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作品ID:356

こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約11331文字 読了時間約6分 原稿用紙約15枚


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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

シャロン

作品紹介

クリスマスの夜、大都会、逃避行、秘密、憧憬。 原曲・ROSSO






 大都市のクリスマスの夜には雪が舞っていた。積もって灰のように汚れた雪を撥ねながら、自動車は大通りを行き交う。街はチープな音楽で酷く騒がしいのだが、立ち並ぶビルの灯とネオンの煌めきが、ちょうどツリーにぶら下がった電飾のように綺麗で愉快だった。

 隣の彼女は真白な息を吐いて、薄い黄色の毛糸のマフラーへ首を竦める。僕達はクリスマスの音色が僅かに届く、錆びついたシャッターが下りた工具店の前で立ち尽くしていた。右手と左手を繋いだまま、二人してぼんやりと街の燐光を眺めていた。

「帰らなくて、本当に大丈夫なの?」 僕は通りを彩る電光に眼を細めながら尋ねた。

「いいの」 彼女は首を振る。 「大丈夫だから」

「そう……」 僕は頷いて、握る手に少しだけ力を込めた。

 彼女も応えるように握り返す。言葉は無い。僕達は元々、口数が少ない方だから無くても充分だった。一生話さずに生きていけるものなら、僕達は喜んで声という機能を投げ捨てるだろう。僕も彼女もそういう人種なのだ。

 二人以外の生命を拒絶するかのように、僕達は手を繋ぐ。

 彼女の手は細く、冷たく、愛おしく、生きていることを伝える。

 彼女が、その手で多くの命を奪ってきた事を僕は知っている。帰らなくて大丈夫なはずがない事も僕には重々解っていた。



 僕達は逃げてきた。

 僕達を取り囲む大人達から、逃げてきたのだ。

 正確には、逃げ出したいと願っていた彼女を、僕が連れて逃がした。

 

 夜が深くなるにつれて、街はますます色めいていく。歩道では頭を白く染めた人々が絶え間なく流れていく。上気した微笑みと、白い吐息がそこかしこで浮かんでいた。まるで寄せては返す波のような光景で、僕達はその見えない圧力にたじろぐばかりだった。

 ニット帽を目深に被った彼女は俯きがちになりながら、明らかに緊張していた。僕もそうだったが、顔を見合わせる時は互いに気丈に微笑もうとするのだから、人間という奴は不思議な性能を持っている。

 一度、巡回中の警察官を捉えた時はドキッとした。僕は気付かれないようにそちらを窺っていたが、相手は僕達へ顔を向ける事も無く、歩き去っていった。二人で安堵の溜息をついた。もちろん、例外なく白い。

 ただでさえ僕達は未成年だから目立つ。こんな大都市の片隅では珍しい事ではないかもしれないが、僕達の情報はそろそろ警察へも伝わり始めているだろう。

 いつまでもこの場所には居られない。僕は意を決して、彼女の手を引き、庇の下から流れる雑踏へと紛れこむ。四方を他人の息遣いに囲まれながら、僕達は身を寄り添って歩いた。

「これからどうしよう?」 彼女は声を落として囁く。

「とにかく、地下鉄に乗ろう。できるだけ遠くへ行くんだ」 僕は早口に、彼女にだけ聞こえるように言った。

「ごめんね」 彼女は哀しそうに俯く。

「何が?」

「君まで巻き込んで……」

「いいんだ」 僕は微笑んで見せる。 「きっかけを作ったのは、僕だ」

 それきり、二人で黙り合って人波の中を歩いた。手を離さないように気をつけながら、僕は彼女の少し前を歩く。前方を睨んで、警察や彼女の属していた組織の人間が現れないか警戒していた。現れても、非力な僕には何も出来やしないのだけど。

 ちらちらと眼に掛かる雪が邪魔に思えて、そして、そう考えている自分に気付いて苦笑した。彼女は不思議そうに僕の顔を覗く。声を発さずに僕は首を振り、なんでもないよと伝えた。

 もし……、こんな切迫した状況でなく、もっと穏やかな気持ちで、ホワイトクリスマスの夜を彼女と並んで歩けたら、どれだけ素晴らしい事だろう。

 優しく降り積もるこの雪の景色を、きっと楽しめたはずなのだろう。

 数多の惨劇を作り出してきた彼女の手が、僕のジャンパーの袖を心細げに引っ張った。

 僕は目だけ振り向かせる。見開いた彼女の双眸の向く先に、そっと視線を巡らせた。黒服の男が、道路を宙空に横切る歩道橋に立っていた。大人の男である。組織の人間であるのには、僕もすぐに気付いた。

 彼女が小さく震えている。僕も自然と呼吸が速くなっていた。これだけの人がぎっしりと寄り合っているのだから勘付かれる心配はない。現に黒服の男は、僕達の歩く通りとは反対側の、繁華街の入口付近を睨んでいた。それでも、視界の内に佇んでいるだけで、黒服のその静かな威圧感が僕達を圧迫する。

「大丈夫」 僕は口許だけ動かして示した。

 彼女はこくり、と頷く。でも、彼女の手はまだ震えている。いや、それはもしかしたら、僕が震えていたのかもしれない。

 さりげない歩調で人波から逸れ、僕達はビルとビルに挟まれた暗い路地へと潜り込んだ。早足で突き当たりの角へと向かい、そこからさらに左、右とじぐざぐに進んだ。途中から自然と駆足になって、鼓動が転げ回ったように静まらなかった。

 二、三分をかけてようやく、人影の無い広場へと出た。僕は土地勘があるので、決して迷いはしない。ここは旧駅舎の傍の噴水広場だった。錆びついて途切れたレールと無人のホームが剥き出しのまま置き去りにされ、埃と雪を被っていた。少女の銅像を中心に据える噴水はとうの昔に停止している。水を受ける窪みも赤茶色に酸化して雪に埋もれていた。電灯が間隔をあけて立ち並び、広場へ寂しげに光を投げかけている。荒涼としていた。

 地下鉄乗り場に近い位置であるが、電車はやめておいたほうがいいかもしれないと思った。

 まさか、もう組織の連中までもが動き出していたとは……。想定外だった。

 こうなると、移動手段として公共機関を利用するのは危険である。つまり、彼女を追っているのはそちらへの情報に特化している組織なのだ。

 うろたえながら彼女を見ると、走っている最中にニット帽をどこかへ落としたのか、茶色いショートカットの頭を露わにして、膝に手をついて息をしていた。乱れた白い吐息が現れては消えてを繰り返している。

 僕も詳しくは知らされていないが、彼女は組織の任務時以外はその戦闘能力に制限が掛かり、体力も人並み程度にしか残らないらしい。(反抗を恐れての、組織の施した保険だ)

 彼女は華奢な輪郭の顔を苦しげに持ち上げてから、あっ、と気付いたように自分の頭へ触れた。

「帽子……」 彼女は路地へと振り向いて、呟く。

 僕が無理に走らせたので、必死だった彼女を責める訳にも行かない。それに、あの帽子は元々は僕が長く愛用していたのをあげたもので、彼女にはぶかぶかだった。落としたのも無理はない。

「拾いに……」 彼女は僕の手を離す。

 踵を返しかけたその細い手を、僕は前のめりになって掴み直した。

「いいよ、僕のを貸すから」

 被っていた黒いハンチングを外して、彼女の茶色い頭に乗せる。それだけで目許は隠せるだろう。

「でも、せっかく君がくれたのに……」 彼女は空いている方の手で拳をぎゅっと握る。泣き出しそうな表情だった。

「代わりにそれをあげるよ」 僕は場違いに笑ってしまって、言った。

 しかし、彼女は頑なに首を振った。被せてやったハンチングも外して、悔しそうに僕を引っ張った。

「あれは、初めて君がくれた物なの!」 だが、僕の困惑した表情に気付いたのか、その引っ張る手の力も抜けて萎れるように俯く。 「だから……、絶対に失くしたくない」

 何をそんなに、と僕は口にしかけたが、すんでの所で呑み込み、肩を落として項垂れる彼女を見つめた。

 彼女が刹那的な物の考え方をしている事に、僕は気付いたのだった。この二人の行く先に未来はないのだ、と彼女が密かに諦観している事に気付いてしまったのだ。

 もしかしたら、彼女は無意識だったのかもしれない。本当に僕の事を想ってくれて、純粋にあの帽子を大事にしていたいのかもしれない。彼女のこれまでの日常は殺人や戦闘任務によって黒く染められていて、自らも死と隣り合わせの境遇だった。その習性で、彼女は些細なことでもしがみ付くようになってしまったのかもしれない。酷いとは思うが、そちらの説を僕は心から望む。



 僕は叫びたかった。

 そんな物に拘らなくていい、と。

 これからは、もっと幸せな生き方ができるんだ。

 僕が常に傍にいるから。

 きっと、逃げ切れるから。

 もっと素敵な物を贈ってやる、と彼女に言い聞かせたかった。

 

「わかった」 僕の白い溜息には、沢山の思念の残骸が含まれていただろう。 「拾いにいこう」

「……うん」 彼女は瞳を僅かに揺らがせて、頷いた。

「でも、君、息が上がってるよ。ちょっと休もう?」

「うん」 彼女は人形のようにこくり、こくりと頷く。

 ベンチがあったが、雪で尻を濡らしてしまうかもしれないので座らなかった。それに僕達がいたという形跡をあまり残したくない。廃れた広場に敷かれた雪の絨毯には僕達以外の足跡はまだなかった。

 彼女が壁に背もたれてぼんやりと薄暗い寒天の空を仰いでいる間も、僕はこれから取るべき行動に考えを張り巡らせていた。どこかで車を盗もうかとも思ったけど、こんな大都市ではすぐに警察に通報されてお終いだ。自分達の位置を報せるに等しい。とにかく、タクシーを拾って郊外まで行ければなんとかなるかもしれない。先の事を考えると、あまり金は使いたくないのだが……。

 先の事?

 この逃避行の先には何があるのだ?

 いったい、僕らはどこへ行こうとしているのだろう?

 暗い、冷え切った未来予想を振り払って、僕は彼女を見る。まだ、彼女はぼんやりと空を眺めていた。その瞳があどけなく、物珍しそうに降り散る雪を追っていた。呼吸は治まり、うっすら浮かんでいた汗もあっという間にひいたようである。

「どこに行きたい?」 僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて問う。

 彼女はこちらに向き、首を捻って、うーん、と考え込む。無邪気な仕草だった。着実に大人へ向かおうとする僕と違って、彼女はいつまでもキャンディーのように甘い子供っぽさと純粋さを秘めている。要するに、僕の方が俗物だということ。ある意味では、そういう環境で育ってしまったのだからしょうがないのだけど。

 それに、僕は彼女のそんな子供っぽい所が大好きだった。

 僕達が捨てようと、あるいは大人達によって捨てられようとしている物を、彼女はずっと大事にしている。

 それは、この世で一番の輝きを持っていたはずなのに。

 どうして、皆、それを捨てたがるのだろう?

 どうして、皆、それを忘れたがるのだろう? 

 彼女の頬へふんわりと舞い降りた雪の欠片に、僕の指がそっと触れると、儚く消える感触があった。

 彼女の柔らかい頬はすっかり冷えていていた。不憫に思って掌を当ててやると、彼女は僅かな温もりに安堵したように、そして照れ臭そうに微笑んだ。

 僕も同じように微笑んで。

 触れた掌をそのままに、慎重に彼女の顔を引き寄せる。

 彼女は驚いたけれど、抵抗の様子はなかった。抵抗されたら僕が落ち込む事を知っているのだ。それくらいは、世間慣れしている。

 間近に迫った彼女の瞳は、月の光のように碧く透明で、淡く輝いていた。

 まるで、氷の結晶のよう。

 白い頬はいつの間にか薄桃色に染まっていた。そこに触れた掌から、彼女の鼓動までもが伝わって来るようだった。

 僕も恥ずかしかった。よくここまでスムーズにできたものだと、自賛。

 緊張した互いの瞳に自分を見つめて。

 ゆっくり、瞼を閉じ、唇を重ねた。

 透き通った温もり。

 彼女の細く綺麗な指が僕の肩辺りを掴む。僕は電光に煌めく彼女の髪を撫でる。僕達の体へ、細かな雪が降るのが見ずともわかった。

「誰もいない所に」 彼女は唇を離して、ぼうっと恍惚したような瞳で囁いた。 「誰も知らない、遠い所に行こうよ」

「うん」 僕は間近にある淡い瞳の光を捉えて頷いた。

 僕達の額は触れ合って、まるで互いの熱を確かめ合っているかのよう。

「二人で一緒に働きながら暮らすの」 彼女は優しく微笑む。 「牧場がいいな。どこか、山の麓の」

 僕は一瞬、青い草原の続く、長閑な山間の風景を思い描いた。

 雲の隙間から射し込む柔らかな陽と、雪解けの水で育った花々の甘い匂い。僕達の小屋は丸太を組んで作られ、豊かな緑に囲まれる斜面の上、眩しい空を背に建っている。眼下では小さな村が活気良く営まれていて、たまに彼女を連れてそこまで下りていく。柵の中では羊の群れと牛達、ヤギや馬もいいかもしれない、動物達が勝手気ままに草を食べている。僕も草っきれを口に銜えて、微笑む彼女の前でおどけて見せる。二人の笑い声が、地上からかけ離れた静寂の中に吸い込まれていく……。

 僕は吹き出してしまった。喉から勝手に声が漏れてくる。

 なんて、平和な暮らし。

 画に描いたような幸福。

 僕は笑いながら、目許に指を当てる。涙が浮かんでいた。しかも、それは留まる事を知らない。

 彼女も碧い瞳を潤ませて、笑っていた。

「きっと、行ける」 僕は嘘を吐いた。 「僕が君を守る」

「ありがとう」 彼女は頷いた。

 そして、もう一度、口づけを交わした。



 僕達は走り抜けた路地を戻る。手をずっと繋いだまま、暗く狭い道を歩いた。表の喧騒が多少和らいで聞こえる程度で、他に僕達の雪を踏む音以外は聞こえない。いつの間にか、雪は止んでいた。

「君は、怖くない?」 彼女が突然、そう尋ねた。

「怖いよ」 僕は正直に答える。強がっても互いを追いこむだけだからだ。

「ごめん」

「君が謝る事じゃないよ」 僕は微笑む。

 彼女も顎先を上げて隣の僕の眼を見て、肩を竦めるように微笑む。

 さくさくと雪を踏む心地良い音。こんな大都会でも、澄み切った透明なものはちゃんとある。例えば、雪上の足音。例えば、彼女の手の温もり。

 角を曲がった所で、はっとして立ち止まった。

 鼓動が跳ね上がる。

 彼女が小さく息を漏らした。

 五メートルほど先に男が一人、屈んでいた。闇に同化するような黒服を纏ったどっしりした体躯の男。しゃがみこんでいたが、そのサングラスの眼が僕達へゆっくりと振り向いた。その右手には、彼女が被っていたニット帽が握られている。彼以外には誰も居ない。

 男が僕達を捉えた途端、ニット帽を離してスーツの懐へ右手を滑り込ませた。

「逃げろ!」 僕は彼女を後方へ突き飛ばした。同時に僕も横へ飛び退く。

 一瞬の熱が過ぎる。空気を震わせるような破裂音が響いて、僕達の間の積雪が粉砕して舞った。

 僕は黒服目掛けて突進する。視界の隅で、彼女が駆け出したのを確認しながら。黒服はどちらを狙撃すべきか躊躇したようだが、すぐに僕へ黒光りする銃口を向けた。

 ホームへ向かう打者のようにスライディングする。銃口が火を吹いて、僕の鼻先を見えない熱の塊が通過した。轟音は遅れてやって来たように思う。銃を持つ突き伸ばされた黒服の右手を滑り込ませた脚で真上へ蹴り上げると、見慣れない黒い凶器が宙空を舞った。

 黒服が寝転んだ姿勢の僕の首根っこを掴み、顔面へ拳を振り下ろした。凄まじい激痛が襲ってきて、僕は気を失いかけた。視界が赤く濁り、鼻が麻痺したような感覚だった。すぐさま二発目がやってきたが、僕は両手でそれを受け止め、無我夢中に脚を振りまわした。運よく右脚が黒服の股間を蹴り上げて、さっと相手の力が緩んだ隙に僕は身を起こした。ほとんど四つん這いのまま、死に物狂いで拳銃へと駆ける。血が雪に落ちるのを一瞬見た。

 右手が拳銃の冷たいグリップに触れたと思った瞬間、脚をすくい上げられ、僕は頭から雪の上に倒れる。相手も必死なのだ。サングラスが外れていて、尖った眼が血走っていた。僕は狂った馬のように出鱈目に後蹴りを放つ。ブーツの底にごりっとした感触があって、黒服が僕を離した。

 拳銃を握る。初めてその鉄の塊に触った。想像していたよりもずっと重い。両手で構えて、映画で見た安全装置を確認するが、黒服が既に僕達へ発砲していた事を思い出した。倒れた黒服を見ると、口の周りを血で赤黒く染めていた。前歯の欠片が四散していた。

 僕は咄嗟に腰だめに拳銃を構えて、驚愕した眼付きの男へ向け、引金を引いた。身体を揺さぶり、銃口が爆ぜた。硝煙の匂いがぷうんと漂い、煙が微風に流れる。

 黒服の眉間にビー玉くらいの穴が空いていた。そこから、水風船でも割れたかのように血が激しく飛び散っている。男の体は糸が切れた人形のように、雪の上に倒れていた。血の染みが、その白い絨毯を染めて広がっている。

 僕は茫然とその死体を見下ろした。寒いはずだったのに汗が吹き出していた。僕の両腕は拳銃を握ったまま、依然として男へと伸びて固まっている。

 初めて人を殺した。

 その自覚が遅れてやってきて、がたがたと体が震えだした。冷静になれ、と頭の中の誰かが言う。

 そうだ、銃声。警察がすぐにやって来るだろう。

 僕はあたふたと拳銃を咄嗟にジャンパーの内側に挟んで、逃げ出した。角を曲がると、彼女が壁に背をつけて立ち尽くしていたので、僕はすぐに脚を止めた。

「見てたの?」 僕はわななく唇でそう尋ねる。

「うん……」 彼女は頷く。震えていなかったが、ただ、静かに泣いていた。

「逃げよう」

 僕は彼女の手を取って、また駆け出した。荒涼とした広場を過ぎて橋の近くの道へと出る。橋を渡って、ひたすらに駆けた。

 彼女の息が上がっているのに気付いたのは、橋から離れた自然公園の中ほどまで来た時である。僕達は脚を止め、その場にへたり込んだ。クリスマスなのに、いつも閑散としているはずの公園には沢山人がいたが、気にしている場合では無かった。ただ、息を整えてゆっくり見回すと、頬を染めたカップル達ばかりなので納得した。

 僕は声を上げないようにしながらも、涙を抑えられなかった。恐ろしかった。

 彼女は何も言わずに、僕へハンカチを差し出した。僕はそれを顔に当てる。激痛がしてハンカチを離すと、涙の他に血の染みがあった。

「大丈夫?」 彼女はハンカチを受け取ると、僕の鼻下に当て、目許も拭いてくれた。

 鼻の軟骨でも折れてしまったのかもしれない。僕は取り出したポケットティッシュを鼻孔に当てたまま、ぼんやりと考えた。鼻柱がじんじんと熱を帯びたように痛む。そういえば、僕もハンチング帽をあの場に落としてきてしまった。

「僕は、人を殺した」 僕は震えながら、無理に笑った。

「うん」 彼女は頷く。その瞳にも涙。

「君と同じだ」

「うん……」

「怖い?」 僕は尋ねた。

「ううん」 彼女は素直に首を振る。

「そう……」 僕はその仕草に、奇妙な安堵を覚える。 「よかった」

 ずきずきと顔中が痛んだが、僕達は人目を忍んで、渡ってきた橋と反対側へと歩いた。遠くでパトカーのサイレンが鳴っているのを聞いて、僕達は無意識に脚を速めた。

 僕達は公園の敷地内にある丘へとやってきていた。天に向かって聳える巨大なクリスマスツリーがあって、淡い電飾と薄ら乗った雪化粧が相まって深遠な光を放っていた。カップル達はその周囲でツリーを見上げたり、写真を撮ったり忙しい。

 僕は彼女の手を引いて歩いていたが、ふいに彼女が引っ張ったので立ち止まった。彼女はツリーの輝きを魅せられたようにその瞳に映している。そんな場合ではないと思っていたが、僕は察してやって何も言わなかった。その時には僕も多少、落ち着きを取り戻していた。

 僕もツリーを眺めた。じっと見つめていると、確かに吸い込まれるような輝きがあった。

「わたし、たぶん、今、幸せだと思う」 彼女はふいにそう言って、微笑む。 「君と一緒に、クリスマスの夜を歩けたから」

 僕は彼女を見つめる。ズボンに挟んだ拳銃の存在を思い出した時、ある閃きが僕の頭をよぎった。酷く恐ろしいはずなのになぜか、彼女に受け入れてもらえると直感した。

「一緒に、死のうか?」 僕は言う。

 彼女は緩慢に開く花びらのようにこちらへ向く。

 僕はどこまでも真面目だった。

 彼女は明らかに逡巡を見せたけど、ふっと表情を崩し、頷いた。

「いいよ」 彼女は微笑んでいた。

 沈黙して、お互いの瞳を見つめる。

 彼女の中には僕がいて。

 僕の中には彼女がいる。

 とても永い時間だっただろう。

 白い息だけが、浮かんでは消え。

 眼差しだけが、沈んでは現れる。

 どちらかが笑いだし。

 どちらかが応える。

 僕は彼女の手を取って、引く。

 ツリーを過ぎて、南口から公園を出た所で、タクシーを拾った。



 僕達が向かったのは郊外にほど近い、街の北側だった。中央部と比べればこの一帯は人影が疎らだが、街灯だけは変わらずに続いていた。僕達は運転手に金を支払って薄汚れた路地に降りる。目の前を大きな河が流れる、埠頭近くの道路だった。

 僕達は船に隠れて乗る事にした。それならば足がつかず、逃れられるかもしれないと考えた。

「こんな所、初めて来た」 彼女は物珍しそうに辺りを見回す。コンテナが並ぶ殺風景な場所で、やはり雪が被さってどれも白かった。

 大きな貨物船が埠頭の先に横付けになって停泊している。何時出るのかはわからない。カフェか何かを探そうと思ったが、人目に付く場所は止めた方がいいと思い直した。もしかしたら、とっくに僕達の事が報道されているかもしれないのだ。

 僕達は運営を停止した港の敷地を並んで歩く。波の音以外は静かで、耳が痛いくらいだった。

「さっきのは、冗談?」 彼女がふいに囁いた。

「どうかな」 僕は肩を竦める。 「君は、そうしたい?」

「わからないけど……」 彼女は顔を伏せていたが、微かに笑っていた。 「君となら、死んでもいいかもしれない」

「でも、生きられるなら、生きたい?」 僕は尋ねる。

「うん……」

「なら……、もう少し、逃げてみよう」 僕は彼女の手を握った。

 整備員らしき人影はなかったので、貨物船の出港はまだまだかもしれない。

 僕達は仕方なく埠頭から出て、工場の裏手に伸びる幅の広い路地を歩いた。雑然と木箱やビニールの袋が置かれていて、なんだかマフィアの取引場みたいで嫌な雰囲気だったが、人がいないのは助かった。

 僕と彼女は、しばらく何も話さなかった。とても寒くて、どこか温かい場所に入りたい衝動に駆られたが、我慢した。ズボンのポケットの中にガムが忘れ去られて入っていたので、僕と彼女はそれを噛んだ。

 あぁ……、僕は人を殺したんだな。

 そんなぼんやりとした意識が僕を包む。仕方なかった。殺らなきゃ殺られていた。僕のズボンに挟まっている拳銃は僕達の命を奪いかけた凶器であり、今は僕達を守る武器であり、あるいは僕達を開放する救いの鍵であるかもしれなかった。

 あの黒服は組織の戦闘員ではなかった。そうでなければ、まぐれでも僕達は生き延びていない。今頃、あの雪の絨毯を真っ赤にしていたのは僕達だったに違いない。そう考えると身震いしたが、それだけで済むのでよかった。

「ねぇ……、一つ、訊いていい?」 彼女が突然、言った。

「何だい?」

「その……」 彼女は視線を足下へ落とす。

 僕は言葉を待った。雪を踏む音だけが、ずっと続く。

「君の名前を、教えてくれる?」 彼女は言った。

 僕は立ち止まって、彼女を見つめる。彼女もそれ以上は何も言わずに、僕を見つめ返した。

「教えられない」 僕はたっぷり時間をかけて、首を振った。

「なぜ?」 彼女は泣き出しそうな笑顔で問う。

「僕には名前が無い」 正直に答えた。

 それだけで、わかる奴にはわかる。

 僕が一体、誰なのかを。

「やっぱり……」 彼女は頷いた。

「この話は、やめよう」 僕は俯いて言う。

「うん、ごめん」

「それに、僕はもう、違うんだ」

「わかってる。ごめん」 彼女はとうとう泣き出した。

「謝らないでくれ」 僕は彼女の頬に触れて、熱い涙に触れた。



 その時。

 バイクの轟音が響いた。

 背後からだ。

 僕は咄嗟に振り向いたけれど。

 もう、遅かった。

 相手は二人組だった。手には拳銃。

 僕は反射的に拳銃を抜こうとしたが、その前に彼女に突き飛ばされていた。

 雪の上に僕は尻餅をつき。

 僕は見た。

 銃火。

 閃光。

 弾丸。

 大気が震え。

 彼女の体が舞った。

 胸に、赤い花が咲き。

 放物線を描く様に。

 花弁が散った。



「シャロン!」



 僕は彼女の名を叫ぶ。

 彼女は雪の上に、うつ伏せに倒れる。

 バイクはそのまま、走り去った。

 僕は立ち上がり、必死に彼女の身を起こす。

 彼女の胸は、真っ赤に染まっていた。

「シャロン!」

 僕は、どうしたらいいかわからず、夢中に呼びかけた。

 彼女は虚空を見つめるように僕を見上げていた。

「撃たれ、たん……、だね」 彼女の口端から血の筋が流れる。

「喋るな!」 僕は片手で彼女の頭を抱え、もう一方の手で彼女の胸の傷を抑える。

 しかし、血は当然、止まらない。風穴が空いているのだ。

 僕は絶望の淵にいる事を自覚した。

 何も考えられない。

 何も浮かんでこない。

 そして、彼女の命だけが燃え尽きようとしている。

「わ、たし、幸せだった、よ……」 彼女は微笑む。 「き、みと逢え……、て……」

 僕は力無く彼女を抱き寄せ。

 唇を重ねた。

 透明な温もりは、なかった。

 血の味。

 冷たさ。

 それでも。

 彼女は微笑んでいた。

「ご、めん」

「謝るな……」

 彼女は瞼を閉じた。

 そして、息を大きく吸い込み、ほとんど掠れた声で囁いた。

「ありがとう」

 僕の涙が、彼女の頬へ降る。僕は放心しながらその水滴を見つめていた。

 もう一度、眼を戻した時には、彼女は息絶えていた。

 僕は彼女を抱えた姿勢のまま、ずっと座り込んでいた。

 僕の手が、彼女の血に塗れていた。

 牧場の景色が、静かな草原の景色が、何遍も僕の眼の前を過ぎて行く。

 足音がしたが、僕は振り返らなかった。ずっと、彼女の綺麗な死顔を眺めていた。

「ボス」 聞き馴染みのある声が響く。

 それは、僕の唯一の側近だった男の声だった。

 そう、誰も僕の事を知らない。

 僕には名前が無い。

 彼を除いて、誰も僕の存在を知らなかった。

 彼女ですら、僕の事を知らなかった。

 当然だろう。

 そういう掟を、僕が作ったのだから。

 でも……、彼女はきっと気付いていたと思う。僕も未成年だったから、意外だっただろうが。

「どうして、こんな真似を?」 冷静に抑制してはいるが、男が動揺しているのは明らかだった。

 僕は答えず、ただ、彼女の亡骸を強く抱き締めた。

 悲哀と諦めを含んだ、短い溜息が聞こえた。

「残念です」

 僕は、眼を閉じた。

 彼女の手を、もうすっかり冷たくなってしまったその手を握る。

 雪の降る街。

 静かな山間。

 彼女の細い手。

 僕は、彼女へ微笑んで見せた。





「一緒に、行こう」



 どこに?



「誰もいないところへ」





 裏切りを制裁する銃声が、静まり返った路地に響いた。

後書き

未設定


作者 まっしぶ
投稿日:2011/06/20 00:32:51
更新日:2011/06/20 00:58:33
『シャロン』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
HP『カクヨム

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