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作品ID:521

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約34443文字 読了時間約18分 原稿用紙約44枚


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電車かもしれない

作品紹介

昭和、幼馴染、電車 原曲・たま


甲高いクラクションが、街路樹の連なる歩道に鋭く響いた。
 私はその警笛で意識を取り戻す。途端に私の肌の上には夏特有の粘り気のある暑気が蘇り、耳元ではアブラゼミの狂騒が息を吹き返した。陽はまだ高く、まさに炎天下と呼ぶに相応しい光景で、思い出したようにどっと汗が滲む。アスファルトから立ち昇る熱気と街路樹の隙間から射す陽射しとが、まるで現実味を帯びない凶暴性だ。身体にぶつかる熱波に眩暈が起こる。
 再びクラクションが鳴り、私は振り返った。路肩に自動車が停められていて、運転席から兄が手を振っていた。背広とネクタイの堅苦しい姿が、酷暑の景色にひどく不釣り合いに感じられた。
「母さんの見舞いに行くんだろう?」 兄は間延びした声で問う。
 その通りだったので私は頷いた。
「乗れよ。俺もこれから向かうところだ」
「助かった」
 私は助手席に乗り込む。車内は冷房が効いていて涼しかった。シートベルトを締めると同時に車はゆるやかに発進する。
 総合病院へ向かう直線道路は前後にも対向車線にも車の姿がなかったが、兄は几帳面に法定速度を守って走行した。その真面目な性根が、彼を今日まで現役として働かせる一級の社会人として成長させたのだろう。私には無い才能である。幾つになっても、兄から見習うべき点は尽きない。
「お前、熱中症じゃないだろうな」 兄が突然尋ねた。
 私は首を振る。 「なんで?」
「死人のような顔をしていた」
「考え事をしていたんだ」
「何か悩みでもあるのか」
 私は苦笑する。壮齢を過ぎれば、誰だって膨大な数の悩みを抱えているものだろう。
「昔を思い出していたんだよ」 私は当たり障りの無い返事をする。
「センチメンタルは何も生み出さないぞ」
「兄貴には敵わないな」
 兄は満足したのか、それとも私の言葉を皮肉と受け取ったのか、苦笑とも綻びともつかない笑みを浮かべた。
 カーステレオからは天気予報の声が続いている。兄は音楽を聴かない人種である。他にも目につく箇所は幾らでもあるが、その相違が兄と私を決定的に分かつ最大の要点であろう。直撃世代であるにも関わらず、兄はビートルズのメンバーすら把握していないのだ。
 私は文句を言わず、退屈な天気予報に耳を傾けた。予報によれば本日は晴天ということだが、そんなことは車窓からちょっと空を覗くだけでわかった。雲ひとつない青空から、夏の陽射しが忌々しいほど鮮明に降り注いでいる。地面に当たる白い光が眩しいくらいだ。今日は記録的な猛暑日になるらしい。
 私は歩道の向こう側に広がる平らな農地を眺めながら、先程と同じように、ふと追憶の渦に引き込まれるのを感じた。その瞬間から私の肉体は、兄が運転する自動車の振動を忘れ、そして自分が今存在している時代の感触すらも忘れ果てる。
 セピア色に彩られた淡い風景の中で唯一、今も燦然と輝く幼馴染の顔を――、もはや四十年以上も昔の話であるが、今日のような夏日となると私は発作的かつ刹那的に、追想の旅に出かけてしまうようになっていた。今でも鮮烈な味わいを残す、あの夏の日を追いかけて。
 そんな虚しく感傷的な夏を、私は人知れずにもう四十回以上も繰り返しているのだ。そして、兄の言う通り、感傷は私の中に何物も生み出すことはなかった。手に触れられぬ過去の蜃気楼がただそこにたゆたっているだけである。
 ◇
 当時、私達一家は東京都港区の一角に居を構えていた。
 今ではもうビルや線路に敷かれて跡形も無いが、かなりごみごみとした場所に一軒家を有していた。現在の私達は東京を離れているので詳しく知らないが、今では物騒な界隈ということで知られている土地だ。しかし、高度経済成長期の真只中であった当時には、行き交う者同士の間にもまだ温かみがあったと記憶している。しかし、それはとても漠然とした印象だ。昔を懐かしむテレビ番組に影響されて生まれた錯覚かもしれない。だが、プロレスラーがスターとなり、GSが過激とされ、後の大学紛争に向けての不穏な空気が漂う、そんな嘘のような時代を私達は生きていたのだ。それは紛うこと無き事実である。現実感に乏しい、妙な一体感が時代に蔓延していたのは確かなのだ。
 当時の我が家は、母、兄、姉、末っ子の私、そして養子であり、いとこでもあったさよ子の五人で構成されていた。父は健在であったが、仕事の都合上、家を離れている事が多かった。厳格な父親だっただけに、私は密かにこの父不在の体制を喜んでいたのだが、これによって兄の人格が歪められたと言っても過言ではない。本人や母や亡き父は真っ当な人格に育ったと主張するだろうが、模範的人間であろうとする病的なまでの追求姿勢、不在の父親の代わりを果たそうと奔走して努力した当時の兄の姿は幼い私の心をも痛ませた。いや、勝手に同情していただけなのだが、しかし、家族会議において私の不真面目さが槍玉に挙げられる度には、私はこの兄を肉親の中で最も煩わしく感じたものである。母は端から兄の味方であり、姉は私をからかうことだけを生き甲斐にしているような人だったので、私が気を許せるのは同い年のさよ子だけであった。
 記憶の中に現れるさよ子は、いつも変わり映えのない服装をしている。大抵は長袖の白いブラウスと赤い吊りスカートの姿で登場するのだ。おかっぱに切り揃えた黒髪など相まって、ほとんど『ちびまる子ちゃん』の風体であり、私達が少年期を過ごしたあの時代をまるごと象徴した服装でもあった。淡く色褪せた私の記憶の中で、さよ子のスカートはいつまでも曇りのない赤色を湛えている。それは時に愛おしく、時に不気味に、私の胸の奥底にまで迫った。
 瀬川さよ子の両親は、父の実妹の夫婦ということだった。長野県の諏訪市に住んでいたが、不幸にも瀬川家は放火による火事に遭い、さよ子は七歳にして両親を亡くした。放火犯は未だに捕まっていない。事件は迷宮入りの判子を押されたまま忘れ去られてしまった。仮に捕まっても、もはや時効だ。
 彼女の両親は元々駆け落ち同然の形で婚姻していたので、双方とも実家への繋がりがほとんどなく、両親を失ったさよ子は一時孤児院へと移されたらしい。が、見知らぬ土地で生活する妹を心配して手紙の交換を続けていた私の父が、妹夫妻の死を後れて知り、長野県の警察に問い合わせ、姪であるさよ子の無事を知った。
 父は、見方によれば昔気質の神経質な一面を持ち合わせていたが、おおむね寛大な器の持ち主でもあった。電話口の職員が気まずそうに切り出すよりも先に、さよ子の引き取りを志願し、翌日には鞄片手に列車を乗り継いでいってしまった。亡き実妹や姪への憐憫も当然あっただろうが、なにより大家族が当たり前の時代であったから、養子を一人受け入れるくらいはさして抵抗がなかったのかもしれない。とにかく、帰ってきた時には、父の傍らに固い表情をしたさよ子が立っていた。
「今日から家族の一員だ」 集まった家族の前で、父は姪の小さな肩を軽く叩いた。
 東京に戻る間に、二人の間でどのような会話や成り行きがあったのか、今はもう誰にもわからない。ただ、さよ子は叔父である父に肩を叩かれた途端、抑えていたものが決壊してしまったかのように、大粒の涙を流し始めた。しばらくは玄関の三和土に立ち尽くし、激しく嗚咽していた。
 その光景を私は今でも写真を眺めるかのようにして思い返すことができる。昨今流行りの液晶テレビよりも鮮やかな姿で、彼女は記憶の中の玄関に立ち尽くしているのだ。
 ◇
 母のいる個室の戸を開ける時、兄が深呼吸をしたのを私は見逃さなかった。しかし、声を掛けるほど私は野暮ではなかったし、兄も愚弟の前で情けない姿を晒したくなかったはずだ。その類の意地が兄の中ではまだ燻っていて、そしてそれは、私達が死に耐える最期の瞬間までほぼ永久的に根付いているに違いない。人並み以上に歳を重ねた我々が、未だ母を慕うのと同じような感情である。兄は弟を見下ろす生物であり、弟である私は彼を見上げる生物なのだ。
 母は個室のベッドに腰掛けて、窓に映る夏の白い風景を眺めていた。こちらへ振り向いた時、見慣れていたはずの母の顔が誰か他人の老婆のようにも思えた。それほど母はやつれていた。ふっくらしていたはずの頬が痩せこけ、眼窩は落ち窪んで黒ずみ、小さな頭蓋骨の形をはっきりと浮かび上がらせていた。
 兄がその時にどんな表情をしたのか気になったが、私の目線はしばらく衰弱した母の顔に釘付けとなったまま、動かしようがなかった。しめつけられるような胸の痛みばかりがあった。
「あぁ、来たの、いらっしゃい」 母の声は弱々しく、掠れている。
「具合はどう?」 兄がいつも通りの口振りで尋ねた。
 その時になって、私もようやく身体を動かすことができた。しかし、糸で吊られた人形のようにぎくしゃくしていたと思う。毎度このような場面で二の足を踏んでしまうのが私の悪癖だった。
 母はそんな私の弱腰を目にする度に、豪快に叱り飛ばす人であった。例えば私が運動会でアンカーを任された時、あるいは絶望的な倍率の大学へ受験する時、または自信の無い作品を初めて出版社に送った日の夜。母はどんな時でも私の弱気を目敏く見つけ、凛と鞭撻し、発破をかける女性だった。私はそんな母を恐れる一方で、とても誇らしく思っていた。若い頃には母の気丈を心底羨望する時期すらあった。
 しかし、今、母の目は病に落ち窪み霞んでいる。馬鹿息子が浮かべているいたたまれない表情も、その目には見えていないのかもしれない。私は、年月の残酷さをほとほと思い知らされた気分だった。覚悟していたものの、やはり胸に堪えるものがある。
「隆介も来たのかい、珍しいね」 母は骨と皮だけの顔を微笑ませて言った。
 私は咄嗟に笑みを繕い、兄に倣って母の傍へと近寄った。
「ごめんよ、お袋。なかなか来れなくて」
「いいんだよ。それだけ仕事が繁盛しているってことだろう。駿介なんかしょっちゅう来るもんだから、あたしゃ寝る暇もないくらいさ」
「ひどいな、俺だってバリバリ現役だよ」 有名な不動産企業の会長を務める兄が、心外そうに膨れた。一企業の重鎮には似つかわしくない仕草だ。
 母はそれを見て屈託無く笑う。その屈託の無さが、かえって私の心をぼろぼろに打ち負かした。私は『グリーン・マイル』のジョン・コーフィが看守達に連れられて、突然病室の戸口に現れるような奇跡を半ば本気に祈った。母の身体に巣食う病魔を、誰でもいいから取り除いてほしかった。
 だが母は――、これはとても嬉しい誤算だったのだが――、病魔に冒されて身体を干物のように痩せ細めても、愚息である私がどんなに弱気になろうとも、その内に秘めた豪胆な精神だけは一切失っていなかったようだ。その精神は私達が鼻垂れ小僧だった時分から変わらず、まさに一片の曇りもないまま今日まで残っている。
 私がそれを確信したのは、この日、私が自分の近況を母に遠慮気味に伝えた時である。
「隆介は、最近、執筆の具合はどうなんだい?」
 母は兄の仕事の具合に一通り耳を傾けてから、次に私へそう訊ねたのである。
 気取った物言いや取り澄ました話し方と全く無縁の母が、執筆という言葉を巧みに扱える理由は、私との数十年にも及ぶやり取りからいつのまにか体得できていた為である。それ以前は作家業を売文屋、ひねくれ者、または役立たずと蔑み、読書家の事を虫、根暗、軟弱者、そしてあるいは役立たずと罵っていた。
 こういった人格の母を相手取り、役立たずの作家を目指すと告げた当時の私の苦労は想像に難くないであろう。これが学者か医者になりたいという内容だったならば、少なくともその告白の後に拳骨を食らう羽目にはならなかったはずだ。
「実は、あまり芳しくないんだ」
 私は窓際のテーブルに置かれた鉄の花瓶に目を逸らして言った。
「昔みたいにすらすら文章が書けなくなっているんだ。書きたいって思える話がだんだん無くなっているんだな。書いたとしても、自分が納得できる形にならないし……、いや、疲れたのかもしれないな、文字を書くのに。たいしたものも書けないし」
 事実それは、その時の私の頭を最も悩ませていた種の一つだった。誰にも打ち明けていない葛藤だった。それが口から容易く滑り出したのはやはり、やつれ果てた母の姿に起因したことだろう。私は勝手に弱気になっていたのだ。
「何を言っているんだ。新作が映画化されるって聞いたぞ」 兄が困惑したように言った。
 きっと、母の前では景気の良くない話を避けたかったのだろう。それにも気付かず、私は首を振った。自嘲の笑みすら浮かべて。
「あんなの、どうしようもない作品だ。嘘っぱちしか並べていない金の為の本だ。昔みたいに、自分の満足のいく本が書けなくなっているんだよ。事実、新しいのも書き出せていないし。こんなんじゃ、編集から切り捨てられるのも時間の問題だよ」
「甘えたことを言うな、お前にもファンがいるだろう。誠実な態度で構えていろよ」
 知ったような科白を吐く兄に若干腹が立った。
「兄貴は本を書いたことがあるのかい? 自分の書いた本が書店で平積みになっている光景を見た事があるのかい? 見ず知らずの読者達から期待されている気分がわかるのかい?」
「いや、それは」 兄は口ごもる。兄は、自分の経験に沿った常識しか知らない人種であった。
「隆介」
 枯れていたはずの母の声が、ある種の鋭さを帯びて、私の名を呼んだ。
 私はもちろん、ベッドを挟んだ向かいに立っている兄も息を呑んだであろう。
 私を睨む母の目は、窪んだ穴の奥で、荒野の空を舞う大鷲のような威厳を取り戻して光っていた。その目に射すくめられ、私の身体はたちまち硬直した。それはもはや記憶というよりも、もっと深い場所に刻みつけられた防衛意識によるものだった。つまりは、トラウマだ。
 かあちゃんが怒ってる。
「病人の前で辛気臭い態度とるんじゃないよ。歳取っても変わらない奴だね、お前は」
 母は小枝のような手にしなりをつけて私の手の甲を叩いた。驚いたことに、それはなかなか痛かった。冷たい汗が噴き出る。
 かっ、と母の顔付きが変わった。
「まったく、景気が悪いなら、こんなババアの許になんか来なきゃいいんだ!」 母は激昂し、何度も私の手を叩いた。
「痛い、痛いって!」
「母さん、何してるんだ!」 兄も驚いたように、身を乗り出した母を宥めた。 「具合が悪くなったらどうするんだ」
「お前らに心配されんでも、あたしゃまだ死にゃしないよ! こんな半端者残してお父ちゃんに顔向けできるかね! この馬鹿! 馬鹿!」
 ぴしゃりぴしゃりと私を叩きながら母は立ち上がろうとする。堪らず私が悲鳴を上げて退避すると、今度は花瓶を投げつける体勢になり、それを兄の手が必死に止めた。
 いよいよ騒動になってきた頃、騒ぎを聞きつけた看護婦達が飛び込んできて、母はようやく曲がった腰をベッドに下ろした。
 癇癪持ちだと疑われても仕方ないが、母は昔からこのような気質の人であった。
 基本的には豪放で大らかなのだが、一度でも怒りに火がつけば、たとえそれが種火のように小さな炎であっても、加速的に燃え広がり、最後には大火となって押し寄せてくる。その勢いと破壊力たるや、典型的な関白亭主であった厳格な父すらもたじろがせる迫力だった。当時、それなりにわんぱくであった私も、母の剣幕の前には早々と戦意を喪失したものである。あの怒鳴り声と拳骨の痛みを知っていれば、大抵の者が怯えてしまうはずだ。
「甘えた諦めなんてあたしゃ聞きたくないね、さっさと出ていけ!」
 鉄瓶を握る山姥のように恐ろしい母の姿に茫然とする一方、私は密かに胸がすく思いだった。昔と同じ気焔を吐く母の姿は、たとえ若い頃の面影を失くしていても、病魔という暗い存在を微塵にも感じさせない。猛狂う姿は心底恐ろしいのだが、やはり嬉しかった。
 これは本当に俺がくたばるまで死なないかもしれないな、と私は微笑んだ。
「何をにやけとるか! さっさと仕事に戻りな!」
 母の怒声に追われ、私はすたこらと病室から逃げ出した。
 ◇
 病棟の外にある喫煙所まで抜け出すと、ハンチング帽を脱いで額の汗を拭った。まだ鼓動は早い。煙草に火をつけながら真っ青な空を眺めた。陽射しはやはり眩しくて、無意識に目が細くなる。疎らな木立の向こうにある駐車場へと目線を移した。
 兄を待つ間、私は昔の母を短く回想した。
 記憶の中の母は、残念ながら私に向かって怒鳴っている姿がほとんどだが、時には優しく微笑むこともあった。さよ子が初めて我が家にやって来た時も、戸惑う我々を尻目に、「さよちゃん、お腹空いたでしょ。ご飯食べようね」と母は心得たように笑っていた。泣きじゃくるさよ子に向けられたその穏やかな微笑みが、今でも私の中では印象深く残っている。母は炎のような気性と、大海のように深い懐の持ち主だった。
 煙草が短くなってきた頃、兄が自動ドアをくぐって現れた。疲れたような、苦い笑みを浮かべていた。
「まだそんなもの吸っているのか」
「参ったね、お袋には」 私は苦笑で返す。
「あんなに激昂するとは思わなかった。いつもはもっと静かなもんだ」 兄はやれやれと首を振る。 「お前が来てくれてよかったよ」
「よかったのか? 大変だったじゃないか」
「久しぶりに思い出したけど、俺達の母親は本来ああいう人だ」
 異論はなかったので大きく頷いた。
 しばらく、我々は沈黙した。祖父母の見舞いにでもきたのだろう、一組の親子が愉快な声を上げて駐車場を横切っていた。平和な光景だ。じっとそちらを眺める。少しでも喧騒が欲しい気分だった。
「どれくらいもつ?」 私は煙草を捨てるのと同時に尋ねる。
「三ヵ月」 兄は短く答えた。
「そんなに短いのか」 私は戸惑いを隠せなかった。
「大腸がん。それも末期で、他の部位にも転移している。医者にはそう宣告されたよ」
 がんという言葉がこれほどまで不快に響くものだとは思いもしなかった。言葉自体が具現化して目の前を漂っているかのような生々しさだ。そして、それはちろちろと舌を出して小鬼のように笑っているのだ。
「お袋は知っているのか?」
「言えるわけがないだろう」 兄の語調が少し荒くなる。 「ただ、母さんのことだ。自分で気付いているはずだ」
「たぶん」 私は慎重に言葉を選んだ。ピンセットで重りを天秤へ運ぶような作業だ。 「お袋が自分の余命を知ったとしても、俺達ほどは落ち込まないだろうな」
「違いない」 兄は息を漏らして頷いた。
 症状の悪化ぶりは予想以上だったが、それでも予感がないわけではなかった。
 胸騒ぎ、あるいは虫の知らせとでも言うのか、とにかく肉親の不幸に人は不思議と敏感なものである。私が今日見舞いにきたのも、その直感に依るところがあった。祖母が亡くなった日も、父が事故で他界した日もそうだった。漠然とした不安の塊が、何の前触れも無く胸の片隅で顔を覗かせるのである。母の衰弱しきった顔を見た時には、その予感が的中したと感じた。不吉な勘ばかりが当たって、自分でもほとほと嫌になる。
 ただ、さよ子の死の瞬間だけは違った。
 あの日の私は、忌々しいほど平和な心持で、近所の公園で野球に興じていたのだ。さよ子が階段から転げ落ちたあの日だけ、私はさよ子と違う場所で遊んでいたのだ。
 さよ子と過ごした少年期の日々を今でも鮮明に思い出せる私だが、彼女の死んだ日に限っては記憶が曖昧である。恐らく、家族であり、無二の親友でもあったさよ子の死を受け止めるには、私の精神はまだまだ幼すぎたのだろう。何が起きたのかも上手く把握できなかったように思う。ただ、人目を憚らず泣いている母、茫然とする兄と姉、憔悴しきった父の姿が順々に思い返されるばかりだ。私は、さよ子の死顔すらも、思い出せない。
「兄貴はさよ子のこと覚えてる?」
 帰りの車中で、私はそれとなく兄に訊ねてみた。
「覚えているさ、当然だろ」 何を突然、といった目で兄は見返す。
「あいつが死んだのって、ちょうど今ぐらいの季節だったよな?」
「あぁ……」 兄はハンドルを握ったまま、力無く頷く。 「そうだな。命日、そろそろだな」
「毎年、暑い季節になるとあいつのこと思い出すよ」
「不思議な子だった」
 兄はほとんど呟くように言った。
 ◇
 兄の言う通り、さよ子は不思議な女の子だった。他の女子とは一味も二味も違う雰囲気があって、しかも気難しい子だった。一つ屋根の下で暮らしていた私達ですらそう感じていたのだから、赤の他人である周囲にはもっと奇特に見えただろう。
 不幸な生い立ちが同情を呼んで近所の大人達にはそれなりに可愛がってもらっていたが、同年代の子供達からはそうはいかなかった。学校ではいつも女子のグループからぽつんと独りで外されていて、私はそれを見つける度に彼女を男子のグループへ加えてやったものだ。もちろん、私の親友達がその都度、顔を顰めたのは言うまでもない。さよ子はいつも顔を合わせるクラスメイトとまともな挨拶すら交わさなかったのだから。
「生物は死んだら電車に乗って、お空の果てに向かうの。お父さんとお母さんも電車に乗って行ったんだよ」
 さよ子が自発的に話すことはほとんど無かったが、たまに口を開いたと思えば、出てくる言葉は支離滅裂で突拍子もないものが多かった。けして頭が悪いわけではない。むしろ、成績は私などよりも断然秀でていた。それにも関わらず、常軌を逸したようなことばかり言うものだから、さよ子に友達ができないのも無理はなかった。
 ある時、学校の校庭で殺された野良犬の死体が見つかったことがある。鋭利な刃物による幾つもの刺突の痕、それに前脚の二本が切断された酷たらしい死骸だった。夏休みが目前に迫った猛暑日のことで、登校中の児童達によって発見された。早朝であったにも関わらず、夏場のせいで死体は早くも腐乱し始めていて、地獄のような異臭を放っていた。クラスメイトが何人か嘔吐していたのを覚えている。好奇心で覗いた私もたちまち気分が悪くなった。
 教師達がやってくる間、蝿のたかる死体を遠巻きに囲っていた我々のうちから一人、進み出た者がいた。さよ子だった。彼女は私が止めるのも聞かずに、無残な犬の死骸を抱き寄せて、その場に蹲った。ブラウスに赤黒い獣の血が付着するのも構わずに、まるでぬいぐるみを抱くかのような愛しさを込めて、彼女は死骸を抱きしめたのだ。
 それはとても異様でいて、そしてどこか雄大な光景だった。誰も言葉を発せないでいるうちに、彼女は青く晴れ渡った空を見上げた。切り揃えた前髪の下にあるのは、何の感情も籠もっていない二つの黒い瞳だけだった。
 私を始めとする何人かの児童達は、その時、不思議な地鳴りを聞いた。最初は工事用の大型トラックが通過したか、あるいは小規模な地震でも起きたのかと思った。しかし、それはいずれとも違う低い響きで、我々が辺りを見回しているうちに音は止んだ。風鳴りだったのかもしれない。だが、ほとんど風は吹いていないはずだった。
「電車かもしれない」 さよ子は我々の方を見ず、ただ高い空を仰ぎながら言った。
 電車。確かに、その地鳴りは路面電車が通過した時のものに似ていたかもしれない。だが、小学校の近くに線路は敷かれていないはずだった。結局、あの地鳴りは今も謎のままである。
 さよ子は教師達が怒鳴りつけても、ほとんどうわの空だった。保健室でも職員室でも窓の外ばかりを眺めていた。凄惨な死体を目にした精神的ショックが大きかったのでは、との声もあったようで、万が一を考慮してさよ子は早退を言い渡された。そして、いとこである私が彼女を家まで送り届ける役目を任された。これは授業が苦痛だった私にとっては僥倖であったが、しかし、私にも多少のショックは残っていた。
「どうして、あんなことした?」 私は思い切って尋ねた。
 家路につくまでの間、さよ子が口を開くことはほとんど無かった。血の痕はもうない。学校で用意された代えのブラウスの白さが眩しいくらいだった。
「綺麗だったから」 さよ子は短く答えた。
「は?」
「死んでいる姿って、たぶん、綺麗だと思うの。金魚も生きている間は可愛いけど、死んで浮かんでいる姿が、やっぱり綺麗」
 私は呆然と彼女を見返した。
 意味が全くわからなかった。いや、それどころか、私はその時、もしかしてさよ子が犬を殺したのではないか、という猟奇的で意外な発想をしたくらいだった。そうであっても違和感の無い、凄みのある笑みを彼女は浮かべていたのだ。しかしそれは、あるいは子供らしい、ただの無邪気な微笑に過ぎなかったのかもしれない。そうなのだ。子供は笑いながら虫を捻り潰し、蛙を地面に叩きつける生物なのだから。
 しかし結局、犬殺しの犯人は別件で逮捕され、事態は落着を見せた。が、当然ながら、さよ子が学校で一層孤立したのは言うまでもない。嫌悪というよりかは、皆純粋に彼女に恐怖心を抱いていたのだろう。
 私はそんな彼女をできるだけ庇い続けた。ほとんど誰にも心を開かないさよ子が、私達家族にだけは心を開いてくれているような気がしたからだ。学校での姿とは対照的な、玄関で大粒の涙を流した彼女の人間らしい姿がずっと心に残り続け、それが私を幼い騎士として奮起させ続けたのだった。
 ◇
 帰宅した頃にはもう陽が没していた。早々にシャワーを浴びて汗を流す。夕飯を作るのも億劫で、私はソファーに沈みこむと、さっそくピーナッツをつまみにブランデーを呑んだ。テレビは点けず、代わりにコンポからコルトレーンの『マイ・フェイバリット・シングス』を流した。殺伐とした私の生活空間は途端に潤いを取り戻す。
 独り身であるから、私の道楽を咎める者は誰もいない。兄や友人達は私に結婚を強く勧めるのだが、私は見知らぬ将来の婚約者よりもブランデーとコルトレーンの音楽を大事にしたかった。かつての恋人に指摘されたことでもあるが、恋愛に対する私の情は世間一般の人々よりも薄い傾向にあるらしい。一理ある。思い当たる節は幾らでもあった。結局、私はその指摘を認め、彼女ともあっけなく別れてしまった。あの時、どういう態度でいるべきだったのだろうかと思い返すことは時折あったが、もう過ぎてしまったことだ。人生の伴侶を迎えるには、私はいささか歳を取り過ぎてしまっている。
 くだらない。
 アルバムが終盤に差し掛かった頃、私は独り嘲笑を漏らし、ブランデーを片手にベランダへと出た。むっとするような夜の大気だった。月すらも蒸されて滲んでいるかのようだ。私はそちらを見上げながら煙草に火をつける。吐き出した紫煙が私の頭のようにぼんやりと崩れて漂う。
 私は再び、さよ子について考え始めていた。夏場はいつもこうだ。色褪せた記憶の中で兎のようにぴょこぴょこ跳ね回る彼女に対し、いつしか私は過ぎ去ってしまった日々への憧憬にも似た感情を抱いていた。さよ子を思い出すことはすなわち私自身の少年時代を反芻することであり、それは甘美な余韻と淡い胸の痛みを呼び起こす行為なのだ。死という形であの時代に置き去りにされた彼女を偲ぶのは、私にとってはタイムカプセルを開くことにも等しい。悲哀や憐憫などの感情は既に風化し、私はただ、もはや幻とも呼べるさよ子の姿を茫漠と眺め、その時間の距離にじくじくと胸を疼かせるだけなのだ。私の中では、彼女は今も犬の死体を抱き、空を仰いでいるように思えてしょうがない。
 煙草を吸い終えて部屋に戻ると、音楽は終わっていた。殺風景なマンションの一室はまるで他人の部屋のように私にそっぽを向いている。くたびれたソファーだけが義理で私を歓迎しているという感じだ。薄情な部屋である。しかし、そう感じるのは私が思い出の沼にどっぷりと浸りすぎたせいかもしれない。私の方から、この現実を敬遠しているのかもしれなかった。
 そうしてしばらく窓際で突っ立っていると、今にもソファーの後ろから、あるいはキッチンの陰から、さよ子がひょっこり顔を覗かせるような気がした。彼女は少女のまま、私は年老いた姿で再会するのだ。私はその時、微笑むことができるだろうか、と真面目に考えてみた。でも答えは出ないし、出す必要もない。
 ◇
 二日後、私は親しくしている担当編集者と共に、駅前の地下にある馴染みのアイリッシュ・パブに出掛けた。相手方から誘って来たのである。あまり気乗りはしなかったが、結局は私も酒の誘惑に負けた。気晴らしをしたかったというのもある。
 担当編集者は佐伯という名の、私よりも一回り歳下の男だった。彼も頭髪に白いものが混ざり始めているが、ファッションや振る舞いは映画俳優のように若々しい。知り合って十五年ほど経つが、ほとんど老いを感じさせない不思議な男だ。少々抜けている所もあるが、仕事ぶりは敏腕で、しかも先見の明がある。私も連載に苦しんだ時、彼の助言に幾度となく助けてもらったことがあった。私のようなうだつの上がらぬ凡才が書籍でヒットを飛ばせたのは彼の手腕に依る所が大きい。が、佐伯の最も好意的な部分は、自身の実績をほとんど鼻に掛けない性格である。いい歳をして嫁を貰わないのも、我々の気が合う点だ。
「もしかして先生、ネタ詰まりですか?」
 佐伯は私の表情が暗いのをすぐさま察知してあけすけに尋ねてきた。私は苦笑を交えながらも素直に頷き、最近の筆の不調ぶりを伝えた。
 佐伯はウィスキーのグラスを傾けながら、ふむふむと頷いた。
「なにか実生活で、しがらみがあるとか?」
「何十年も前からしがらみだらけだよ」
「うーん、悩みとかないんですか? なにか、書くのを邪魔するような」
 母のことが口をついて出かかったが、私はそれを呑みこんで首を振った。佐伯を信用していないわけではないが、あまり話すべきではないことのような気がしたのだ。それに、私の執筆の不調は母の容態を知る前から続いていた。
「じゃあ、たぶんマンネリですよ、マンネリ」
「マンネリ?」 私は呆ける。
「ええ。たまには路線変更してみたらどうです?」
「というと?」
「そうですね……、思い切って『スターウォーズ』とか『マトリックス』みたいなSFを書くとか」
「難しいな」
「たとえば、の話ですよ」
 うーん、と私は腕組みして考える。しかし、私より頭の回転が速い佐伯が先に手を叩いた。
「そうだ、ノンフィクションはいかがです? 事実は小説より奇なり、と言うじゃないですか。何かないんですか?」
 突然そんなことを言われても、と私は言いかけたが、すぐにさよ子のことが浮かんできた。まるで出番を待っていたかのようにすんなりと念頭に現れたのだった。
 私自身その発想を意外に思いながらも、遠慮気味に佐伯に教えてみた。佐伯は少し眉根を寄せたものの、話していく内に乗り気な微笑を見せ始めた。私よりも先に構想を固めたようである。
「いいですねぇ! 先生の初恋ですか!」
「初恋って……」 私は頭を掻くが、否定が面倒なのでそういうことにしておいた。
「転がり込んできた風変わりな少女と古き良き時代の日本。情緒的に昭和を振り返りましょう!」
 あっという間に私の苦悩は解決されたようだった。鶴の一声とはこのことであろう。大切な思い出を金儲けに使うのか、という非難がちらりと胸をよぎったが、結局私はそのむしゃくしゃした気持ちも都合良く嚥下してしまった。母に叱咤されたこともあったし、なによりも私自身に、さよ子との記憶を文章に投影したいという欲求が生まれ始めていたのだ。多少の罪悪感があるものの、なかなか悪くない考えかもしれなかった。
 その後も取り留めのない話を続けながら酒を呷ったが、私はけして酔わず、口は適度に動かしながらも頭の内ではさっそく構想の設計に取り掛かっていた。
 ◇
 思い出とは常に主観的なものである。記憶と記録の違いとは、つまり美化や誇張といった装飾の有無によるものだろう。私の思い出一つ取ってみても、当然例外ではない。もちろん、私がこれから書き出そうとしているのは、私にとって回顧録的な意味合いを持つ作品であるからどう転んでも主観的になるだろう。それはそれでいい。
 しかし、さよ子という少女を描くにあたって、どうしても私の記憶や印象だけでは不十分だという気がした。結局、新作はいつもの通りフィクション作品で落ち着いたわけだが、登場する人物にはなるべくリアリティを持たせたかった。
 そこで私が記憶を辿ってさよ子をぼんやり文面に描写してみると、やはりというか、彼女は恐ろしく現実離れした女の子だった。そう、まるで絵本のキャラクターのように掴みどころが無いのだ。少なくとも私はそう感じた。そしてその印象は無論のこと、私がこの長い年月の間に捏ねくり回して作り上げた勝手なイメージなのだろう。記憶というのは曖昧で主観的で、さらにほぼ空想的なものだ。さよ子に対する第三者の印象を聞いて、もっと詳細な肉付けをする必要があった。
 八月に入り、私はさよ子のイメージを新たにする為、兄に会い、そして再び母を見舞った。母はまたやつれたようであるが、目には前よりも強い光が宿っていた。厳しい目付きのまま私を睨みつけたが、現在新作の構想を練っていて、今度は自信があると私が告げると、途端に笑窪を作って破顔した。
「そうさね、やるっきゃないんだから、いつまでも弱気になってちゃいけないよ」 母は身を起こしながら強気な口調で言う。 「で、どんなのを書くんだい?」
 私は噛み砕いたイメージを簡潔に話した。舞台は昭和の東京で、中心人物達は我々家族がモデルだと教えると、母は明らかに機嫌を良くした。虫だの役立たずだのと詰っていても、なんだかんだ息子の本に自分が登場するのが嬉しいのだろう。兄もどことなく興味ありげで、隣でさりげなく襟許を正しているのが可笑しかった。
「へぇ、面白そうじゃないか。それならかあちゃんにも読めそうだね」 母はにっこりと微笑んだ。
 私はいつ頃原稿が上がって出版になるか、ざっと目算を立てて教えようとしたのだが、母のやつれた姿を改めて見た時、悪寒にも似た衝撃が口を閉ざした。
 三ヵ月という猶予を思い出していた。鼓動が重みを増して、指先が震える。突然目の前に現れた悲哀に息が詰まりそうだった。それでも私が表情を朗らかに操作できたのは、ひとえに年の功によるものだろう。いや、もしかしたら、単純に老いによって鈍くなっただけなのかもしれない。人は、どんどん鈍くなっていく生物なのだ。
「それでさ、さよ子のことを聞かせて欲しいんだ」
 私は沈黙が不自然な長さにならないうちに言い切った。
 母の顔に非難めいた曇りが浮かんだ。
「呆れた子だね、さよちゃんを忘れたのかい? あんなにべたべたしていたくせに」
「べたべたって……」 私は苦笑する。 「いや、もちろん覚えているよ。昨日のように思い出せる。ただ、お袋から見たさよ子の印象を教えてほしいだけさ。参考材料として」
 ふぅん、と母は頷いて、記憶を辿るように目線を窓へ向けた。我々もつられてそちらに向く。今日も陽射しが強く、群青の空が眩しかった。空だけは昔と変わらない。時代というのは地上だけに存在する概念なのだろう。だから皆、空を恋しく見上げるのかもしれない。
 横を向いた母の目は、物憂げな表情を湛えていた。きっと、さよ子の死んだ日を思い返しているのだろう。
「予兆かもしれないね」
「え?」 私は聞き返す。
「最近ね、さよちゃんが夢に出てくるのさ。昔のまま、可愛らしい姿でねぇ」 母は暗い微笑を浮かべた。 「あんたがここに来ることの暗示だったかな。それとも……」
 母は言葉を切る。
 それとも。
 その先を私は聞きたくなかった。気付くと膝の上で拳を握っている。隣の兄の表情にも、わずかな憔悴が垣間見えた。
「不思議な子だったね」
 母は目を細める。そして、窓辺を向いたまま、ぽつぽつと語り始めた。
 ◇
 当時の母は、私達には厳しすぎるくらいの人柄であったが、養子であるさよ子には比較的優しく接していた。さよ子が元々大人しい性格であり、両親を失って間もなかったから気遣っていたのだろう。しかし、けして甘やかしていたわけではない。私と共に悪戯をすればちゃんと平等に叱りつけたし、拳骨こそ飛ばさなかったが、躾もしっかりしていた。ただ、ふとした時に見せる優しさには、やはり母なりのさよ子への配慮があった。兄と姉には良識があったのでそんなことは露ほども考えなかっただろうが、胡麻塩頭にたんこぶばかり作っていた私は少し不公平に感じたくらいだ。朝などさよ子は優しく揺すって起こされ、私は蹴り起こされる始末である。
 さよ子はよく母に懐いていた、と思う。実の母子がよくやるような首筋に抱きつくなどのスキンシップは無かったし、そもそもさよ子の表情に起伏があまり無かったからわかりづらかったが、それでも心を許しているようだった。無意識に母親という存在を求めていたのかもしれない。よく話しかけていたし、褒められれば笑みを零すこともあった。一度、私と共に下校している最中にコスモスの花を見つけて、その一輪を母に贈ったこともある。母もよほど嬉しかったのだろう、しばらくその花を居間の花瓶に挿して飾っていた。
 母からしてもさよ子はやはり特殊な子供だったようだ。不思議な言動が多いのは私もわかっていたが、母と二人きりの時には特に顕著だったらしい。
 ある時、母とさよ子が近くの商店街まで買物に出かけると、近所の金物屋でボヤ騒ぎが起こっていた。消防員数名が消火作業に取り掛かり、その倍の人数の野次馬が人だかりを作っていた。コンロ用のガスボンベが爆発した為の火事だったらしい。
 火はすぐに消し止められ、店の全焼は幸い免れたが、軒先の壁の一部がぶすぶすと焦げていた。当時は木造住宅ばかりであったから、ちょっとした火災でもすぐに大仰な被害が出るのだった。
 買物袋を両手で抱えていたさよ子がふと足を止めて、金物屋を凝視した。母も立ち止まって炭化した金物屋の壁を見つめていたが、すぐに思い至ってさよ子の手を引いた。だが、さよ子は無言のまま、頑なにその場に居座り続けた。
「さよちゃん」 自分でも思いがけず、母は厳しい口調で呼び掛けた。
 しかし、さよ子の黒い瞳はじっと店の焼け跡に注がれて動かない。
 火事で両親を亡くした彼女には刺激が強すぎたのかもしれない。母はそう考えて不安になった。落ち着いた子であるから取り乱すような真似こそしないが、しかし、まだまだ精神は未熟なはずなのだ。傷もきっと深い。母は不憫な思いで、再びさよ子に呼び掛けた。
 しかし、母へ向いたさよ子は、平然としていた。
 いや、それどころか。
 彼女は黒い目を三日月のように細めて、ふんわりと微笑んだのだった。
「おばさん、火って綺麗だよね。花火とかじゃなくって、人を焼いたり家を燃やしたりする火のこと」
 言葉と反して、さよ子の微笑はどこまでも無邪気で可愛らしかった。くすくすと息を漏らしてさえいた。屋台で掬い上げた色鮮やかな背びれの金魚を袋越しに覗いているかのような上気した好奇心を、母は彼女から感じ取った。それほどささやかな表情と口調だったのだ。
 氷柱を当てられたような悪寒が、母の背筋を駆け抜けた。
「さよちゃん、何言ってるの?」
「火って、何でも消してくれるでしょ。全部一緒に、物も人も関係なく焼いてくれる。好きなものも嫌いなものも、一緒に消してくれるの。それでさらに炎が上がって、その色は、とても綺麗だよ。本当だよ。その煙に乗って、死んだ人は電車に乗るのよ」
「電車?」 母は困惑した。
「いつかおばさんにも見せてあげたいな。火も、電車も。どっちも綺麗なのよ」
 さよ子は唄うように呟いて、さっさと先へと歩いて行ってしまった。
 しばらくの間、母は呆然と立ち尽くしていた。雲のような不快感と焦燥感がずっと胸につかえ続けた。さよ子の赤い吊りスカートが燃えるような夕陽の中で鮮烈に映え、まるで炎か血のようにも思えた。
 さよ子が死んだのは、それからしばらく経った日のこと。
 彼女の言っていた火も電車も、母が見ることは結局無かった。空想の穴に嵌り込んだ子供の戯言だったのかもしれない。脈絡がないのでそれ以外に考え付かない。だが、その戯言が、今日まで母の胸に残っているさよ子の言葉らしかった。
「不思議な子だったね」
 母は取り留めのない話を終えると、もう一度噛み締めるように言った。母の吐いた溜息がふわりと浮かんで漂うような錯覚を私は覚えた。
 ◇
「俺は、さよ子のことが少し苦手だった」
 帰りの車中で、兄が唐突に言った。車窓を眺めながら物思いに耽っていた私は意外な気持ちで彼へ振り向いた。兄は前方を見つめたままハンドルを握っている。固い面持ちだ。しばらく互いに沈黙する。
 既に日は暮れかけ、夏空は群青から灼熱の夕焼け色へと移っていた。西日が強い。お城のように大きな雲が夕陽の陰影によって立体的に見える。雲も、電線も、その間を渡っていく烏達も、なにもかもが輪郭を濃くしていた。
「不気味だった」 兄は躊躇うような口振りで続けた。 「あの子が来てから、なんだか家の雰囲気が変わった気がしたんだ」
「そりゃそうだろう」と私はほとんど反射的に答えてから、言葉に窮した。故人を擁護すべきなのか、兄に同感を示すべきなのか瞬間迷った。 「家族が一人増えたら雰囲気も変わるよ」
「違う、そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうことだよ」 自分でも気付かぬうちに私はとげとげしい口調になっていた。 「確かに変わった子だったよ。突拍子も無くて、変なことばかり言って。だけど、見ただろう、あいつが家に来た時。玄関でわんわん泣いてさ。普通の女の子だったんだよ、あいつも。俺もそうだったけど、皆勘違いしていたんだ。そりゃ、お袋の話には少し驚いたよ。でも、それもさよ子らしいっちゃさよ子らしい」
 兄は肩を竦めるように息をついた。速度が少し緩む。四輪駆動の車が我々を荒々しく追い越した。
「嫌な予感がしていたんだ。ずっとな」 兄の声が若干沈んだ。 「胸騒ぎっていうのかな……、自分でもよくわからない。だが、さよ子が来た日からそれが始まったのはよく覚えている」
「兄貴は……、何が言いたいんだ?」 私は親友を拒否された怒りよりも、戸惑いの感情に流されて尋ねていた。
 兄は首を振る。
「わからない。自分でもよくわからないんだ。ただ、俺から見たさよ子は、そういう子だったっていう話だ」
 私は口を噤んで、再び車窓を眺めた。もう地上は暗い。時刻は七時で、思いの外時間が経っていることに気付く。そうだ。時間というのは、いつだって早足に過ぎていく。それも我々が気付かぬうちに。さよ子が死んでから、もう四十年以上経っているのだ。
「怖かったのかもしれないな」 兄がぽつりと言った。車内も闇に沈んで、彼の表情はよく見えなかった。 「お前は怒るかもしれないが……、さよ子が死んだ時、予感の正体がわかった気がしたんだ……、いや、正直に言おう。ほっとしたんだ。俺は、もしかしたら、あの子のことを怖がっていたのかもしれない。あるいは憎んでいたのか。理由はわからないが……」
 私は、何も答えることができなかった。鉛を飲みこんだような重い衝撃だけが、腹の底にあった。
 車は再び緩やかに加速し。
 私は、真横を過ぎていく電柱を見送る。
 その街灯の白い光の下に。
 赤いスカートの女の子を見た気がした。
 彼女は、無邪気に微笑んで、細まった黒い瞳で私を見つめる。
 そして、きっと、電車を待っているのだろう。
 遠く、かつて一度だけ聞いた地鳴りが、どこかで聞こえた気がした。
 ◇
「死んだ人は電車に乗っている?」
 的を印した空き地の石塀に野球のボールを投げつけながら、私はさよ子に尋ねた。
 彼女はこくりと頷く。草むらに転がる土管の端に腰掛けて、私のピッチングを漫然と眺めていた。時刻は夕暮れ時で他に人影が無く、遊んでいるのは私達だけだった。あと三球投げたら帰ろうと私は決めた。
「空を飛んでいくの」 さよ子はぼんやりとした口振りで言った。 「夕方ぐらいが、よく走るんだよ」
 私は転がって戻ってきた球を受け止め、なんとなしに夕焼けの空を仰いだ。藍色に染まった空の彼方に一番星を見つけた。さよ子の言う電車というのは、あそこまで向かうのだろうかと考える。しかし、空飛ぶ電車とは、まるで宮沢賢治の銀河鉄道のようではないか。ちょうど学校の授業で読んだばかりだったから、私はまるきり教科書の挿絵を思い浮かべていた。言わずもがな、イメージは蒸気機関車である。
 さよ子も空を見上げていた。その姿勢のまま石膏のように動かない。私はちゃっちゃっとやる義務も必要もないピッチング練習を終え、彼女の隣に腰掛けた。手がじんじんする。草いきれがむっと鼻をついて、どこまでも夏だった。
「電車はどこに向かう?」 私は手の中でボールを転がしながら訊いた。
「遠い、遠い、どこかの国」 さよ子は平坦に答える。 「お父さんとお母さんが、そこにいるの。わたしもいつか電車に乗って行くのよ」
「俺も、そこに行くの?」 私は尋ねてみる。 「あの殺された犬も、電車に乗って行ったの?」
「そう」 さよ子は微笑んだ。笑っているくせに、少し哀しげな瞳だった。 「皆、乗って行くの」
 どうして、そんな哀しい目をしているのだろう。
 私が不思議に思うのとほとんど同時に、微笑んでいたさよ子の顔が崩れ、歪んだ目許から大粒の涙が流れ出した。
 なぜ彼女が突然泣きだしたのか理由はわからないし、身に覚えも無い。さよ子の泣き顔を見るのは彼女が初めて我が家に来た時のこと以来で、私はすっかり戸惑ってしまった。おろおろと、声も上げずに泣きじゃくるさよ子を眺めるばかりだった。
「皆ね、いつか、死んじゃうの」 さよ子は目許を指で擦り続けた。
「死んだら綺麗だって言ったじゃないか」 私は慰めにもならないことを言ってみた。
「綺麗だから、哀しいの。哀しいものは、綺麗なの」
「今は、哀しいの?」 当たり前だろ、泣いているんだから、と誰かが心の中で言った。
 彼女は小さく頷き、静かな嗚咽を漏らしながらいつまでも泣いた。日が完全に暮れて、街並みに明かりが灯るまで、ずっと。
 私は、さよ子を泣かせてしまったという罪悪感と、綺麗なもの達の為に涙を流す彼女を慈しむ心で、そっと彼女のおかっぱ頭を撫でてやった。太陽の温もりがまだ残っている、優しい感触だった。さよ子が泣きやむまでずっとそうしてやっていた。
 誰にも話していない、私だけの大切な思い出である。
 そして、その翌日にさよ子は階段から転げ落ちて、死んでしまったのである。
 彼女は、電車に乗って行ったのだろうか。
 私は葬儀の日、茫然と庭先に立ち尽くしながら、彼女の乗る電車を見つけようとして、ピーカン日和の空をいつまでも見上げていた。
 ◇
 途中まで書き上げた原稿を佐伯に読んでもらった。改善点の指摘などをメールで返してもらったのだが、概ね好感触のようだった。歳も考えずに絵文字や顔文字を多用して、期待の言葉が添えられていた。少々大袈裟な文面だが、ここまで褒めてもらえれば著者冥利に尽きるというものだ。私は気を良くしてブランデーを呑んだ。
 執筆を進めるにつれ、私を覆う感傷はより一層肥大していった。あの時代を、我々家族を、特にさよ子について、描き切れているかと問われれば疑問が残るが、それでも文字を打ち、私の中の原風景を紙面に映しだしていくうちに、私の心は回帰を強く望むようになった。懐古の情というのは抗い難く、どんなに甘い思い出もまるで癒えない傷を裂いていくかのような苦痛を伴った。もちろん、あの頃に戻って、そしてさよ子と再会することなどできるはずがない。だから私はこの物語を書いて、せめてその傷を塞ごうとしているのだろう。我ながら、初恋を知った乙女のようにおめでたい性格だ。
 ある日、ふと思い立って東京へと出かけた。命日はまだ先だったが、さよ子の墓参りに行きたくなったのだった。
 さよ子の墓は、当然であるがまだ残っている。某霊園の一角に、私達家族の墓と共に墓石が立っている。父によって彼女の両親の墓もこちらへ移された。あの頃は孤立していたかもしれないが、しかし、今はさよ子も独りではないのだ。こう考えるのは、やはりメランコリーに過ぎるだろうか。
 お盆の時期もまだなので、当然ながら霊園に人影はほとんどない。私はやや黒ずんださよ子の墓に水を振りかけ、丁寧に磨いてやった。花を供えて線香を上げ、しばらく黙祷した。
 さよ子、お前のこと、小説で書くよ。
 もしかしたら迷惑かもしれないけど、勘弁してくれな。
 黙祷を済ませて立ち去ろうとすると、いつの間にか住職が立っていて私を見つめていた。顔見知りの住職だった。毎年墓参りを終えると、世間話をするくらいの間柄である。少々真面目が過ぎるが、私はこの住職を割と好いていた。
「瀬川さんのお墓ですかな?」
「ええ」 私は頷く。 「ちょっと立ち寄りたくなって」
「ご本の方はいかがです?」 住職が尋ねる。彼は私の生業を知っているのだ。
「ええ、まぁ、そこそこです。今、昔のことを基にして新しく書いているんですよ」 私は頭を掻く。 「それで、さよ子の墓参りしたくなって」
「それはまた、さよ子さんもお喜びでしょうね」 住職は顔を綻ばせた。 「いいですねぇ、懐かしさに包まれたお話ということですか」
「そんな大層なものじゃないですけど、ええ、楽しんで書いています。やっぱり、なんだか懐かしくて」 私も微笑んだ。 「他のことは漠然としているんですけど、さよ子のことははっきり覚えているんです」
「それだけ大切な仲だったということでしょうね」
「そうですね」 私は深く頷いた。 「実際には、知らなかったことばかりなんですがね」
「思い出というのは美しいものです。たとえその時の事実がどうあれ、自分の中に残る記憶というのは、少しずつ醜さが濾過されて、最終的には澄んだ美しいものに変わっていくのです」 住職は眩しそうに空を仰いだ。 「だから、昔を思い出すのは楽しい。知らないことは存在せず、理想が出来上がる。それは、あるいは都合のいいことなのかもしれませんが……」
 私は意外な思いで住職を見つめた。彼ははっとして、照れたように剃髪された頭を撫でた。
「ははは、いや、すみません。意味もなく説教じみたことを言ってしまった。歳を取るともっともらしいことを言いたくなるものですね。もしかして、職業病かな」
「いえ……」 私も苦笑する。彼と私の年齢は近いのだ。 「面白いお話です。そういう見方もあるのですね」
「事実は一つです。そして、思い出は人の数だけ存在する」
 住職は観音様のように穏やかな表情で言った。
 清々しさすらあるその佇まいは、炎天の陽射しの下でもどこか涼やかだった。
 ◇
 執筆や宣伝の仕事の合間、私は頻繁に母の許を訪れるようになった。兄との予定が折り合わず、一人で来ることもしばしばあった。母の姿は日を追うごとにやつれ、口数も減っていったが、それでも時には私を叱り飛ばし、そして豪放に笑ってみせた。むしろ、救われる思いなのは私の方だった。母の寿命を、私は胸の内で虚しく数えていた。もう、二ヵ月を切っていた。
「最近、よく顔を見せるね」
「嬉しいだろ?」
「冗談じゃないよ、寂しくなんかないね、本当さ」 それでも母はまんざらでも無さそうに笑った。
 母は私の新作の経過を事あるごとに尋ねてきた。よほど楽しみなのだろう。それならば途中まででも持ってこようか、と提案したのだが、完成した状態で読みたいのだという我儘を返され、私は辟易しながらも、期待に応えるように急ピッチで文を進めていた。
 タイムリミットは近い。それが私を焦らせ、時に筆を鈍らせた。そうなると私は時間を見つけて、母の許を訪れ、そして昔話に華を咲かせるのだった。母の記憶力は恐ろしく、時には赤面してしまうような話も飛び出た。もちろん、さよ子の話も出た。やはりそれは掴みどころのない不思議に満ちているのだが、私にとってはそれが何よりも特別な響きを持った。
「隆介。お前、さよちゃんのことが好きだったんだろう?」
 母は何もかもお見通しだという、悪戯っぽい表情で言った。
 私はどういった反応を示せばよいのかわからず、ただただうろたえた。
「いや……、実際、どうだったのか、よく思い出せないんだ。恥ずかしがっているわけじゃなくて、本当にあれが初恋だったのかどうかわからないんだよ。元々、恋愛には疎い性質だし」
「今はどう思っているんだい?」
 母は浅黒く変色した骨張った手を、私の手に重ねて言った。他人の手のように乾いた感触だったが、しかし、心なしか温かかった。
「今は……、そうだな、何よりも特別な存在に思える。好きかどうかはわからないけど、でも、あいつが生き続けていれば、もしかしたら今、俺達の間には孫が生まれていたかもしれないな……、って、あぁ、何言ってるんだろ、俺」
 私は自分の寒い冗談に苦笑して頭を掻いた。五十も半ばを過ぎて、恰好がつかなすぎる。
 母の落ち窪んだ目に優しい光が浮かんだ。
「さよちゃんは、独りじゃなかったんだねぇ」
「そうさ、あいつは、普通の女の子だったんだよ。ちょっとだけ変わっているってだけで……」 私は尻切れた言葉を呑みこんで、母を見つめた。
 母は泣いていた。
 泣きながら微笑んでいた。
 目許から枯れた肌の頬に雫が伝って、病的に細まった顎先から滴り落ちる。
 それが幾筋も、幾筋も、続いた。
 母の涙を、私は久しぶりに見た。
「ど、どうしたんだ、お袋」 私は慌ててハンカチを渡した。
「ごめんね」 母は割れた声で謝った。 「お前が好きだった子を守れなくて、ごめんね……、ロクでもない母親だった……、今日まで、それだけが心残りだったんだよ、あたしは。ごめんね……」
 私は胸につまる感情を覚え、思わず息を止めた。
 静かで温かい熱が胸を打ち。
 私の目にも、久しぶりに涙が浮かんだ。
 久しぶりすぎて、視界の霞みがいったい何であるのか一瞬わからないほどだった。
「何言ってんだよ、お袋。お袋は、いつも正しかったよ」 私の声も震えていた。 「さよ子が死んだのは、お袋のせいじゃない。事故だったんだ。謝ることなんてないよ」
 母は何度も頷き、それでも消え入りそうな声で謝罪を繰り返した。私は枯木のような母の手を握ったまま、ずっとその言葉に耳を傾け続けた。愚息である私にできることなどそれくらいしかなかった。
 否、まだある。
 私には執筆という方法がある。
 あの作品を、さよ子の物語を、一刻も早く書き上げて母に捧げようと心に固く誓った。
 ◇
 物語は冗長的な様相を成していた。あんなこともあった、こんなこともあった、と記憶を反芻する度に宝物を見つけて、それをバッグに詰め込んでいるようなものだ。脈絡性が失われかけているが、それでも私は書いた。現実から逃げるかのように。
 文章世界のさよ子は相変わらずミステリアスな雰囲気のままで、兄や母、それに姉に電話でそれとなく尋ねた印象を付加しても私の記憶の姿とほとんど変わらなかった。もはや、これでもいいと思う。彼女は間違いなくあの時代に存在し、そして私達と共にいた。それだけは嘘ではない。これでいいのだ。
 むしろ、さよ子を追うにあたって、垣間見えてきたのは彼女の姿そのものよりも、彼女を取り巻く我々の目線であった。兄は彼女を恐れ、母は憐憫し、姉はただ可愛い妹が増えたとしか思っていなかった。そして私は、一生引き摺るような特別な感情を抱いた。茫漠とした輪郭の彼女の周囲にはいつでも様々な思念があったのだ。
 万華鏡。
 私がその言葉を思いついたのは、一服がてら酒を呑んでいた時のことである。
 筒を回せば模様の移り変わるあの玩具は、確かにさよ子の印象にぴったりな気がした。ただ模様を変えるのはさよ子ではなく、彼女の周囲にいた我々だ。私はこのアイデアを気に入り、ずっと思い悩んでいたタイトルに採用することを決めた。きっと佐伯も、そして母も気に入るだろう。
 そして今、物語は大詰めを迎えている。さよ子が死んだあの夏の日に向かって、着々と進んでいるのだった。
 再びパソコンに向かって文字を打っていると、携帯電話が震動した。兄からの電話だった。深夜だというのに何を考えているのだろう。没頭していた私は煩わしく思いながらも電話に出て、そして次にはパソコンの電源も切らずに家を飛び出した。酒気帯びではあったが、私は車に飛び乗りセルを回した。酔いはとっくに醒めている。
 母が危篤だという報せだった。もう既に兄も姉も向かっているらしい。私は舌打ちしながら、まどろっこしい赤信号を睨んだ。
 ◇
 病院に辿り着いて、我々は目を覚まさない母に必死に呼びかけた。兄と姉が母の手を握り、私は医師に止められながらも激しく肩を揺すった。半狂乱の様相だった。姉の息子や兄の妻が立ち尽くしてそれを見守っていた。
 我々の努力が功を奏したのかどうかはわからない。きっと、母の強い生命力に依るものだろう。平坦な線を映していた心電図が振動を取り戻した。諦めかけていた医師が驚いて脈を計り、再び延命措置を取った。我々は腰を抜かして壁際にもたれ、ただその作業を見守っていた。
 母は、奇跡的に一命を取り留めた。目こそ覚まさなかったが、再び心臓は正常に鼓動を始めていた。
「いや、驚きました。強いお人です」 医師は緊迫した表情を緩め、息をついた。
 我々はささやかな喝采を上げ、再び母の手を握った。意識が無いはずの母は、そっと私の手を握り返した。その手に雫が落ちる。私の涙だった。
「抗がん剤の摂取を拒み続けていたらしい」 兄がそっと私に耳打ちした。
 私は驚いて彼を見返す。
「もうずっとな。それでも、ここまで踏ん張れるんだ」
「お袋らしいよ」 私は涙を拭って笑った。 「強すぎるって」
 しかし、もういつであってもおかしくない。医師にそう告げられた。我々も覚悟はしていた。一同はほとんど言葉も無く、頷き合った。
 姉達が一旦家に戻り、兄も妻を車で送り出した。私は医師に頼み込んで、ずっと母の病室に居座り続けた。時々小声で呼び掛けながら手を握る。そっと握り返してくれるのが何よりも救いだった。小学校に上がるずっと前にも、母の手の温もりに安心していた記憶がある。母の手は大きく、優しく、温かかった。
 そうして、母が目覚めた。私がぼんやり俯いていると、いつの間にか瞼を薄く開いて、こちらを見ていたのだ。
「お袋!」 私は歓喜の声を上げて詰め寄った。 「大丈夫か? 喋れるか?」
「なんとかね」
 母はにやりと笑った。まるで昼寝から目覚めたかのようだ。私は思わず息を漏らしてしまった。
 私が止めるのも聞かず、母は「よいしょ」と半身を起こした。そんな体力があるのも驚異的だ。鼻や腕に繋がったチューブが煩わしいらしく、心電図を見ながら「大袈裟だね」と呑気なことを言った。ほとほと母には敵わない。
「兄ちゃんや姉ちゃんはいないのかい? 声が聞こえたが」
「またすぐに戻って来るよ。皆、お袋が危篤だって聞いてすっ飛んできたんだ。危なかったんだぜ」 私は矢継ぎ早に言葉を繋いでいく。 「大丈夫か? どこか痛くないか? 水、飲むか?」
「うるさいねぇ、大丈夫だよ。むしろ、今、身体が軽いくらいさ。散歩くらいならできそうだよ」
「そんなアホな」
「ずいぶん、長い夢を見たよ」 母は微笑んだ。 「お父ちゃんがいて、さよちゃんもいて、あんたらは洟垂れ小僧だった。昔の夢だね。あんたと話している内にすっかり思い出すようになったよ」
 私はもう安堵のあまり椅子に倒れかかっていた。膝が小さく震えていた。気を抜くとまた涙が滲んできそうだった。
「兄ちゃんと姉ちゃんは、本当にいないのかい?」 母が再度尋ねた。
「すぐに来るよ」
 電話で彼らを呼び戻したいのを抑え、私は慎重に母をベッドに寝かしつけた。母は素直に枕へ頭を乗せ、肩まで毛布を引き上げた。もう笑っていなかった。横になったまま、真剣な目で私を見つめていた。昔の、威勢のいい母の目付きだった。
 私が何か言うよりも先に、母は口を開く。
「じゃあ、今のうちに話しとかないとね」
 私は呆ける。 「何を?」
「さよちゃんのことさ。小説にするんだろ」
「いいよ、今は。無理するとまた体に響く」
「あんたにだけは、話さないといけないんだ。口の利けるうちにね。もうすぐ自分が死ぬことくらいわかってるんだよ」
「よせよ! そんな言い方!」 私は途端に心細くなった。 「お袋らしくもない」
「大事なことなんだよ」
 母の口調が険しくなって、私は口を噤んだ。また例のトラウマである。母の怒りには私はてんで弱い。
 母はしばらく黙し、私は言葉を待った。
 重力のような静寂だった。夜の病院はこんなにも静かだったのか。きっと、死んだ後もこんなしじまに包まれるのかもしれない。そう、電車に乗って行った先は、ずっと静かな場所なのかもしれない。
 母の目に涙が浮かんでいた。私がそれを見つけるのと同時に、口を開いた。
「あたしがね、殺したんだ」
 私は束の間、空白を味わった。
「誰を?」 私は空気の塊を吐く。
「さよちゃんを」 母は鼻を啜った。 「あたしが、殺したんだよ」
 ◇
 父の妹夫妻が火事で亡くなり、そしてさよ子が我が家にやってきてから二年が経っていた。やってくる夏の熱波は厳しく、アブラゼミの狂騒も変わらない。その日はとても蒸し暑かった。
 母は二階の物干し台で洗濯物を広げていた。一階では兄が勉強に齧りつき、姉は運動部の練習へ行き、私は夏休みを謳歌して近所の悪ガキ達と野球に興じていた。たまには誰か手伝ってくれないものかねぇ、と独りで愚痴を零していると、さよ子がひょっこり現れて手伝ってくれた。母は機嫌を良くして家事に勤しんだ。
 さよ子は物も言わず母の指示通りに布団を竿に並べ、乾いた洗濯物を丁寧に取り込んだ。母は満足してそれを見守っていたが、ふと手を休めて、きびきびと動くさよ子に声を掛けた。
「ねぇ、さよちゃん。この前、どうしてあんなこと言ったの?」
 母の胸にはずっと、金物屋を見つめるさよ子の姿があった。それを反芻するだけで言い知れぬ悪寒が背に走ったのだ。
 さよ子は無表情に母を見つめ返し、首を傾げた。 「なに?」
「ほ、ほら……、あの、火が綺麗って」 視線に射抜かれて、母はしどろもどろになりながら言った。
 さよ子はあぁと頷き、微笑んだ。
「だって、綺麗なんだよ」
「で、でも」 母は思いとは裏腹に口を開いた。 「さよちゃんのお家は火事で無くなっちゃったじゃない。お父さんとお母さんも……、なのに、どうしてそう思える?」
 言いながら母は激しく後悔した。さよ子は、まだ心に傷を抱えているに違いないのだ。だから不思議な言動が多い。ようやく笑いかけてくれるようになったのに、なぜ自らそれを壊すようなことを口走っているのだろうか。
 さよ子は何も答えずに微笑んだまま、母を見つめていた。黒い二つの瞳が、夜の暗闇を凝縮したかのように深かった。見つめていると吸い込まれてしまいそうなほどだ。
 不思議な地鳴りが聞こえた気がした。 母は意識の端で、低く続くその音を聞いた。
 あれはなんだろう?
 しかし、さよ子の瞳から目を離すことはできなかった。
 謝ろう。
 母がそう決めて、口を開きかけた時だった。
「おばさん、あたしのこと、怖い?」
 さよ子は笑っていた。
「え?」 母は戸惑い、聞き返す。
「皆、あたしのこと怖がっているの。お父さんとお母さんもそうだった。笑っていたけど、あたしのこと心から好きになってくれなかった。でも、隆介は別。だから、隆介のこと好き。隆介は電車に乗せたくないし、燃やしたくない」
「な、何言っているの?」
「ねぇ、おばさん」
 さよ子はふんわりと微笑んだまま。
 母は息を呑んで、後ずさった。
「あたしが火をつけたって言ったら、おばさん、信じる?」
 頭を殴られたような衝撃を、母は感じた。唇も喉も引き攣って声を出せなかった。
 さよ子は悪戯を済ませたかのようにくすくす息を漏らすと、洗濯物を畳み終えて「終わった」と言った。もう微笑んではおらず、いつもの神妙な、子供には似つかわしくない無表情に戻っていた。
「麦茶取ってくる」 さよ子はそう言って物干し台から下り、階段へ向かう。
 母の頭は、真っ白だった。
 ただ、不安と焦燥だけが激しく渦を巻き。
 自然と足が、さよ子の後を追った。
 恐ろしさに駆り立てられ。
 今、やらなければならない。
 そんな悪魔のような囁きが、母の耳元にあった。
 衝動。
 加速。
 使命。
 危機。
 怒り。
 恐れ。
 様々なものを感じながら。
 母は、振り向きかけたさよ子の背を、両手で押した。
 放られた人形のように。
 さよ子は、階段を転げ落ちた。
 彼女の頭部は何度も段差にぶつかり。
 鈍い音が連続し。
 空気を伝わる衝撃が続いた。
 ゴム毬のように弾んださよ子は、次の瞬間には一階の床に突っ伏していた。
 首は不自然に折れ曲がり。
 血の海が広がって。
 スカートから覗いている白く幼い太腿。
 ブラウスも血に染まり。
 赤。
 赤。
 赤。
 それが、母の見たさよ子の最期だった。
 そして、その光景が未だに目の奥に焼き付いている。
 不自然な沈黙の中、アブラゼミの狂騒がどこかで響いていた。
 ◇
「もちろん、そんなつもりはなかったよ」 母は嗚咽を漏らしながら言った。 「怖いなんてこれっぽっちも考えてなかった。あんなに可愛らしい子を、殺したいなんて思うはずがない。でも、なんでだろう、あの時あたしは、どうしてもあの子を殺さなきゃいけない気がしたのさ。でなきゃ、あたし達が火に焼かれるって思ってしまったんだよ。子供の空想を真に受けて……、ごめんね、ごめんね。許してもらえるなんて思っちゃいないよ。あの子にも、あんたにも」
 母は悔恨の口調でひたすら弁解を続け、何度も何度も謝罪を口にした。
 私は呆然と、話を聞いていた。瞬きを繰り返し、鉛のような空気を呑み続ける。立ち上がろうとしたが、体のどこにも力が入らない。不思議と何の感情も無く、ただ虚無と脱力だけが私のうちにあった。
 そんな……、馬鹿な……。
 私は小刻みに震える手を額に当てがい、呼吸を繰り返した。足許から床が崩れていくような錯覚があった。深い闇の虚空に投げ出され、漂っているような感覚。思考が現れては消えて、取り留めのない情景ばかりが錯綜する。
 事実は一つです。
 ふと、住職の言葉を思い出した。
 ――そして、思い出は人の数だけ存在する。
「罰が当たったんだねぇ、今更さよちゃんの夢を見るなんて」 母は涙で濡れた目で私を見つめた。 「ごめんね、ごめんね。かあちゃん、勝手だよねぇ。今頃謝ったって、ずるいだけだよねぇ」
「いや……」 私はほとんど喘ぐように、なんとかその言葉を捻り出した。 「話してくれて……、ありがとう……」
 母はその後も何か呟いていたが、私の耳にはほとんど入りこんでこなかった。私は語られた全てを受け入れることができず、ただ動揺し、一杯のブランデーを、いや、水でもよかったが、とにかく何かを飲みたい気分になっていた。眩暈がする。鼓動は疾駆していた。なのに、体は鈍い。
 そうして立ち上がってみると、空調の効いた病室であるにも関わらず、私の肌の上にはあの夏の粘っこい熱気が蘇ってくるかのようだった。
 ◇
 兄と姉が戻って来た。二人とも私の様子に気付く素振りも無く、母が目を覚ましたことを心から喜んだ。私も恐らく笑っていたと思う。意識が朦朧としていたから、よく覚えていない。
 兄と姉を前にした母はもうすっかり平静を取り戻したかのようだった。それどころか生死の境を彷徨ったばかりなのにも関わらず、憑きものが落ちたかのように健康的な表情をしていた。二人についてきた医師がまたもや唖然とした。末期がんで、いよいよかと思われた患者が身を起こして笑っていたのだから当然だろう。
「なぁに、まだまだ死にゃしないよ」 母は莞爾と笑った。
 がんも立つ瀬が無くなる言葉である。
 兄と姉は朝まで付き添うと主張したが、母は断固として拒否した。もはや体に刺さるチューブに違和感があるほど、母は健康そのものに思えた。
「それより駿介、隆介を家まで送ってやんな。疲れているんだ」
「いや……、いい。車がある」 私は俯いて首を振った。
「お前、酒呑んでいるだろう。今、検問が厳しいんだぞ」 兄は厳しい口調で言った。 「まぁ、それどころじゃなかったんだろうが」
 そうだ、それどころじゃないのだ。私は空気だけ吐いて言った。
「駿介、運転してやんな」 母が指示を出す。
 兄は頷き、私の背を押して暗い廊下に出た。私は素直に兄に従って歩いた。
 外の大気は生温い。不思議と暑さが和らいでいるようだったが、それはもしかしたら錯覚だったかもしれない。私の体温だけが低くなっている可能性もある。
 駐車場に辿り着くまでほとんど会話は無かったが、私の車のドアに手を掛けた時、兄はふと口を開いた。
「どうした?」
 照明は遠く、辺りは闇夜に包まれている。ぽっかり浮かんだ満月が恐ろしく綺麗で、わずかに兄の顔を薄闇に浮かばせていた。固い表情だった。
「何が」 私はとぼけた。
 兄はふっと溜息をついた。
「お前は顔に出る。動きもぎくしゃくしてわかりやすい。この暗さでもわかるほどだぞ」
「ちょっと、歩かないか」
 兄は黙って頷き、私と共に暗い駐車場を横切った。私は歩きながら煙草に火をつける。煙を吐いても、胸にかかるどろどろしい重みは解消されなかった。
 病院脇にある緑道へと向かった。こちらには照明が疎らに立ち、幾分か明るい。人気は無いが、どことなく現実感がした。私も兄も言葉は無い。互いに互いを探り合っているような沈黙だった。気付くと私は汗ばんでいた。冷たい汗だった。摂取していたアルコールが抜けてきたのかもしれない。
 手頃なベンチを見つけたので、我々はそこに腰掛けた。左手に立つ街灯に蛾が旋回していた。私は短くなった吸殻を落とし、踵で踏みつける。
「どうしたんだ」 兄が再度尋ねた。
「兄貴は、さよ子が死んだ日、何を見たんだ?」
 私は彼を見ず、ただ正面にある名前も知らぬ木を見上げながら言った。
 兄が息を呑む気配。
 沈黙。
 何かが壊れて。
 何かをコントロールしようとする。
 そんな意思だけが生きる、無言の時間。
 私は全く脈絡も無く、昔別れた女性達のことを思い出した。彼女達は皆一様に私を睨み、そして溜息を吐く。それは諦めの表情。そう、もしかしたら私も、そんな表情を浮かべているのかもしれないと感じたのだ。
「母さんが話したのか?」 兄は慎重な口調で訊く。
「ああ」と答えた私の声は硬かった。
 兄は再び溜息を吐いた。私はもう一本、煙草に火をつける。
 そうして、兄はあの日の出来事について話し始めた。
 ◇
 兄が勉強に一段落つけ、冷たい麦茶を飲もうと部屋から出た途端、階段からばたばたと物凄い音が聞こえた。誰か落ちたのだ、とすぐに気付いた。洗濯物を抱えた母が足を取られたのだと思ったらしい。
 駆けつけた兄の目に真っ先に映り込んだのは、首を不自然な方向に曲げて倒れているさよ子の姿だった。額が割れて、赤い血が溢れていた。ぴくりとも動かなかった。もう駄目だ、と兄は直感していた。
 階段の上に目を向けて、兄は戦慄した。
 両手を突き出してわななく母の姿があったからだ。血色の良い母の顔は蒼褪めていて、茫洋とした目は動かないさよ子に向けられていた。誰か他人の女ではないかと見間違えるほど、母は無防備に、憔悴した姿でそこにいた。
 混乱と恐怖が津波のように押し寄せてきたが、それでも腰を抜かさず、毅然としているのが兄の偉い所だ。
 兄は、もはや希望の見出せないさよ子よりも、母の許に駆け寄った。羽交い絞めにして階段から引き離した。呼び掛けてもほとんど反応が無く、頬を軽く打つとようやく意識を取り戻した。熱病から覚めたような眼差しだった。
「さよちゃんが、さよちゃんが」
 意識を取り戻した母は取り乱し、兄が初めて見るほどうろたえていた。うわ言のようにさよ子の名前を呼び続け、涙を流していた。
「わかってる、わかってる」 兄は震える母の両肩をしっかり掴んだ。
「さ、さよちゃん、まだ、生きているかもしれない」 母は力無く言った。 「救急車……、救急車!」
 兄は頷き、もう一度母の目を見た。
「呼ぶよ。近所の人達も呼んでくる。ここでじっとしていて」 兄もほとんど取り乱していたが、声はしっかりとしていた。 「何か訊かれても答えちゃ駄目だぞ」
 そうして兄は、焦りのあまり足をもつれさせないよう慎重に階段を下りた。電話は一階の居間にある。
 さよ子の血が床に溜まり始めていた。
 その傍を通り過ぎる時、兄はできるだけそちらを見ないようにしていたのだが、まるで吸い寄せられるかのように一瞬、ちらりとそちらを見てしまった。
 兄はぞっとした。
 首の折れたさよ子は、薄く笑って死んでいたのだ。不自然な角度で、その笑みが、兄に向いていた。
 気の遠くなるような思いの中、電話の受話器を掴んだ瞬間、兄は不思議な地鳴りを耳にした。空耳だったのかもしれない。でも、確かにその音を聞いた。あれが何だったのか、未だにわからないのだという。
 それが、兄の目にしたさよ子の最期だった。
 ◇
 全ての話を聞き終え、私は深い溜息と共に煙を吐いた。街灯の下の我々を包む闇が一層濃くなったような気がする。だが、それは間違いなく錯覚だ。
 隣の兄は腕を組み、ベンチの背に深くもたれていた。話している間中、私の方を一度も見なかった。
「姉貴は知っているのか」 私は尋ねた。
「いや」と兄は首を振る。 「俺と母さんだけの秘密だ。父さんも知らなかったよ」
 私は母も兄も責める気が起こらなかった。いや、責めてもどうしようも無いのだ。さよ子は死に、我々は四十年以上を生きてきた。その物分かりの良さが、つまり歳を重ねた人間の武器なのかもしれなかった。
 それでも、訊かずにはいられない。
「なぜ、話してくれなかった」 私は脱力と共にその質問を吐き出す。
「話せるもんか」 兄は答えた。 「警察にだって話しちゃいない。墓場まで持って行くつもりだった」
「俺はもう子供じゃない」 弟の私は、兄を睨む。 「話してくれてもよかったじゃないか」
「さよ子のことを一番引き摺っていたのは、お前だったからな」
 兄は私を見つめた。静かな眼差しだった。
 私は目を逸らした。
「お前は覚えちゃいないかもしれないが、お前、ずっと泣いていたんだぞ。ばあちゃんの時も、父さんの時も泣かなかった癖にな。お前が人の死に泣いたのは、後にも先にもさよ子の時だけだった」 兄は無力な笑みを浮かべた。 「好きだったんだろう? さよ子のことが」
 私は思わず苦笑を漏らした。額に手を当てる。
「お見通しだったわけか」
「阿呆でも気付く。兄をなめるな」
「さすが兄貴だよ」 私は皮肉を込めずに、そう言った。
 兄も苦笑を漏らした。
 蛾が照明にぶつかる音だけが、一定のリズムを持って響いている。他は何もかも静寂だった。
「殴ってもいいんだぞ」 兄がぽつりと言う。
 私は首を振った。
「もう少し若かったら、そうしていたよ」
 ◇
 私は兄に自宅まで送ってもらった。そのまま、タクシーを掴まえて病院へと戻るらしい。朝まで兄と姉は残るつもりのようだ。それから先のことは、私を交えて三人で決めるとのことだった。
 私は兄に礼を言って別れた。部屋に戻り、作業途中だったパソコンの電源を切り、シャワーも浴びずに寝床へ潜り込んだ。とにかく身体が睡眠を求めていた。どうせ眠れないだろうと思っていたが、目を閉じると、あっという間に私の意識は身体を離れていった。
 朝陽が昇るまで、私は久しぶりに夢を見ていた。
 夢の中の私は見覚えのある草むらに立ち尽くし、誰かがやって来るのを待っている。誰かとは、もちろんさよ子のことだ。草むらは、今はもう存在していない。確かビルの建設で潰されてしまったはずだった。
 さよ子が草原に現れると、私は胸に鋭い痛みを感じた。自分の身体を見下ろして愕然とする。私は年老いた姿のままでそこにいるのだ。その事実は強烈な違和感を他でもない私自身に突き付けていた。私は膝をつき、絶え間ない絶望感の中で蹲る。覚悟していたはずなのにやはり傷は痛かった。
 幼い姿のさよ子はそんな私をじっと見つめ、緩く、ほんの僅かに微笑んでいた。私は涙を堪えながら彼女を見上げる。空の青を背に立つさよ子の姿は、何物にも代え難く美しかった。
 彼女は、かつての校庭で無残な犬の死体にやっていたように、私を腕に抱えた。
 そして、真っ青な空を見上げる。
 表情はあの時のまま。
 瞳には何の色もない。
 だが。
 私は間近でさよ子の顔を眺め、悲哀を感じていた。
 彼女は、空に向かって慟哭しているようにも見えた。
 やがて、地鳴りが聞こえる。
 線路も無い空き地の草むらに変哲のない路面電車がある。陽射しで窓が光り、内部の様子は見えなかったが、乗客が何人かいるようだった。もしかしたら、そちらには知った顔がいるかもしれなかった。
 行くのか。
 私はさよ子に尋ねた。
 彼女はこくりと頷く。
 私から腕を離し。
 スカートの裾を揺らしながら、そちらへと歩いていく。
 私は追いかけようとしたが、足は竦んだように動かなかった。ただ目線だけがさよ子の後姿を追った。
 電車は、彼女の為に停まっているのだ。私はそれを知っていた。
 彼女は電車の前に立ち、最後に私に振り向く。
 小さく手を振った。
 私は両膝をつきながら、ただ手を振り返すだけ。
 笑おうかとも思ったが、顔の筋肉は動かなかった。
 電車は幼いさよ子を乗せ、扉を閉める。ゆっくりと動き出し、だんだん加速したかと思うと、車両がふわりと浮かんだ。そのまま重力に反撥して、風船のように上昇していく。広大な空の中を二両編成の電車が駆け抜けた。
 私はその光景を、だんだんと小さくなっていく電車の影を、いつまでも見送っていた。
 もう、さよ子はいない。
 彼女は行ってしまった。
 そう考えると、私の鼻はつんと痺れるかのようだった。
 遥か彼方に電車を呑みこんだ空の青が目に沁みて、涙が浮かんだ。
 泣いてばかりじゃないか。
 私は自分を笑い。
 そして次には、霞んだ視界で寝室の天井を見上げていた。
 ばいばい、さよ子。
 私は無意識にそう呟いていた。
 ◇
 私は書き上げた新作で、久方ぶりに物書きとしての自信を取り戻した。佐伯に渡した完成品はすぐさま編集長の目に通され、出版の運びとなった。今までの作風と比べるとやや地味に映えるだろうが、手に取った読者には生き生きと文字を連ねた私の気概が窺い知れるに違いない。こんなに楽しんで物語を書き上げたのは久しぶりのことだったからだ。
 さよ子について嘘偽りなく書いたといえば、それが嘘になる。なぜなら物語の中のさよ子は階段から転げ落ちず、とある事情で違う親戚を頼って我々と別れてしまうという結末を辿ったからだ。
 私は、さよ子を二度も殺したくはなかった。せめて私の作り上げた空想世界では、彼女には生き続けて欲しかったのだ。もちろん、その世界では母も兄もさよ子を慈しんでいる。けして恐れはしていない。時には衝突し合うが、それでも一つの家族として、かけがえのない家族として彼らは笑い合って生きている。平和な時代に生きる、平和な一家の物語。懐かしい記憶によって語り出される物語だった。
 ただ、母がこの本を読むのはついに叶わなかった。
 私が自宅で結末を書き終えた日の夜、母は息を引き取ったのである。私は出版社やその他の関係先を回っていて、死に目にも立ち会えなかった。息を切らせて病院に着いた時、母の身体は安置所にあり、顔には白い布が掛けられていた。私は兄に支えられながら、呆然とそれを眺めるばかりだった。
 私の作品が、母の強靭な生命にとどめを刺したのではないか。そう思えて仕方がなかった。だが、きっと母は首を振るだろう。そして憎まれ口を叩くに違いない。それが容易に想像できて、私は涙を浮かべながらも笑みを漏らした。
 ◇
 火葬場からやや離れた所に小高い丘があり、私はそこから母を焼く炎の煙を眺めていた。他に人影は無く、私一人だった。兄と姉はきっと私を探していることだろう。
 夏は終息を見せ始め、暑気にも幾分か柔みが生まれていた。風は無く、母の煙は真っ直ぐに雲の無い青空へと立ち昇っていた。その細い筋はどこまでも続いている。
 自分を責めて生きるのは辛かったろ、お袋。
 私は呟いた。
 もう大丈夫だから。
 成仏してくれよ。
 結局、謎は謎のままで葬られた印象がある。さよ子が本当に実家に火を放ったのか、その理由は何だったのか、なぜ母があの日彼女の背を押してしまうことになったのか。もはやわからないことばかりだ。事実は一つであり、そしてそれは永久に陽に当たることがない。ただそこにあった事実の影が、記憶として我々のうちに生き続けるのみである。
 母を包む火葬炉の炎は綺麗だろうかと、私は考えた。父の時はどうであったか。祖母の時は? さよ子もあの炎に包まれたのだろうか。もはや覚えてはいないが、しかし、きっとそうだったのだろうと思った。いつか私も、兄も、姉も、皆あの炎に抱かれて煙となるのだ。
 煙草に火をつけて煙を眺めていると、兄がやって来た。心なしか晴れやかな表情をしていた。
「まったくお前ってやつは、どこにいるかと思えば」 兄は昔と同じように私を叱責する。
「お疲れ」と私は呑気に労った。 「ここからだと、お袋の煙がよく見える」
「もっと設備がしっかりしたところなら煙も無かったんだが」
「気にしないさ、お袋は」 私は微笑んだ。
「そうだな」と兄は頷き、そして驚いたことに私に煙草を一本ねだった。
「兄貴、吸うのか」
「昔、隠れてこっそり吸っていた」 兄は悪戯っぽく笑った。 「そうでもないとやっていけなかったんだ」
「だろうな」 私も笑った。
「今日ぐらい、いいだろう」
 兄は煙草を銜え、火をつけた。何度か噎せたが、まっすぐ立って煙草を吸う兄の姿はなんだかとても様になっていた。私は携帯灰皿を差し出しながらその様子を眺めた。
「そんな急いで吸うなよ。死ぬぞ」
「死ぬか馬鹿」 兄は顔を青くして、しかし歳に似合わぬ強がりを見せて、まだ長い煙草を灰皿に捨てた。 「そら、行くぞ」
「ああ」と私は頷いて歩き出した兄についていった。
 私はさよ子を思い出し、母を思い出し、今の一歩一歩を踏み締めていく。これからもそうやって生きていくのだろう。予感がある。もしかしたら、何も知らない方が幸せだったのかもしれない。だが、きっと、全ては美しく変貌していくだろう。だって、それも大切な思い出の一つなのだから。
 ふと、あの懐かしい、地鳴りが聞こえた気がした。
 それは低く、どこまでも途切れなく続く。
 私は丘の斜面で足を止めて辺りを見回した。
 もしかしたら、大型トラックが近くを走ったのかもしれない。あるいは地震か。しかし、近くに道路は無かったし、地面も揺れていなかった。
 目を戻すと兄もきょろきょろと辺りを眺めまわしていた。そして、私の方へ振り返る。
「聞こえたか?」
「ああ」
 私は笑いを堪えながら、沁みるほど青い空を仰ぐ。
 そこに走るあの影を探したが、やはりそれはどこにも見当たらない。
 でも。
 私は知っている。
 そう。
 あの音は、きっと。
「電車かもしれない」

後書き

未設定


作者 まっしぶ
投稿日:2013/01/12 19:27:33
更新日:2013/01/12 19:31:22
『電車かもしれない』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
HP『カクヨム

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作品ID:521
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