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作品ID:462
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約6682文字 読了時間約4分 原稿用紙約9枚
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バグズ・グルーヴ
作品紹介
月夜、娼婦と男、虫、音楽
半月が神々しく輝く、夏の夜更けのことだ。
薄闇の座敷に浮かぶ彼女の下着の白さが、私の脳裏には今も鮮明に残っている。女を買ったのはその夜が初というわけではなかったが、とにかく彼女が毛布から這いだし、素肌にじっとりと汗を光らせて両手で下着を尻まで手繰り上げる光景が、絶えず私の中ではリフレインしている。私の追憶はその事後の場面から始まるのだ。
身体を起こし、形良く納まった彼女の下着を見つめながら、私は煙草に火をつける。縁側からは月明かりが仄かに射し込んでいたが、私のいる位置は部屋の中でも最も暗黒に包まれており、指先に灯る煙草の火は吸い込む度にオリオン座の星のような光を放った。意味も無く煙を彼女の背に吹きかけると、彼女は優艶とは程遠い、いかにも田舎娘といったあっけらかんとした笑みを浮かべて振り向いた。私はその垢抜けない少女らしさを残す笑顔を大いに気に入っていた。売春婦には珍しい素朴さだったのだ。
「お客さん、煙草一本くれへん?」
私は微笑み、彼女に箱を差し出した。
「おおきに」 彼女は着物の裾を片手で掴みながら、もう一方の手を伸ばして一本抜き取る。それが上品な仕草だと教育されているような手つきだった。
彼女はマッチを擦って火をつける。煙が一筋、細く浮かんだ。彼女は開け放した障子戸の傍に佇んでいる。月明かりを透かして蒼白く光る障子を背に煙草を吸う彼女の姿は、言い表せぬほどの美しさを湛えていて、私は束の間、呼吸すら止めて魅入っていた。彼女の華奢な顎先の輪郭が、煙草の火で幽かに浮かび上がる様はなかなかにぞっとした。
「なに見てはるの?」 彼女は煙草を口から離す。煙が手の軌道を追って歪曲するのがわずかに見える。
「綺麗だと思って」
「おかしな人」 彼女はくすくすと笑った。
彼女は縁側へと出て、廊下にぺたりと坐り込んだ。私もそれに倣って隣に腰を下ろす。半分欠けた月はやはり眩しく、それを取り囲む夜空もうっすらと光を放っていた。星はさほど見えなかったが、宿の塀の向こうに広がる畦道からは蛙や虫の夜泣きが響いていて淋しい雰囲気ではない。その道を少し行った先にある池では蛍火が見られるらしい。私はそれを見た事がなかったが、静まり返った池辺を蛍の光が横切る画というのは、想像するだけで楽しかった。暗く澄み切った水面にはきっと鮮やかに映ることであろう。
しかし、私が神秘の光を纏う半月を眺めたり、畦道の静かな合唱に耳を傾けたり、池辺の蛍を夢想している間、隣の彼女は沓脱ぎ石の傍の地面をじっと見つめていた。
「ほら、見てみ」 彼女は私の顔をちらりと見上げ、地表を指差した。
私は月光でちかちかした目を凝らして、彼女の示す指先を辿った。白い、小さな塊があった。吐き棄てられたはっかの飴玉のようにも見えた。しかし、顔を近づけ、私はうっと呻いて仰け反る。彼女がくすりと笑った。
白い塊は、蛾の死骸であった。私は森や林から程遠い都会の真ん中で生まれ育った男なので、その気味の悪い昆虫の死骸には免疫が無かった。しかも、よく見ると死骸には蟻がたかっていて、死肉を分解される最中だったのだ。一つの影にも思える蟻の集団形態も、私の戦慄を呼び起こすのに充分すぎるほどであった。
顔を顰める私とは正反対に、彼女は愉快そうに煙を吹き続けていた。顔を蛾の死骸に――、否、蟻の群れに向けた。
「きみら、ごくろうさんやね、こんな夜中まで」 彼女の声は幼子に接するかのような優しい響きを持っていた。
「気味が悪い」 私は両断する勢いで言う。
「そない滅多なこと言うたらあきません。生きていく為やもの」
彼女はお客である私よりも、私達の足許でせっせと労働を果たす昆虫の味方をしているようだった。私はもちろん憤りなど感じるはずがなく、呆れも含まれていたものの、そのような純な性格を持つ彼女をますます気に入って笑みを漏らした。
「お客さん、どこに住んではりますのん?」
「決まった家はない」 私は答えた。
「放蕩者ですか」
「そんなところかな」
今度は彼女が呆れ果てたという顔を作った。当然の反応である。
「遊んで暮らしとるわけか」
「いや……、割と必死に生きている」
当時の我国は戦時下にあった。私は徴兵や軍国主義や愛国思想という仰々しいものを嫌い、各地を自由気ままに渡り歩いていたのだった。現在もやはり奇特に見られるであろうが、国の為に一丸となることを強要されていたあの時代で、私のように根無し草の旅をする者というのは稀だっただろう。着いた先で指弾の的になったことも多々あった。
しかし、彼女は大袈裟な溜息を一つ吐いただけで、それ以上私の生活態度を攻撃してはこなかった。最も、彼女は娼婦であったから、強く言えなかったのだろう。兵隊相手に身を売ったことがあるから、自分は潔白な国民だと主張する馬鹿な女も過去にいたが、そんな輩よりかは彼女はずっと賢そうだった。それだけで私はまた彼女を気に入った。
「皆同じやもんな」 彼女は蟻に目を配りながら唐突に言った。
「何が?」
「皆……、生きていく方法っちゅうの? それは違うかもしれん。けど、やっぱ皆必死に生きていくべきやもんな」 そう言って、火の消えた吸殻をぽいっと虫達の近くへ落とした。 「爆弾抱えて死ぬのが褒められる時代なんて、やっぱおかしいわ」
「そうだね」
「あたし、家、飛び出した身なんやけど、今日実家から手紙が来てな。それが、兄貴が特攻で死んだから帰ってこいって泣きつく内容だったんだわ」
「そう」 私は二本目の煙草に火をつけた。良い心持だったのに、だんだんと雲行きが怪しくなってきた。
無言で箱を彼女に差し出す。彼女は「あっ」というような顔をして、煙草を一本つまみ、口に銜えてから、急に恥ずかしそうに顔を振った。
「あかん、あかん……、余計なこと言うとった」
「うん」 私は頷く。
「堪忍なぁ。気にせんようにはしとるんやけど……」
「うん」 赤べこのように首を振り続けた。
彼女はまた溜息を一つ吐くと、愛おしそうな眼差しで蟻達の行進を眺めた。垂れた黒髪から覗けた白いうなじには、やはりぞっとするほどの美しさがあった。それに目を釘付けにされることを私は何となく危険に思い、彼女と同じように蟻の大群を眺めた。蛾の死骸の上にも満遍なく蟻は集り、それを眺めている内に、私の腹の上にも虫達が蠢いているような錯覚に捉われた。冷たい汗がじわりと浮かぶ。
彼女はふと顔を上げると、私の方に向いた。
「お客さん、なんや大仰なもん持ってはりましたけど、あれ、なんなん?」
彼女は部屋の柱に立て掛けた黒革のケースの事を言っているのだった。それが私の、ほとんど唯一の持ち物であり、財産であり、そして商売道具であった。
「あれは楽器」
「楽器? お客さん、芸人さんですか?」
「違う。流しをやっているんだ。あれはサキソフォン」
「サキソフォン? サックス? 西洋の楽器ですがな」
「そうだよ。手に入れるのに苦労した」
「お役人に見つかっても知らんよ」
「気をつけてはいる」
「ジャズですか?」
「うん」
「いいねぇ」 彼女はうっとりとした表情で言った。
私は各地を転々としながら、その日の銭に困ると、地下の隠れ家的な喫茶店で内密の演奏をして回っていた。西洋文化が著しく規制された当時であっても、やはり人の嗜好というのは、それも芸術的な分野では特に、抑えられるものではなかった。どの街にも一軒くらいはジャズをこっそり聴かせる店があったのだ。私はそこに飛び入り、スタンダード・ナンバーをソロで、時には当地の演奏家と共に披露して、日々を凌ぐ金を得ていたのであった。羽振りが良い時は宿に泊まり女を買う。収入がほとんどなければ野宿もざらであった。
「盗んでみるかい?」 私が唐突にそのような発言をしたのは、全く意地の悪い出来心からであった。
「何いうてんの、あたし、泥棒とちゃうよ」 彼女はその時ばかりは少し怒ったような口調で、私の腿をつねった。
彼女にならば私の宝をくれてやってもいいと感じていた。彼女にならば騙されてもよい。そんな自棄とも酔狂ともつかぬ謎の感情が私の胸に芽吹いていた。思うに、私はこの女に淡く恋心を抱いていたのかもしれない。惚れっぽいのは私の天性の悪癖であるが、この時のように静かに胸の内側がさざめくような感覚は、それまでに一度もなかったことだ。
彼女には会話をしている内に男を引きこませる、田舎娘然とした外見には似つかわしくない魅力が潜んでいた。しかも、実際のところはわからないが、彼女自身はその才能に全く無自覚なのである。このように天資を併せ持つ無垢な女と出会う男は、まるで宝石の原石を見つけた時のような興奮を覚えるものである。
私はふと衝動に駆られ、彼女の身体へ飛び付いた。彼女は短い悲鳴を漏らし、次にそれは愉快な嬌声へと変わる。二人で板張りの廊下をごろごろ転がって、密かに笑い合った。子供のような振る舞いをする我々を咎める声はなく、庭の先には虫と蛙の交響のみがあった。彼女の穏やかな表情に月の明かりが差し、細かいそばかすの散った白い肌を浮き立たせた。
彼女は私の頬にそっと触れる。彼女の顔はいつの間にか哀しげな色を滲ませていた。
「生きるってのは、醜いもんなんかね?」
「かもしれないね」 私は答える。
それが彼女自身の生き方について語ったものなのか、私の生活を揶揄したものなのか、それとも縁の下で蛾の死骸にたかる蟻達について言っているのか、判断はつかなかった。もしかしたら、彼女はそれら全てをひっくるめて、この世に溢れる生命達に向けて言い放ったのかもしれない。
「あたしなぁ、時々、わからんくなるんよ。人に後ろ指さされて生きていくのが正解なんか、誇りを持って自決するのが正解なんか」
「正解があるとは思えない」
「うん、あたしもね、そう思うわ。けど……、人って、無意味に甲乙つけだがる生物やんか。生きている限りは、誰か他の人と接して生きていかんとあかんやろ」
「それも当人次第だ。他人を考えて生きるのも、利己的に生きるのも、当人の自由だ」
「そういうわけにもいかんのよ、根無し草のあんたにはわからんかもしれんけど……」
「君も僕のように逃げ出してみればいい」
「あたしはサックスなんて吹けんからなぁ。逃げ出した先でも、できるこというたら、今日みたいに身体売るくらいや。結局、生き方は変わらん。醜いもんよ」
「君は美しい」 私は囁いた。 「他の馬鹿がどれだけ好き勝手言っても、僕だけは、君の生き方を否定しない」
「おおきになぁ」 彼女は安い涙を浮かべることもせず、ただ寂しげに微笑んだ。 「お客さん、今まで相手した誰よりも素敵やわ」
私は彼女の内側に、一晩では埋め尽くすことのできないような、途方も無い距離を見た気がした。上面を塗り重ねて言葉を交わすような白々しい会話ではなく、月の燐光に誘われて漂う剥き出しの心根で対話をしたからこそわかる距離感であった。私はさほど不愉快に感じない。むしろ、彼女に対する恋情が一層深くなるのを感じた。
彼女はごろりと転がって、縁の下の蟻達へ再び目を向ける。私もそれに倣った。二人でひんやりした床板に腹這いの姿勢をとった。
「虫もそうや。人の目にはえげつなく映るかもしれんけど、それは全部生きる為の行為やもん」
「ああ」
「生きることに真っ直ぐな行為は、どんなに罵られたって、やっぱ綺麗やと思うわ。誇りの為に死ぬことが綺麗いうのもわからんことないけど、でも、死んでしもうたらやっぱり全部終わりや」 彼女は場違いに微笑む。 「そんな理屈こねるのも、人間様だけ」
きっと彼女の肉親について言っているのだろう。私が安々と介入すべきことではないので私は頷かなかった。代わりにじっと、死骸を囲む蟻達の蠢きを眺める。
ふと、私の胸に、緩やかな律動が生まれた。
リズムだ。
続いて、メロディが降りてくる。
蟻達の、陰惨で、おぞましく、のんびりと、微笑ましくすらある、生の持続。
この蠢きは、生命の躍動。
醜さや崇高さとは別次元にある、根幹の美しさ。
私の頭の中では全ての風景が真っ白なキャンバスと化し、ただ蛾の死骸に群がる蟻達の動きだけが続いている。それに合わせたリズムで、静穏に、かつ対照的なほど能天気に紡いでみせる音符の数々。
私は止めていた呼吸を再開すると、急いでノートを取り出し、そのメロディを刻みこんだ。
「どうしたん?」
「曲が浮かんだ」 私は月明かりの下に鉛筆を走らせながら答える。 「君のおかげだ」
彼女はきっと微笑んだように思う。そんな気配が確かに隣にあった。
私はかりかりとノートを書き。
彼女はゆったりと蟻の行軍を眺めている。
「もう一晩」 私は無意識に言っていた。
「え?」
「もう一晩、君と一緒にいたい」
私は彼女の顔を見る。ぽかんとした表情の顔がそこにあったが、彼女はやはり少女らしさを湛えた微笑みを浮かべるだけであった。何か、世の中のほとんどの人間が失ってしまったものを彼女だけが知っているような、純な秘密を予感させる笑顔だった。
この曲が完成したら、彼女に捧げよう。
私は心に誓い、そして一段落ついてから、彼女の手を引き、布団に横になった。彼女は寝る間際も、まるで恋人がそうするように、私の指に自分の指を絡めてくれるのであった。
「あたしもね」
私が眠気を思い出し、半分まどろみかけていた時、彼女はそっと囁いた。眠りの淵のことで曖昧であるが、確かな感触の記憶として今も覚えている。
「あたしもね、あんたがどんな生き方して人に指さされても、あたしだけはあんたの味方してあげるわ」
彼女のその囁きが、今日に至るまでの私を支えたと言っても過言ではない。私が人生の岐路や壁にぶつかる度に、私はその月夜を思い出し、そばかすの散った少女の顔を思い出し、聖母のような響きを持つその言葉を思い出し、奮起するのであった。
たとえ、人々が私を嫌っても。
私には、彼女という揺るぎのない味方がいる。
生命の形を知っている彼女は、生きるという事を知っている彼女は、私を決して笑いはしない。
そして、また、私も彼女を笑いはしないのだ。
◇
翌朝になって目を覚ますと、彼女は既にいなかった。宿の者が言うには朝陽が昇る前には出ていってしまったらしい。私は低血圧の為にたいして焦りもせず、ゆるりとした身振りでケースを調べた。サキソフォンは無事にそこにあった。財布にも異常はなかった。煙草は数本減っているようだったが、どうせなら一箱そのままくれてやっても良いくらいだった。
縁側に出ると、あの見事な半月はもちろん朝陽に消えており、畦道からは捕食に精を出す小鳥の囀りが響いていた。縁の下を見ると、もう蟻の一匹もそこに残っておらず、蛾の死骸も、無残に翅の一部が落ちているだけで跡形もなかった。
私はノートを取り出し、確かに楽譜が残っていることに安堵して、愛器を構えた。息を吹き込むと、腹底に響くような音色に昨晩の情景が浮かび上がるかのようだった。
◇
その年に大戦は終結し、私はバツの悪さと共に故郷の街へと戻った。焼け野原に近い故郷の姿には唖然としたが、私は辛うじて残っていた馴染みのジャズ・バーへと顔を出し、そこでバンドメンバーと、新たなレコード会社を立ち上げようと企画する男達と知り合った。胡散臭げな顔をした彼らに、私はあの宿で書き上げたオリジナル・ナンバーを吹いて見せた。私には自信があった。
翌年には、私がリーダーを務めるバンドのレコードは店頭に大きく飾られることとなる。売上は爆発的な勢いで、我々は一躍、戦後の音楽業界の寵児となった。一番人気のナンバーは、やはり虫達に魅せられて作ったあの曲であった。
その後、私はツアーや休暇の合間に、彼女と出会ったあの土地へ幾度か出向いたことがあったが、ついに彼女と再会することは叶わなかった。例の土地を踏む度に、私の胸の奥底では、淡い痛みが静穏の響きを持って続くだけである。どうか、彼女があの曲を聴いて、そしてレコードを買って大事にしてくれますように、と祈るばかりだ。
ここまで私が書き上げた時、時刻はすっかり夜更けであった。書斎の窓に映る夏の半月は、未だに私をあの夜へと誘いだす。
薄闇の座敷に浮かぶ彼女の下着の白さが、私の脳裏には今も鮮明に残っている。女を買ったのはその夜が初というわけではなかったが、とにかく彼女が毛布から這いだし、素肌にじっとりと汗を光らせて両手で下着を尻まで手繰り上げる光景が、絶えず私の中ではリフレインしている。私の追憶はその事後の場面から始まるのだ。
身体を起こし、形良く納まった彼女の下着を見つめながら、私は煙草に火をつける。縁側からは月明かりが仄かに射し込んでいたが、私のいる位置は部屋の中でも最も暗黒に包まれており、指先に灯る煙草の火は吸い込む度にオリオン座の星のような光を放った。意味も無く煙を彼女の背に吹きかけると、彼女は優艶とは程遠い、いかにも田舎娘といったあっけらかんとした笑みを浮かべて振り向いた。私はその垢抜けない少女らしさを残す笑顔を大いに気に入っていた。売春婦には珍しい素朴さだったのだ。
「お客さん、煙草一本くれへん?」
私は微笑み、彼女に箱を差し出した。
「おおきに」 彼女は着物の裾を片手で掴みながら、もう一方の手を伸ばして一本抜き取る。それが上品な仕草だと教育されているような手つきだった。
彼女はマッチを擦って火をつける。煙が一筋、細く浮かんだ。彼女は開け放した障子戸の傍に佇んでいる。月明かりを透かして蒼白く光る障子を背に煙草を吸う彼女の姿は、言い表せぬほどの美しさを湛えていて、私は束の間、呼吸すら止めて魅入っていた。彼女の華奢な顎先の輪郭が、煙草の火で幽かに浮かび上がる様はなかなかにぞっとした。
「なに見てはるの?」 彼女は煙草を口から離す。煙が手の軌道を追って歪曲するのがわずかに見える。
「綺麗だと思って」
「おかしな人」 彼女はくすくすと笑った。
彼女は縁側へと出て、廊下にぺたりと坐り込んだ。私もそれに倣って隣に腰を下ろす。半分欠けた月はやはり眩しく、それを取り囲む夜空もうっすらと光を放っていた。星はさほど見えなかったが、宿の塀の向こうに広がる畦道からは蛙や虫の夜泣きが響いていて淋しい雰囲気ではない。その道を少し行った先にある池では蛍火が見られるらしい。私はそれを見た事がなかったが、静まり返った池辺を蛍の光が横切る画というのは、想像するだけで楽しかった。暗く澄み切った水面にはきっと鮮やかに映ることであろう。
しかし、私が神秘の光を纏う半月を眺めたり、畦道の静かな合唱に耳を傾けたり、池辺の蛍を夢想している間、隣の彼女は沓脱ぎ石の傍の地面をじっと見つめていた。
「ほら、見てみ」 彼女は私の顔をちらりと見上げ、地表を指差した。
私は月光でちかちかした目を凝らして、彼女の示す指先を辿った。白い、小さな塊があった。吐き棄てられたはっかの飴玉のようにも見えた。しかし、顔を近づけ、私はうっと呻いて仰け反る。彼女がくすりと笑った。
白い塊は、蛾の死骸であった。私は森や林から程遠い都会の真ん中で生まれ育った男なので、その気味の悪い昆虫の死骸には免疫が無かった。しかも、よく見ると死骸には蟻がたかっていて、死肉を分解される最中だったのだ。一つの影にも思える蟻の集団形態も、私の戦慄を呼び起こすのに充分すぎるほどであった。
顔を顰める私とは正反対に、彼女は愉快そうに煙を吹き続けていた。顔を蛾の死骸に――、否、蟻の群れに向けた。
「きみら、ごくろうさんやね、こんな夜中まで」 彼女の声は幼子に接するかのような優しい響きを持っていた。
「気味が悪い」 私は両断する勢いで言う。
「そない滅多なこと言うたらあきません。生きていく為やもの」
彼女はお客である私よりも、私達の足許でせっせと労働を果たす昆虫の味方をしているようだった。私はもちろん憤りなど感じるはずがなく、呆れも含まれていたものの、そのような純な性格を持つ彼女をますます気に入って笑みを漏らした。
「お客さん、どこに住んではりますのん?」
「決まった家はない」 私は答えた。
「放蕩者ですか」
「そんなところかな」
今度は彼女が呆れ果てたという顔を作った。当然の反応である。
「遊んで暮らしとるわけか」
「いや……、割と必死に生きている」
当時の我国は戦時下にあった。私は徴兵や軍国主義や愛国思想という仰々しいものを嫌い、各地を自由気ままに渡り歩いていたのだった。現在もやはり奇特に見られるであろうが、国の為に一丸となることを強要されていたあの時代で、私のように根無し草の旅をする者というのは稀だっただろう。着いた先で指弾の的になったことも多々あった。
しかし、彼女は大袈裟な溜息を一つ吐いただけで、それ以上私の生活態度を攻撃してはこなかった。最も、彼女は娼婦であったから、強く言えなかったのだろう。兵隊相手に身を売ったことがあるから、自分は潔白な国民だと主張する馬鹿な女も過去にいたが、そんな輩よりかは彼女はずっと賢そうだった。それだけで私はまた彼女を気に入った。
「皆同じやもんな」 彼女は蟻に目を配りながら唐突に言った。
「何が?」
「皆……、生きていく方法っちゅうの? それは違うかもしれん。けど、やっぱ皆必死に生きていくべきやもんな」 そう言って、火の消えた吸殻をぽいっと虫達の近くへ落とした。 「爆弾抱えて死ぬのが褒められる時代なんて、やっぱおかしいわ」
「そうだね」
「あたし、家、飛び出した身なんやけど、今日実家から手紙が来てな。それが、兄貴が特攻で死んだから帰ってこいって泣きつく内容だったんだわ」
「そう」 私は二本目の煙草に火をつけた。良い心持だったのに、だんだんと雲行きが怪しくなってきた。
無言で箱を彼女に差し出す。彼女は「あっ」というような顔をして、煙草を一本つまみ、口に銜えてから、急に恥ずかしそうに顔を振った。
「あかん、あかん……、余計なこと言うとった」
「うん」 私は頷く。
「堪忍なぁ。気にせんようにはしとるんやけど……」
「うん」 赤べこのように首を振り続けた。
彼女はまた溜息を一つ吐くと、愛おしそうな眼差しで蟻達の行進を眺めた。垂れた黒髪から覗けた白いうなじには、やはりぞっとするほどの美しさがあった。それに目を釘付けにされることを私は何となく危険に思い、彼女と同じように蟻の大群を眺めた。蛾の死骸の上にも満遍なく蟻は集り、それを眺めている内に、私の腹の上にも虫達が蠢いているような錯覚に捉われた。冷たい汗がじわりと浮かぶ。
彼女はふと顔を上げると、私の方に向いた。
「お客さん、なんや大仰なもん持ってはりましたけど、あれ、なんなん?」
彼女は部屋の柱に立て掛けた黒革のケースの事を言っているのだった。それが私の、ほとんど唯一の持ち物であり、財産であり、そして商売道具であった。
「あれは楽器」
「楽器? お客さん、芸人さんですか?」
「違う。流しをやっているんだ。あれはサキソフォン」
「サキソフォン? サックス? 西洋の楽器ですがな」
「そうだよ。手に入れるのに苦労した」
「お役人に見つかっても知らんよ」
「気をつけてはいる」
「ジャズですか?」
「うん」
「いいねぇ」 彼女はうっとりとした表情で言った。
私は各地を転々としながら、その日の銭に困ると、地下の隠れ家的な喫茶店で内密の演奏をして回っていた。西洋文化が著しく規制された当時であっても、やはり人の嗜好というのは、それも芸術的な分野では特に、抑えられるものではなかった。どの街にも一軒くらいはジャズをこっそり聴かせる店があったのだ。私はそこに飛び入り、スタンダード・ナンバーをソロで、時には当地の演奏家と共に披露して、日々を凌ぐ金を得ていたのであった。羽振りが良い時は宿に泊まり女を買う。収入がほとんどなければ野宿もざらであった。
「盗んでみるかい?」 私が唐突にそのような発言をしたのは、全く意地の悪い出来心からであった。
「何いうてんの、あたし、泥棒とちゃうよ」 彼女はその時ばかりは少し怒ったような口調で、私の腿をつねった。
彼女にならば私の宝をくれてやってもいいと感じていた。彼女にならば騙されてもよい。そんな自棄とも酔狂ともつかぬ謎の感情が私の胸に芽吹いていた。思うに、私はこの女に淡く恋心を抱いていたのかもしれない。惚れっぽいのは私の天性の悪癖であるが、この時のように静かに胸の内側がさざめくような感覚は、それまでに一度もなかったことだ。
彼女には会話をしている内に男を引きこませる、田舎娘然とした外見には似つかわしくない魅力が潜んでいた。しかも、実際のところはわからないが、彼女自身はその才能に全く無自覚なのである。このように天資を併せ持つ無垢な女と出会う男は、まるで宝石の原石を見つけた時のような興奮を覚えるものである。
私はふと衝動に駆られ、彼女の身体へ飛び付いた。彼女は短い悲鳴を漏らし、次にそれは愉快な嬌声へと変わる。二人で板張りの廊下をごろごろ転がって、密かに笑い合った。子供のような振る舞いをする我々を咎める声はなく、庭の先には虫と蛙の交響のみがあった。彼女の穏やかな表情に月の明かりが差し、細かいそばかすの散った白い肌を浮き立たせた。
彼女は私の頬にそっと触れる。彼女の顔はいつの間にか哀しげな色を滲ませていた。
「生きるってのは、醜いもんなんかね?」
「かもしれないね」 私は答える。
それが彼女自身の生き方について語ったものなのか、私の生活を揶揄したものなのか、それとも縁の下で蛾の死骸にたかる蟻達について言っているのか、判断はつかなかった。もしかしたら、彼女はそれら全てをひっくるめて、この世に溢れる生命達に向けて言い放ったのかもしれない。
「あたしなぁ、時々、わからんくなるんよ。人に後ろ指さされて生きていくのが正解なんか、誇りを持って自決するのが正解なんか」
「正解があるとは思えない」
「うん、あたしもね、そう思うわ。けど……、人って、無意味に甲乙つけだがる生物やんか。生きている限りは、誰か他の人と接して生きていかんとあかんやろ」
「それも当人次第だ。他人を考えて生きるのも、利己的に生きるのも、当人の自由だ」
「そういうわけにもいかんのよ、根無し草のあんたにはわからんかもしれんけど……」
「君も僕のように逃げ出してみればいい」
「あたしはサックスなんて吹けんからなぁ。逃げ出した先でも、できるこというたら、今日みたいに身体売るくらいや。結局、生き方は変わらん。醜いもんよ」
「君は美しい」 私は囁いた。 「他の馬鹿がどれだけ好き勝手言っても、僕だけは、君の生き方を否定しない」
「おおきになぁ」 彼女は安い涙を浮かべることもせず、ただ寂しげに微笑んだ。 「お客さん、今まで相手した誰よりも素敵やわ」
私は彼女の内側に、一晩では埋め尽くすことのできないような、途方も無い距離を見た気がした。上面を塗り重ねて言葉を交わすような白々しい会話ではなく、月の燐光に誘われて漂う剥き出しの心根で対話をしたからこそわかる距離感であった。私はさほど不愉快に感じない。むしろ、彼女に対する恋情が一層深くなるのを感じた。
彼女はごろりと転がって、縁の下の蟻達へ再び目を向ける。私もそれに倣った。二人でひんやりした床板に腹這いの姿勢をとった。
「虫もそうや。人の目にはえげつなく映るかもしれんけど、それは全部生きる為の行為やもん」
「ああ」
「生きることに真っ直ぐな行為は、どんなに罵られたって、やっぱ綺麗やと思うわ。誇りの為に死ぬことが綺麗いうのもわからんことないけど、でも、死んでしもうたらやっぱり全部終わりや」 彼女は場違いに微笑む。 「そんな理屈こねるのも、人間様だけ」
きっと彼女の肉親について言っているのだろう。私が安々と介入すべきことではないので私は頷かなかった。代わりにじっと、死骸を囲む蟻達の蠢きを眺める。
ふと、私の胸に、緩やかな律動が生まれた。
リズムだ。
続いて、メロディが降りてくる。
蟻達の、陰惨で、おぞましく、のんびりと、微笑ましくすらある、生の持続。
この蠢きは、生命の躍動。
醜さや崇高さとは別次元にある、根幹の美しさ。
私の頭の中では全ての風景が真っ白なキャンバスと化し、ただ蛾の死骸に群がる蟻達の動きだけが続いている。それに合わせたリズムで、静穏に、かつ対照的なほど能天気に紡いでみせる音符の数々。
私は止めていた呼吸を再開すると、急いでノートを取り出し、そのメロディを刻みこんだ。
「どうしたん?」
「曲が浮かんだ」 私は月明かりの下に鉛筆を走らせながら答える。 「君のおかげだ」
彼女はきっと微笑んだように思う。そんな気配が確かに隣にあった。
私はかりかりとノートを書き。
彼女はゆったりと蟻の行軍を眺めている。
「もう一晩」 私は無意識に言っていた。
「え?」
「もう一晩、君と一緒にいたい」
私は彼女の顔を見る。ぽかんとした表情の顔がそこにあったが、彼女はやはり少女らしさを湛えた微笑みを浮かべるだけであった。何か、世の中のほとんどの人間が失ってしまったものを彼女だけが知っているような、純な秘密を予感させる笑顔だった。
この曲が完成したら、彼女に捧げよう。
私は心に誓い、そして一段落ついてから、彼女の手を引き、布団に横になった。彼女は寝る間際も、まるで恋人がそうするように、私の指に自分の指を絡めてくれるのであった。
「あたしもね」
私が眠気を思い出し、半分まどろみかけていた時、彼女はそっと囁いた。眠りの淵のことで曖昧であるが、確かな感触の記憶として今も覚えている。
「あたしもね、あんたがどんな生き方して人に指さされても、あたしだけはあんたの味方してあげるわ」
彼女のその囁きが、今日に至るまでの私を支えたと言っても過言ではない。私が人生の岐路や壁にぶつかる度に、私はその月夜を思い出し、そばかすの散った少女の顔を思い出し、聖母のような響きを持つその言葉を思い出し、奮起するのであった。
たとえ、人々が私を嫌っても。
私には、彼女という揺るぎのない味方がいる。
生命の形を知っている彼女は、生きるという事を知っている彼女は、私を決して笑いはしない。
そして、また、私も彼女を笑いはしないのだ。
◇
翌朝になって目を覚ますと、彼女は既にいなかった。宿の者が言うには朝陽が昇る前には出ていってしまったらしい。私は低血圧の為にたいして焦りもせず、ゆるりとした身振りでケースを調べた。サキソフォンは無事にそこにあった。財布にも異常はなかった。煙草は数本減っているようだったが、どうせなら一箱そのままくれてやっても良いくらいだった。
縁側に出ると、あの見事な半月はもちろん朝陽に消えており、畦道からは捕食に精を出す小鳥の囀りが響いていた。縁の下を見ると、もう蟻の一匹もそこに残っておらず、蛾の死骸も、無残に翅の一部が落ちているだけで跡形もなかった。
私はノートを取り出し、確かに楽譜が残っていることに安堵して、愛器を構えた。息を吹き込むと、腹底に響くような音色に昨晩の情景が浮かび上がるかのようだった。
◇
その年に大戦は終結し、私はバツの悪さと共に故郷の街へと戻った。焼け野原に近い故郷の姿には唖然としたが、私は辛うじて残っていた馴染みのジャズ・バーへと顔を出し、そこでバンドメンバーと、新たなレコード会社を立ち上げようと企画する男達と知り合った。胡散臭げな顔をした彼らに、私はあの宿で書き上げたオリジナル・ナンバーを吹いて見せた。私には自信があった。
翌年には、私がリーダーを務めるバンドのレコードは店頭に大きく飾られることとなる。売上は爆発的な勢いで、我々は一躍、戦後の音楽業界の寵児となった。一番人気のナンバーは、やはり虫達に魅せられて作ったあの曲であった。
その後、私はツアーや休暇の合間に、彼女と出会ったあの土地へ幾度か出向いたことがあったが、ついに彼女と再会することは叶わなかった。例の土地を踏む度に、私の胸の奥底では、淡い痛みが静穏の響きを持って続くだけである。どうか、彼女があの曲を聴いて、そしてレコードを買って大事にしてくれますように、と祈るばかりだ。
ここまで私が書き上げた時、時刻はすっかり夜更けであった。書斎の窓に映る夏の半月は、未だに私をあの夜へと誘いだす。
後書き
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