」
「あんたは勉強しにきてるんでしょうが・・・。先生にばっかり気が散ってたら意味ないでしょ」
梓の盛り上がりぶりに、千弥子は思わずきつい口調になってしまう。梓はひるんだ様子はなく、片眉を上げて心外だという顔をする。
「千弥姉だって、水ちんにぞっこんじゃん~。人のこと言えないでしょ」
「千弥子さんって・・・水原さんのこと?」
初耳だったらしい優穂は口を両手で覆い、両頬を真っ赤に染める。小さくきゃあ、と言うと好奇心できらきらと目を輝かせる。年頃だからなのか、恋話には敏感で興味津々のようだ。千弥子は恥ずかしがることもなく、いっそこのタイミングで固まっている慶吾への思いについて打ち明けようと思った。
「わたしの一方的な片思いだよ。憧れてるんだ・・・理想の人だから」
「“リソウ”の人!?わあ、漫画の台詞みたい」
「恋じゃないんだよ、優ちゃん。この人の水ちんへの気持ちは、親愛的なもんなの」
相変わらず恋愛感情ではないと否定する梓。千弥子はすでに思いの形を自分で認識したので、まあそうだろうな、と冷静に受け止める。具体的なことを知らない優穂はまだ頬を紅潮させて、恋に恋する乙女の表情になっていた。千弥子は昔の自分のようだと微笑ましく思う。
「梓の言ってることはあながち間違ってないかも。水原さんと一緒にいると、無理に気を張らなくて済むし、安心していられるの。彼の笑顔を見るだけで幸せいっぱいの気持ちになる。勉強見てもらってるときも、あの人の声とか仕草とか、けっこう目で追ってるんだ」
「胸きゅん、とかしないんですか?」
「かすかにどきどき、はするよ。でも・・・心地よくてあったかい感じ」
優穂はますますうっとりとした表情をする。千弥子の体験する“恋”の感覚を理解したくて、頭の中で想像すると、夢見心地な気分になる。梓は自分の意見を否定されなかったことに面を食らって黙っていた。自然の流れで、聞き役だった優穂に話の役が回る。おとなしい彼女は口が重いほうだが、今は恋への憧れで気分が高揚して饒舌になっていた。
「今、イメージしてみました。千弥子さんが抱いてる気持ち・・・優しくて、あたたかい愛情だなって思いました。オトナで素敵です」
優穂のあまりの素直で率直な意見に、当事者の千弥子は度肝を抜かれる。オトナなんて・・・自分ではもっていなかった視点。予想外の反応だったので非常に照れて、嬉しかった。
「優穂ちゃんって、素敵な感性をもっているんだね。よく、梓と仲良くしてくれてるな」
「わたしが一人でいるとき、梓ちゃんが声をかけてくれたんです。ちょっと辛口なところもありますけど、優しい女の子です」
梓は千弥子を軽く睨んだが、親友の言葉ですぐに表情を綻ばせる。千弥子は優穂の寛容ぶりにまた度肝を抜かれる。
その後はお互いの趣味や芸能の話題などで楽しんだ。一つ驚いたことは、優穂は地元の出身でなく、県外からやってきたということ。事情は複雑みたいで、あのボクトキミも優穂のような事情をもった家の子どもが主な対象らしいのだった。
喫茶店を出る頃には日も暮れて、辺りはほの暗くなっていた。駅で優穂と別れると、姉妹の間には沈黙が流れる。それを破ったのは千弥子で、「さっきは気に障ること言ってたらごめんね」と言った。梓は気にした風でもなく、「別に、聞いてないよ。それより優ちゃんって、まじで良い子でしょ。ヤマトナデシコって感じ」と返す。千弥子は優穂はナデシコというより、聖母のような慈愛に満ちた子だと思った。
帰宅ラッシュに差し掛かって、ビジネスマンや部活帰りの中高生たちの群集でプラットホームは混雑している。あのときのような満月は闇空に浮かんでいないが、千弥子の心にはスーパームーンに劣らぬ煌々とした光が差していた。
*
千弥子は久しぶりに図書館に出かけた。ボクトキミに通うまでは最高の勉強スペースで、学校帰りにしょっちゅう立ち寄っていた。試験も終わったことだし、そろそろ四月の新入生歓迎用の部誌製作を再開する必要がある。文芸部は千弥子2年生を含めて6人で、3年は退部したので実質的に千弥子が部長を務めている。そんな部長の一つ気がかりなことは、部活動に打ち込むと、ボクトキミに頻繁に参加できなくなるのだ。これは梓にも和彩にも話していないが、けっこう深刻な悩みだった。勉強以前に、慶吾に会えなくなることが寂しい。
(とはいってもこれでも部長だし。ただでさえ活動回数の少ない部なんだから、自発的に回していかないと)
考えあぐねながら、図書館のガラス張りの出入口を通り抜ける。ここは公立で、街の中心部にあるから平日休日関係なく利用者は多い。千弥子のお気に入りの席はもう誰かに取られているのではないかと、少し心配になる。天井は吹き抜けで、数年前に建て替えられてモダンで明るい施設内だった。千弥子の特等席は最上階の3階にある。階段を上がると勉強専用の“サイレントルーム”があって、そこから奥の方へ本棚伝いに歩いていくと行き止まりの壁際にテーブルが一つ置かれている。真隣の扉がテラスに通じている。夏は目の前の窓ガラスを開けると、風の通り道となって自然のファンを浴びられる。難しい専門書ばかりが並ぶセクションで、たまに中高年の男性が座る以外、一般の人はほとんど近寄らない場所だった。
少しばかりどきどきしながら階段を上がると、カウンター付近に見知った人物を見つける。藍色のコートを着て、ベージュのズボンは脚が長く見えた。自動貸し出し機の前に立っていて、こちらには背を向けているが、横を向いた瞬間、千弥子は誰だかぴんときた。慶吾だ。普段はかけている眼鏡を外して、かばんを肩から下げている。そういえば今までコートを着た姿は見たことがないと千弥子は思い返した。慶吾の服装は大学生風で今回も同じような格好をしているが、立ち振る舞いはぐっと大人びて見えた。何だか、知らない社会人の男性のようだ。
(声かけようかな。あの席には滅多に人は来ないし)
今までだったら躊躇しそうなところだが、案外すんなり思い立って行動に移った。これは確実に成長していると千弥子は思う。慶吾はサイレントルームに向かっていて、あそこに入ると声をかけられなくなるので、千弥子は小走りで彼に近づいた。
「水原さん。こんにちは」
「あれ・・・君は、城さん。千弥子ちゃん?」
あまり呼ばれない下の名前を言われてどきりとする。眼鏡をかけていない慶吾は大人っぽくて、見慣れた静かな眼差しは冷静な色を帯びていた。図書館にいるせいか声の調子も低めで、ささやき声がより千弥子の緊張を高める。
「偶然ですね。この図書館にはよく来るんですか?」
「うん、たまにね。千弥子ちゃんは勉強しに来たの?」
千弥子はかばんから取り出していた部誌の資料を見せる。慶吾はそれを見て納得したようで声なく頷く。慶吾の手には何かの資格勉強の本が抱えられている。だからサイレントルームに入るのか、理解した千弥子は「邪魔してごめんなさい。またボクキミで、じゃあ失礼します」と足早に去ろうとした。
「待って。せっかく会ったんだし、少し話そうよ。僕の方は急ぎじゃないから、大丈夫。千弥子ちゃんは今ちょっと付き合ってもらえる?」
“付き合ってもらえる”に深い意味がないのは重々承知だが、それでも無自覚に千弥子の心臓は跳ねる。いま、初めて“胸きゅん”を体験した。即行で首を縦に振り、嬉しい想定外の予定変更で、慶吾と時間を過ごせることになった。
二人は千弥子の薦めもあって、テラスに行った。温暖化の影響で気候は暖かく、雪も降っていないので外に出ても肌寒くない。千弥子が特等席とうたうだけあって、テラスにも人の姿はまばらだった。初めて勉強部屋以外で慶吾と二人きりで過ごすことは、それだけで千弥子の喜びだった。二人は屋根のある椅子に腰を下ろす。「暖かいね。春が近いのかな」と慶吾は顔をほころばせる。千弥子は普段より少しおしゃべりな慶吾にどきつきつつ、「例年よりあったかいんですよね」と平静を装って返す。
「千弥子ちゃんの秘密のスペースなんて、特別感があるね。でも陽も射し込んで、いい場所だね。それを知れた僕はラッキーだな」
「よかったら、これからも使ってください。滅多に人が来ないので」
今日の慶吾はやけに落ち着いている。というか、20代の学生というよりもっと年上の社会人に見える。さっき感じた印象は今も残っている。千弥子はボクトキミの外部であることをチャンスだと思い、気になることを聞いてみることにした。
「あの、水原さん・・・前から思ってたんですけど、大学生なんですよね?」
「学生って言ってったっけ?若く見られるけど、これでも三十路ぎりぎりなんだ。ボクトキミ以外では働いてるよ」
「社会人ってことですか。前に、梓が・・・“好きな人いたの?”って聞いたとき、けっこう昔って言ってたから」
慶吾は緩んだ表情で笑った。静かな感じが、陽射しによって柔らかな印象になる。「そういえば、そんなこと聞かれたね。地味な子どもだったっていうのは、本当。恋愛とは縁遠かったよ」と案外本気で言う慶吾に千弥子は両目を見開く。
「ごめんなさい。なんかいけないこと聞いたみたいで」
「なんで?平気だよ、昔のことで良い思い出だもの。梓ちゃんはけっこうそういうこと知りたがる子なのなかって感じてたから、引きずってないよ」
どこまでも穏やかな慶吾の口調は、千弥子に安心感を与える。胸の中にあたたかさが広がった。この感情が、千弥子の愛情だ。
「水原さんって本当に優しいですよね。怒らないし、いつも穏やかで。ちなみに資格の本をもっているのは、何か目指しているんですか?」
「千弥子ちゃんはほめるのが上手だね。これ?」
慶吾は手にもっていた資格本を指し示す。見慣れない言葉が並んでいる、“社会福祉士”。「この、“シャカイフクシシ”を目指してるんですか」と千弥子はたずねる。
「うん、まあ。資格を取るかどうかは、決めかねているんだけどね。これ以外にもいろんな分野に興味があって、本を当たってどんなものか様子見しているんだ」
慶吾の新たな一面を知った。勉強を教えてくれる物静かなボランティア講師、だけでは絶対に知り得ない情報だ。千弥子はもっと話を聞きたいと思って、黙って耳を貸す。慶吾も自然と話を続ける。
「僕は普段はフリーターっていうか、非常勤で働いてるんだ。もともと老人ホームとか、福祉施設にいたんだけど、いろいろあって、去年この街に移り住んできた」
「地元の出身じゃなかったんですか」
「ボクトキミではスタッフの事情はあんまり言ってないからね。今は一人暮らしだから、ボランティアか何かして人と触れ合いたかった。たまたまボクトキミは、僕と似たような境遇の子ども達が通ってきてるって知って、ぜひ協力しようと思ったんだ」
“似たような境遇”とは、優穂のような、「ある発電所の事故以降、家族単位で引っ越した」ことだろうか。千弥子は推察する。慶吾はそれ以上言おうとしなかったので、「水原さんのこと知れてよかったです。ありがとうございます」とお礼を言った。
「僕も・・・担当してるだけあって、城さんには信頼が芽生えているのかも。もっともボクトキミの外では教えることはしないから、気兼ねなく話せるんだけど」
千弥子は信頼されていることが嬉しくてはにかむ。二人は千弥子の家族の話などをしたあと、それぞれの用事のために別れた。千弥子は特等席で、“秘密のスペース”が慶吾にも共有されたことを密かに喜んでいた。部誌の内容は小説とエッセイだが、ずっとテーマを探していた千弥子はひらめいたようにシャープペンをメモに滑らせる。「エッセイ わたしの“恋”(仮)」。これで自分の作品作りは順調に進むと確信していた。
*
「姉さん、こないだの続き」
部誌の作品づくりが完了したあと、和彩が早く帰宅する日があった。もう一度慶吾の話がしたくて、やはり梓は抜かしてこっそり部屋を出る。ケータイで事前に和彩に相談をもちかけていたので、ことわらないで本題に入ることできる。和彩はベッドに寝転がってケータイを見ていた。千弥子の言葉に身体を起こして、興味深そうに耳を傾ける。
「あのあと、また何か発見があった?」
「わたし、やっぱり相手のことが好き。会うとどきどきするし、もうちょっと一緒にいたいと思う。でも振り向いてほしいとは思ってない。梓が言うように、いわゆる“恋愛感情”じゃない。じゃあ何て名前をつければいいんだろうって、いろいろ調べた」
「調べたら、恋愛以外の名前も出てきたの」
「うん。ギリシャ語で、“愛”に関する言葉がけっこうあった。わたしの気持ちを当てはめると、アガペーっていう、見返りを求めない愛っていうのが近いのかなって思った」
「アガペー・・・。確か神様的な愛とかいう意味じゃない?いくらなんでもそれはまた違う次元じゃないの」
「姉さんよく知ってるね。わたし自身も全然しっくりこなかったよ。そのときは恋愛以外の愛情を表す言葉を知らなかったから、こんな神聖な気持ちじゃないよって、本気で悩んだ」
「愛って一言で言っても奥深いからね。で、結局千弥子的にはどんな名前をつけたの?」
「博愛。博愛的恋愛感情っていう名前にした」
あっさりと答える千弥子に、和彩は驚いた反応をする。アガペーという何やら深遠でおかしがたい概念に行き着いたかと思えば、最終的に選んだ言葉は“博愛”というこれまた広範な、ある意味で“ハイレベル”なカテゴリーだ。というよりアガペーと同義に近い。
「博愛か・・・アガペー寄りっていうかそのものよね?それに恋愛感情がつくのはどうして」
「親愛とか友愛とかも考えたけど、それだけでくくれない要素も気持ちの中にあるんだ。そういう意味で恋愛感情は残して、博愛をつけた」
和彩はいまいち意味が呑み込めず、首をかしげる。だんだんと本題からそれているのではないかと心配になる。
「正直、わたしも難しすぎて混乱してるの。ただ片思いなんて言えたらいいけど、名前をつけないと曖昧なまま気持ちが浮遊しそうで。けど博愛だとさ、相手だけじゃなくて、相手と仲のいい人とか、みんなひっくるめて“好き”に集約してくれると思った。要は、きれいごとっぽいけど、相手を好きな誰かを嫌いたくないんだ」
「だから博愛を選んだのね。そういう独特な奥深さって、千弥子らしいわ。あたしははっきり理解らないけど、千弥子が平和な気持ちで相手のことを思いたいっていうのはわかった。-ちょっと一つ気になるんだけど。もし、相手が他の人と付き合ったら、恋人がいたらどうするの?」
和彩の思わぬ問いかけに少し動揺する。しかし、慶吾の幸せそうな笑顔を思い浮かべると、自然とぎくしゃくした気持ちでなく答えることができた。
「知ったときは多少寂しく感じるだろうけど、相手が幸せなら、オッケーって思うかな。笑顔を見られるだけで、胸いっぱいになる」
嘘でない純粋な本心を語る千弥子の顔は、安らかだ。和彩は納得したように「なるほど」と言って、「人を好きになるのは重いばっかりじゃないのね」とつぶやいた。
「けど他の子にはこんな気持ち絶対言えないなー」
「なんで?ニュータイプでいいじゃない」
「梓みたいな、フツーの恋愛感情重視の子には、きっとえらぶってるとか嫌味っぽく思えるかも」
和彩は千弥子の頭を軽く叩いて「考えすぎ。そっちのほうがよっぽど感じ悪く見えるわよ」と指摘する。千弥子はやや自嘲気味に笑って、「梓にはわたしから言うまで黙っておいて」と頼んだ。和彩は二つ返事で指でグーの形をつくる。
部誌用のエッセイのタイトルも、「博愛的恋愛感情」に変えた。身近な友人に知られるのは抵抗があるが、新入生という大勢の知らない人々が見るぶんには抵抗なく作品の中に著すことができた。
(わたしのみたいな愛情を経験する子も少なからずいるかもしれないしね)
自室に戻って、窓を開け放つと、春色の陽光が一気に差し込む。梓は友達に会いに外出して、いなかった。窓枠に肘をついて物思いにふける。慶吾への愛情は、 名前をつけることができて、気が楽になった。けれど密かに思うのは、「こんな気持ちでも、“恋”っていえるんじゃないか」ということ。やっぱり漫画のような胸が熱くなる恋ではなく、ずっと穏やかな川の流れのようだけれど、自分の中では恋の一つとして位置付けておこうと思う。
慶吾への“片思い”がこの先続くかはわからないが、今回一つの区切りをつけることで前向きにこの愛情を大切にしていけそうだった。
*
進級しても、ボクトキミには週一単位で通った。担当スタッフが交代して、慶吾との交流の機会はずい分減ったが、互いの関係は良好だった。遠目でも慶吾の穏やかな笑い声や笑顔が見えるたび、心深くまであたたかい幸福感が満ちる。
姉と同様に参加を続ける梓は、千弥子から名前のついた思いを聞いて、文句を言わなくなった。「千弥姉が大人になったから、懲りた」と不思議な言い訳をして いる。学校では龍礼と同じクラスになった。時たま言葉を交わしているが、ある昼休みに梓が突然遊びに来て、「浮田くんは、高校に入って千弥姉を見かけたときから、惚の字だったんだって」ともらしていった。そばにいた龍礼は顔を真っ赤にして、「そういうことデス・・・」と千弥子への好意を認める。予想外の急展開に頭がついていかない千弥子だったが、それ以降龍礼の印象が変化した。よく観察すると、子どもの頃好きだった、あの勇ましい面影は残っていた。千弥子の中で、慶吾に会ったときとは違う思いが芽吹いていた。
(浮田くん・・・お調子者になったと思ってたけど、見方を変えれば意外と)
龍礼のふとしたときの笑顔が眩しく映る。自分の中で何かが変わることに、千弥子はむずがゆい感じをもっていた。
花嵐が桜を散らして、空に舞いあがらせる。千弥子の心の川の流れはだんだん活発になっていく。
新しい感情の予感、ここに一つ。
【出典】
*1 goo辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/71244/meaning/m0u/%E6%81%8B/
*2 同上 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/71244/meaning/m0u/%E6%81%8B/
*3 同上 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/2229/meaning/m0u/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%9A%E3%83%BC/
*4 同上 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/25935/meaning/m0u/%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9/
後書き
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