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作品ID:559
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約40836文字 読了時間約21分 原稿用紙約52枚
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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /
セルフ
作品紹介
自分らしくっていうのが、本当は、一番難しいんだよね。
※またまた過去作です。すいません。これは最近書きました。
実験作のつもりで気軽に書いたのですが、気に入っています。近所の野良猫を見ていたら思いついた感じです。
よかったらどうぞ!
※またまた過去作です。すいません。これは最近書きました。
実験作のつもりで気軽に書いたのですが、気に入っています。近所の野良猫を見ていたら思いついた感じです。
よかったらどうぞ!
昔、友達が書いた小説を無理やり読まされた時、冒頭の部分の出来がとても良くてびっくりしたことがある。主人公が目覚めたら一匹の毒虫になっていたっていう書き出し。淡々としていて、でもその非現実的な事象の描写がどこまでもリアルな質感で、その対比がとてもクールだった。読み所といったらその部分だけで、あとはだらだらとわけわかんない展開ばっかり続いていたので、たぶん冒頭は何かの本のパクリだったんだと思う。なんせその友達ときたら、ギターに嵌っていた時期に『ノルウェーの林』とかいってビートルズそのまんまの自作曲を披露していた奴なんだから。笑っちゃうよね。どうせ捻るんなら原型留めないくらい捻れっての。
いや、そんな話はどうでもいいのだ。
問題は過去にあるのではなく現在、友達ではなくボクに起こっているわけ。それも極めて重大で、さっきの小説みたいにぶっ飛んだ出来事。はっきりわかっているのは、昨日寝る前までボクのお尻には何も異常がなかったはずだよねってこと。仰向けで寝るから、異物があればベッドのクッションの具合でわかりそうなものだ。
それが、今朝はあるはずもない異物感で目が覚めた。
女として無難に十八年間生きてきたつもりけど、ここにきて新しい生理現象が始まったのかなって寝ぼけた頭で考えた。女の体って不思議だなぁ、人体の神秘だなぁってさ。
いやいや、そんなはずない、そんなはずない。
人間のお尻から尻尾が生えるなんて聞いたことがない。
でも、いくら聞いたことがないって頭を振っても、ボクのお尻からは確かに尻尾が生えていた。灰色の体毛で覆われた尻尾だ。それがこんもりとした柔らかい感触でお尻にあって、ぎょっと飛び起きたのだ。
なんだろ、これ。
姿見へ振り返りながら観察した。
三十センチ、いや、もっとあるかな。ふさふさした毛糸の束みたいなのが、お尻の……、詳しい描写は恥ずかしいから省くけど、お尻と腰のちょうど中間くらいから生えている。立ち上がってみると、ぶらぁんとやる気もプライドも無さそうに垂れ下がっていた。試しに引っ張ってみたけど、接着剤とかで繋がっている感じではない。もっと強く引っ張ると、神経の根っこを引っ張るみたいにヒリヒリ痛んだ。これがめちゃくちゃ痛くて、この尻尾はボクの体の一部なんだって悟るのに充分な痛さだった。
引き千切るのは諦め、昨夜に何をしていたかを必死に思い出す。お尻から尻尾が生えてくるようなことをしたかなぁ? 何をどうすれば尻尾が生えてくるのか激しく疑問に思ったけど、それはとりあえず棚上げにしておく。
別に変わったことはしていない。今日と同じくらいの時間に起きて、大学に行って、その後はバイトに行って、それから森崎先輩の家でお酒を呑んだ。まぁ、いつもと変わらない生活。ここ最近のボクの日常。そんな連続した退屈な日々の中に、尻尾が生えてくる要因なんて見当たらない。
独りで考えていても埒が明かないし、じわじわと不安も込み上げてきたので、ボクはトースト一枚だけ食べてさっさとアパートを出た。大学に行く前に森崎先輩のアパートを訪ねるつもりだった。心当たりってほどでもないけど、尻尾が生える原因っていったら先輩の家しか思い当たらなかったから。
午前中だけど、夏の陽射しはもうすっかり強くて、今日も一日暑そうだった。アパートに隣接した雑木林からは蝉の音が狂った感じで鳴っている。近所のお婆さんが今日も日傘を差して散歩していて、アパートの階段を降りるボクに微笑んで会釈した。ボクも反射的に会釈を返す。
いつもの日常の風景。
だけど、ボクはなんだか違う世界に迷い込んでしまった迷い猫のような気持ちだった。
◇
森崎岬先輩は高校時代の女子バレー部の先輩で、高校を卒業してからも何かと二人で会ったり、遊んだり、お酒を呑んだりしてつるんでいた。豪放な性格の人で、なんだかウマが合うのだ。今のとこ、ボクの一番のお友達。大学生ではなくてフリーターをやっている。ボクが通っている大学に入学したのだけど、一年の時に行かなくなって辞めちゃったみたい。どうでもいいけど、モリサキミサキってなんか語呂が良いよね。夏空に森崎岬尋ねけり。お粗末でした。
森崎先輩は栗色に染めた髪をぼさぼさに跳ね散らかして、ミイラみたいな顔でボクを出迎えた。寝不足か、二日酔いか。たぶん両方だろう。
「なんだ、カノンか」先輩は目を擦って言う。
申し遅れたけど、カノンっていうのがボクの名前。華音と書いてカノンって読む。流行りのキラキラネームみたいだけど、ちゃんとパソコンとかスマホの漢字変換で出てくるもんね。
「大学に行く前に寄ってみたんですけど……、寝てました?」
「うん」先輩は部屋の扉を開けて立ったまま眠ろうとする。
「先輩起きて!」
「うん……、大丈夫、コーヒー飲めば覚めるから」
コーヒーを淹れてくれってことだ。
いつものように台所をお借りして、水を張ったポットをコンロに乗せた。その間も先輩は台所の椅子に逆向きに座って、大きな欠伸を連発していた。上機嫌なカバみたいだ。シャツとパンツだけの恰好だし、寝癖も酷いし、目の下の隈も凄い。綺麗なんだからもっとしゃんとすればいいのに、とボクは例によってお節介を思う。
「あんた昨日、何時に帰ったの?」
「二時ですよ。覚えてないんですか?」ボクは呆れる。
「うーん、途中から記憶が曖昧」
「よくもまぁ、毎回深酒できますね。もう少しお酒控えたほうがいいですよ」
「素面で渡れる世の中かよ」先輩は漫画か何かの台詞をそのまま口にする。
ボクはポットを見つめながら、さてどう切り出そうかと悩んでいた。言わずもがな、お尻に生えた異物についてだ。
「ねぇ、先輩。昨日、ボクに何かしました?」
「何かって?」先輩は眉を上げて尋ね返す。
演技をしている様子はない。元々が大袈裟な人だから、どんな仕草もお芝居みたいに映るけれど、とにかくしらばっくれてはいないようだ。
「今日起きたら、なんか体が変で」
「どう変なの?」
「その、なんか、尻尾が生えて」
「は?」先輩は息を漏らして笑う。冗談だと思ったのだろう。
めちゃくちゃ恥ずかしかったけど、論より証拠、百聞は一見にしかずとか言うので、それに従ってボクはジーンズを下ろしてお尻を見せた。先輩はまだ笑っていたけど、その顔が凍りついたように動かなくなった。
「なにそれ? どういうファッション?」
「ファッション違う。わかんないんですよ。どういうことなのか、ボクが訊きたいです」
「それ、生えてんの?」
「だから、そう言ってるじゃないですか」ちょっと苛ついた。
「触ってみてもいい?」
先輩が慎重な手つきで尻尾に触れる。
自分でも信じられないけど、この尻尾にもちゃんと触覚というものがあって、先輩の冷たい指先の感触が背筋を通って悪寒みたいに伝わった。ボクはちょっと変な気持ちになる。変な気持ちって言っても、別にその、えっちな気分とかそういうのじゃないよ。そういうサービスはしないつもり。ボクってばこれでもお堅い清楚女子だから。えっと、何の話かな……。
ボクはこの時点でもまだ先輩の手の込んだ悪戯じゃないかって疑っていたけど、先輩こそ狐につままれたような顔をしていたので困った。早くも取り付く島がなくなっちゃった。
「どうしよう?」
唯一頼れる先輩が頼りない調子なのでボクはいよいよ不安になった。
「どうしようって……、取れないの、これ?」
「取れないです。引っ張ったら背骨抜かれるみたいに痛い」
「じゃあ、しばらくほっとけば? そのうち、抜けるか無くなるんじゃない?」先輩はにっこりする。「いいじゃん。可愛いし。猫の尻尾みたい」
まるで他人事だ。なんていうか、ムカつくってよりも、すっごく泣きたくなった。それから、昔から思っていたことだけど、どうしてこの人はこうあっけらかんと出来るのかなって思った。いざそんな笑顔と物言いを向けられると、呆れるのを通り越して羨ましくなるくらいだった。
◇
寝ぼけた先輩に相談しても解決しそうにないので、ボクはコーヒーを一杯ご馳走になってから諦めて大学へ出かけた。授業を受けて、お友達とお菓子を食べて、夕方にはバイトに向かった。
尻尾のことについては誰にも相談しなかった。早く医者に見せたほうがいいかもしれないと思ったものの、もう少しだけ様子を見ようと思ったのだ。よくわからないけど、先輩が言うようにそのうち抜けるか無くなるかもしれないじゃんか、と自分に言い聞かせていた。
尻尾のある生活なんて今まで経験したことないし、経験談も聞いたことがないから、対処の術も思いつかないけど、とにかくジーンズの下で毛がもふもふして非常にくすぐったい。講堂の椅子に座っている間はずっと落ち着かなかった。スカート着用ならまだマシだったかもしれないけど、それだと尻尾の存在が露見する危険性がぐっと増すし、なによりボクはスカートなんてひらひらした物は身に着けない主義だから駄目だ。
それに、この尻尾、なんだかわかんないけど動くのだ。勝手に動くというわけじゃないけど、ボクが驚いたり笑ったりする拍子にもぞもぞ動く気配がある。トイレの個室で改めて確認すると、ボクが焦っている時は水平にふらふらしていた。先輩が言っていたみたいに、まるで気まぐれな猫の尻尾みたいだった。
これ、本当に何なのかな。
体質? 病気? 障害? 進化の予兆? 遺伝子の突然変異? なんでもいいけど、どうしてボクだけこんな目に遭わなきゃなんないわけ? 今のところ特に困ってないけど、尻尾が生えているだなんてそんな馬鹿げたこと、将来、絶対厄介事になるに決まってるじゃん。にきびとか枝毛に一喜一憂するボクなのに、こんなトラブル捌けるわけないし。
一応、実家のお母さんに電話してみた。猫の尻尾が生えたなんて話したら仰天して腰を抜かすかもしれないから、当然それについては伏せて、それとなく遠回しに尋ねてみた。
「あのさ、うちの親戚で遺伝子の病気の人とかいたかな?」
「何よ、急に……、いないと思うけど」母は露骨に訝しんでいた。
「じゃあさ、じゃあさ、障害持ってた人とか……」
「いない」
「えっと、じゃあ……、そうだ、最近、猫の恨み買ったりしなかった? 野良猫殺したりとか」
「するわけないでしょう。阿呆か」
怒られてしまった。
遺伝説も祟り説も外れというわけだ。
ネットでも調べてみたけど、尻尾の生えた人なんてオカルトサイトかインチキの合成写真、あとは人間の骨格には尻尾の名残りみたいな部分があるだのないだの論じるサイトくらいしかなかった。皆、暇だなぁなんてしみじみ思ってみたりした。ボクはこんなに必死なのにね。
溜息ばっかりついていたせいか、バイト先ではちょっと仲間達に心配かけちゃったみたい。滝澤くんなんか「どうしたの」なんて声を掛けてくれた。あの無口な滝澤くんにそれを言わせるって相当だ。いつもわーきゃー喧しくしているから、黙りこくってるボクが珍しかったんだろうね。「なんでもない」って、本当になんでもなさそうに振る舞っている自分が可哀想で堪らなくなった。なんていじましいボク!
帰宅すると先輩からメールが着ていた。「あ、心配してくれてるのかな」なんて後輩らしく恐縮に思ったけど、確認してみると性懲りもなく「酒のもう」の一言。先輩なんか大嫌い。返信なんか無視だよ、無視無視!
これでも出来るだけマイナスに考えないよう努めていたのだけど、お風呂に入って鏡に映る尻尾をまざまざと見せつけられた時、その後でベッドに潜り込んだ時にはさすがに参った。やっぱり先輩の家に行ってお酒呑めばよかったなんて後悔もする。尻尾の感触を意識したら、じわっと涙が浮かんできちゃった。
もう、ずっとこのままなのかなって……、どうしようもなく悲しくなって、鼻を啜る。
でも、そういう弱気な自分が嫌だから、ボクは枕の上で頬を叩いた。だめだめ、負けちゃだめだ、カノン。たかが尻尾の一本や二本で人生振り回されちゃたまんないよ。そうだ、これを試練と考えよう。何の為に試練があると思う? それを乗り越えて強くなるためでしょうが!
尻尾のある人生を受け入れて、不安に負けず元気に生きていこう。そうしたら、きっといつか神様が褒めてくれるかもしれない。キリストだかブッタだか知らないけど、とにかく誰かが天国で頭をなでなでしてくれるかもしれないじゃん。そうだ、ガッツだぜ! カノン!
だけど、もしもこれが神様の仕業だったなら、あの世で力いっぱいシバいてやろう。
そんな決意をした辺りで、ボクの意識は眠りに落ちた。
◇
ふっと目を開くと、インターホンが鳴っている。カーテンから白い光が漏れていて、それで朝なのだと認識。途端にボクは昨日の出来事を思い出し、震えながら身を起こす。触るまでもなく、お尻の下にはもふもふの感触があった。がっくし。落胆の溜息、そして欠伸。
やっぱ、夢じゃないかぁ……。
ピンポロピンポロとインターホンが喧しい。時計を見ると、おいおい、朝の八時じゃないっすか。誰だ、土曜の朝のこんな時間に……、頭わいてんの? ぶっ飛ばすぞコラ! 自分で起きる分にはいいけど、他人に起こされると極端に機嫌が悪くなるカノンちゃんでした。
覗き窓も見ず「はい、なんでしょ!」とスーパー・とげとげモードでドアを開けると、共用廊下に立っていたのは森崎先輩だった。
「あれ? どうしたんですか?」ボクはきょとんとしてしまう。
「ちょっと……、中に入れて」
先輩は蒼褪めている。どうしたんだろ。
「は? いや、ちょっと……」ただならぬ様子にボクまでうろたえてしまう。「今、部屋散らかってますよ」
「いいから」
そう言って先輩は無理やり体をねじ込んだ。こんなふうに、何かにつけて強引な人なのだ。でも、その朝の先輩は明らかにいつもと様子が違っていたから、こっちも気圧されて反駁できなかった。
先輩は夏日だと言うのに毛糸の黒いニット帽を被っていた。ノースリーブの夏物のシャツなのに、そんな暑苦しい帽子を被っているものだから、途轍もなくアンバランスだった。
「先輩、どうしたの?」
「あんた、尻尾、どうなった?」先輩は質問で返してくる。
ボクが肩を竦めて実物を披露すると、先輩は食い入るように見つめていた。バレー部の試合の時みたいに真剣な表情で、ちょっと恐いくらいだ。
「ねぇ、先輩」まじまじと見つめてくるものだから、ボクは身の置き所に困ってしまった。「どうしたんですか? こんな朝早くから……」
「耳は?」先輩が言う。
「え?」
「耳」
「耳って?」
「耳は、生えてきてないの?」
先輩が突然手を伸ばし、ボクの髪を掻き回す。びっくりして、ボクは声も出せなかった。
耳が生えるってどういうことだろう? 耳なら顔の横にくっついているし、ボクは先輩と違ってショートヘアだからちゃんと見えているはずなのに。
でも、ただならぬ先輩の様子に、ボクは何となく予感めいたものを覚えた。そして、やっぱりそれは当たっていた。
先輩が無言でニット帽を取ると、さらさらと栗色の長髪が流れるのと同時に、一対の大きな角が現れた。ぴん、と天井に向かって伸びた突起だった。
ううん……、よく見ると、それは角じゃない。
むむ、とボクは思わず腕組みして唸る。
それは、耳だった。
人間の耳じゃない。もっと動物的というのか、見慣れた丸っこい人間の耳ではなくて、三角の形で前方に孔が向いた、大きな獣の耳だ。それが先輩の頭の上で反り返っているのだ。全体をふさふさした灰色の体毛で覆われていて、なんだか柔らかそうだった。
「猫耳」
ボクは一見するなり呟いた。
「やっぱり、そうだよね」先輩は蒼白になって言う。「猫耳だよね、これ」
気を落ち着かせる為、ボク達はひとまずコーヒーを飲むことに決めた。お湯を沸かして、二つ並べたカップへインスタントの豆を入れる。ざらざらと鳴る音が聞こえるくらい、ボク達は押し黙って音を立てなかった。
先輩はボクのベッドに座ってしばらく放心していたけど、唐突にわっと声を上げて泣き出してしまった。
「終わりだ……、あたしの人生、終わった」
「いや、ちょっと、先輩……」ボクは慌てて声を掛ける。
「こんな猫耳つけて、生きていけない。もうやっていけない。死のう」
「早まらないで……、ほら、コーヒー淹れましたから」
「あんたはいいよ! 尻尾だもん! パンツの下に隠せるもん!」先輩は毛布を叩いて激昂した。洟まで垂らして、むしろ潔いくらいの泣き面だった。「あたしは耳なのよ! 隠せないよ! てか、なんなのこれ! マジ信じらんない! 責任者出せ!」
「落ち着いて……、ほら」ボクはカップを差し出す。
ぐずっと鼻を啜って、それでも先輩は「ありがと」とおとなしく受け取った。涙ぐみながらも大事そうに両手でカップを包む姿が、まるで叱られた子供みたいだった。
「今朝、生えてきたんですか?」ボクは尋ねる。
「そう。起きたら生えてた」
先輩は恨みのこもった目で頷いた。誰を恨んでいるのかわからないけど、ボクだって誰を恨んでいいのかよくわかんないよ。昨日心底思ったけど、恨める相手がいないのってやっぱりキツイよね。たとえば地震とか津波とかさ、備えは万全だったのに、時々規格外の天災がやってきて、それで大勢が死んじゃうってことが稀にあるけど、あれだって本当は誰のことも恨めないんだよね。でも、とにかく誰かのことを恨まないと気が済まないから、家族や友達を亡くした人達は国とか政府を非難しちゃうんだよね。無茶苦茶だなぁって傍目から思ってたけど、あの気持ちが今はちょっとわかるかもしれない。
なんて、考察してる場合じゃないっつの。
現実逃避してた。危ない、危ない。
話を聞いてみると、ゆうべも先輩は独り深夜までお酒を呑んでいたらしい。早朝に喉の渇きで目を覚まし、洗面所まで朦朧と向かって、鏡に映った自分を見ちゃったという。酒精も吹っ飛び、すっかり気を動転させながらボクのアパートまで駆け込んできたという顛末だった。
「あぁ、もう、どうしよ」先輩は頭を抱える。猫耳の先端が震えていた。「もう外に出れない……、生きていけない……、なんでこんな仕打ち受けなきゃいけないわけ? あたし、なんかした?」
「あの、先輩、ちょっと落ち着きましょう。ボクだって、尻尾が生えて参ってるんですから」
「あんたはいいわよ、尻尾だもん」先程の烈火のような勢いはないけれど、それでも先輩は妬みがましく言った。
ボクは当然怒れない。まるで昨日のボクを見ているようだったからだ。愚痴を零したくなる気持ちが痛いほどわかる。むしろ、ボクより動揺している相手を見て、幾分か冷静になれたくらいだ。
このわけのわかんない異変について、それぞれの心境を吐露し合っていても落ち込むだけだ。なので、なぜ尻尾および猫耳が生えてしまったのか、原因について意見を交わそうと提案した。先輩もやっと落ち着いてきたらしく、こくこく頷いて同意した。
「でも、原因って言ってもなぁ……、わかんないよ。逆に、何をどうしたらこんな馬鹿なことになるわけ?」
「それはわからないけど……、でも、昨日の今日でボクと先輩の間だけにこんなことが起こってるんですよ。だから、なにかしらボク達に共通したことがあるはず。まずそれを考えてみましょう」
「二人で変なもん食ったとか? それともあたしの部屋に猫の祟りがあるとか?」
「部屋とか住居に原因があるんなら、もっと前から起こっているはずでしょ。一昨日と昨日の夜で、何か共通する出来事とかってないですか?」
「えっと、一昨日ってあたし達、お酒呑んでただけだよね?」
「そっすね」
ボクはどんよりと頷く。だって、それくらいしか思い当たる節がないんだもん。見当外れだ。お酒を呑んで尻尾や耳が生えるなら、世の呑兵衛は全員半獣化しないといけないことになる。呑めば虎になるって古い言い回しをおばあちゃんがしていたのをふと思い出したけど、あまりの手応えのなさに「おばあちゃん元気かなぁ」ってボクの思考は明後日の方を向くばかり。
だけど、意外にも先輩は閃いたようだった。
「そうだ、酒!」
「え?」
「一昨日、日本酒開けて呑んだでしょ」
「そうでしたっけ?」ボクは首を捻る。
よく思い出せないけど、確かにビールとかワインじゃなかったのは覚えている。
「あたし、昨日もあれを呑んだんだ」先輩は興奮気味に言う。「ほら、もう飲み切れないって言って、一昨日残したでしょ? 覚えてない?」
「それがどうしたんですか?」
「だから、その酒が原因なのよ!」
存外、先輩は真面目な顔だった。
「なんてお酒ですか? 名前は?」ボクは一応尋ねてみる。
「えっと、『猫の心』」
それだ! とボクは膝を打った。
馬鹿みたいな話だけど、その通り、馬鹿げた事態なんだから、多少の馬鹿は大目に見るしかなかった。
◇
先輩は地元の酒店で配達のアルバイトをしている。軽トラックを運転して、注文の品を客先に届ける仕事だ。何ダースもの瓶ビールや清酒なんかを運ぶから体力的にきついけど、その分、給料は良いらしい。先輩がフリーター生活を爛漫に謳歌できるのもその条件があってのことだ。
先輩が配達する得意先の一人に、変わったお爺さんがいたという。家族もいないのに広々としたお屋敷に住んでいて、なんでも昔、絹糸製品の生産か何かで成業した家系の人らしい。天涯孤独のお年寄りだったけど、とても人懐っこい人で、配達にやってくる先輩を孫娘みたいに可愛がってくれたんだとか。
『猫の心』なんて変な名前のお酒も、そのお爺さんからプレゼントされたのだという。いつの話かっていうと、なんともう半年も前の話だった。
「半年前のお酒なんて呑ませるなよぉ」
バスに揺られながらボクは苦言する。普通そんな黴臭い酒を人に出すか?
「だって、長期間置いてから呑めって言ってたんだもん」
目深くニット帽を被った森崎先輩が、声を潜めて反論した。
これは時間が経てば経つほど美味くなる上等酒だから、じっくり寝かせてから呑みなさい。
そうお爺さんに教えられ、先輩は忠実にそれを守り、台所の棚の奥に神酒の如く奉って寝かせておいた。それから案の定、酒の存在を忘れてしまった。そして、ボクがいつものように訪問した一昨日の晩、ちょうどビールを切らしていて、買いに行くのも億劫だった先輩は、ふと棚の奥の酒を思い出し、それを引っ張り出して呑んだのだ。
そういえば「これは銘酒だぞぉ、美味い酒だぞぉ」と先輩が嬉しそうだったのを思い出す。酔っ払うのは好きだけど、お酒の銘柄や味についてはとことん無頓着なボクはすっかりさっぱり聞き流していた。もう少し気を付けていれば不審がって飲まなかったかもしれないのに、と悔しく思う反面、だからといってこんな事態になるなんて露ほども思わなかったのは自明だ。
ボクと先輩はそのお爺さんの住居を訪ねに向かった。住所を訊くと、意外にもボクの通っている大学から近い。先輩は自転車を持っていないのでバスに乗ることにした。
「でも、そのお酒くれたのが最後だからなぁ、お爺さんと会ったの」
「それ以来、注文の配達はないんですか?」
「ないね。どうしたんだろうって店でもちょっと話題になったんだけど……、結構ご高齢だったし、もしかしたらって……」
先輩は言いながら、しきりにニット帽を指で直している。ボクも座席のシートの上でもぞもぞお尻を動かしていた。体勢によっては尻尾が潰れてしまって痛いのだ。
やがて目的の停留所でバスを降り、先輩の案内に従って歩いた。日射は激しく、アスファルトを撫でる風もむわっと熱い。気をつけないと熱中症になりそうだ。特に先輩は毛糸のニットなんて被ってるから、たらたらと汗を顔に流していた。お化粧をしていたらきっと酷いことになっただろう。
十分くらいかな、馬鹿みたいに暑い道のりをとぼとぼ歩いた。高台にある住宅街で坂道から振り返ると、住み慣れた街並みや大学の建物がそこから見渡すことができた。先輩曰くこの辺は土地の値が張るらしい。そう言われると確かに周囲の住居はどれも立派で、凝った建築が多かった。高い所にはお金持ちが集まる習性があるのかもしれない。外出の時は大変なのに、よく住もうって思うよね。でも、ここからの眺めは確かに気持ちいい。それに、そもそもお金持ちは歩いて外出なんてしないかもしれない。自転車にも乗らないかもしれない。あ、リムジン? それともベンツ? いやいや、もしかしたら、セグウェイに乗ってぶいーんと駆け抜けているかもね。
そんな空想を弄んでいるうちにようやく目的地へ辿り着き、しばらく二人で呆然と立ち尽くした。
「更地じゃないですか」
「うん」
いや、うんじゃないでしょうが。
お屋敷は跡形もなく姿を消していた。工事用の簡易フェンスが広い敷地に張り巡らされて、ショベルカーがぽつねんと砂利の中に残されている。その寂れた光景に眩暈が起こりそうだった。
日傘を差した上品そうな中年女性が通りがかったので(セグウェイじゃなくて徒歩だった)ここに住んでいたという老人について尋ねた。女性が言うには半年ほど前に屋敷を取り潰してどこか他所へ移ってしまったという。藁に縋る思いで行先を尋ねたけど、当然ながら知らない様子だった。ほとんどご近所付き合いをしないお爺さんだったようだ。
ボク達はへろへろとフェンスの日蔭に座り込んだ。脱力した途端、ぽたぽたと顎先から汗が滴った。
「あぁ、もう、無駄足じゃんか!」
ボクの呻きに、先輩は無言で頷く。寄る辺を失くした孤児のように愕然としていた。
「どうします?」
「どうするもこうするも……、どうしようもないじゃん」
先輩はやけっぱちのようにニット帽を脱ぎ捨て、汗で湿った猫耳を外気に晒した。ボクはぎょっとして辺りを窺うけど、幸い人目はどこにもないようだった。閑静な住宅街ってこういう場所を言うんだろうね。遠くで練習しているらしいピアノの音色だけが聴こえて、とても長閑な風景だった。
愛くるしい耳をぴんと跳ね上げ、先輩はしばらく瞑目して風に当たっていた。よほど暑かったのだろう、鼻の脇をつるつる滑っていた汗が、それでちょっと引いたみたいだ。栗色の髪が微かに揺れている。
「もうずっと、このままなのかな」先輩はぽつりと言う。
その一言で、今までよりずっとリアルな未来図が胸に圧し掛かった。尻尾を持った生活、獣の耳を持った生活。異形として社会を生きなければならない自分の姿が目の前にありありと浮かんだ。
「あの、病院に行って切除してもらいます?」ボクは提案する。
「医者でもなんでも、こんなナリ晒したら世間が大騒ぎになるよ」先輩は遠くの空を見上げながら言い返す。「マスコミだのなんだの来てさ……、見世物だよ、きっと」
確かにそれは嫌だ。ぶるっと身震いが起こる。
「あ、それじゃ、『猫の心』の製造元を当たってみるとか」
「さっきネットで検索したじゃん。わからなかったでしょ」
そうなのだ。不思議なことに『猫の心』なんてインパクトのある名前のお酒は、少なくともインターネット上ではどこにも見つからなかった。製造元不明のお酒ということになる。それって、法律に触れているんじゃないのかな。
「あ、じゃあ、『猫の心』の成分をどこかで分析してもらうとか。ほら、猫化する未知の成分が発見されるかも!」
苦し紛れに提案すると、先輩はきまり悪い顔で「昨日、全部飲んじゃった」と親告する。ボクは頭を抱えた。最悪だよ、もう。
車の音が響き、先輩が慌ててニット帽を被った。外国産の車が角を曲がって現れ、ボク達が屈んでいる前を通り過ぎていく。運転手は奇特そうな顔でボク達を見ていた。ぶぅんとエンジンを鳴らして通り過ぎる。
あんな目で見られるようになるのかなって思った。先輩も同じことを考えていたらしく、走り去った車をずっと見送っていた。
「まぁ、とりあえず、様子見でしばらく放っときましょうよ」
ボクはいたたまれずにそう言ってみる。
「よくもまぁ、そんな気楽なこと言えるね」先輩が険しい目で睨んだ。なかなか恐い。
「だって先輩、ボクの尻尾見てそう言ったじゃないですか。そのうち、抜けるか無くなるかもって言って」
ボクはあえて笑ってみせた。
落ち込んでいたってしょうがないと思ったんだ。だって、そうでしょ? 落ち込んで、頭掻き毟って、げぇげぇ泣き腫らして治るんだったら喜んでそうするけど、そんな都合の良いことあるはずないもんね。
楽天的な見方かもしれないけど、たぶん、猫耳も尻尾もそう危険なものでは無い気がする。少なくとも命に関わりはない気がする。そんなにぎゃあぎゃあ騒いでも仕方ないんじゃないかな。世の中には頭が繋がって生まれてきちゃった双子とか、指とか手足の数が少ない状態で生まれてくる人だっているのだ。不謹慎だって言われるかもだけど、そういう人達と比べたらずっとずっと恵まれているかもしれないなんて、思えてきちゃったりしなくもなくもなくなくないのだ。
「あぁ、あぁ、はいはい、そうでしたね、あたしが悪かったです、どうもすいませんでした」先輩は不貞腐れたように口を尖らせる。座ったまま、小石をこつんと蹴った。「罰が当たりました。他人事みたいに言って申し訳ありませんでした」
「むすっとしちゃって」
「うるさい」
「いいじゃないですか。猫耳可愛いし。似合ってますよ。萌え!」
「馬鹿!」
ボクの肩を殴りながらも、おかしかったのか、先輩はようやく笑ってくれた。いつもの頼もしい豪快な笑みじゃないけど、それでも白い歯を見せて微笑んでくれたのだ。
その笑顔を見てボクはやっと安心できた。やっぱり笑っている先輩の方が先輩らしくて、ボクは好きだった。
◇
それからのボクは、まるで意地を張っているみたいに規則正しい普通の生活を送った。いや、まるでとかじゃなくて、しっかり意識して意地張ってた。お尻からぶら下がってるものを無視しながら、大学とバイトと遊びに励んだ。
朝起きて、トーストを齧って、自転車で大学に行って、お友達とお昼御飯を食べて、バイトに向かって、夜は割引の御惣菜とか簡単な自炊で晩御飯を済ませる。時々お友達と遊びに行ったり、森崎先輩のアパートを訪ねたり、そんなありきたりな大学生活を慎ましく謳歌した。この意識して慎ましくというのが実に難しい。下り坂でブレーキを掛けながら自転車に乗るような、危うい消耗の日々だった。がぁぁっとスピードを出せたら、むしろ安定して転ばないのにね。
一日を穏便に済ませられても、寝る段になれば途端に胸がざわついちゃう。もしかしたら明日の朝には尻尾が無くなってるかもしれないっていう期待が半分と、その逆に、猫耳が生えたり掌に肉球が浮かんでいたりするかもしれないっていう心配がもう半分。髭や牙が生えたらどうしようなんて考え始めたら不安が膨れて寝付けなかった。まさに胸が潰れる思いって感じ。これ以上ぺったんこになったらどうしてくれるんだよ、まったく。
幸いなことに、尻尾が生えてきたところで日常生活に特に支障は生じなかった。ずっとお尻がもふもふしているくらいで、それに慣れてしまえばどうということもない。支障らしい支障といえばズボンしか穿けなくなったってことと、人前で裸になれないってことだけど、前も言ったようにボクはスカートなんて無防備なものは穿かないし、温泉やプールにも行かないから別段困りもしない。
そんなわけで、気苦労は大いにあるけれど、尻尾を隠すことに対する実際的な苦労はほとんど感じなかった。ゆえにばれもしない。その気になれば一生涯隠し通せるかもしれない。
でも、先輩はそういうわけにいかなかった。ボクの尻尾と違って、彼女の場合は頭に生えた大きな耳なのだ。本人が悲観していた通り、それはいつまでも隠し通せるものではなかったし、先輩には悪いけれど「やっぱ駄目だったかぁ」というのがボクの正直な感想だった。
先輩はずっと帽子を被り続け、アルバイト中にもなんやかんや理由をつけて被っていたらしいけれど、何かの拍子に露見してしまい、大変な騒ぎになった。病院に担ぎ込まれ、レントゲンを撮り、その猫耳が完全に頭蓋骨と接合されている事実が明らかになるとますます大変なことになった。
どこで聞きつけたのか、好奇心剥き出しのマスコミがどっと押し寄せ、テレビでは連日先輩の顔が映り、SNSでは猫耳というワードと先輩の名前がトレンドになって物凄い数の呟きが投稿された。芸能人でもないのにプライバシー無視も甚だしい。先輩が不憫でならず、ボクはムカっ腹をスカイツリーみたいに屹立させていた。
でも、「ばれちゃった」と電話越しに話す先輩の声は、意外にも嬉しそうだった。
「大丈夫? 何か酷いことされてない?」
「大丈夫、大丈夫。盗撮されるからカーテンは閉め切っているけどね」
先輩は笑う。無理して笑っているのかもって思った。
すぐにでも会いに行きたかったけど、先輩のアパートは今、飴玉に集る蟻みたいなマスコミ関係者で取り囲まれているから、行くに行けなかった。翌日に先輩は国立の医大で更に精密な検査を受けるらしく、恐らくはその出待ちを夜のうちからしているのかもしれない。
「先輩、無理してない?」
ボクはテレビをつけていて、今も先輩に関する報道が流れている最中だった。
「うん、ちょっと疲れるけど」先輩はぽろっと零して、それを打ち消すようにまた笑った。「だけど、いつかばれることだったし、どっちかっていうと身が軽い感じ。見世物にされるのは気に食わないけど、カメラに追っかけ回されてマイク向けられると、なんか大物になった気分。そう悪い気もしない」
「だけど……」ボクは酷く心配になる。
「大丈夫、カノンのことは喋らないから。それは信じて」
誰がそんな心配するかっての! 先輩の馬鹿!
いや、でもでも……、うん、正直白状すると、その心配もなきにしもあらずって感じだった。目の前で取沙汰されて、世間が大騒ぎしているのを見せつけられて、こっちは冷汗が止まらなかった。ボクもああなるのかなって考えると不安で堪らなくなった。
だけど、やっぱり、その時は自分よりも先輩のことが心配だったよ。先輩、意外と繊細なとこあるし、耳が生えた日だってあんなに泣いてたもん。
「心配しないで」先輩は察したように言ってくれた。「大丈夫、上手くやってみるから……、それにあたしさ、この猫耳を受け入れて生きていこうって決めたんだから」
「え?」
「どうしてこんなのが生えてきたのか、どうしてあんな怪しいお酒飲んじゃったのかとか、色々考えてへこんでたけどさぁ、生えてきちゃったもんはもうしょうがないし、受け入れるしかないじゃん。猫耳が生えたところで、あたしがあたしでなくなるってわけでもないし……、むしろ、これからは猫耳を武器にして生きてやろうって考えてる」
「武器?」
「そう、武器、ウェポンよ。カノン、言ってくれたじゃん。可愛いって。萌えって」
「いや、そりゃ、言いましたけど」ボクは唖然とする。
「ほとぼりが冷めたら、自分からメディア露出して金稼いでやろうかなって。ほら、あたし、ルックスもそう悪くないじゃん? ていうか、そういう話、さっそく来てるのよ。名刺とかも何枚か貰ってるし。もう世間にはあたしの名前、とっくに知られちゃってるわけだからさ、逆手に取って稼がせてもらう。この猫耳を以て世の男を萌え死させてやる所存なり。ミサキだにゃん! って具合にさ」
先輩、すげぇなって思ったね。
絶句したっていうのか、開いた口が塞がらないっていうのか、ボクはすぐに言葉が出なかった。それから間を置いて、なんだかわかんないけど、胸がすかっと澄み渡る心地がした。あまりに痛快すぎて、笑いが込み上げてきちゃったくらいだ。
先輩も電話越しで大笑いしてた。天下を取った戦国武将みたいな高笑いで、それは全然大袈裟なたとえじゃない、本当に天下へ手を伸ばせる人の哄笑だった。昔、高校のバレー部の試合でも、先輩がこんなふうに笑う時は不思議と運が味方についたような勝ち方をしたもん。先輩の大笑こそ、勝利の吉兆だった。
バレー部の頃の爽快な気持ちをふと思い出し、ボクは嬉しいような、それでいてちょっぴり寂しいような、一言ではとても言い表せない複雑な感情を抱いた。何にせよ、ボクが出来るのは先輩の勝利を信じることだけだった。
◇
森崎岬は一躍、時の人となった。
猫耳が生えている人なんて人類史にもかつていなかったわけだから、最初から世間は騒然としていた。右を向いても左を向いても先輩の話題で持ち切り。黒船来航かビートルズが来日したようなお祭騒ぎだった。
先輩はその狂風を上手く掴んだみたいだ。
精密検査を受ける合間にどこか大手の芸能事務所へ所属し、猫耳モデルとしてデビューしたのだった。猫耳だなんて飛び道具が無くたって、元から綺麗だもんね、先輩。高校の時からモテモテだったし、一緒に繁華街歩いていたらスカウトとかナンパされることが結構あったもん。芸能界が先輩のような原石を放っとくはずなかった。
先輩が芸能活動を始めると、マスコミはますます熱を上げた。もうほんと、毎日毎日、先輩の顔をテレビで観た。最初はぎこちない表情で、緊張しているのがありありとわかったけど、そのうち何らかのコツか自信を身に着けたようで、もうぴかぴか眩しいくらい立派に振る舞っていた。カリスマ性だって持ち合わせているから、街の女の子達が付け耳をして歩き始めるのもあっという間だった。空前の猫耳ブームってやつ。前からアニメなんかで存在していたけど、いざ実物が現れると、食いつくのはアニメなんか観ていなさそうな人々だというのだから驚きだ。
一緒にお酒を呑んでくだを巻いていたはずの先輩が、ずっと遠くに行っちゃったみたいで、ボクは少なからず寂しい思いをしたし、ぶっちゃけ羨ましくてしょうがなかった。だけど、それ以上に鼻が高かった。ボクの先輩はこんなに凄いんだぞ、カッコいいんだぞ、綺麗なんだぞって、鼻持ちならない世間へ叫びたい気分だった。ざまあみろバカヤロー! ってさ。
そんなボクはといえば、秋頃までずっと変わらない生活だった。
テレビやネットで先輩の活躍を見守りながら、相変わらず大学とバイトと自宅を往復する日々。尻尾は無くならないし、なかなか寝付けないのも変わらなかった。猫化が進まないのはありがたかったけど、それでも絶好調だなんてとても言い難い状況だった。
明暗を分けたっていうか、やっぱりボクなんかじゃ、先輩の足許にも及ばないんだって思い知ったね。
心から変異を受け入れることもできなくて、武器にすることもできなくて、こそこそと隠れながら何食わぬ顔で大学生活を送る日々。日蔭を這っている気分。猫っていうよりヤモリみたいな心だった。先輩は自分から日向へ躍り出て、それこそ猫みたいに沢山可愛がられているのだ。悔しくないなんて言えば嘘になる。
だけど、やっぱりそれは、誰にだって出来ることじゃないよね。
先輩だから出来る生き方なんだ。
ボクには無縁だもん。
ほら、ボクってあんまり綺麗じゃないし、愛想もないし、そのくせわーきゃー煩いし。女っぽく見られたいなんて思いながら、それでも二の足踏んで、年中野暮ったいジーンズなんか穿いてる。喋り方も男言葉、自分のことをボクって呼ぶ癖も抜けてない。髪だってばさばさのショート、全然女っぽくない。可愛さもない、綺麗でもない、デリカシーもない、意気地も度胸もない、おっぱいもない。ないない尽くし。きったない野良猫みたいな奴、それがボク。うっ、ちょっと落ち込んできたかも……。
だからこそ、先輩とあんなにウマが合うのかな、なんて思ってみたりする。ううん、ウマが合うっていうんじゃなくて、ボクは単純に先輩に憧れているのかもね。かもね、じゃないか。ボクは先輩に憧れてる。出会ったばかりの高校生の頃から、今日までずっと、先輩はボクの憧れなんだ。
そういうわけで、悔しくもあるし、羨ましくもあるし、自分が歯痒くなるけど、やっぱりボクは森崎先輩が大好き。頑張れって心から応援できる。やったねって心から成功を喜べる。つくづく人間の心って不思議だ。猫の心なんて、まだまだ遠いかも……、とかなんとか、変な悟りを得ながら、その年の夏は過ぎていった。
◇
秋になり、あれほど暑くて粘ついた風がさらさら冷たくなった頃、ボクの穏やかでじめじめした生活に一筋の光が射した。それはあまりに鮮烈で、採れたてのハチミチみたいに輝かしく甘い光を放っていた。
ちょっと何言ってるかわかんないよね。
具体的に言うと、こんなボクにも彼氏が出来たのだ。
うはは! 参ったなぁ、もう!
お相手はバイト仲間の滝澤くん。ボクと同い年の男の子。地元も同じだけど、彼は東京の有名な国公立大学の文学部に通っている。頭脳明晰、コナンくんみたいな秀才だ。でも、頭が良いだけじゃないんだよ。背も高いし、運動もできるし、俗っぽい話だけど、イケメン、つまり顔も凄く良い。特に男らしい顔立ちってわけじゃないけど、線が細いというのか、とても可愛い顔をしてる。ほら、誰だっけ、ジャニーズのあの人に似てる……、えっと、名前わかんないけど、とにかくジャニーズに所属してそうな美男子。
ボクは高校のバレー部を引退してから今日まで、宅配ピザ屋さんでバイトをしている。ドライバーじゃなくてメイキング、えっと、調理する方の仕事ね。平日は夕方から夜まで生地をこねこねして、ソース塗ってトッピングしてひたすらオーブンに流してる。ドライバーよりも時給は低いけど、時々店長さんがピザを食べさせてくれるから、割かし気に入ってる職場だ。
滝澤くんは高校生の時から働いているらしい。最初はドライバーをしていたみたいだけど、配達と調理の両立ができれば時給がぐんと増すので、今はほとんど調理場に立って、リーダー的な立場でお店を回している。間違いなくお店の主力の一人だった。
花盛りの十九歳なのに、滝澤くんはとても大人しくて無口だ。休憩中は黙々とドストエフスキーとか森鷗外を読んで過ごしている。でも、けして暗い性格じゃない。仕事中はきびきびと指示を出すし、物言いもはっきりくっきりしている。失敗した子のフォローもできるし、付き合いも悪くない。仕事ができるから他の皆からとても頼りにされている。信頼もある。どこを取っても欠点がない男の子、それが滝澤くんだ。
当然、女の子からは馬鹿みたいにモテる。ボクだって、胸をときめかせたことが何度もあった。仕方ないよね、こんな完璧な男の子、そうそういないもん。でも、ボクよりずっと綺麗で可愛げのある女の子達が悉く玉砕していくのを目の当たりにすると「まぁ、もう少しここで長生きしたいな」って感じで踏み止まっていた。犬死にして傷を負うのも上手くないでしょ?
でも、彼とシフトが被ると素直に嬉しかった。一言二言でも会話できると、それだけでハッピーになる。それだけでいい。それだけでボクはもうお腹一杯、ごちそうさま、だ。そんな気持ちにさせてくれる人ってなかなかいないよ。ミッキーマウスだって無理じゃないかな。ジョニー・デップも無理でしょ。ポール・マッカートニーならまぁ、ありかなって思うけど……、えっと、もちろん、若い頃ね。
「滝澤くんって、村上春樹の小説に出てきそうなキャラだよね」
そんなふうに話しかけたことがある。
これでもボクは一時期、文学を齧っていたことがある。森鴎外は教科書でしか読んだことがないし、ドストエフスキーは『罪と罰』以外読んだことがないけど(『カラマーゾフの兄弟』で挫折しました)、それでも他のバイト仲間達は活字なんか読まない人ばかりだったから、ちょっと話題を振ってみたのだ。
彼は本から顔を上げ、意外そうにボクを見た。
「そうかな……、初めて言われた」彼の声は痺れるくらいのテノールだ。
「なんか落ち着いてるし、知性的だもん。話し方もクールだし」
「カノンは本を読むの?」
先輩だけでなくバイト先の人もボクのことをカノンって呼ぶから、滝澤くんも揃えてくれている。他意はないと思うけど、彼に名前を呼ばれると、それだけでボクは福音みたいに幸せだった。
「昔、色々読んだよ。夏目漱石とか太宰治とか……、海外文学はあんまり詳しくないけど」
「意外だね」
「そうそう、それ、よく言われる。ボクってそんなに本が似合わないかな?」
「さぁ……、でも、本はファッションじゃないから、似合う似合わないは気にしなくていいと思うよ」
「だよね」ボクは嬉しくなって同意する。
滝澤くんの言うことはとても的を射ている。それを鼻にかける様子もなく、淡々と口に出来るから凄いと思う。村上作品の登場人物もこれくらいさりげなかったら良いのにね。あ、別にこれ、批判じゃないよ。ボク村上作品好きだし。
そんな感じで、時々言葉を交わすくらいの仲でしかなかったのに、どうしていきなり交際関係になったのかなって皆が首を捻った。ボクは当然ながら、滝澤くんも相当な質問攻めに遭ったらしい。二人共すっとぼけて上手く躱していた。
ボクが滝澤くんとお近づきになれたのは、意外や意外、なんとボクのお尻にある尻尾がきっかけだった。嘘みたいでしょ。だけど、本当なんだなぁ、これが。
ある日、ボクが更衣室で制服に着替えていた時だ。ちょうどジーンズを脱いで指定のスラックスに履き替えているところで、突然背後の扉が開き、滝澤くんが入ってきたのだ。これは滝澤くんが悪いわけではなくて、鍵を閉め忘れたボクのミスだった。
元々ガレージか何かを改装して作られたお店なので、店で唯一のトイレは更衣室を通らないと行けないという変な間取りになっていた。だから、着替える際は扉をきちんとロックしておかなきゃいけないルールだった。それを、ボクはうっかり忘れてしまっていたのだ。
滝澤くんはズボンを下ろしたボクを見るなり、硬直して立ち尽くした。ボクも驚いて声を上げられなかった。頭が真っ白になって、それからぐわんぐわんと金属を殴るような音が耳の奥で鳴っていた。
無表情な彼が瞬く間に赤面し、「ごめん」と扉を閉めた。それでもボクはしばらくの間、身動きが取れなかった。お尻を向けた格好悪い姿勢で放心していた。
嘘……。
見られちゃった。
下着を見られた恥ずかしさはもちろんあったよ。男の子にパンツ見られたんだもん、恥ずかしいの当然じゃん。マジ信じらんない。
だけど、それ以上に深刻なのは、尻尾を見られたって事実だった。こんな上手い具合に中腰でお尻を向けた恰好なら、嫌でも細長い灰色のもふもふが見えたはずだ。鏡に映ったボクの顔は赤色ではなく、血の気の失せた蒼色に染まっていた。
着替えを済ませて休憩室に戻ると、滝澤くんは狼狽の滲んだ顔で本を読んでいた。「読んでる場合かよ!」ってひっぱたきたくなったけど、これ以上の醜態も粗相も晒せない。ましてや「尻尾見た?」なんて追及もできない。
「あの、空いたよ」
ボクが気まずく切り出すと、滝澤くんは短く頷いて本を伏せた。目を合わさないようにしているのが明らかで、それでも「ごめん」ともう一度だけ詫びてからトイレに行っちゃった。
ボクは飛行中の旅客機からパラシュート無しで放り出されたような心地だった。めちゃくちゃ心細くて、バイトが終わるまで気が気じゃなかった。いつもならわーきゃー喚いて他の子達とはしゃいでいるのに、その日のボクは終始無言。ボク達に指示を与える滝澤くんも、どこかうわの空だった。他の人達に不審がられなかったのが幸いだったかもね。
そのまま事なかれ主義に徹して一日を終わらせようと決めていたんだけど、退勤して着替えを済ますと、なんと滝澤くんが外でボクを待ち構えていた。彼もその日はボクと同じ時間に上がっていたのだ。とことん間の悪い二人、しかしこれも運命なのかなって、今じゃ薄ら寒いことを考えているカノンちゃんです。
「今日は、ごめん」滝澤くんは開口一番にまた謝った。
「何が」
ボクはサバンナのシマウマみたいに警戒していて、思わずつっけんどんな口調になってしまった。
「覗いたわけじゃないんだ」
「知ってるよ。ボクが鍵をかけてなかったのが悪いの。気にしないで」
「お詫びに何か奢る」
「は?」ボクは面食らった。
えっと、なに言ってんの、君?
「いや、いいよ、そんな」ボクはぶんぶん首を振る。
どきどきするっていうより、ちょっと怖かった。
だってさ、たとえお年頃の異性が相手でも、パンツ見ちゃったくらいで普通奢るなんて言うか? こっちはこっちで確かに恥ずかしい思いしてるけど、別に見られたって減るもんじゃないし、そもそもボクの不注意だったわけだし。全く謝ってこないってんなら腹も立つけど、そんなことでご飯奢られたりしたら、それは行き過ぎっていうか、正直引いちゃうよ。いくら相手が滝澤くんだからってさ、警戒マックスじゃん、そんなもん。仮にもボク達は花も恥じらう大学生同士なんだし、下心とかそういうどろどろしたものを充分に察知できる年齢なんだから。
ボクが遠慮すると、滝澤くんは困ったように頬を掻いた。
「ごめん……、いや、わかった、正直に言う。ちょっと話したいことがあるから、どこかに行かないか?」
「何? それってここでは言えないようなこと?」
「そう」
彼が頷くと、ボクはピーンって直感した。鬼太郎だったら頭の毛が一本立っているところだ。
やっぱり、見られていたんだ。
動悸が速くなった。お尻の下で警戒するように尻尾が震えているのがわかる。
「無理にとは言わないけど……」滝澤くんは目を逸らす。
店の前の往来ではまだ沢山の人が行き交っている。金曜日の夜で、駅近とあってはまだまだ宵の盛りといった案配だった。誰に聞かれるかわかったものではない。
頑なに固辞したところで、滝澤くんは今日目の当たりにした物体をけして忘れてくれないだろう。疑問はいつしか膨れ上がり、いつかはその堅そうな口もこじ開けてしまうかもしれない。そういうものなんだよね、人間なんて。秘密なんてずっと守れるものじゃないんだ。
それならいっそのことっていう捨て鉢な気分で、ボクは頷いていた。
滝澤くんは駐車場からクラウンを出してくる。ボクは助手席に乗せられた。クラウンは滝澤くんのお父さんのお下がりだそうで、家が遠い彼はいつもこの車に乗ってバイトにやってくる。車内はコロンみたいな良い匂いがした。これに乗せてもらうのはその時が二度目で、一度目はバイト先の皆で焼肉を食べに行った時。その時は他の人も一緒だったし、ボクは後部座席に座っていた。まさか二人きりで、しかも助手席に乗せられるなんてね……、妙な成り行きになっちゃったなぁ、とか今さら考えてた。
レストランかドライブインでも行こうか、と滝澤くんは提案したけど、喉を通る気がしなかったので遠慮した。行先もなく、クラウンは夜のアスファルトを走っていく。オーディオからは音量を絞ったジャズが流れていて、滝澤くんはますます村上作品の登場人物みたいだった。
「あれ、何かな?」
信号待ちになった時、滝澤くんが静かに尋ねた。
「あれって?」ボクはどきっとしてしまう。
「ほら……、君のお尻から生えてた……」
ボクが訊きたいくらいだよ、そんなの。
たっぷりと時間を費やしてから、ボクは尋ね返した。
「何だと思う?」
ふっと彼は息を漏らす。
「尻尾に見えたけど……、そういうファッション?」
「ファッション違う」
「じゃあ、何?」
「生えてきたの」ボクは車窓の景色から滝澤くんへ目を向けた。「信じられないかもしれないけど……」
信号が青になって、緩々とクラウンが走り始める。彼の運転する車に乗って、ジャズを聴きながら、駅前のちかちかした夜景を見上げていると、なんだかニューヨークとかそんな憧れの都市を走っているような心地がする。ずっと遠いところにいる気分っていうのかな。気が遠くなるってこのことかもね。
「最近、よく話題になっている人がいるけど」間を置いてから、滝澤くんが言う。「えっと……、なんて名前だっけ。女の人。猫の耳が生えてきたって」
「森崎岬」
その頃は既に先輩はメディアに引っ張りだこだった。老若男女、誰でも知っている人物になっていた。
「そう、その人。この辺の人だって聞いたけど」
「ボクの先輩」
「え?」滝澤くんが横目でボクを見る。
「その人とボク、先輩後輩なの。仲良くて、一緒にお酒飲んだり、遊んだりする」
さすがの滝澤くんも驚いたようだ。いつも凪いでいる表情が強張っていた。
「その先輩さんも、尻尾が生えているの?」
「ううん。先輩は耳だけ。ボクは尻尾だけ」
「どうして生えたの?」
「知らないよ」ボクは思わず笑ってしまう。本当は泣きたい気分なのに。「でも、原因は何となくわかってるんだ」
ボクは事の成り行きを説明した。自分で話しながら、途方もなく非現実的に思えたけど、その裏付けとしてボクのお尻には尻尾が生えている。本物の、現実の、猫の尻尾だ。
滝澤くんは黙ってボクのお話に耳を傾けてくれた。失笑もしないし、胡散臭い目もしない。誠心誠意聞いてくれてるって感じ。だからボクも、途中からなんだか安心して、すらすらと話せた。他の男の子だったら、やっぱりこんな具合にはいかないんじゃないかなって思う。
「そう……、話してくれてありがとう」彼は聞き終るとそう言った。
「滝澤くん、信じてくれる?」
「信じる」彼は頷く。「実物も、見てしまったわけだし」
「誰にも言わないで」
「言わない。約束する」
「よかった」
緊張が解けて、思わずにっこりした。つっかえていた重苦しい鉛をようやく取り外せた気分だった。今なら先輩みたいに、カメラのフラッシュに包まれても平気でいられる気がした。
でも、どうして滝澤くんが、わざわざガソリンを無駄にしてまでボクの話を聞いてくれたのか、よくわかんない。そりゃ、実際に尻尾の生えている人間を見てしまったら、普通は気になって仕方ないだろうけど、でも、こんな干渉を試みようとまでするだろうか。それよりは自分の見間違いや気のせいで済まそうとするのが人情じゃないかな。普段がクールなだけに、不審に思われるような真似までして確かめようとするのが、なんか滝澤くんらしくない。
そういうことを、ボクは拙い口調になりながらも訊ねてみた。そうしたら、こんな返答が返ってきた。
「最近のカノン、元気がなかったから」
「え?」ボクはきょとんとする。
「無理している感じがあったから、気がかりだった」
「あ、そうだった?」
「心配していた。夏頃からずっとそうだった」
いや、確かに落ち込んでいたけども、出来るだけいつもと変わらないように努めていたわけで、まさかそれを見破られていたとは思わなかった。我ながら健気で迫真の名演技だと思っていたのに……、侮りがたし、滝澤くん。
でも、ええっと……、つまり、滝澤くんはボクの様子を注意深く見てくれていて、それで心配してくれたってことになるよね?
それって、どういうこと?
ボクは流れていく景色を眺めてぼんやり考えたけど、その時はそれ以上の思考ができなかった。バイト上がりで疲れていたし、秘密を一つ暴露できて気も高揚していたからね。まぁ、いいやって感じに片付けていた。
「その尻尾、どうするの?」滝澤くんが尋ねる。
「どうしようかなって考え中」
「病院には行かないの?」
「行かない。先輩が大事になってるし、今は別にそれほど困ってないし……、保留中」
「無責任な物言いかもしれないけど、あんまり悩まないほうがいい。尻尾よりもそっちの方が毒だから」
「ありがとう」ボクは素直にお礼が言えた。「うん、今日、滝澤くんに話せてずいぶん気が楽になった。助かりました」
「何もできないかもしれないけど、僕で良ければいつでも相談に乗る」
「うん……、迷惑かけるけど、またお願いするかも」
「迷惑なんかじゃない」滝澤くんは真剣な表情だった。
その夜はそんなやり取りで別れた。
クラウンを見送ってからのボクの足取りはやけに軽くて、頭上に浮かぶ満月までひとっ飛びできそうなほどだった。「月なんか行ったってしょうがないだろ」とか独りノリつっこみを挟んだりして、ご機嫌な調子でふんわりした月明かりを眺めていた。尻尾をぶらぶら夜風に揺らしてみたいなんて欲求さえあったね。
変なの……、今までずっと厄介に思ってたくせに。
そう考えると、ますますおかしくなった。
それから、ボクは何度か滝澤くんとお話するようになった。バイトの後にドライブしながら尻尾の相談をしたり、時には何でもない世間話をしてみたり……、時間が合えば二人で遊びに行ったりもした。今まで先輩と過ごしていた時間が、そっくりそのまま滝澤くんとの時間になったのだ。先輩はもはや滅多に会えない人になっていたから、その空白がぴったりと滝澤くんの存在で埋まったのだった。
何度目かのドライブの時、ボクは勇気を振り絞って、自分の想いを告白した。あの時はもうとにかくビビリまくっていたけど、でも、口にしなきゃ駄目だ、言えないままだと後悔するぞって、自分を精一杯励ましたのだった。
滝澤くんは、ボクを受け入れてくれた。
「本当は結構前から気になっていた」彼は赤くなりながら白状した。
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「じゃあ、もうちょっと態度に出して欲しいよなぁ。ボクを見て鼻の下伸ばすとかさぁ、そっちから告るとかさぁ。わびさびが過ぎるよそれ」
ボクはもう嬉しさやら恥ずかしさやら緊張やらで、変な汗をだらだら流していた。ぎくしゃくしたボクとは裏腹に、お尻の尻尾はぴょこぴょこ跳ねていた。ボクより一足先に喜んでいるみたいだった。
「いや、それは、らしくないから」滝澤くんが言う。
「らしくないって? 何が?」
「村上流じゃない」 彼は照れ隠しのように笑った。
あぁ、もう、滝澤くん大好き!
ボクは吹き出してしまって、それからもう堪えられなくなってしまって、彼の細い首筋に抱きついた。
◇
森崎先輩と再会したのは世間がまだ正月ボケしていた一月の日だった。ボクは大晦日から実家に帰っていたのだけど、久しぶりに先輩から「会わない?」って連絡がきたので、予定を二日も早めて戻った。
今やすっかりお茶の間にも、若者の流行の中心にも定着した先輩は、あの小さいアパートをとっくに引き払っていて、都心の一等地にある高層マンションに住んでいた。よく磨かれた大理石のロビーには三ツ星ホテルみたいな受付があって、物々しいガードマンまでいた。そんな場所をパーカーとジーンズとスニーカーという出で立ちで訪れたボクは、言うまでもなく場違いな存在。入るなり、ぎろって睨まれたもん。おぉ、こわっ。
先輩がわざわざロビーまで迎えにきてくれた。テレビに映っている時の何十倍も先輩は綺麗に見えた。びっくりしちゃったよ。髪型も変わってるし、服装だって夏の頃とは雲泥の差がある。サングラスまで掛けちゃって、往年のハリウッド女優みたい。まるで別人だったけど、頭の上にある猫耳のおかげで一目でわかった。
「久しぶり!」って先輩は嬉しそうに抱擁してくれた。周囲の目があるし、ちょっと恥ずかしかったけど、ボクも嬉しかったのできゃあきゃあ抱き返した。
「カノン、なんか大人っぽくなったねぇ」
「そんな馬鹿な、だって前会ってから半年も経ってないですよ。先輩こそ、めちゃくちゃ綺麗になってる」
二人でエレベーターに乗り、部屋へ上がった。もうね、感動しちゃったよ。真っ赤なふかふかの絨毯だとか、つやつやの床だとか……、マンションだけど、まるで豪邸みたいなんだよ。シャンデリアまであった。これが芸能人の部屋なんだなぁ。お姫様が寝るような、天蓋付のベッドまであった。
「凄いよ、凄い凄い! 先輩凄い!」ボクはばたばたしながら、ベッドの上等なスプリングを堪能する。
「コーヒー淹れたげるからこっちきな」先輩が手招きする。
すっかり部屋の様相は変わっちゃったし、先輩自身も別人みたいになっていたけど、それでも小さなガラスのテーブルを挟んで向かい合うと、やっぱり昔のままの先輩だった。やたらおっさん臭くて、磊落で、独自の理論を振りかざしてボクを煙に巻くあの頃の先輩だった。
「今じゃ、この猫耳に感謝してる」
しばらく馬鹿みたいに笑い合っていたけど、先輩は笑い疲れたのか、ふっと静かに呟いた。
「いいなぁ、ボクも尻尾じゃなくて猫耳が良かった」
「尻尾だって可愛いじゃん。売れるよ」
「いやぁ、でも、やっぱりボクの柄じゃないです。先輩は元々綺麗だし、こういう才能があったんですよ」
先輩が話してくれる芸能界事情がボクを無闇に興奮させた。あんまりにも程遠くて、そして煌びやかに過ぎて、現実感がじんじん麻痺するくらいだった。ボクの好きな俳優の連絡先も先輩のスマホには納められていて、危うく鼻血を垂らしちゃうところだった。
だけど、寂しさも感じたね。
先輩が遠くに行っちゃったっていう認識が改まるばかりで、もう以前のようにお酒を呑みながら馬鹿話もできなくなっちゃったんだなって、感慨深くなった。
「カノンは最近、どうしてるの?」
「ボクですか? ボクは変わらず、しがない大学生」
「もったいないな……、せっかく尻尾が生えてるのに」
先輩はもはや猫耳も尻尾も武器として見做しているらしい。猫だってそんなふうには思っていないだろう。
「でもでも、ボクなりに恩恵は受けています」
「恩恵?」
「なんとなんと、ボク、彼氏ができました!」
ボクは滝澤くんの素性と、彼との馴れ初めを熱く語って聞かせた。にまにまと笑みが留まるところを知らない。なんせ生まれて初めての彼氏で、しかもそれが滝澤くんであるというのだから、浮かれるのも無理はないだろう。冬は寒くて嫌いなのに、その年の冬だけはちっとも寒くない気がしていた。
不器用でがさつな後輩にもやっと恋人が出来たんだから、もっと喜んでくれるかと思ったけど、先輩はあまり面白くなさそうだった。最初のうちは「ふぅん」とか「そうなの」って気の無さそうな相槌を打っていたけど、ボクが熱を上げるに従って、だんだん無口になった。
ボクがようやく先輩の不機嫌に気付いたのは、喋り過ぎて喉がカラカラになってしまった頃だ。
「先輩、どうしたの?」ボクはコーヒーを飲んで尋ねる。
先輩はソファの背もたれに片腕を預けて寝そべっていた。テーブルの上のカップに手を伸ばし、一口コーヒーを啜る。何も言わない。一方的に話しちゃったから、もしかしたら不貞腐れたのかもしれない。
たっぷり時間を掛けてから、先輩はやっと口を開いた。
「あんまり入れ込むのは感心しないな」
「え?」ボクは見つめ返す。「何が?」
「その、そいつ、滝澤だっけ……、なんか胡散臭い」
「胡散臭いって、どうして?」
当然、ボクは戸惑った。ボクの伝え方になにか問題があったのかなって自分のお喋りを反芻する。
「そんな出来の良い男、いるわけないじゃん」先輩が鼻で笑う。先輩らしくない、厭味な笑い方だった。「イケメンで背が高くて車持ってて国公立……、ジャズと読書を嗜む無口な美男子、しかも親切で優しい。いないいない、いるわけない」
「いや、でも、実際いるわけだし」ボクはもごもご口ごもる。
「カノンは経験無いからわからないかもしれないけどさ、そういう男ってだいたい裏があるのよ」
「裏って?」
「そうだね……、暴力振るったりとか親のすねかじりとか二股掛けるとか。顔の良い奴ってだいたいそういう奴なんだからさ、気を付けた方がいいよ」
「滝澤くんはそんなことしない」ボクはムッとした。「今は確かに親のすねかじりだし、車もお父さんのお下がりだけど、ちゃんと学費を返すつもりでいるし、車だって自分のを買おうとしてバイトを頑張ってるの。知ったようなこと言わないで」
ボクは言いながらも心配になった。どうして先輩、滝澤くんのことを酷く言うんだろう。喜んで祝福してくれると思ったのに。
「なにムキになってんの」
「先輩こそ、変な因縁つけないでくださいよ」
「因縁? まさか……、心配してるだけじゃん」先輩は笑うけど、いつもみたいなスカッとする笑い方じゃなかった。ちょっと引き攣った感じだ。「だいたい、その滝澤って奴、あんたの尻尾見てから近づいてきたんでしょ? それってつまり、珍しい奴だって思われただけなんじゃないの? 尻尾に目が眩んじゃってさ」
「そんなこと、ないです」ちょっとつっかえてしまう。
もちろん、滝澤くんのことは信じているけど、なにせ彼は無口で大人しいものだから、まだ存分にボクへのろけてくれない。付き合い始めて時間も浅いし、彼の本心がまだよく把握できていなかったんだ。
「とにかく、あんまり浮かれないほうがいいね。先輩からのありがたい忠告だと思いな」
おどけた口振りだけど目が笑っていない。ますます不機嫌になっていく気配があった。
先輩とボクはなんだかんだで付き合いが長い。たいていはへらへら笑い合ってるけど、険悪なムードになる時も少なからずあった。その経験の賜物なのか、その時のボクには不思議と直感するものがあった。またまたピーンと来たわけ。尻尾だってもぞもぞしていた。
「先輩、もしかして嫉妬してるの?」
思うよりも先に口から出ちゃった。でも、これは不用意な言葉だった。言葉にしちゃったら最後、いよいよ引き下がれない領域まで踏み込んでしまう分水嶺だった。
「あ?」と案の定、先輩は声を荒げる。それから誤魔化すように咳払いして、また厭味っぽく笑った。
「なんであたしが、あんたに嫉妬すんの?」
「だって……」
しまった、と思ったけど、ボクは構わず続けていた。滝澤くんを否定されたという事実が、胸の内の結構深い所に突き刺さっていたのだ。
「ボクの話になった途端に機嫌悪くなったじゃないですか。根拠もないのに滝澤くんのこと悪く言うし」
「だから、それはあんたのこと思って言ってるんだっての。ちゃんと話聞けよ」
「嘘だよ。だって、さっき、尻尾を武器にしろとか言ってたじゃん。それって、男作れとか、金儲けしろとか、そういうことでしょ」
「あんたの場合は武器じゃなくて餌になってんだよ。危なっかしいから注意してやってんのに、なんでそういう態度取るわけ?」
それはこっちの台詞だっつの。なんでそんな恩着せがましい態度取るわけ?
「滝澤くんは尻尾が生える前から気になってたって言ってくれたもん」
「言っただけだろ。言うだけなら誰でもいくらでも言える。顔の良い男は口も上手い。うぶなカノンちゃんはころっと騙される」
「どうしてそんなこと言うの?」
「うるさいな!」
とうとう先輩が怒鳴り始める。
ますます引き際が難しくなってきた、とどこか冷静にこの状況を考えていたけど、ボクはそれでも引き下がれなかった。意地みたいなのがむらむら熱くなって、加速していく自分の感情と鼓動が全てだった。
「先輩、なんかおかしいよ、今日」
「何がおかしい? あたし、いつもこんなだよ。勝手なイメージ押し付けないで」
「そっちこそ、滝澤くんに勝手なイメージ押し付けないで」
「わかんない奴だな。いい? あたしはさ、先輩として後輩のあんたを心配してやってんの。尻尾のおかげでちやほやされてるから、そんなに浮かれんなって注意してんの」
「それ、先輩じゃん。猫耳のおかげでこんな生活出来ているわけでしょ」
「なんだと!」
それからはもう酷い有様だった。ちょっとここでは言えないくらいの汚い罵倒の応酬。思い出すだけで腹立たしいし、それと同じくらい自分が情けなくなる。
先輩と喧嘩するのは初めてじゃないけど、この時が一番激しかったと思う。しかも、後ですっきり仲直りできるタイプの喧嘩じゃなかった。ずっと尾を引くような、どろどろした感じの口喧嘩だった。
先輩相手にこんなこと言うのもなんだけど、ボクもおとなげなかったと思う。もう少し柔和に対応できなかったものかと後悔してる。だけど、その時はもうすっかりトサカに来ていて、そんな自制も反省も全くなかった。
「帰る!」
「帰れ!」
「お邪魔しました!」
玄関ロビーを出た後も腹の虫が治まらなかった。マンションを仰ぎ見て、石でも投げつけてやろうかと思った。先輩だけじゃなくて、その高飛車な建築物すらボクにはムカつく存在だった。
先輩なんか大嫌いだ。
もう会ってやるもんか。
せめてもの発散に唾を吐いてやってから、ボクは大股になって自分の貧相なアパートへ戻っていった。泣きはしなかったけど悲しかったよ。自分の人生で、何か大切なものの一部が抜け落ちちゃったみたいにさ。
尻尾がぶるぶる震えていた。それを感じて「あぁ、ボクは今、悲しんでいるんだな」って思ったっけ。ボクよりずっと素直な奴なんだ、このもふもふは。
◇
それから、あっという間に二年が経っちゃった。
時が経つのは早いもんだよね。光陰矢の如しなんて言うけど、亜音速を抜けた戦闘機くらい早かったね。ボクにとってのソニックブームは、やっぱり先輩のマンションを訪れたあの日だったと思う。
ボクは相変わらず大学生を続けていて、留年もせず無事三年生になっていた。我ながら意外と根気あるよね、ボクって。偉いぞ、カノン。
先輩の意地悪な予想はやっぱり外れていた。滝澤くんは顔の良い男にありがちな暴力漢や変態に豹変することなく、誠実さを保ってラブラブの関係でいてくれた。独り暮らしのボクを気遣って、二年生の終わりから家賃折半の同棲もしている。朝起きて、二人で大学に出掛けて、夕方にはピザ屋さんで合流して、二人でお買い物とかレンタルビデオ屋なんかに行って、それで一緒の部屋に帰る。お風呂も一緒に入るし、寝る時も当然同じベッド。ボクって、もしかして今が一番幸せなんじゃないかなって、日に三度は考える。一生の幸せをばしばし使い込んでいるみたいで、ちょっと怖いくらいだ。
二年経っても、ボクのお尻にはまだ尻尾がぶら下がっている。これだけが不安な点。ボクが今の幸せを享受できるのはこの尻尾のおかげって言っても過言じゃないんだけど、それでも尻尾は尻尾、人間に生えていちゃいけないものだもんね。まだ滝澤くん以外には誰にもバレていないものの、油断のならない人生、いつどこで破綻が起こるかわからない。
だけど、二年も経つとさすがのボクも慣れちゃって、むしろもう完全に体の一部として扱っている。手足と同じように自分の意思で使いこなしてもいる。尻尾なんか何に使うんだって思われるだろうけど、これが意外と、ふとした瞬間に重宝するんだ。たとえば、お風呂で頭を泡立たせながらリンスを手許に運んだりとか、フライパンを振っている時に後ろの棚の引き出しから食器を出したりとか……、狭いアパートじゃ何かと便利なわけ。
別に訓練したわけじゃないけど、いつの間にかそういうことができるようになった。ぴんと張ってみたり、ぐにゃっと曲げてみたり、自由自在。上手い具合に折り曲げてハートの形にするなんて芸も体得しちゃったもん。
「猫より器用だね」と滝澤くんは評価してくれた。
そんなわけで、無理に取り除く必要もないんじゃないかって結論に二人で落ち着いた。だから、医者にも行っていない。最初の一年は、さらに猫化したらどうしよう、と気が気じゃなかったけど、そんな兆候も今のところない。本当のこと言うともう全く気にしていないのだ。だって、ボクには滝澤くんがいるもんね。あは!
「森崎さん、最近どうしているのかな」
勉強の合間とか、二人でご飯食べている時とか、休みの日にベッドでうだうだしている時、滝澤くんはしょっちゅう先輩のことを尋ねてくる。最近になってからのことだ。一回も会ったことないくせにやたら心配しているみたいなんだよね。
そんな時、ボクはぶっきらぼうに首を振ることにする。
「わたし、知らない」
「会ってないの? 連絡とかは?」
「ない。知らないよ、あの人のことなんか」
滝澤くんもそれ以上は訊かなかった。ボクの機嫌を損ねたくないんだろうね。
彼が心配するのも無理はなかった。森崎先輩、最近、色々大変みたいだから……。
一時期はマスコミの熱もひとまず落ち着きを見せていたのに、この頃になってまたもや先輩はお茶の間を騒がせるようになっていた。
スキャンダルがあったんだ。ある男性タレントと妻子持ちの俳優との間で二股掛けちゃって、それがバレちゃったんだってさ。しかも、相手の男二人がどちらも人気のある人達で、マスコミだけじゃなくファンも巻き込んだ騒ぎになってる。二年前とは違って、もっと露骨で厭味ったらしい盛り上がり方だった。
先輩が不倫だとか浮気だとか、そんなことする人だなんて思っていなかったから、ボクはショックだった。猫耳を見せられた時よりもショックだったかもね。
でも、ボクは先輩に連絡をしなかった。二年前から絶縁状態になっていて、喧嘩した最後の日のことも苦笑一つで反芻できるくらいにはなっていたけど、気まずいというのか、きまりが悪いというか、どうしても電話を掛けることができなかった。昔の番号を今も使っているとは思えないし。
向こうからだって連絡はこなかった。忙しいんだろうけど、きっと、先輩もボクと同じ気持ちになっているのだと思う。これはボクが発見した法則だけど、自分が気まずい思いをしている時って、相手も絶対同じような思いをしているんだよね。あ、もちろん、それなりの仲になっている人に限った話だけど。
どれだけウマが合っても、先輩はあくまで先輩だから、後輩のボクに対して面子のようなものを意識しているのかもしれない。体裁っていうのかな。馬鹿馬鹿しいけど、こういうのって複雑だよね。そう簡単に切り離せられない。素直になりたいのに、立場上、素直になるわけにいかないって状況、よくあるもん。
そんなことを云々かんぬん考えていると、久しぶりに気が滅入ってきた。ベッドから這い出る気力も湧かない。雨の日の日曜日で、鈍色の窓には水滴が伝っていた。こんな憂鬱な朝は、尻尾も落ち込んでぐったりしちゃってる。
ベッドの向かいのテレビには先輩が映っている。フラッシュに囲まれ、逃げるように建物へ入り込んでいく姿。サングラス、金髪、ハリウッド女優が着るようなスリットの入ったドレス。頭の上の猫耳が今でも健在だ。悪いジョークのように、いつまでも付き纏って離れない感じだった。
ボクの表情に気付いたのか、滝澤くんはリモコンでテレビを消した。途端に部屋は静まり返って、遠いクラクションと雨の音だけになる。
「今日は、どこかに行く?」
彼の問いに、ボクは枕に頭を乗せたまま首を振る。
滝澤くんは無言でボクの隣に潜り込み、頬杖をついて壁の一点を見つめた。朝の滝澤くんはいつも以上にぼんやりしている。
「あんなことする人じゃなかったのに」ぽつりと口から零れる。
「あんなことって、浮気騒動のこと?」
ボクは頷いた。
「二年前に、先輩と喧嘩したっていうのは話したよね?」
「うん」
「あの時から、なんか先輩、別人みたいになっちゃってた」
「環境が変わったからだと思う」
「そうだね」ボクは身を捩って彼に向く。「昔の先輩って、凄くカッコよかったんだよ。バレー部の時とか……」
「知ってるよ、何度も聞いたから」
「あれ、話したっけ?」
「君は気付いていない節があるけど、カノン、よく森崎さんの話をしてるよ。酔っ払った時とか」
「え、そう?」全く意識していなかったから驚いた。
「心配じゃない?」
「うーん、どうだろう……」 ボクは歯切れ悪く答えて、毛布に顔を埋めた。
そんなの、言うまでもなく心配だよ。当たり前じゃん。
だけど、ボクはまだ、先輩がボクの知っている先輩であると信じたかった。あの頃みたいに不敵に、からから笑って、世間の悪評なんか蜘蛛の子みたいに蹴散らして堂々と立ち回っているんだって思いたかった。だから、ボクなんかが心配したって何にも関係ない。先輩は強いもん。
バレー部で鋭いスパイクを放つ先輩を思い出す。
カッコよかったなぁ、先輩。
笑顔でハイタッチしてくる姿、男みたいに荒々しく汗を拭う姿、引退する日、ばしばしとボク達の背を叩いてくれた姿。どれもこれも、ボクの憧れた先輩だった。バレー部を引退してからも、いつもあっけらかんと笑っている。お酒を呑んで唸ったりして、寝ぼけ眼でコーヒーを啜ったりして……、猫耳が生えた直後はさすがに参っていたけど、でもその後にはそれを武器にして成功してやるって息巻いていたっけ。
たとえどんな苦境に立たされても、ボクは、またあの時みたいに跳ねのけて立ち上がる先輩を期待していた。もう繋がりなんて呼べないかもしれないけど、でも、これって変な繋がりだなって思った。心から尊敬している相手なら、顔を見なくても、声が聞こえなくても、ずっと身近に感じられて、信じることができるんだよね。変なの……。
「カノン? 寝たの?」
滝澤くんの声。
ボクは毛布を跳ね除けて、がばっと彼に抱きつく。
「おい……」苦笑している。
ボクは彼の胸板から顔を上げて、にっと笑ってみせる。尻尾でハートの形を作ってやった。
◇
世間って勝手だなって思う。
二年前には猫耳が生えた先輩を珍しがって、好奇心丸出しで、ちやほやして持て囃したくせに、ちょっとした不祥事ですぐに手のひら返すんだもんね。そりゃ、浮気はいけないことだとはボクも思うし、どこかの馬鹿な男みたいに正当化するつもりもないけど、でも、間違いや魔が差すことは誰にだってあることだ。責任を負わせるにしても、こんな無神経なやり方ってないと思う。
付け耳していた女の子はもう街で一人も見なくなった。皆、「岬可愛い」って呼び捨てで崇拝していたのに、今じゃ猫耳イコール尻軽女ってイメージで敬遠されている。鼻の下を伸ばしてた男達も、まるで自分がフッた女を嘲るような顔で先輩を笑う。
馬鹿だ、馬鹿だ、皆、馬鹿。
ボクは人知れず拳を握ったりするけど、まさかそれでぶん殴るわけにもいかない。あくまで素知らぬ態度を貫いて日々をやり過ごしていた。
尻尾の存在がバレていたら、ボクもあんなふうに笑い物にされて、槍玉に挙げられていたのかなって時々思う。それを想像すると背筋がぞっと冷たくなる。この悪寒と緊張の中で、先輩は日々を過ごしているのだと考えるとやるせなかった。
テレビは当然だけど、ネット上の風評はもっと酷かった。検索したら悪口しかヒットしないっていう散々な状況で、あるサイトでは、先輩が違法な手術をして猫耳をつけたっていうホラ話まで創作されてた。よっぽど暇なのか、ご丁寧にも偽造した書類や写真なんかを証拠と称してあちこち流している輩もいる。
バイト先でも、大学でも、先輩の名前はよく話題に挙がった。なんせ地元だからね、猫も杓子もって感じで皆が先輩の噂をする。一度なんか、バイト先の男の子達が先輩をネタに仕事中げらげら笑っていて、見かねた滝澤くんが珍しく叱責する場面もあった。
先輩のことを貶す連中は許せないけど、でも、これが全く知らない赤の他人のゴシップだったら、もしかしてボクも同じように馬鹿笑いしていたのかな。そんなことを考えると自分が情けなくなった。
先輩が事務所から解雇されるというニュースなんかも報じられ、その年の春から夏の終わりまでの長い間、先輩は世間の噂の的になっていた。やや落ち着きを見せ始めたのは暑さも和らいだ九月頃だ。
その日、ボクは大学の授業を終えた後、バイトの予定もなかったので、すっかり涼しくなった風を浴びながら、自宅まで自転車を漕いでいた。秋晴れというのか、夕暮れの空は高く澄み切っていて、オレンジの夕陽と僅かに残った群青の対照が綺麗だったのを覚えている。「今年は海行かなかったなぁ」だなんて、もう随分行ってないのにも関わらず、去年と同じ感傷を弄んでいた。
今日は滝澤くん、深夜までバイトだから簡単なご飯でいいかって、部屋着に着替えて、尻尾をぶらぶら振りながら冷蔵庫の中を確認していたら、携帯が鳴った。メールだ。滝澤くんかなって思ったけど、今は働いている時間だから、学校の友達かもしれない。
何気なく確認して、自分が呼吸を止めたのがわかった。
送信者が先輩だったからだ。
最初は「まだメアド変えてないんだ」って呑気なことを思った。突然過ぎて笑っていたかもしれない。ボクは台所に置いてる小さな椅子に座って、深呼吸してからメールを開いた。
でも、すぐに立ち上がることになった。
胸騒ぎはその前からあった。
再び服を着替えて、ボクは転がるようにして部屋を飛び出た。
◇
先輩のマンションまでの道のりが酷く遠く感じられた。帰宅ラッシュで狂ったように混雑した電車に乗り込み、都心の一等地をひたすら目指す。乗車中はずっと落ち着かず、車窓の風景をじりじり睨んでいた。だんだん暮れていく空を背景に影となって聳えたスカイツリーが、その日はとても不吉な印象だった。
先輩のメールは明らかに悪い前触れを報せていた。
一息では読み切れないほどの長文で、二年前、酷いことを言ったことに対する謝罪、ずっと謝りたかったという釈明、それから今の心境、周囲との軋轢、二年前からの自分の変化、そんなことがずらっと書かれていた。
そして最後に、先輩はもう一度謝っていた。
「駄目な先輩でごめんね」って。
それから「カノンはカノンらしく生きて絶対幸せになってください、さよなら」って書いてあった。
なんで、そんなこと、言うの?
なんで、さよならなんて……。
もちろん、すぐに電話したよ。先輩のメアドも番号もずっと消さずに持っていたんだから。でも、どれだけ鳴らしても応答はなかった。メールを送っても返信がなかったのだ。
地下鉄に乗り換えて目的の駅で降り、小走りで二年前に訪れた高層マンションを目指した。土地鑑がないので迷いかけたけど、先輩の住むマンションは遠目でもわかるほどだった。
ロビーに駆け込んでインターホンを鳴らした。応答はない。自動ドアも開かない。怪訝な顔をしたガードマンに事情を説明したけど、なにせお金持ち専用のマンションだから、普通のアパートの大家さんみたいに「はいそうですか」って具合に開けてはくれない。
だけど、ボクがあまりにも血相を変えて、しつこく食い下がるもんだから、向こうも多少不安になったらしく、ガードマンの同伴を条件にやっと許可が下りた。三十分くらいここで時間をロスしたと思う。
すぐにエレベーターに飛び乗り、先輩の住む階まで上がる。部屋に着くと、ついてきたガードマンが鍵を開けてくれた。もう一人、心配そうな顔をした管理人もついてきている。
広々とした玄関は照明も点かず、窓の日除けも下ろしてしまって暗かった。先輩の靴が脱ぎ散らかされているのがぼんやり見える。
「森崎さん」
ガードマンが呼びかけたけど返事はなかった。人の気配がない。奥のリビングまで照明は落ちているようだった。
「先輩!」
まどろっこしくなり、ボクは制止を振り切って部屋へ駆け込んだ。ガードマンの怒鳴る声が背後から追いかけてくる。
絨毯の廊下を走って扉を開ける。
部屋は暗い。
バルコニーのカーテンが揺れて、ちらちらと淡い夜光が入るばかり。
その傍のソファで、先輩は横になっていた。
「先輩?」
ボクは近づき、はっとして足を止める。
ぞっと総毛が立ち。
尻尾もぞわぞわ逆立つのを感じた。
先輩は目を閉じ、手足を投げ出した格好だった。
垂れた腕の先の床にはワイングラス。
それと、空になった薬の瓶。
あぁ、と息が漏れる。
後ずさり。
それから、床を思いきり蹴りつけた。
なんだよ、それ!
ボクは叫んでいた。
その瞬間、ぶわっと目が熱くなった。
なんで……。
馬鹿じゃないの?
何やってんだよ、もう!
「先輩!」ボクはもう一度叫ぶ。
馬鹿みたいに涙が出てきた。喉の奥が引き攣って、上手く声も出せない。それでも、遅れて入ってきたガードマンに怒鳴った。
「救急車!」
相手はぽかんと立ち尽くしている。
「何やってんだよ馬鹿! 早く救急車呼べよ!」
ボクはもう涙やら鼻水やらで、混乱のあまりわけのわかんないことになっていた。本当に、馬鹿ばっかりだよ、ちくしょう。
やってきた他のガードマンに引き剥がされるまで、ボクは色の失せた先輩の顔と、萎れた猫耳をずっと見つめていた。
◇
それからは記憶が曖昧なんだよね。もうすっかり動転しちゃって、目を覚まさない先輩について救急車に乗り込んだところまでは覚えてるけど、それから先のことはよく覚えてない。
とにかくずっと泣いていた気がする。病院に着いて、搬送される先輩を追った時も、待合室で座っている間も、夜遅くに滝澤くんが迎えに来てくれた時も、ずっと泣いてた。しゃっくりが出なくなって、泣きすぎて気持ち悪くなって、滝澤くんが肩を抱いてくれても、栓を抜いたみたいに涙だけがぼろぼろ流れてた。
きわどかったけれど、なんとか一命を取り留めたという報告を、医者から聞かされた。滝澤くんがその相手をしていて、ボクは椅子から立ち上がることもできないまま、ほとんど聞き流していた。
もちろん、先輩が助かって安心した。あと数時間遅かったらどうなっていたかわからないっていうから、ボクが先輩の命を救ったってことになる。気が抜けるくらい安心したし、もしも行かなかったらと思うと肝が潰れるほど怖かった。
でも、ボクが何よりもショックだったのは、先輩が自殺なんて馬鹿な手段を選んだって事実だった。先輩が助かっても助からなくても、それだけが消えてくれない真実だった。
まだ目覚めないから今日はもう帰ったほうがいい、と医者に言われた。滝澤くんに促され、ボクは素直に従った。病棟から出ると空が白んでいて、道路にはまだ車の姿がほとんど見えない時刻だった。
クラウンのエンジンをかけても、滝澤くんは何も言わなかった。ボクも黙っていた。どんな言葉も虚しく響く、そんな真空パックみたいな空気だったんだ。
ブルーアワーっていうのかな……、青く染まった早朝の風景を、ボクはずっと車窓から眺めていた。その頃にはもう涙も乾いちゃって、喉の下にあった苦しみも重みも不自然に消えていて、中身のないマトリョーシカにでもなった気分だった。
クラウンは首都高に乗る。下の車道よりもこっちの方が多く車が走っていた。大きなトラックがぶるるんって唸って、ボク達の乗るクラウンを追い越していく。そのテールランプがまだ冴え冴えしく光る時間帯だった。
その赤い光を見つめているうちに、ボクはいつの間にか、大昔の出来事を思い出していた。「昔ね」と意識するよりも早く、ボクは口にしていた。
「小学生の頃だけど、学校にね、野良犬が紛れ込んできたことがあったの」
滝澤くんは前を向いている。でも、小さく頷いたので、聞いてくれてはいるようだ。
「野良って話だったけど、もしかしたら捨てられたか逃げ出した犬だったかもしれない。毛並みが立派でさ、ところどころ汚れていたけど、血統書付みたいに立派だったの。わたしが、最初に見つけた。授業中で、ぼんやり窓の外見たら、その犬がいてさ、びっくりした。あ、犬がいる! って思わず叫んじゃって、そしたら皆も一斉に騒ぎ出してさ、先生の言うことも聞かずに外に飛び出したの」
「びっくりしただろうね」
「うん」
「犬が」
「うん」
ボクが微笑むと、滝澤くんも笑い返す。
「それから?」
「わたしも皆に混じってその犬のところに行ったの。あっという間に取り囲まれちゃったから、犬も怯えちゃってね……、逃げることもできずに、ぐるるって唸ってた。こっちは小学一年か二年だからさ、ビビる子も中にはいたけど、でも、怖くないよぉとかなんとか言って、撫でようとしてさ……、馬鹿だよね」
「うん」
「もう名前も忘れちゃったけど、同じ教室の子がさ、手を差し出したの。そうしたら、犬ががぶってその手を噛んじゃった。あ、犬って噛むんだって当たり前のことをやっと思い出して、血まで見ちゃったから、もう皆、阿鼻叫喚」
ボクは溜息と一緒に微笑を消した。
「可愛い、可愛いって言ってた子達も、皆怖がって、乱暴な男子なんかは殺してやるとか息巻いてさ……、保健所の職員がやってくるまで、ずっとその犬、追いかけ回してた」
「可哀想だね」
「そう……、可哀想だったと思う。だけど、その時はわたし、そんな風に考えられなかった。どっか行け、死んじゃえって、皆と同じように石投げたりした。わたしのせいであんなことになったのにね」
「うん」
「わたし、馬鹿だよね」
「そうかもね」
「かもね、じゃないよ。ドストレートに馬鹿だよ」
「その時は確かに馬鹿だったかもしれない。でも、本当の馬鹿は反省なんかしないよ。カノンは、馬鹿じゃない」
ボクは冴えない笑みを浮かべて、再び窓へ向いた。もう言葉はなかった。
どうして今、こんなことを思い出したのかな。
ずっと忘れていたことを、今さら……。
わざわざ感傷的になってさ……。
あの犬は、どうしたんだろう?
やっぱり保健所に連れて行かれて、殺されちゃったのかな。
人を噛んじゃったんだから、タダじゃ済まないよね。
あの子は何も悪くないのに……。
どうして、ボクは、あんな残酷なことを考えられたんだろう。
どうして、あの子のこと、愛してあげることができなかったのかな。
ごめんね……。
許してなんかくれないよね。
だから、神様が、天罰か何かのつもりで、尻尾なんか生やしたのかなぁ。犬じゃなくて猫の尻尾だけど、その心を知れっていうメッセージだったのかなぁ。
そんな取り留めのないことを、思い出してもどうしようもないことを、ボクは昇っていく朝陽を見つめながら、いつまでもいつまでも考えていた。
◇
三日振りに目を覚ました先輩は、言葉を話せなくなっていた。薬の後遺症なのか、ストレスが原因なのかわからないけど、上手く声が出ないらしかった。
先輩と再会しても、ボクは泣かなかった。先輩の方が辛いに決まっているから、後輩のボクが泣くわけにいかないじゃん。それに、言葉が喋れなくなったって、先輩が無事に目を覚ましてくれたのはやっぱり嬉しいことだもん。死ななくて本当に良かった。
先輩は虚ろな眼差しで病室の窓を眺めて過ごすようになった。ボクが話しかけると少しだけ笑ったり、頷いたりしてくれるけど、ふとした拍子にはいつも人形みたいな顔をして、じっと窓の風景を見つめているんだよね。
先輩、やつれたなぁ。
テレビで観た時は気付かなかったけど、こうして目の前で見ると、頬がこけたのが一目でわかる。髪もすっかり力を失くしてパサついてるし、肌も艶がない感じ。仕方ないことだけど、仕方あろうがなかろうが、見ている方はやっぱり辛い。忌々しいけど、猫耳だけが元気よく天井へ向いていた。
先輩が入院したことは、翌日からさっそくマスコミが嗅ぎつけて、またまた世間が騒ぎ立てそうな雰囲気だったけど、もう皆、森崎岬という猫耳女性に飽きたのか、それほど食いつきはしないようだった。自殺未遂ではなく、病気という報道になっていて、これはたぶん病院側が取り計らってくれたんだと思う。マスコミ関係者の立ち入りも厳重に禁止していたからね。
ボクは出来るだけ、先輩のお見舞いに行くようにした。身近にあったおかしな出来事を語り、愚痴っぽく大学の話をしたり、話題が無くなれば昔のことなんかを話したりした。
後になって、先輩には辛かったかもしれないって気付いたけど、その時の先輩はふんわりと微笑して、何度も頷いて耳を傾けてくれた。
先輩に許可を取って、滝澤くんを連れてきたこともある。かつて知りもしない彼を散々に罵倒した先輩だけど、いざ実物の滝澤くんと面を合わせると、感謝しているような眼差しで彼を迎えてくれた。それがボクにこの上ない安心をもたらしてくれた。
そんな静かな生活が、二か月以上も続いたかな。
年の瀬になって、世間が落ち着かない雰囲気になってきた頃、突然、先輩の声が戻った。いつものようにボクが先輩相手に一方通行で話していた時だ。進路についての話題だった。
「ブライダル関係の仕事してみようかなぁって思うの」
ボクは就職説明会で偶然耳にした説明をそのままに言ってみる。それから、笑った。
「結構きついらしいけど、なんか良いなぁって思いません? 人の幸せをお祝いしてあげるっていうの、なんか素敵。わたしには似合わないって思うかもしれませんけど」
「わたしって」先輩の口から枯れた声が漏れ、ふふっと笑った。「それが一番似合わんなぁ」
不意打ちだったこともあり、ぽかんとした後、ボクはうっかり泣いちゃった。先輩の痩せこけた体に抱きついて、うわんうわん泣いた。尻尾もぶるぶる震えて、まるで咽び泣いている感じだった。
「ごめんね」って先輩も泣きながら謝ってた。猫耳がぶるぶるしてるのがちょっとおかしかった。「いいよ、いいよ」ってボクは泣きながら笑っちゃって、そうして抱き合っているところを、飲物を買って戻ってきた滝澤くんに目撃されてしまった。彼は気まずそうに退室して扉を閉めた。
ボクと先輩は顔を見合わせ、それからぷっと吹き出して笑い転げた。もうすっかり昔の二人だった。
◇
「ね、先輩」
「ん?」
「退院したら、高校行ってみましょうよ」
それはなんとなしに思いついた提案だったけど、先輩は怪訝な顔もせずに「いいよ」と頷いてくれた。
退院の日、出待ちしてる取材者達の目を避けて、ボク達はクラウンに乗って病院を後にした。まるで映画のスパイか脱獄囚になった気分で、先輩には悪いけどめちゃくちゃわくわくした。
病院の敷地を出た後の車内で、ニット帽を被った先輩が、猫耳を手術で取るつもりだと話してくれた。ボクは頷いたきりで、あえて理由は訊かなかった。そんな野暮なこと、しないよ。ちょっと寂しい気もするけどね。
滝澤くんは少し不安そうだった。
「切除するのは結構ですが、もう少し時間を置いた方がいいと思います」
「なんで」先輩よりもボクの方がムッととしてしまう。
「今まで猫耳で注目されていた人が、その猫耳を取り除くとなったらまた注目を集めるかもしれないだろう。森崎さん、芥川龍之介の『鼻』っていう小説、知りませんか?」
「鼻?」先輩が聞き返す。
「芥川関係ない」ボクは言い返す。
「教訓の話だよ。和尚の二の舞だ」
「滝澤くんって結構面白い人だね」
先輩がからから笑うと、ハンドルを握る滝澤くんは前を向いたまま赤面した。
ボク達の地元に着くと、先輩の眼差しは懐かしそうに細まった。後部座席に座っているので、助手席のボクはミラー越しにそれを見ていた。
「あ、そこ右」ボクは前のめりになって指す。
母校への道のりだった。郊外の、畑ばかりの土地にででんと建っているから、途中まで行けばもうナビゲーションは必要ない。
冬休み中なので学校は静まり返っている。部活動の掛け声がどこかで響いているだけだ。校門の前でボクと先輩は佇み、正面の校舎を眺め、次は少し脇道に入って体育館や部活棟を眺めた。
数年前まで、ボクと先輩はここに通っていたんだ。制服のスカートなんかひらひらさせて、通学鞄をたすき掛けにして、「おっす」とか「おはよー」とか挨拶交わしてたんだ。
体育館の蒸し暑さも、肌に蘇るようだった。
「あれ、バレー部かな?」
「かもね」先輩は頷く。
ファイトーって、呑気な掛け声が体育館から聞こえる。
後輩も先輩も関係なく、大声で互いを叱咤し合うんだ。
カノン、ファイト!
岬、ファイト!
そんな感じ。
笑っちゃうよね。
ファイトって何だよ。
何とファイトすんのさ。
頑張れって意味だよね、たぶん。
もうこんなに、頑張ってるのにね、ボク達。
横を見ると、先輩も笑っていた。
あの頃みたいに笑いながら、静かに泣いていたよ。
目尻から零れた涙が透明な筋を描いて、綺麗な雫になって、顎先から垂れていた。そこに虹が掛かる幻想を見た気がした。
先輩の猫耳が、風に吹かれて揺れている。
異形の象徴。
朽ち折れたかつての武器。
先輩のこの猫耳姿も、もうすぐ見納めになるのかって思うと、やっぱり惜しい気がした。そんなこと言ったら「ふざけんな」って怒られるだろうけどさ。
でも、猫耳があってもなくても、先輩は先輩だよね。
そうだよ……、最初から言ってたじゃん。
いつの間にか、そんな当たり前のことも忘れちゃうんだよね。
自分らしくっていうのが、本当は、一番難しいんだよね。
大丈夫。
ずっと変わんないから。
ずっと、ずっと、先輩は、ボクの大好きな先輩だから。
尻尾がむずむずしている。
泣きたがっているんだ。
でも、もう泣いてやるもんか。
そもそも泣く理由なんかないし。
滝澤くんだって、離れたところからこっち見てるし。恥ずかしいし。
泣かなくても、誰かがボク達を愛してくれる。
猫耳がなくても尻尾がなくても、ボク達がボク達を全うできれば、きっと誰かが愛してくれるよね。
違うかな?
風が冷たくて、ぶるっと身震いが起こる。
でも、胸のうちは不思議と温かかった。
変なの……。
先輩見てたら、猫の心が少しわかった気がしたよ。
いや、そんな話はどうでもいいのだ。
問題は過去にあるのではなく現在、友達ではなくボクに起こっているわけ。それも極めて重大で、さっきの小説みたいにぶっ飛んだ出来事。はっきりわかっているのは、昨日寝る前までボクのお尻には何も異常がなかったはずだよねってこと。仰向けで寝るから、異物があればベッドのクッションの具合でわかりそうなものだ。
それが、今朝はあるはずもない異物感で目が覚めた。
女として無難に十八年間生きてきたつもりけど、ここにきて新しい生理現象が始まったのかなって寝ぼけた頭で考えた。女の体って不思議だなぁ、人体の神秘だなぁってさ。
いやいや、そんなはずない、そんなはずない。
人間のお尻から尻尾が生えるなんて聞いたことがない。
でも、いくら聞いたことがないって頭を振っても、ボクのお尻からは確かに尻尾が生えていた。灰色の体毛で覆われた尻尾だ。それがこんもりとした柔らかい感触でお尻にあって、ぎょっと飛び起きたのだ。
なんだろ、これ。
姿見へ振り返りながら観察した。
三十センチ、いや、もっとあるかな。ふさふさした毛糸の束みたいなのが、お尻の……、詳しい描写は恥ずかしいから省くけど、お尻と腰のちょうど中間くらいから生えている。立ち上がってみると、ぶらぁんとやる気もプライドも無さそうに垂れ下がっていた。試しに引っ張ってみたけど、接着剤とかで繋がっている感じではない。もっと強く引っ張ると、神経の根っこを引っ張るみたいにヒリヒリ痛んだ。これがめちゃくちゃ痛くて、この尻尾はボクの体の一部なんだって悟るのに充分な痛さだった。
引き千切るのは諦め、昨夜に何をしていたかを必死に思い出す。お尻から尻尾が生えてくるようなことをしたかなぁ? 何をどうすれば尻尾が生えてくるのか激しく疑問に思ったけど、それはとりあえず棚上げにしておく。
別に変わったことはしていない。今日と同じくらいの時間に起きて、大学に行って、その後はバイトに行って、それから森崎先輩の家でお酒を呑んだ。まぁ、いつもと変わらない生活。ここ最近のボクの日常。そんな連続した退屈な日々の中に、尻尾が生えてくる要因なんて見当たらない。
独りで考えていても埒が明かないし、じわじわと不安も込み上げてきたので、ボクはトースト一枚だけ食べてさっさとアパートを出た。大学に行く前に森崎先輩のアパートを訪ねるつもりだった。心当たりってほどでもないけど、尻尾が生える原因っていったら先輩の家しか思い当たらなかったから。
午前中だけど、夏の陽射しはもうすっかり強くて、今日も一日暑そうだった。アパートに隣接した雑木林からは蝉の音が狂った感じで鳴っている。近所のお婆さんが今日も日傘を差して散歩していて、アパートの階段を降りるボクに微笑んで会釈した。ボクも反射的に会釈を返す。
いつもの日常の風景。
だけど、ボクはなんだか違う世界に迷い込んでしまった迷い猫のような気持ちだった。
◇
森崎岬先輩は高校時代の女子バレー部の先輩で、高校を卒業してからも何かと二人で会ったり、遊んだり、お酒を呑んだりしてつるんでいた。豪放な性格の人で、なんだかウマが合うのだ。今のとこ、ボクの一番のお友達。大学生ではなくてフリーターをやっている。ボクが通っている大学に入学したのだけど、一年の時に行かなくなって辞めちゃったみたい。どうでもいいけど、モリサキミサキってなんか語呂が良いよね。夏空に森崎岬尋ねけり。お粗末でした。
森崎先輩は栗色に染めた髪をぼさぼさに跳ね散らかして、ミイラみたいな顔でボクを出迎えた。寝不足か、二日酔いか。たぶん両方だろう。
「なんだ、カノンか」先輩は目を擦って言う。
申し遅れたけど、カノンっていうのがボクの名前。華音と書いてカノンって読む。流行りのキラキラネームみたいだけど、ちゃんとパソコンとかスマホの漢字変換で出てくるもんね。
「大学に行く前に寄ってみたんですけど……、寝てました?」
「うん」先輩は部屋の扉を開けて立ったまま眠ろうとする。
「先輩起きて!」
「うん……、大丈夫、コーヒー飲めば覚めるから」
コーヒーを淹れてくれってことだ。
いつものように台所をお借りして、水を張ったポットをコンロに乗せた。その間も先輩は台所の椅子に逆向きに座って、大きな欠伸を連発していた。上機嫌なカバみたいだ。シャツとパンツだけの恰好だし、寝癖も酷いし、目の下の隈も凄い。綺麗なんだからもっとしゃんとすればいいのに、とボクは例によってお節介を思う。
「あんた昨日、何時に帰ったの?」
「二時ですよ。覚えてないんですか?」ボクは呆れる。
「うーん、途中から記憶が曖昧」
「よくもまぁ、毎回深酒できますね。もう少しお酒控えたほうがいいですよ」
「素面で渡れる世の中かよ」先輩は漫画か何かの台詞をそのまま口にする。
ボクはポットを見つめながら、さてどう切り出そうかと悩んでいた。言わずもがな、お尻に生えた異物についてだ。
「ねぇ、先輩。昨日、ボクに何かしました?」
「何かって?」先輩は眉を上げて尋ね返す。
演技をしている様子はない。元々が大袈裟な人だから、どんな仕草もお芝居みたいに映るけれど、とにかくしらばっくれてはいないようだ。
「今日起きたら、なんか体が変で」
「どう変なの?」
「その、なんか、尻尾が生えて」
「は?」先輩は息を漏らして笑う。冗談だと思ったのだろう。
めちゃくちゃ恥ずかしかったけど、論より証拠、百聞は一見にしかずとか言うので、それに従ってボクはジーンズを下ろしてお尻を見せた。先輩はまだ笑っていたけど、その顔が凍りついたように動かなくなった。
「なにそれ? どういうファッション?」
「ファッション違う。わかんないんですよ。どういうことなのか、ボクが訊きたいです」
「それ、生えてんの?」
「だから、そう言ってるじゃないですか」ちょっと苛ついた。
「触ってみてもいい?」
先輩が慎重な手つきで尻尾に触れる。
自分でも信じられないけど、この尻尾にもちゃんと触覚というものがあって、先輩の冷たい指先の感触が背筋を通って悪寒みたいに伝わった。ボクはちょっと変な気持ちになる。変な気持ちって言っても、別にその、えっちな気分とかそういうのじゃないよ。そういうサービスはしないつもり。ボクってばこれでもお堅い清楚女子だから。えっと、何の話かな……。
ボクはこの時点でもまだ先輩の手の込んだ悪戯じゃないかって疑っていたけど、先輩こそ狐につままれたような顔をしていたので困った。早くも取り付く島がなくなっちゃった。
「どうしよう?」
唯一頼れる先輩が頼りない調子なのでボクはいよいよ不安になった。
「どうしようって……、取れないの、これ?」
「取れないです。引っ張ったら背骨抜かれるみたいに痛い」
「じゃあ、しばらくほっとけば? そのうち、抜けるか無くなるんじゃない?」先輩はにっこりする。「いいじゃん。可愛いし。猫の尻尾みたい」
まるで他人事だ。なんていうか、ムカつくってよりも、すっごく泣きたくなった。それから、昔から思っていたことだけど、どうしてこの人はこうあっけらかんと出来るのかなって思った。いざそんな笑顔と物言いを向けられると、呆れるのを通り越して羨ましくなるくらいだった。
◇
寝ぼけた先輩に相談しても解決しそうにないので、ボクはコーヒーを一杯ご馳走になってから諦めて大学へ出かけた。授業を受けて、お友達とお菓子を食べて、夕方にはバイトに向かった。
尻尾のことについては誰にも相談しなかった。早く医者に見せたほうがいいかもしれないと思ったものの、もう少しだけ様子を見ようと思ったのだ。よくわからないけど、先輩が言うようにそのうち抜けるか無くなるかもしれないじゃんか、と自分に言い聞かせていた。
尻尾のある生活なんて今まで経験したことないし、経験談も聞いたことがないから、対処の術も思いつかないけど、とにかくジーンズの下で毛がもふもふして非常にくすぐったい。講堂の椅子に座っている間はずっと落ち着かなかった。スカート着用ならまだマシだったかもしれないけど、それだと尻尾の存在が露見する危険性がぐっと増すし、なによりボクはスカートなんてひらひらした物は身に着けない主義だから駄目だ。
それに、この尻尾、なんだかわかんないけど動くのだ。勝手に動くというわけじゃないけど、ボクが驚いたり笑ったりする拍子にもぞもぞ動く気配がある。トイレの個室で改めて確認すると、ボクが焦っている時は水平にふらふらしていた。先輩が言っていたみたいに、まるで気まぐれな猫の尻尾みたいだった。
これ、本当に何なのかな。
体質? 病気? 障害? 進化の予兆? 遺伝子の突然変異? なんでもいいけど、どうしてボクだけこんな目に遭わなきゃなんないわけ? 今のところ特に困ってないけど、尻尾が生えているだなんてそんな馬鹿げたこと、将来、絶対厄介事になるに決まってるじゃん。にきびとか枝毛に一喜一憂するボクなのに、こんなトラブル捌けるわけないし。
一応、実家のお母さんに電話してみた。猫の尻尾が生えたなんて話したら仰天して腰を抜かすかもしれないから、当然それについては伏せて、それとなく遠回しに尋ねてみた。
「あのさ、うちの親戚で遺伝子の病気の人とかいたかな?」
「何よ、急に……、いないと思うけど」母は露骨に訝しんでいた。
「じゃあさ、じゃあさ、障害持ってた人とか……」
「いない」
「えっと、じゃあ……、そうだ、最近、猫の恨み買ったりしなかった? 野良猫殺したりとか」
「するわけないでしょう。阿呆か」
怒られてしまった。
遺伝説も祟り説も外れというわけだ。
ネットでも調べてみたけど、尻尾の生えた人なんてオカルトサイトかインチキの合成写真、あとは人間の骨格には尻尾の名残りみたいな部分があるだのないだの論じるサイトくらいしかなかった。皆、暇だなぁなんてしみじみ思ってみたりした。ボクはこんなに必死なのにね。
溜息ばっかりついていたせいか、バイト先ではちょっと仲間達に心配かけちゃったみたい。滝澤くんなんか「どうしたの」なんて声を掛けてくれた。あの無口な滝澤くんにそれを言わせるって相当だ。いつもわーきゃー喧しくしているから、黙りこくってるボクが珍しかったんだろうね。「なんでもない」って、本当になんでもなさそうに振る舞っている自分が可哀想で堪らなくなった。なんていじましいボク!
帰宅すると先輩からメールが着ていた。「あ、心配してくれてるのかな」なんて後輩らしく恐縮に思ったけど、確認してみると性懲りもなく「酒のもう」の一言。先輩なんか大嫌い。返信なんか無視だよ、無視無視!
これでも出来るだけマイナスに考えないよう努めていたのだけど、お風呂に入って鏡に映る尻尾をまざまざと見せつけられた時、その後でベッドに潜り込んだ時にはさすがに参った。やっぱり先輩の家に行ってお酒呑めばよかったなんて後悔もする。尻尾の感触を意識したら、じわっと涙が浮かんできちゃった。
もう、ずっとこのままなのかなって……、どうしようもなく悲しくなって、鼻を啜る。
でも、そういう弱気な自分が嫌だから、ボクは枕の上で頬を叩いた。だめだめ、負けちゃだめだ、カノン。たかが尻尾の一本や二本で人生振り回されちゃたまんないよ。そうだ、これを試練と考えよう。何の為に試練があると思う? それを乗り越えて強くなるためでしょうが!
尻尾のある人生を受け入れて、不安に負けず元気に生きていこう。そうしたら、きっといつか神様が褒めてくれるかもしれない。キリストだかブッタだか知らないけど、とにかく誰かが天国で頭をなでなでしてくれるかもしれないじゃん。そうだ、ガッツだぜ! カノン!
だけど、もしもこれが神様の仕業だったなら、あの世で力いっぱいシバいてやろう。
そんな決意をした辺りで、ボクの意識は眠りに落ちた。
◇
ふっと目を開くと、インターホンが鳴っている。カーテンから白い光が漏れていて、それで朝なのだと認識。途端にボクは昨日の出来事を思い出し、震えながら身を起こす。触るまでもなく、お尻の下にはもふもふの感触があった。がっくし。落胆の溜息、そして欠伸。
やっぱ、夢じゃないかぁ……。
ピンポロピンポロとインターホンが喧しい。時計を見ると、おいおい、朝の八時じゃないっすか。誰だ、土曜の朝のこんな時間に……、頭わいてんの? ぶっ飛ばすぞコラ! 自分で起きる分にはいいけど、他人に起こされると極端に機嫌が悪くなるカノンちゃんでした。
覗き窓も見ず「はい、なんでしょ!」とスーパー・とげとげモードでドアを開けると、共用廊下に立っていたのは森崎先輩だった。
「あれ? どうしたんですか?」ボクはきょとんとしてしまう。
「ちょっと……、中に入れて」
先輩は蒼褪めている。どうしたんだろ。
「は? いや、ちょっと……」ただならぬ様子にボクまでうろたえてしまう。「今、部屋散らかってますよ」
「いいから」
そう言って先輩は無理やり体をねじ込んだ。こんなふうに、何かにつけて強引な人なのだ。でも、その朝の先輩は明らかにいつもと様子が違っていたから、こっちも気圧されて反駁できなかった。
先輩は夏日だと言うのに毛糸の黒いニット帽を被っていた。ノースリーブの夏物のシャツなのに、そんな暑苦しい帽子を被っているものだから、途轍もなくアンバランスだった。
「先輩、どうしたの?」
「あんた、尻尾、どうなった?」先輩は質問で返してくる。
ボクが肩を竦めて実物を披露すると、先輩は食い入るように見つめていた。バレー部の試合の時みたいに真剣な表情で、ちょっと恐いくらいだ。
「ねぇ、先輩」まじまじと見つめてくるものだから、ボクは身の置き所に困ってしまった。「どうしたんですか? こんな朝早くから……」
「耳は?」先輩が言う。
「え?」
「耳」
「耳って?」
「耳は、生えてきてないの?」
先輩が突然手を伸ばし、ボクの髪を掻き回す。びっくりして、ボクは声も出せなかった。
耳が生えるってどういうことだろう? 耳なら顔の横にくっついているし、ボクは先輩と違ってショートヘアだからちゃんと見えているはずなのに。
でも、ただならぬ先輩の様子に、ボクは何となく予感めいたものを覚えた。そして、やっぱりそれは当たっていた。
先輩が無言でニット帽を取ると、さらさらと栗色の長髪が流れるのと同時に、一対の大きな角が現れた。ぴん、と天井に向かって伸びた突起だった。
ううん……、よく見ると、それは角じゃない。
むむ、とボクは思わず腕組みして唸る。
それは、耳だった。
人間の耳じゃない。もっと動物的というのか、見慣れた丸っこい人間の耳ではなくて、三角の形で前方に孔が向いた、大きな獣の耳だ。それが先輩の頭の上で反り返っているのだ。全体をふさふさした灰色の体毛で覆われていて、なんだか柔らかそうだった。
「猫耳」
ボクは一見するなり呟いた。
「やっぱり、そうだよね」先輩は蒼白になって言う。「猫耳だよね、これ」
気を落ち着かせる為、ボク達はひとまずコーヒーを飲むことに決めた。お湯を沸かして、二つ並べたカップへインスタントの豆を入れる。ざらざらと鳴る音が聞こえるくらい、ボク達は押し黙って音を立てなかった。
先輩はボクのベッドに座ってしばらく放心していたけど、唐突にわっと声を上げて泣き出してしまった。
「終わりだ……、あたしの人生、終わった」
「いや、ちょっと、先輩……」ボクは慌てて声を掛ける。
「こんな猫耳つけて、生きていけない。もうやっていけない。死のう」
「早まらないで……、ほら、コーヒー淹れましたから」
「あんたはいいよ! 尻尾だもん! パンツの下に隠せるもん!」先輩は毛布を叩いて激昂した。洟まで垂らして、むしろ潔いくらいの泣き面だった。「あたしは耳なのよ! 隠せないよ! てか、なんなのこれ! マジ信じらんない! 責任者出せ!」
「落ち着いて……、ほら」ボクはカップを差し出す。
ぐずっと鼻を啜って、それでも先輩は「ありがと」とおとなしく受け取った。涙ぐみながらも大事そうに両手でカップを包む姿が、まるで叱られた子供みたいだった。
「今朝、生えてきたんですか?」ボクは尋ねる。
「そう。起きたら生えてた」
先輩は恨みのこもった目で頷いた。誰を恨んでいるのかわからないけど、ボクだって誰を恨んでいいのかよくわかんないよ。昨日心底思ったけど、恨める相手がいないのってやっぱりキツイよね。たとえば地震とか津波とかさ、備えは万全だったのに、時々規格外の天災がやってきて、それで大勢が死んじゃうってことが稀にあるけど、あれだって本当は誰のことも恨めないんだよね。でも、とにかく誰かのことを恨まないと気が済まないから、家族や友達を亡くした人達は国とか政府を非難しちゃうんだよね。無茶苦茶だなぁって傍目から思ってたけど、あの気持ちが今はちょっとわかるかもしれない。
なんて、考察してる場合じゃないっつの。
現実逃避してた。危ない、危ない。
話を聞いてみると、ゆうべも先輩は独り深夜までお酒を呑んでいたらしい。早朝に喉の渇きで目を覚まし、洗面所まで朦朧と向かって、鏡に映った自分を見ちゃったという。酒精も吹っ飛び、すっかり気を動転させながらボクのアパートまで駆け込んできたという顛末だった。
「あぁ、もう、どうしよ」先輩は頭を抱える。猫耳の先端が震えていた。「もう外に出れない……、生きていけない……、なんでこんな仕打ち受けなきゃいけないわけ? あたし、なんかした?」
「あの、先輩、ちょっと落ち着きましょう。ボクだって、尻尾が生えて参ってるんですから」
「あんたはいいわよ、尻尾だもん」先程の烈火のような勢いはないけれど、それでも先輩は妬みがましく言った。
ボクは当然怒れない。まるで昨日のボクを見ているようだったからだ。愚痴を零したくなる気持ちが痛いほどわかる。むしろ、ボクより動揺している相手を見て、幾分か冷静になれたくらいだ。
このわけのわかんない異変について、それぞれの心境を吐露し合っていても落ち込むだけだ。なので、なぜ尻尾および猫耳が生えてしまったのか、原因について意見を交わそうと提案した。先輩もやっと落ち着いてきたらしく、こくこく頷いて同意した。
「でも、原因って言ってもなぁ……、わかんないよ。逆に、何をどうしたらこんな馬鹿なことになるわけ?」
「それはわからないけど……、でも、昨日の今日でボクと先輩の間だけにこんなことが起こってるんですよ。だから、なにかしらボク達に共通したことがあるはず。まずそれを考えてみましょう」
「二人で変なもん食ったとか? それともあたしの部屋に猫の祟りがあるとか?」
「部屋とか住居に原因があるんなら、もっと前から起こっているはずでしょ。一昨日と昨日の夜で、何か共通する出来事とかってないですか?」
「えっと、一昨日ってあたし達、お酒呑んでただけだよね?」
「そっすね」
ボクはどんよりと頷く。だって、それくらいしか思い当たる節がないんだもん。見当外れだ。お酒を呑んで尻尾や耳が生えるなら、世の呑兵衛は全員半獣化しないといけないことになる。呑めば虎になるって古い言い回しをおばあちゃんがしていたのをふと思い出したけど、あまりの手応えのなさに「おばあちゃん元気かなぁ」ってボクの思考は明後日の方を向くばかり。
だけど、意外にも先輩は閃いたようだった。
「そうだ、酒!」
「え?」
「一昨日、日本酒開けて呑んだでしょ」
「そうでしたっけ?」ボクは首を捻る。
よく思い出せないけど、確かにビールとかワインじゃなかったのは覚えている。
「あたし、昨日もあれを呑んだんだ」先輩は興奮気味に言う。「ほら、もう飲み切れないって言って、一昨日残したでしょ? 覚えてない?」
「それがどうしたんですか?」
「だから、その酒が原因なのよ!」
存外、先輩は真面目な顔だった。
「なんてお酒ですか? 名前は?」ボクは一応尋ねてみる。
「えっと、『猫の心』」
それだ! とボクは膝を打った。
馬鹿みたいな話だけど、その通り、馬鹿げた事態なんだから、多少の馬鹿は大目に見るしかなかった。
◇
先輩は地元の酒店で配達のアルバイトをしている。軽トラックを運転して、注文の品を客先に届ける仕事だ。何ダースもの瓶ビールや清酒なんかを運ぶから体力的にきついけど、その分、給料は良いらしい。先輩がフリーター生活を爛漫に謳歌できるのもその条件があってのことだ。
先輩が配達する得意先の一人に、変わったお爺さんがいたという。家族もいないのに広々としたお屋敷に住んでいて、なんでも昔、絹糸製品の生産か何かで成業した家系の人らしい。天涯孤独のお年寄りだったけど、とても人懐っこい人で、配達にやってくる先輩を孫娘みたいに可愛がってくれたんだとか。
『猫の心』なんて変な名前のお酒も、そのお爺さんからプレゼントされたのだという。いつの話かっていうと、なんともう半年も前の話だった。
「半年前のお酒なんて呑ませるなよぉ」
バスに揺られながらボクは苦言する。普通そんな黴臭い酒を人に出すか?
「だって、長期間置いてから呑めって言ってたんだもん」
目深くニット帽を被った森崎先輩が、声を潜めて反論した。
これは時間が経てば経つほど美味くなる上等酒だから、じっくり寝かせてから呑みなさい。
そうお爺さんに教えられ、先輩は忠実にそれを守り、台所の棚の奥に神酒の如く奉って寝かせておいた。それから案の定、酒の存在を忘れてしまった。そして、ボクがいつものように訪問した一昨日の晩、ちょうどビールを切らしていて、買いに行くのも億劫だった先輩は、ふと棚の奥の酒を思い出し、それを引っ張り出して呑んだのだ。
そういえば「これは銘酒だぞぉ、美味い酒だぞぉ」と先輩が嬉しそうだったのを思い出す。酔っ払うのは好きだけど、お酒の銘柄や味についてはとことん無頓着なボクはすっかりさっぱり聞き流していた。もう少し気を付けていれば不審がって飲まなかったかもしれないのに、と悔しく思う反面、だからといってこんな事態になるなんて露ほども思わなかったのは自明だ。
ボクと先輩はそのお爺さんの住居を訪ねに向かった。住所を訊くと、意外にもボクの通っている大学から近い。先輩は自転車を持っていないのでバスに乗ることにした。
「でも、そのお酒くれたのが最後だからなぁ、お爺さんと会ったの」
「それ以来、注文の配達はないんですか?」
「ないね。どうしたんだろうって店でもちょっと話題になったんだけど……、結構ご高齢だったし、もしかしたらって……」
先輩は言いながら、しきりにニット帽を指で直している。ボクも座席のシートの上でもぞもぞお尻を動かしていた。体勢によっては尻尾が潰れてしまって痛いのだ。
やがて目的の停留所でバスを降り、先輩の案内に従って歩いた。日射は激しく、アスファルトを撫でる風もむわっと熱い。気をつけないと熱中症になりそうだ。特に先輩は毛糸のニットなんて被ってるから、たらたらと汗を顔に流していた。お化粧をしていたらきっと酷いことになっただろう。
十分くらいかな、馬鹿みたいに暑い道のりをとぼとぼ歩いた。高台にある住宅街で坂道から振り返ると、住み慣れた街並みや大学の建物がそこから見渡すことができた。先輩曰くこの辺は土地の値が張るらしい。そう言われると確かに周囲の住居はどれも立派で、凝った建築が多かった。高い所にはお金持ちが集まる習性があるのかもしれない。外出の時は大変なのに、よく住もうって思うよね。でも、ここからの眺めは確かに気持ちいい。それに、そもそもお金持ちは歩いて外出なんてしないかもしれない。自転車にも乗らないかもしれない。あ、リムジン? それともベンツ? いやいや、もしかしたら、セグウェイに乗ってぶいーんと駆け抜けているかもね。
そんな空想を弄んでいるうちにようやく目的地へ辿り着き、しばらく二人で呆然と立ち尽くした。
「更地じゃないですか」
「うん」
いや、うんじゃないでしょうが。
お屋敷は跡形もなく姿を消していた。工事用の簡易フェンスが広い敷地に張り巡らされて、ショベルカーがぽつねんと砂利の中に残されている。その寂れた光景に眩暈が起こりそうだった。
日傘を差した上品そうな中年女性が通りがかったので(セグウェイじゃなくて徒歩だった)ここに住んでいたという老人について尋ねた。女性が言うには半年ほど前に屋敷を取り潰してどこか他所へ移ってしまったという。藁に縋る思いで行先を尋ねたけど、当然ながら知らない様子だった。ほとんどご近所付き合いをしないお爺さんだったようだ。
ボク達はへろへろとフェンスの日蔭に座り込んだ。脱力した途端、ぽたぽたと顎先から汗が滴った。
「あぁ、もう、無駄足じゃんか!」
ボクの呻きに、先輩は無言で頷く。寄る辺を失くした孤児のように愕然としていた。
「どうします?」
「どうするもこうするも……、どうしようもないじゃん」
先輩はやけっぱちのようにニット帽を脱ぎ捨て、汗で湿った猫耳を外気に晒した。ボクはぎょっとして辺りを窺うけど、幸い人目はどこにもないようだった。閑静な住宅街ってこういう場所を言うんだろうね。遠くで練習しているらしいピアノの音色だけが聴こえて、とても長閑な風景だった。
愛くるしい耳をぴんと跳ね上げ、先輩はしばらく瞑目して風に当たっていた。よほど暑かったのだろう、鼻の脇をつるつる滑っていた汗が、それでちょっと引いたみたいだ。栗色の髪が微かに揺れている。
「もうずっと、このままなのかな」先輩はぽつりと言う。
その一言で、今までよりずっとリアルな未来図が胸に圧し掛かった。尻尾を持った生活、獣の耳を持った生活。異形として社会を生きなければならない自分の姿が目の前にありありと浮かんだ。
「あの、病院に行って切除してもらいます?」ボクは提案する。
「医者でもなんでも、こんなナリ晒したら世間が大騒ぎになるよ」先輩は遠くの空を見上げながら言い返す。「マスコミだのなんだの来てさ……、見世物だよ、きっと」
確かにそれは嫌だ。ぶるっと身震いが起こる。
「あ、それじゃ、『猫の心』の製造元を当たってみるとか」
「さっきネットで検索したじゃん。わからなかったでしょ」
そうなのだ。不思議なことに『猫の心』なんてインパクトのある名前のお酒は、少なくともインターネット上ではどこにも見つからなかった。製造元不明のお酒ということになる。それって、法律に触れているんじゃないのかな。
「あ、じゃあ、『猫の心』の成分をどこかで分析してもらうとか。ほら、猫化する未知の成分が発見されるかも!」
苦し紛れに提案すると、先輩はきまり悪い顔で「昨日、全部飲んじゃった」と親告する。ボクは頭を抱えた。最悪だよ、もう。
車の音が響き、先輩が慌ててニット帽を被った。外国産の車が角を曲がって現れ、ボク達が屈んでいる前を通り過ぎていく。運転手は奇特そうな顔でボク達を見ていた。ぶぅんとエンジンを鳴らして通り過ぎる。
あんな目で見られるようになるのかなって思った。先輩も同じことを考えていたらしく、走り去った車をずっと見送っていた。
「まぁ、とりあえず、様子見でしばらく放っときましょうよ」
ボクはいたたまれずにそう言ってみる。
「よくもまぁ、そんな気楽なこと言えるね」先輩が険しい目で睨んだ。なかなか恐い。
「だって先輩、ボクの尻尾見てそう言ったじゃないですか。そのうち、抜けるか無くなるかもって言って」
ボクはあえて笑ってみせた。
落ち込んでいたってしょうがないと思ったんだ。だって、そうでしょ? 落ち込んで、頭掻き毟って、げぇげぇ泣き腫らして治るんだったら喜んでそうするけど、そんな都合の良いことあるはずないもんね。
楽天的な見方かもしれないけど、たぶん、猫耳も尻尾もそう危険なものでは無い気がする。少なくとも命に関わりはない気がする。そんなにぎゃあぎゃあ騒いでも仕方ないんじゃないかな。世の中には頭が繋がって生まれてきちゃった双子とか、指とか手足の数が少ない状態で生まれてくる人だっているのだ。不謹慎だって言われるかもだけど、そういう人達と比べたらずっとずっと恵まれているかもしれないなんて、思えてきちゃったりしなくもなくもなくなくないのだ。
「あぁ、あぁ、はいはい、そうでしたね、あたしが悪かったです、どうもすいませんでした」先輩は不貞腐れたように口を尖らせる。座ったまま、小石をこつんと蹴った。「罰が当たりました。他人事みたいに言って申し訳ありませんでした」
「むすっとしちゃって」
「うるさい」
「いいじゃないですか。猫耳可愛いし。似合ってますよ。萌え!」
「馬鹿!」
ボクの肩を殴りながらも、おかしかったのか、先輩はようやく笑ってくれた。いつもの頼もしい豪快な笑みじゃないけど、それでも白い歯を見せて微笑んでくれたのだ。
その笑顔を見てボクはやっと安心できた。やっぱり笑っている先輩の方が先輩らしくて、ボクは好きだった。
◇
それからのボクは、まるで意地を張っているみたいに規則正しい普通の生活を送った。いや、まるでとかじゃなくて、しっかり意識して意地張ってた。お尻からぶら下がってるものを無視しながら、大学とバイトと遊びに励んだ。
朝起きて、トーストを齧って、自転車で大学に行って、お友達とお昼御飯を食べて、バイトに向かって、夜は割引の御惣菜とか簡単な自炊で晩御飯を済ませる。時々お友達と遊びに行ったり、森崎先輩のアパートを訪ねたり、そんなありきたりな大学生活を慎ましく謳歌した。この意識して慎ましくというのが実に難しい。下り坂でブレーキを掛けながら自転車に乗るような、危うい消耗の日々だった。がぁぁっとスピードを出せたら、むしろ安定して転ばないのにね。
一日を穏便に済ませられても、寝る段になれば途端に胸がざわついちゃう。もしかしたら明日の朝には尻尾が無くなってるかもしれないっていう期待が半分と、その逆に、猫耳が生えたり掌に肉球が浮かんでいたりするかもしれないっていう心配がもう半分。髭や牙が生えたらどうしようなんて考え始めたら不安が膨れて寝付けなかった。まさに胸が潰れる思いって感じ。これ以上ぺったんこになったらどうしてくれるんだよ、まったく。
幸いなことに、尻尾が生えてきたところで日常生活に特に支障は生じなかった。ずっとお尻がもふもふしているくらいで、それに慣れてしまえばどうということもない。支障らしい支障といえばズボンしか穿けなくなったってことと、人前で裸になれないってことだけど、前も言ったようにボクはスカートなんて無防備なものは穿かないし、温泉やプールにも行かないから別段困りもしない。
そんなわけで、気苦労は大いにあるけれど、尻尾を隠すことに対する実際的な苦労はほとんど感じなかった。ゆえにばれもしない。その気になれば一生涯隠し通せるかもしれない。
でも、先輩はそういうわけにいかなかった。ボクの尻尾と違って、彼女の場合は頭に生えた大きな耳なのだ。本人が悲観していた通り、それはいつまでも隠し通せるものではなかったし、先輩には悪いけれど「やっぱ駄目だったかぁ」というのがボクの正直な感想だった。
先輩はずっと帽子を被り続け、アルバイト中にもなんやかんや理由をつけて被っていたらしいけれど、何かの拍子に露見してしまい、大変な騒ぎになった。病院に担ぎ込まれ、レントゲンを撮り、その猫耳が完全に頭蓋骨と接合されている事実が明らかになるとますます大変なことになった。
どこで聞きつけたのか、好奇心剥き出しのマスコミがどっと押し寄せ、テレビでは連日先輩の顔が映り、SNSでは猫耳というワードと先輩の名前がトレンドになって物凄い数の呟きが投稿された。芸能人でもないのにプライバシー無視も甚だしい。先輩が不憫でならず、ボクはムカっ腹をスカイツリーみたいに屹立させていた。
でも、「ばれちゃった」と電話越しに話す先輩の声は、意外にも嬉しそうだった。
「大丈夫? 何か酷いことされてない?」
「大丈夫、大丈夫。盗撮されるからカーテンは閉め切っているけどね」
先輩は笑う。無理して笑っているのかもって思った。
すぐにでも会いに行きたかったけど、先輩のアパートは今、飴玉に集る蟻みたいなマスコミ関係者で取り囲まれているから、行くに行けなかった。翌日に先輩は国立の医大で更に精密な検査を受けるらしく、恐らくはその出待ちを夜のうちからしているのかもしれない。
「先輩、無理してない?」
ボクはテレビをつけていて、今も先輩に関する報道が流れている最中だった。
「うん、ちょっと疲れるけど」先輩はぽろっと零して、それを打ち消すようにまた笑った。「だけど、いつかばれることだったし、どっちかっていうと身が軽い感じ。見世物にされるのは気に食わないけど、カメラに追っかけ回されてマイク向けられると、なんか大物になった気分。そう悪い気もしない」
「だけど……」ボクは酷く心配になる。
「大丈夫、カノンのことは喋らないから。それは信じて」
誰がそんな心配するかっての! 先輩の馬鹿!
いや、でもでも……、うん、正直白状すると、その心配もなきにしもあらずって感じだった。目の前で取沙汰されて、世間が大騒ぎしているのを見せつけられて、こっちは冷汗が止まらなかった。ボクもああなるのかなって考えると不安で堪らなくなった。
だけど、やっぱり、その時は自分よりも先輩のことが心配だったよ。先輩、意外と繊細なとこあるし、耳が生えた日だってあんなに泣いてたもん。
「心配しないで」先輩は察したように言ってくれた。「大丈夫、上手くやってみるから……、それにあたしさ、この猫耳を受け入れて生きていこうって決めたんだから」
「え?」
「どうしてこんなのが生えてきたのか、どうしてあんな怪しいお酒飲んじゃったのかとか、色々考えてへこんでたけどさぁ、生えてきちゃったもんはもうしょうがないし、受け入れるしかないじゃん。猫耳が生えたところで、あたしがあたしでなくなるってわけでもないし……、むしろ、これからは猫耳を武器にして生きてやろうって考えてる」
「武器?」
「そう、武器、ウェポンよ。カノン、言ってくれたじゃん。可愛いって。萌えって」
「いや、そりゃ、言いましたけど」ボクは唖然とする。
「ほとぼりが冷めたら、自分からメディア露出して金稼いでやろうかなって。ほら、あたし、ルックスもそう悪くないじゃん? ていうか、そういう話、さっそく来てるのよ。名刺とかも何枚か貰ってるし。もう世間にはあたしの名前、とっくに知られちゃってるわけだからさ、逆手に取って稼がせてもらう。この猫耳を以て世の男を萌え死させてやる所存なり。ミサキだにゃん! って具合にさ」
先輩、すげぇなって思ったね。
絶句したっていうのか、開いた口が塞がらないっていうのか、ボクはすぐに言葉が出なかった。それから間を置いて、なんだかわかんないけど、胸がすかっと澄み渡る心地がした。あまりに痛快すぎて、笑いが込み上げてきちゃったくらいだ。
先輩も電話越しで大笑いしてた。天下を取った戦国武将みたいな高笑いで、それは全然大袈裟なたとえじゃない、本当に天下へ手を伸ばせる人の哄笑だった。昔、高校のバレー部の試合でも、先輩がこんなふうに笑う時は不思議と運が味方についたような勝ち方をしたもん。先輩の大笑こそ、勝利の吉兆だった。
バレー部の頃の爽快な気持ちをふと思い出し、ボクは嬉しいような、それでいてちょっぴり寂しいような、一言ではとても言い表せない複雑な感情を抱いた。何にせよ、ボクが出来るのは先輩の勝利を信じることだけだった。
◇
森崎岬は一躍、時の人となった。
猫耳が生えている人なんて人類史にもかつていなかったわけだから、最初から世間は騒然としていた。右を向いても左を向いても先輩の話題で持ち切り。黒船来航かビートルズが来日したようなお祭騒ぎだった。
先輩はその狂風を上手く掴んだみたいだ。
精密検査を受ける合間にどこか大手の芸能事務所へ所属し、猫耳モデルとしてデビューしたのだった。猫耳だなんて飛び道具が無くたって、元から綺麗だもんね、先輩。高校の時からモテモテだったし、一緒に繁華街歩いていたらスカウトとかナンパされることが結構あったもん。芸能界が先輩のような原石を放っとくはずなかった。
先輩が芸能活動を始めると、マスコミはますます熱を上げた。もうほんと、毎日毎日、先輩の顔をテレビで観た。最初はぎこちない表情で、緊張しているのがありありとわかったけど、そのうち何らかのコツか自信を身に着けたようで、もうぴかぴか眩しいくらい立派に振る舞っていた。カリスマ性だって持ち合わせているから、街の女の子達が付け耳をして歩き始めるのもあっという間だった。空前の猫耳ブームってやつ。前からアニメなんかで存在していたけど、いざ実物が現れると、食いつくのはアニメなんか観ていなさそうな人々だというのだから驚きだ。
一緒にお酒を呑んでくだを巻いていたはずの先輩が、ずっと遠くに行っちゃったみたいで、ボクは少なからず寂しい思いをしたし、ぶっちゃけ羨ましくてしょうがなかった。だけど、それ以上に鼻が高かった。ボクの先輩はこんなに凄いんだぞ、カッコいいんだぞ、綺麗なんだぞって、鼻持ちならない世間へ叫びたい気分だった。ざまあみろバカヤロー! ってさ。
そんなボクはといえば、秋頃までずっと変わらない生活だった。
テレビやネットで先輩の活躍を見守りながら、相変わらず大学とバイトと自宅を往復する日々。尻尾は無くならないし、なかなか寝付けないのも変わらなかった。猫化が進まないのはありがたかったけど、それでも絶好調だなんてとても言い難い状況だった。
明暗を分けたっていうか、やっぱりボクなんかじゃ、先輩の足許にも及ばないんだって思い知ったね。
心から変異を受け入れることもできなくて、武器にすることもできなくて、こそこそと隠れながら何食わぬ顔で大学生活を送る日々。日蔭を這っている気分。猫っていうよりヤモリみたいな心だった。先輩は自分から日向へ躍り出て、それこそ猫みたいに沢山可愛がられているのだ。悔しくないなんて言えば嘘になる。
だけど、やっぱりそれは、誰にだって出来ることじゃないよね。
先輩だから出来る生き方なんだ。
ボクには無縁だもん。
ほら、ボクってあんまり綺麗じゃないし、愛想もないし、そのくせわーきゃー煩いし。女っぽく見られたいなんて思いながら、それでも二の足踏んで、年中野暮ったいジーンズなんか穿いてる。喋り方も男言葉、自分のことをボクって呼ぶ癖も抜けてない。髪だってばさばさのショート、全然女っぽくない。可愛さもない、綺麗でもない、デリカシーもない、意気地も度胸もない、おっぱいもない。ないない尽くし。きったない野良猫みたいな奴、それがボク。うっ、ちょっと落ち込んできたかも……。
だからこそ、先輩とあんなにウマが合うのかな、なんて思ってみたりする。ううん、ウマが合うっていうんじゃなくて、ボクは単純に先輩に憧れているのかもね。かもね、じゃないか。ボクは先輩に憧れてる。出会ったばかりの高校生の頃から、今日までずっと、先輩はボクの憧れなんだ。
そういうわけで、悔しくもあるし、羨ましくもあるし、自分が歯痒くなるけど、やっぱりボクは森崎先輩が大好き。頑張れって心から応援できる。やったねって心から成功を喜べる。つくづく人間の心って不思議だ。猫の心なんて、まだまだ遠いかも……、とかなんとか、変な悟りを得ながら、その年の夏は過ぎていった。
◇
秋になり、あれほど暑くて粘ついた風がさらさら冷たくなった頃、ボクの穏やかでじめじめした生活に一筋の光が射した。それはあまりに鮮烈で、採れたてのハチミチみたいに輝かしく甘い光を放っていた。
ちょっと何言ってるかわかんないよね。
具体的に言うと、こんなボクにも彼氏が出来たのだ。
うはは! 参ったなぁ、もう!
お相手はバイト仲間の滝澤くん。ボクと同い年の男の子。地元も同じだけど、彼は東京の有名な国公立大学の文学部に通っている。頭脳明晰、コナンくんみたいな秀才だ。でも、頭が良いだけじゃないんだよ。背も高いし、運動もできるし、俗っぽい話だけど、イケメン、つまり顔も凄く良い。特に男らしい顔立ちってわけじゃないけど、線が細いというのか、とても可愛い顔をしてる。ほら、誰だっけ、ジャニーズのあの人に似てる……、えっと、名前わかんないけど、とにかくジャニーズに所属してそうな美男子。
ボクは高校のバレー部を引退してから今日まで、宅配ピザ屋さんでバイトをしている。ドライバーじゃなくてメイキング、えっと、調理する方の仕事ね。平日は夕方から夜まで生地をこねこねして、ソース塗ってトッピングしてひたすらオーブンに流してる。ドライバーよりも時給は低いけど、時々店長さんがピザを食べさせてくれるから、割かし気に入ってる職場だ。
滝澤くんは高校生の時から働いているらしい。最初はドライバーをしていたみたいだけど、配達と調理の両立ができれば時給がぐんと増すので、今はほとんど調理場に立って、リーダー的な立場でお店を回している。間違いなくお店の主力の一人だった。
花盛りの十九歳なのに、滝澤くんはとても大人しくて無口だ。休憩中は黙々とドストエフスキーとか森鷗外を読んで過ごしている。でも、けして暗い性格じゃない。仕事中はきびきびと指示を出すし、物言いもはっきりくっきりしている。失敗した子のフォローもできるし、付き合いも悪くない。仕事ができるから他の皆からとても頼りにされている。信頼もある。どこを取っても欠点がない男の子、それが滝澤くんだ。
当然、女の子からは馬鹿みたいにモテる。ボクだって、胸をときめかせたことが何度もあった。仕方ないよね、こんな完璧な男の子、そうそういないもん。でも、ボクよりずっと綺麗で可愛げのある女の子達が悉く玉砕していくのを目の当たりにすると「まぁ、もう少しここで長生きしたいな」って感じで踏み止まっていた。犬死にして傷を負うのも上手くないでしょ?
でも、彼とシフトが被ると素直に嬉しかった。一言二言でも会話できると、それだけでハッピーになる。それだけでいい。それだけでボクはもうお腹一杯、ごちそうさま、だ。そんな気持ちにさせてくれる人ってなかなかいないよ。ミッキーマウスだって無理じゃないかな。ジョニー・デップも無理でしょ。ポール・マッカートニーならまぁ、ありかなって思うけど……、えっと、もちろん、若い頃ね。
「滝澤くんって、村上春樹の小説に出てきそうなキャラだよね」
そんなふうに話しかけたことがある。
これでもボクは一時期、文学を齧っていたことがある。森鴎外は教科書でしか読んだことがないし、ドストエフスキーは『罪と罰』以外読んだことがないけど(『カラマーゾフの兄弟』で挫折しました)、それでも他のバイト仲間達は活字なんか読まない人ばかりだったから、ちょっと話題を振ってみたのだ。
彼は本から顔を上げ、意外そうにボクを見た。
「そうかな……、初めて言われた」彼の声は痺れるくらいのテノールだ。
「なんか落ち着いてるし、知性的だもん。話し方もクールだし」
「カノンは本を読むの?」
先輩だけでなくバイト先の人もボクのことをカノンって呼ぶから、滝澤くんも揃えてくれている。他意はないと思うけど、彼に名前を呼ばれると、それだけでボクは福音みたいに幸せだった。
「昔、色々読んだよ。夏目漱石とか太宰治とか……、海外文学はあんまり詳しくないけど」
「意外だね」
「そうそう、それ、よく言われる。ボクってそんなに本が似合わないかな?」
「さぁ……、でも、本はファッションじゃないから、似合う似合わないは気にしなくていいと思うよ」
「だよね」ボクは嬉しくなって同意する。
滝澤くんの言うことはとても的を射ている。それを鼻にかける様子もなく、淡々と口に出来るから凄いと思う。村上作品の登場人物もこれくらいさりげなかったら良いのにね。あ、別にこれ、批判じゃないよ。ボク村上作品好きだし。
そんな感じで、時々言葉を交わすくらいの仲でしかなかったのに、どうしていきなり交際関係になったのかなって皆が首を捻った。ボクは当然ながら、滝澤くんも相当な質問攻めに遭ったらしい。二人共すっとぼけて上手く躱していた。
ボクが滝澤くんとお近づきになれたのは、意外や意外、なんとボクのお尻にある尻尾がきっかけだった。嘘みたいでしょ。だけど、本当なんだなぁ、これが。
ある日、ボクが更衣室で制服に着替えていた時だ。ちょうどジーンズを脱いで指定のスラックスに履き替えているところで、突然背後の扉が開き、滝澤くんが入ってきたのだ。これは滝澤くんが悪いわけではなくて、鍵を閉め忘れたボクのミスだった。
元々ガレージか何かを改装して作られたお店なので、店で唯一のトイレは更衣室を通らないと行けないという変な間取りになっていた。だから、着替える際は扉をきちんとロックしておかなきゃいけないルールだった。それを、ボクはうっかり忘れてしまっていたのだ。
滝澤くんはズボンを下ろしたボクを見るなり、硬直して立ち尽くした。ボクも驚いて声を上げられなかった。頭が真っ白になって、それからぐわんぐわんと金属を殴るような音が耳の奥で鳴っていた。
無表情な彼が瞬く間に赤面し、「ごめん」と扉を閉めた。それでもボクはしばらくの間、身動きが取れなかった。お尻を向けた格好悪い姿勢で放心していた。
嘘……。
見られちゃった。
下着を見られた恥ずかしさはもちろんあったよ。男の子にパンツ見られたんだもん、恥ずかしいの当然じゃん。マジ信じらんない。
だけど、それ以上に深刻なのは、尻尾を見られたって事実だった。こんな上手い具合に中腰でお尻を向けた恰好なら、嫌でも細長い灰色のもふもふが見えたはずだ。鏡に映ったボクの顔は赤色ではなく、血の気の失せた蒼色に染まっていた。
着替えを済ませて休憩室に戻ると、滝澤くんは狼狽の滲んだ顔で本を読んでいた。「読んでる場合かよ!」ってひっぱたきたくなったけど、これ以上の醜態も粗相も晒せない。ましてや「尻尾見た?」なんて追及もできない。
「あの、空いたよ」
ボクが気まずく切り出すと、滝澤くんは短く頷いて本を伏せた。目を合わさないようにしているのが明らかで、それでも「ごめん」ともう一度だけ詫びてからトイレに行っちゃった。
ボクは飛行中の旅客機からパラシュート無しで放り出されたような心地だった。めちゃくちゃ心細くて、バイトが終わるまで気が気じゃなかった。いつもならわーきゃー喚いて他の子達とはしゃいでいるのに、その日のボクは終始無言。ボク達に指示を与える滝澤くんも、どこかうわの空だった。他の人達に不審がられなかったのが幸いだったかもね。
そのまま事なかれ主義に徹して一日を終わらせようと決めていたんだけど、退勤して着替えを済ますと、なんと滝澤くんが外でボクを待ち構えていた。彼もその日はボクと同じ時間に上がっていたのだ。とことん間の悪い二人、しかしこれも運命なのかなって、今じゃ薄ら寒いことを考えているカノンちゃんです。
「今日は、ごめん」滝澤くんは開口一番にまた謝った。
「何が」
ボクはサバンナのシマウマみたいに警戒していて、思わずつっけんどんな口調になってしまった。
「覗いたわけじゃないんだ」
「知ってるよ。ボクが鍵をかけてなかったのが悪いの。気にしないで」
「お詫びに何か奢る」
「は?」ボクは面食らった。
えっと、なに言ってんの、君?
「いや、いいよ、そんな」ボクはぶんぶん首を振る。
どきどきするっていうより、ちょっと怖かった。
だってさ、たとえお年頃の異性が相手でも、パンツ見ちゃったくらいで普通奢るなんて言うか? こっちはこっちで確かに恥ずかしい思いしてるけど、別に見られたって減るもんじゃないし、そもそもボクの不注意だったわけだし。全く謝ってこないってんなら腹も立つけど、そんなことでご飯奢られたりしたら、それは行き過ぎっていうか、正直引いちゃうよ。いくら相手が滝澤くんだからってさ、警戒マックスじゃん、そんなもん。仮にもボク達は花も恥じらう大学生同士なんだし、下心とかそういうどろどろしたものを充分に察知できる年齢なんだから。
ボクが遠慮すると、滝澤くんは困ったように頬を掻いた。
「ごめん……、いや、わかった、正直に言う。ちょっと話したいことがあるから、どこかに行かないか?」
「何? それってここでは言えないようなこと?」
「そう」
彼が頷くと、ボクはピーンって直感した。鬼太郎だったら頭の毛が一本立っているところだ。
やっぱり、見られていたんだ。
動悸が速くなった。お尻の下で警戒するように尻尾が震えているのがわかる。
「無理にとは言わないけど……」滝澤くんは目を逸らす。
店の前の往来ではまだ沢山の人が行き交っている。金曜日の夜で、駅近とあってはまだまだ宵の盛りといった案配だった。誰に聞かれるかわかったものではない。
頑なに固辞したところで、滝澤くんは今日目の当たりにした物体をけして忘れてくれないだろう。疑問はいつしか膨れ上がり、いつかはその堅そうな口もこじ開けてしまうかもしれない。そういうものなんだよね、人間なんて。秘密なんてずっと守れるものじゃないんだ。
それならいっそのことっていう捨て鉢な気分で、ボクは頷いていた。
滝澤くんは駐車場からクラウンを出してくる。ボクは助手席に乗せられた。クラウンは滝澤くんのお父さんのお下がりだそうで、家が遠い彼はいつもこの車に乗ってバイトにやってくる。車内はコロンみたいな良い匂いがした。これに乗せてもらうのはその時が二度目で、一度目はバイト先の皆で焼肉を食べに行った時。その時は他の人も一緒だったし、ボクは後部座席に座っていた。まさか二人きりで、しかも助手席に乗せられるなんてね……、妙な成り行きになっちゃったなぁ、とか今さら考えてた。
レストランかドライブインでも行こうか、と滝澤くんは提案したけど、喉を通る気がしなかったので遠慮した。行先もなく、クラウンは夜のアスファルトを走っていく。オーディオからは音量を絞ったジャズが流れていて、滝澤くんはますます村上作品の登場人物みたいだった。
「あれ、何かな?」
信号待ちになった時、滝澤くんが静かに尋ねた。
「あれって?」ボクはどきっとしてしまう。
「ほら……、君のお尻から生えてた……」
ボクが訊きたいくらいだよ、そんなの。
たっぷりと時間を費やしてから、ボクは尋ね返した。
「何だと思う?」
ふっと彼は息を漏らす。
「尻尾に見えたけど……、そういうファッション?」
「ファッション違う」
「じゃあ、何?」
「生えてきたの」ボクは車窓の景色から滝澤くんへ目を向けた。「信じられないかもしれないけど……」
信号が青になって、緩々とクラウンが走り始める。彼の運転する車に乗って、ジャズを聴きながら、駅前のちかちかした夜景を見上げていると、なんだかニューヨークとかそんな憧れの都市を走っているような心地がする。ずっと遠いところにいる気分っていうのかな。気が遠くなるってこのことかもね。
「最近、よく話題になっている人がいるけど」間を置いてから、滝澤くんが言う。「えっと……、なんて名前だっけ。女の人。猫の耳が生えてきたって」
「森崎岬」
その頃は既に先輩はメディアに引っ張りだこだった。老若男女、誰でも知っている人物になっていた。
「そう、その人。この辺の人だって聞いたけど」
「ボクの先輩」
「え?」滝澤くんが横目でボクを見る。
「その人とボク、先輩後輩なの。仲良くて、一緒にお酒飲んだり、遊んだりする」
さすがの滝澤くんも驚いたようだ。いつも凪いでいる表情が強張っていた。
「その先輩さんも、尻尾が生えているの?」
「ううん。先輩は耳だけ。ボクは尻尾だけ」
「どうして生えたの?」
「知らないよ」ボクは思わず笑ってしまう。本当は泣きたい気分なのに。「でも、原因は何となくわかってるんだ」
ボクは事の成り行きを説明した。自分で話しながら、途方もなく非現実的に思えたけど、その裏付けとしてボクのお尻には尻尾が生えている。本物の、現実の、猫の尻尾だ。
滝澤くんは黙ってボクのお話に耳を傾けてくれた。失笑もしないし、胡散臭い目もしない。誠心誠意聞いてくれてるって感じ。だからボクも、途中からなんだか安心して、すらすらと話せた。他の男の子だったら、やっぱりこんな具合にはいかないんじゃないかなって思う。
「そう……、話してくれてありがとう」彼は聞き終るとそう言った。
「滝澤くん、信じてくれる?」
「信じる」彼は頷く。「実物も、見てしまったわけだし」
「誰にも言わないで」
「言わない。約束する」
「よかった」
緊張が解けて、思わずにっこりした。つっかえていた重苦しい鉛をようやく取り外せた気分だった。今なら先輩みたいに、カメラのフラッシュに包まれても平気でいられる気がした。
でも、どうして滝澤くんが、わざわざガソリンを無駄にしてまでボクの話を聞いてくれたのか、よくわかんない。そりゃ、実際に尻尾の生えている人間を見てしまったら、普通は気になって仕方ないだろうけど、でも、こんな干渉を試みようとまでするだろうか。それよりは自分の見間違いや気のせいで済まそうとするのが人情じゃないかな。普段がクールなだけに、不審に思われるような真似までして確かめようとするのが、なんか滝澤くんらしくない。
そういうことを、ボクは拙い口調になりながらも訊ねてみた。そうしたら、こんな返答が返ってきた。
「最近のカノン、元気がなかったから」
「え?」ボクはきょとんとする。
「無理している感じがあったから、気がかりだった」
「あ、そうだった?」
「心配していた。夏頃からずっとそうだった」
いや、確かに落ち込んでいたけども、出来るだけいつもと変わらないように努めていたわけで、まさかそれを見破られていたとは思わなかった。我ながら健気で迫真の名演技だと思っていたのに……、侮りがたし、滝澤くん。
でも、ええっと……、つまり、滝澤くんはボクの様子を注意深く見てくれていて、それで心配してくれたってことになるよね?
それって、どういうこと?
ボクは流れていく景色を眺めてぼんやり考えたけど、その時はそれ以上の思考ができなかった。バイト上がりで疲れていたし、秘密を一つ暴露できて気も高揚していたからね。まぁ、いいやって感じに片付けていた。
「その尻尾、どうするの?」滝澤くんが尋ねる。
「どうしようかなって考え中」
「病院には行かないの?」
「行かない。先輩が大事になってるし、今は別にそれほど困ってないし……、保留中」
「無責任な物言いかもしれないけど、あんまり悩まないほうがいい。尻尾よりもそっちの方が毒だから」
「ありがとう」ボクは素直にお礼が言えた。「うん、今日、滝澤くんに話せてずいぶん気が楽になった。助かりました」
「何もできないかもしれないけど、僕で良ければいつでも相談に乗る」
「うん……、迷惑かけるけど、またお願いするかも」
「迷惑なんかじゃない」滝澤くんは真剣な表情だった。
その夜はそんなやり取りで別れた。
クラウンを見送ってからのボクの足取りはやけに軽くて、頭上に浮かぶ満月までひとっ飛びできそうなほどだった。「月なんか行ったってしょうがないだろ」とか独りノリつっこみを挟んだりして、ご機嫌な調子でふんわりした月明かりを眺めていた。尻尾をぶらぶら夜風に揺らしてみたいなんて欲求さえあったね。
変なの……、今までずっと厄介に思ってたくせに。
そう考えると、ますますおかしくなった。
それから、ボクは何度か滝澤くんとお話するようになった。バイトの後にドライブしながら尻尾の相談をしたり、時には何でもない世間話をしてみたり……、時間が合えば二人で遊びに行ったりもした。今まで先輩と過ごしていた時間が、そっくりそのまま滝澤くんとの時間になったのだ。先輩はもはや滅多に会えない人になっていたから、その空白がぴったりと滝澤くんの存在で埋まったのだった。
何度目かのドライブの時、ボクは勇気を振り絞って、自分の想いを告白した。あの時はもうとにかくビビリまくっていたけど、でも、口にしなきゃ駄目だ、言えないままだと後悔するぞって、自分を精一杯励ましたのだった。
滝澤くんは、ボクを受け入れてくれた。
「本当は結構前から気になっていた」彼は赤くなりながら白状した。
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「じゃあ、もうちょっと態度に出して欲しいよなぁ。ボクを見て鼻の下伸ばすとかさぁ、そっちから告るとかさぁ。わびさびが過ぎるよそれ」
ボクはもう嬉しさやら恥ずかしさやら緊張やらで、変な汗をだらだら流していた。ぎくしゃくしたボクとは裏腹に、お尻の尻尾はぴょこぴょこ跳ねていた。ボクより一足先に喜んでいるみたいだった。
「いや、それは、らしくないから」滝澤くんが言う。
「らしくないって? 何が?」
「村上流じゃない」 彼は照れ隠しのように笑った。
あぁ、もう、滝澤くん大好き!
ボクは吹き出してしまって、それからもう堪えられなくなってしまって、彼の細い首筋に抱きついた。
◇
森崎先輩と再会したのは世間がまだ正月ボケしていた一月の日だった。ボクは大晦日から実家に帰っていたのだけど、久しぶりに先輩から「会わない?」って連絡がきたので、予定を二日も早めて戻った。
今やすっかりお茶の間にも、若者の流行の中心にも定着した先輩は、あの小さいアパートをとっくに引き払っていて、都心の一等地にある高層マンションに住んでいた。よく磨かれた大理石のロビーには三ツ星ホテルみたいな受付があって、物々しいガードマンまでいた。そんな場所をパーカーとジーンズとスニーカーという出で立ちで訪れたボクは、言うまでもなく場違いな存在。入るなり、ぎろって睨まれたもん。おぉ、こわっ。
先輩がわざわざロビーまで迎えにきてくれた。テレビに映っている時の何十倍も先輩は綺麗に見えた。びっくりしちゃったよ。髪型も変わってるし、服装だって夏の頃とは雲泥の差がある。サングラスまで掛けちゃって、往年のハリウッド女優みたい。まるで別人だったけど、頭の上にある猫耳のおかげで一目でわかった。
「久しぶり!」って先輩は嬉しそうに抱擁してくれた。周囲の目があるし、ちょっと恥ずかしかったけど、ボクも嬉しかったのできゃあきゃあ抱き返した。
「カノン、なんか大人っぽくなったねぇ」
「そんな馬鹿な、だって前会ってから半年も経ってないですよ。先輩こそ、めちゃくちゃ綺麗になってる」
二人でエレベーターに乗り、部屋へ上がった。もうね、感動しちゃったよ。真っ赤なふかふかの絨毯だとか、つやつやの床だとか……、マンションだけど、まるで豪邸みたいなんだよ。シャンデリアまであった。これが芸能人の部屋なんだなぁ。お姫様が寝るような、天蓋付のベッドまであった。
「凄いよ、凄い凄い! 先輩凄い!」ボクはばたばたしながら、ベッドの上等なスプリングを堪能する。
「コーヒー淹れたげるからこっちきな」先輩が手招きする。
すっかり部屋の様相は変わっちゃったし、先輩自身も別人みたいになっていたけど、それでも小さなガラスのテーブルを挟んで向かい合うと、やっぱり昔のままの先輩だった。やたらおっさん臭くて、磊落で、独自の理論を振りかざしてボクを煙に巻くあの頃の先輩だった。
「今じゃ、この猫耳に感謝してる」
しばらく馬鹿みたいに笑い合っていたけど、先輩は笑い疲れたのか、ふっと静かに呟いた。
「いいなぁ、ボクも尻尾じゃなくて猫耳が良かった」
「尻尾だって可愛いじゃん。売れるよ」
「いやぁ、でも、やっぱりボクの柄じゃないです。先輩は元々綺麗だし、こういう才能があったんですよ」
先輩が話してくれる芸能界事情がボクを無闇に興奮させた。あんまりにも程遠くて、そして煌びやかに過ぎて、現実感がじんじん麻痺するくらいだった。ボクの好きな俳優の連絡先も先輩のスマホには納められていて、危うく鼻血を垂らしちゃうところだった。
だけど、寂しさも感じたね。
先輩が遠くに行っちゃったっていう認識が改まるばかりで、もう以前のようにお酒を呑みながら馬鹿話もできなくなっちゃったんだなって、感慨深くなった。
「カノンは最近、どうしてるの?」
「ボクですか? ボクは変わらず、しがない大学生」
「もったいないな……、せっかく尻尾が生えてるのに」
先輩はもはや猫耳も尻尾も武器として見做しているらしい。猫だってそんなふうには思っていないだろう。
「でもでも、ボクなりに恩恵は受けています」
「恩恵?」
「なんとなんと、ボク、彼氏ができました!」
ボクは滝澤くんの素性と、彼との馴れ初めを熱く語って聞かせた。にまにまと笑みが留まるところを知らない。なんせ生まれて初めての彼氏で、しかもそれが滝澤くんであるというのだから、浮かれるのも無理はないだろう。冬は寒くて嫌いなのに、その年の冬だけはちっとも寒くない気がしていた。
不器用でがさつな後輩にもやっと恋人が出来たんだから、もっと喜んでくれるかと思ったけど、先輩はあまり面白くなさそうだった。最初のうちは「ふぅん」とか「そうなの」って気の無さそうな相槌を打っていたけど、ボクが熱を上げるに従って、だんだん無口になった。
ボクがようやく先輩の不機嫌に気付いたのは、喋り過ぎて喉がカラカラになってしまった頃だ。
「先輩、どうしたの?」ボクはコーヒーを飲んで尋ねる。
先輩はソファの背もたれに片腕を預けて寝そべっていた。テーブルの上のカップに手を伸ばし、一口コーヒーを啜る。何も言わない。一方的に話しちゃったから、もしかしたら不貞腐れたのかもしれない。
たっぷり時間を掛けてから、先輩はやっと口を開いた。
「あんまり入れ込むのは感心しないな」
「え?」ボクは見つめ返す。「何が?」
「その、そいつ、滝澤だっけ……、なんか胡散臭い」
「胡散臭いって、どうして?」
当然、ボクは戸惑った。ボクの伝え方になにか問題があったのかなって自分のお喋りを反芻する。
「そんな出来の良い男、いるわけないじゃん」先輩が鼻で笑う。先輩らしくない、厭味な笑い方だった。「イケメンで背が高くて車持ってて国公立……、ジャズと読書を嗜む無口な美男子、しかも親切で優しい。いないいない、いるわけない」
「いや、でも、実際いるわけだし」ボクはもごもご口ごもる。
「カノンは経験無いからわからないかもしれないけどさ、そういう男ってだいたい裏があるのよ」
「裏って?」
「そうだね……、暴力振るったりとか親のすねかじりとか二股掛けるとか。顔の良い奴ってだいたいそういう奴なんだからさ、気を付けた方がいいよ」
「滝澤くんはそんなことしない」ボクはムッとした。「今は確かに親のすねかじりだし、車もお父さんのお下がりだけど、ちゃんと学費を返すつもりでいるし、車だって自分のを買おうとしてバイトを頑張ってるの。知ったようなこと言わないで」
ボクは言いながらも心配になった。どうして先輩、滝澤くんのことを酷く言うんだろう。喜んで祝福してくれると思ったのに。
「なにムキになってんの」
「先輩こそ、変な因縁つけないでくださいよ」
「因縁? まさか……、心配してるだけじゃん」先輩は笑うけど、いつもみたいなスカッとする笑い方じゃなかった。ちょっと引き攣った感じだ。「だいたい、その滝澤って奴、あんたの尻尾見てから近づいてきたんでしょ? それってつまり、珍しい奴だって思われただけなんじゃないの? 尻尾に目が眩んじゃってさ」
「そんなこと、ないです」ちょっとつっかえてしまう。
もちろん、滝澤くんのことは信じているけど、なにせ彼は無口で大人しいものだから、まだ存分にボクへのろけてくれない。付き合い始めて時間も浅いし、彼の本心がまだよく把握できていなかったんだ。
「とにかく、あんまり浮かれないほうがいいね。先輩からのありがたい忠告だと思いな」
おどけた口振りだけど目が笑っていない。ますます不機嫌になっていく気配があった。
先輩とボクはなんだかんだで付き合いが長い。たいていはへらへら笑い合ってるけど、険悪なムードになる時も少なからずあった。その経験の賜物なのか、その時のボクには不思議と直感するものがあった。またまたピーンと来たわけ。尻尾だってもぞもぞしていた。
「先輩、もしかして嫉妬してるの?」
思うよりも先に口から出ちゃった。でも、これは不用意な言葉だった。言葉にしちゃったら最後、いよいよ引き下がれない領域まで踏み込んでしまう分水嶺だった。
「あ?」と案の定、先輩は声を荒げる。それから誤魔化すように咳払いして、また厭味っぽく笑った。
「なんであたしが、あんたに嫉妬すんの?」
「だって……」
しまった、と思ったけど、ボクは構わず続けていた。滝澤くんを否定されたという事実が、胸の内の結構深い所に突き刺さっていたのだ。
「ボクの話になった途端に機嫌悪くなったじゃないですか。根拠もないのに滝澤くんのこと悪く言うし」
「だから、それはあんたのこと思って言ってるんだっての。ちゃんと話聞けよ」
「嘘だよ。だって、さっき、尻尾を武器にしろとか言ってたじゃん。それって、男作れとか、金儲けしろとか、そういうことでしょ」
「あんたの場合は武器じゃなくて餌になってんだよ。危なっかしいから注意してやってんのに、なんでそういう態度取るわけ?」
それはこっちの台詞だっつの。なんでそんな恩着せがましい態度取るわけ?
「滝澤くんは尻尾が生える前から気になってたって言ってくれたもん」
「言っただけだろ。言うだけなら誰でもいくらでも言える。顔の良い男は口も上手い。うぶなカノンちゃんはころっと騙される」
「どうしてそんなこと言うの?」
「うるさいな!」
とうとう先輩が怒鳴り始める。
ますます引き際が難しくなってきた、とどこか冷静にこの状況を考えていたけど、ボクはそれでも引き下がれなかった。意地みたいなのがむらむら熱くなって、加速していく自分の感情と鼓動が全てだった。
「先輩、なんかおかしいよ、今日」
「何がおかしい? あたし、いつもこんなだよ。勝手なイメージ押し付けないで」
「そっちこそ、滝澤くんに勝手なイメージ押し付けないで」
「わかんない奴だな。いい? あたしはさ、先輩として後輩のあんたを心配してやってんの。尻尾のおかげでちやほやされてるから、そんなに浮かれんなって注意してんの」
「それ、先輩じゃん。猫耳のおかげでこんな生活出来ているわけでしょ」
「なんだと!」
それからはもう酷い有様だった。ちょっとここでは言えないくらいの汚い罵倒の応酬。思い出すだけで腹立たしいし、それと同じくらい自分が情けなくなる。
先輩と喧嘩するのは初めてじゃないけど、この時が一番激しかったと思う。しかも、後ですっきり仲直りできるタイプの喧嘩じゃなかった。ずっと尾を引くような、どろどろした感じの口喧嘩だった。
先輩相手にこんなこと言うのもなんだけど、ボクもおとなげなかったと思う。もう少し柔和に対応できなかったものかと後悔してる。だけど、その時はもうすっかりトサカに来ていて、そんな自制も反省も全くなかった。
「帰る!」
「帰れ!」
「お邪魔しました!」
玄関ロビーを出た後も腹の虫が治まらなかった。マンションを仰ぎ見て、石でも投げつけてやろうかと思った。先輩だけじゃなくて、その高飛車な建築物すらボクにはムカつく存在だった。
先輩なんか大嫌いだ。
もう会ってやるもんか。
せめてもの発散に唾を吐いてやってから、ボクは大股になって自分の貧相なアパートへ戻っていった。泣きはしなかったけど悲しかったよ。自分の人生で、何か大切なものの一部が抜け落ちちゃったみたいにさ。
尻尾がぶるぶる震えていた。それを感じて「あぁ、ボクは今、悲しんでいるんだな」って思ったっけ。ボクよりずっと素直な奴なんだ、このもふもふは。
◇
それから、あっという間に二年が経っちゃった。
時が経つのは早いもんだよね。光陰矢の如しなんて言うけど、亜音速を抜けた戦闘機くらい早かったね。ボクにとってのソニックブームは、やっぱり先輩のマンションを訪れたあの日だったと思う。
ボクは相変わらず大学生を続けていて、留年もせず無事三年生になっていた。我ながら意外と根気あるよね、ボクって。偉いぞ、カノン。
先輩の意地悪な予想はやっぱり外れていた。滝澤くんは顔の良い男にありがちな暴力漢や変態に豹変することなく、誠実さを保ってラブラブの関係でいてくれた。独り暮らしのボクを気遣って、二年生の終わりから家賃折半の同棲もしている。朝起きて、二人で大学に出掛けて、夕方にはピザ屋さんで合流して、二人でお買い物とかレンタルビデオ屋なんかに行って、それで一緒の部屋に帰る。お風呂も一緒に入るし、寝る時も当然同じベッド。ボクって、もしかして今が一番幸せなんじゃないかなって、日に三度は考える。一生の幸せをばしばし使い込んでいるみたいで、ちょっと怖いくらいだ。
二年経っても、ボクのお尻にはまだ尻尾がぶら下がっている。これだけが不安な点。ボクが今の幸せを享受できるのはこの尻尾のおかげって言っても過言じゃないんだけど、それでも尻尾は尻尾、人間に生えていちゃいけないものだもんね。まだ滝澤くん以外には誰にもバレていないものの、油断のならない人生、いつどこで破綻が起こるかわからない。
だけど、二年も経つとさすがのボクも慣れちゃって、むしろもう完全に体の一部として扱っている。手足と同じように自分の意思で使いこなしてもいる。尻尾なんか何に使うんだって思われるだろうけど、これが意外と、ふとした瞬間に重宝するんだ。たとえば、お風呂で頭を泡立たせながらリンスを手許に運んだりとか、フライパンを振っている時に後ろの棚の引き出しから食器を出したりとか……、狭いアパートじゃ何かと便利なわけ。
別に訓練したわけじゃないけど、いつの間にかそういうことができるようになった。ぴんと張ってみたり、ぐにゃっと曲げてみたり、自由自在。上手い具合に折り曲げてハートの形にするなんて芸も体得しちゃったもん。
「猫より器用だね」と滝澤くんは評価してくれた。
そんなわけで、無理に取り除く必要もないんじゃないかって結論に二人で落ち着いた。だから、医者にも行っていない。最初の一年は、さらに猫化したらどうしよう、と気が気じゃなかったけど、そんな兆候も今のところない。本当のこと言うともう全く気にしていないのだ。だって、ボクには滝澤くんがいるもんね。あは!
「森崎さん、最近どうしているのかな」
勉強の合間とか、二人でご飯食べている時とか、休みの日にベッドでうだうだしている時、滝澤くんはしょっちゅう先輩のことを尋ねてくる。最近になってからのことだ。一回も会ったことないくせにやたら心配しているみたいなんだよね。
そんな時、ボクはぶっきらぼうに首を振ることにする。
「わたし、知らない」
「会ってないの? 連絡とかは?」
「ない。知らないよ、あの人のことなんか」
滝澤くんもそれ以上は訊かなかった。ボクの機嫌を損ねたくないんだろうね。
彼が心配するのも無理はなかった。森崎先輩、最近、色々大変みたいだから……。
一時期はマスコミの熱もひとまず落ち着きを見せていたのに、この頃になってまたもや先輩はお茶の間を騒がせるようになっていた。
スキャンダルがあったんだ。ある男性タレントと妻子持ちの俳優との間で二股掛けちゃって、それがバレちゃったんだってさ。しかも、相手の男二人がどちらも人気のある人達で、マスコミだけじゃなくファンも巻き込んだ騒ぎになってる。二年前とは違って、もっと露骨で厭味ったらしい盛り上がり方だった。
先輩が不倫だとか浮気だとか、そんなことする人だなんて思っていなかったから、ボクはショックだった。猫耳を見せられた時よりもショックだったかもね。
でも、ボクは先輩に連絡をしなかった。二年前から絶縁状態になっていて、喧嘩した最後の日のことも苦笑一つで反芻できるくらいにはなっていたけど、気まずいというのか、きまりが悪いというか、どうしても電話を掛けることができなかった。昔の番号を今も使っているとは思えないし。
向こうからだって連絡はこなかった。忙しいんだろうけど、きっと、先輩もボクと同じ気持ちになっているのだと思う。これはボクが発見した法則だけど、自分が気まずい思いをしている時って、相手も絶対同じような思いをしているんだよね。あ、もちろん、それなりの仲になっている人に限った話だけど。
どれだけウマが合っても、先輩はあくまで先輩だから、後輩のボクに対して面子のようなものを意識しているのかもしれない。体裁っていうのかな。馬鹿馬鹿しいけど、こういうのって複雑だよね。そう簡単に切り離せられない。素直になりたいのに、立場上、素直になるわけにいかないって状況、よくあるもん。
そんなことを云々かんぬん考えていると、久しぶりに気が滅入ってきた。ベッドから這い出る気力も湧かない。雨の日の日曜日で、鈍色の窓には水滴が伝っていた。こんな憂鬱な朝は、尻尾も落ち込んでぐったりしちゃってる。
ベッドの向かいのテレビには先輩が映っている。フラッシュに囲まれ、逃げるように建物へ入り込んでいく姿。サングラス、金髪、ハリウッド女優が着るようなスリットの入ったドレス。頭の上の猫耳が今でも健在だ。悪いジョークのように、いつまでも付き纏って離れない感じだった。
ボクの表情に気付いたのか、滝澤くんはリモコンでテレビを消した。途端に部屋は静まり返って、遠いクラクションと雨の音だけになる。
「今日は、どこかに行く?」
彼の問いに、ボクは枕に頭を乗せたまま首を振る。
滝澤くんは無言でボクの隣に潜り込み、頬杖をついて壁の一点を見つめた。朝の滝澤くんはいつも以上にぼんやりしている。
「あんなことする人じゃなかったのに」ぽつりと口から零れる。
「あんなことって、浮気騒動のこと?」
ボクは頷いた。
「二年前に、先輩と喧嘩したっていうのは話したよね?」
「うん」
「あの時から、なんか先輩、別人みたいになっちゃってた」
「環境が変わったからだと思う」
「そうだね」ボクは身を捩って彼に向く。「昔の先輩って、凄くカッコよかったんだよ。バレー部の時とか……」
「知ってるよ、何度も聞いたから」
「あれ、話したっけ?」
「君は気付いていない節があるけど、カノン、よく森崎さんの話をしてるよ。酔っ払った時とか」
「え、そう?」全く意識していなかったから驚いた。
「心配じゃない?」
「うーん、どうだろう……」 ボクは歯切れ悪く答えて、毛布に顔を埋めた。
そんなの、言うまでもなく心配だよ。当たり前じゃん。
だけど、ボクはまだ、先輩がボクの知っている先輩であると信じたかった。あの頃みたいに不敵に、からから笑って、世間の悪評なんか蜘蛛の子みたいに蹴散らして堂々と立ち回っているんだって思いたかった。だから、ボクなんかが心配したって何にも関係ない。先輩は強いもん。
バレー部で鋭いスパイクを放つ先輩を思い出す。
カッコよかったなぁ、先輩。
笑顔でハイタッチしてくる姿、男みたいに荒々しく汗を拭う姿、引退する日、ばしばしとボク達の背を叩いてくれた姿。どれもこれも、ボクの憧れた先輩だった。バレー部を引退してからも、いつもあっけらかんと笑っている。お酒を呑んで唸ったりして、寝ぼけ眼でコーヒーを啜ったりして……、猫耳が生えた直後はさすがに参っていたけど、でもその後にはそれを武器にして成功してやるって息巻いていたっけ。
たとえどんな苦境に立たされても、ボクは、またあの時みたいに跳ねのけて立ち上がる先輩を期待していた。もう繋がりなんて呼べないかもしれないけど、でも、これって変な繋がりだなって思った。心から尊敬している相手なら、顔を見なくても、声が聞こえなくても、ずっと身近に感じられて、信じることができるんだよね。変なの……。
「カノン? 寝たの?」
滝澤くんの声。
ボクは毛布を跳ね除けて、がばっと彼に抱きつく。
「おい……」苦笑している。
ボクは彼の胸板から顔を上げて、にっと笑ってみせる。尻尾でハートの形を作ってやった。
◇
世間って勝手だなって思う。
二年前には猫耳が生えた先輩を珍しがって、好奇心丸出しで、ちやほやして持て囃したくせに、ちょっとした不祥事ですぐに手のひら返すんだもんね。そりゃ、浮気はいけないことだとはボクも思うし、どこかの馬鹿な男みたいに正当化するつもりもないけど、でも、間違いや魔が差すことは誰にだってあることだ。責任を負わせるにしても、こんな無神経なやり方ってないと思う。
付け耳していた女の子はもう街で一人も見なくなった。皆、「岬可愛い」って呼び捨てで崇拝していたのに、今じゃ猫耳イコール尻軽女ってイメージで敬遠されている。鼻の下を伸ばしてた男達も、まるで自分がフッた女を嘲るような顔で先輩を笑う。
馬鹿だ、馬鹿だ、皆、馬鹿。
ボクは人知れず拳を握ったりするけど、まさかそれでぶん殴るわけにもいかない。あくまで素知らぬ態度を貫いて日々をやり過ごしていた。
尻尾の存在がバレていたら、ボクもあんなふうに笑い物にされて、槍玉に挙げられていたのかなって時々思う。それを想像すると背筋がぞっと冷たくなる。この悪寒と緊張の中で、先輩は日々を過ごしているのだと考えるとやるせなかった。
テレビは当然だけど、ネット上の風評はもっと酷かった。検索したら悪口しかヒットしないっていう散々な状況で、あるサイトでは、先輩が違法な手術をして猫耳をつけたっていうホラ話まで創作されてた。よっぽど暇なのか、ご丁寧にも偽造した書類や写真なんかを証拠と称してあちこち流している輩もいる。
バイト先でも、大学でも、先輩の名前はよく話題に挙がった。なんせ地元だからね、猫も杓子もって感じで皆が先輩の噂をする。一度なんか、バイト先の男の子達が先輩をネタに仕事中げらげら笑っていて、見かねた滝澤くんが珍しく叱責する場面もあった。
先輩のことを貶す連中は許せないけど、でも、これが全く知らない赤の他人のゴシップだったら、もしかしてボクも同じように馬鹿笑いしていたのかな。そんなことを考えると自分が情けなくなった。
先輩が事務所から解雇されるというニュースなんかも報じられ、その年の春から夏の終わりまでの長い間、先輩は世間の噂の的になっていた。やや落ち着きを見せ始めたのは暑さも和らいだ九月頃だ。
その日、ボクは大学の授業を終えた後、バイトの予定もなかったので、すっかり涼しくなった風を浴びながら、自宅まで自転車を漕いでいた。秋晴れというのか、夕暮れの空は高く澄み切っていて、オレンジの夕陽と僅かに残った群青の対照が綺麗だったのを覚えている。「今年は海行かなかったなぁ」だなんて、もう随分行ってないのにも関わらず、去年と同じ感傷を弄んでいた。
今日は滝澤くん、深夜までバイトだから簡単なご飯でいいかって、部屋着に着替えて、尻尾をぶらぶら振りながら冷蔵庫の中を確認していたら、携帯が鳴った。メールだ。滝澤くんかなって思ったけど、今は働いている時間だから、学校の友達かもしれない。
何気なく確認して、自分が呼吸を止めたのがわかった。
送信者が先輩だったからだ。
最初は「まだメアド変えてないんだ」って呑気なことを思った。突然過ぎて笑っていたかもしれない。ボクは台所に置いてる小さな椅子に座って、深呼吸してからメールを開いた。
でも、すぐに立ち上がることになった。
胸騒ぎはその前からあった。
再び服を着替えて、ボクは転がるようにして部屋を飛び出た。
◇
先輩のマンションまでの道のりが酷く遠く感じられた。帰宅ラッシュで狂ったように混雑した電車に乗り込み、都心の一等地をひたすら目指す。乗車中はずっと落ち着かず、車窓の風景をじりじり睨んでいた。だんだん暮れていく空を背景に影となって聳えたスカイツリーが、その日はとても不吉な印象だった。
先輩のメールは明らかに悪い前触れを報せていた。
一息では読み切れないほどの長文で、二年前、酷いことを言ったことに対する謝罪、ずっと謝りたかったという釈明、それから今の心境、周囲との軋轢、二年前からの自分の変化、そんなことがずらっと書かれていた。
そして最後に、先輩はもう一度謝っていた。
「駄目な先輩でごめんね」って。
それから「カノンはカノンらしく生きて絶対幸せになってください、さよなら」って書いてあった。
なんで、そんなこと、言うの?
なんで、さよならなんて……。
もちろん、すぐに電話したよ。先輩のメアドも番号もずっと消さずに持っていたんだから。でも、どれだけ鳴らしても応答はなかった。メールを送っても返信がなかったのだ。
地下鉄に乗り換えて目的の駅で降り、小走りで二年前に訪れた高層マンションを目指した。土地鑑がないので迷いかけたけど、先輩の住むマンションは遠目でもわかるほどだった。
ロビーに駆け込んでインターホンを鳴らした。応答はない。自動ドアも開かない。怪訝な顔をしたガードマンに事情を説明したけど、なにせお金持ち専用のマンションだから、普通のアパートの大家さんみたいに「はいそうですか」って具合に開けてはくれない。
だけど、ボクがあまりにも血相を変えて、しつこく食い下がるもんだから、向こうも多少不安になったらしく、ガードマンの同伴を条件にやっと許可が下りた。三十分くらいここで時間をロスしたと思う。
すぐにエレベーターに飛び乗り、先輩の住む階まで上がる。部屋に着くと、ついてきたガードマンが鍵を開けてくれた。もう一人、心配そうな顔をした管理人もついてきている。
広々とした玄関は照明も点かず、窓の日除けも下ろしてしまって暗かった。先輩の靴が脱ぎ散らかされているのがぼんやり見える。
「森崎さん」
ガードマンが呼びかけたけど返事はなかった。人の気配がない。奥のリビングまで照明は落ちているようだった。
「先輩!」
まどろっこしくなり、ボクは制止を振り切って部屋へ駆け込んだ。ガードマンの怒鳴る声が背後から追いかけてくる。
絨毯の廊下を走って扉を開ける。
部屋は暗い。
バルコニーのカーテンが揺れて、ちらちらと淡い夜光が入るばかり。
その傍のソファで、先輩は横になっていた。
「先輩?」
ボクは近づき、はっとして足を止める。
ぞっと総毛が立ち。
尻尾もぞわぞわ逆立つのを感じた。
先輩は目を閉じ、手足を投げ出した格好だった。
垂れた腕の先の床にはワイングラス。
それと、空になった薬の瓶。
あぁ、と息が漏れる。
後ずさり。
それから、床を思いきり蹴りつけた。
なんだよ、それ!
ボクは叫んでいた。
その瞬間、ぶわっと目が熱くなった。
なんで……。
馬鹿じゃないの?
何やってんだよ、もう!
「先輩!」ボクはもう一度叫ぶ。
馬鹿みたいに涙が出てきた。喉の奥が引き攣って、上手く声も出せない。それでも、遅れて入ってきたガードマンに怒鳴った。
「救急車!」
相手はぽかんと立ち尽くしている。
「何やってんだよ馬鹿! 早く救急車呼べよ!」
ボクはもう涙やら鼻水やらで、混乱のあまりわけのわかんないことになっていた。本当に、馬鹿ばっかりだよ、ちくしょう。
やってきた他のガードマンに引き剥がされるまで、ボクは色の失せた先輩の顔と、萎れた猫耳をずっと見つめていた。
◇
それからは記憶が曖昧なんだよね。もうすっかり動転しちゃって、目を覚まさない先輩について救急車に乗り込んだところまでは覚えてるけど、それから先のことはよく覚えてない。
とにかくずっと泣いていた気がする。病院に着いて、搬送される先輩を追った時も、待合室で座っている間も、夜遅くに滝澤くんが迎えに来てくれた時も、ずっと泣いてた。しゃっくりが出なくなって、泣きすぎて気持ち悪くなって、滝澤くんが肩を抱いてくれても、栓を抜いたみたいに涙だけがぼろぼろ流れてた。
きわどかったけれど、なんとか一命を取り留めたという報告を、医者から聞かされた。滝澤くんがその相手をしていて、ボクは椅子から立ち上がることもできないまま、ほとんど聞き流していた。
もちろん、先輩が助かって安心した。あと数時間遅かったらどうなっていたかわからないっていうから、ボクが先輩の命を救ったってことになる。気が抜けるくらい安心したし、もしも行かなかったらと思うと肝が潰れるほど怖かった。
でも、ボクが何よりもショックだったのは、先輩が自殺なんて馬鹿な手段を選んだって事実だった。先輩が助かっても助からなくても、それだけが消えてくれない真実だった。
まだ目覚めないから今日はもう帰ったほうがいい、と医者に言われた。滝澤くんに促され、ボクは素直に従った。病棟から出ると空が白んでいて、道路にはまだ車の姿がほとんど見えない時刻だった。
クラウンのエンジンをかけても、滝澤くんは何も言わなかった。ボクも黙っていた。どんな言葉も虚しく響く、そんな真空パックみたいな空気だったんだ。
ブルーアワーっていうのかな……、青く染まった早朝の風景を、ボクはずっと車窓から眺めていた。その頃にはもう涙も乾いちゃって、喉の下にあった苦しみも重みも不自然に消えていて、中身のないマトリョーシカにでもなった気分だった。
クラウンは首都高に乗る。下の車道よりもこっちの方が多く車が走っていた。大きなトラックがぶるるんって唸って、ボク達の乗るクラウンを追い越していく。そのテールランプがまだ冴え冴えしく光る時間帯だった。
その赤い光を見つめているうちに、ボクはいつの間にか、大昔の出来事を思い出していた。「昔ね」と意識するよりも早く、ボクは口にしていた。
「小学生の頃だけど、学校にね、野良犬が紛れ込んできたことがあったの」
滝澤くんは前を向いている。でも、小さく頷いたので、聞いてくれてはいるようだ。
「野良って話だったけど、もしかしたら捨てられたか逃げ出した犬だったかもしれない。毛並みが立派でさ、ところどころ汚れていたけど、血統書付みたいに立派だったの。わたしが、最初に見つけた。授業中で、ぼんやり窓の外見たら、その犬がいてさ、びっくりした。あ、犬がいる! って思わず叫んじゃって、そしたら皆も一斉に騒ぎ出してさ、先生の言うことも聞かずに外に飛び出したの」
「びっくりしただろうね」
「うん」
「犬が」
「うん」
ボクが微笑むと、滝澤くんも笑い返す。
「それから?」
「わたしも皆に混じってその犬のところに行ったの。あっという間に取り囲まれちゃったから、犬も怯えちゃってね……、逃げることもできずに、ぐるるって唸ってた。こっちは小学一年か二年だからさ、ビビる子も中にはいたけど、でも、怖くないよぉとかなんとか言って、撫でようとしてさ……、馬鹿だよね」
「うん」
「もう名前も忘れちゃったけど、同じ教室の子がさ、手を差し出したの。そうしたら、犬ががぶってその手を噛んじゃった。あ、犬って噛むんだって当たり前のことをやっと思い出して、血まで見ちゃったから、もう皆、阿鼻叫喚」
ボクは溜息と一緒に微笑を消した。
「可愛い、可愛いって言ってた子達も、皆怖がって、乱暴な男子なんかは殺してやるとか息巻いてさ……、保健所の職員がやってくるまで、ずっとその犬、追いかけ回してた」
「可哀想だね」
「そう……、可哀想だったと思う。だけど、その時はわたし、そんな風に考えられなかった。どっか行け、死んじゃえって、皆と同じように石投げたりした。わたしのせいであんなことになったのにね」
「うん」
「わたし、馬鹿だよね」
「そうかもね」
「かもね、じゃないよ。ドストレートに馬鹿だよ」
「その時は確かに馬鹿だったかもしれない。でも、本当の馬鹿は反省なんかしないよ。カノンは、馬鹿じゃない」
ボクは冴えない笑みを浮かべて、再び窓へ向いた。もう言葉はなかった。
どうして今、こんなことを思い出したのかな。
ずっと忘れていたことを、今さら……。
わざわざ感傷的になってさ……。
あの犬は、どうしたんだろう?
やっぱり保健所に連れて行かれて、殺されちゃったのかな。
人を噛んじゃったんだから、タダじゃ済まないよね。
あの子は何も悪くないのに……。
どうして、ボクは、あんな残酷なことを考えられたんだろう。
どうして、あの子のこと、愛してあげることができなかったのかな。
ごめんね……。
許してなんかくれないよね。
だから、神様が、天罰か何かのつもりで、尻尾なんか生やしたのかなぁ。犬じゃなくて猫の尻尾だけど、その心を知れっていうメッセージだったのかなぁ。
そんな取り留めのないことを、思い出してもどうしようもないことを、ボクは昇っていく朝陽を見つめながら、いつまでもいつまでも考えていた。
◇
三日振りに目を覚ました先輩は、言葉を話せなくなっていた。薬の後遺症なのか、ストレスが原因なのかわからないけど、上手く声が出ないらしかった。
先輩と再会しても、ボクは泣かなかった。先輩の方が辛いに決まっているから、後輩のボクが泣くわけにいかないじゃん。それに、言葉が喋れなくなったって、先輩が無事に目を覚ましてくれたのはやっぱり嬉しいことだもん。死ななくて本当に良かった。
先輩は虚ろな眼差しで病室の窓を眺めて過ごすようになった。ボクが話しかけると少しだけ笑ったり、頷いたりしてくれるけど、ふとした拍子にはいつも人形みたいな顔をして、じっと窓の風景を見つめているんだよね。
先輩、やつれたなぁ。
テレビで観た時は気付かなかったけど、こうして目の前で見ると、頬がこけたのが一目でわかる。髪もすっかり力を失くしてパサついてるし、肌も艶がない感じ。仕方ないことだけど、仕方あろうがなかろうが、見ている方はやっぱり辛い。忌々しいけど、猫耳だけが元気よく天井へ向いていた。
先輩が入院したことは、翌日からさっそくマスコミが嗅ぎつけて、またまた世間が騒ぎ立てそうな雰囲気だったけど、もう皆、森崎岬という猫耳女性に飽きたのか、それほど食いつきはしないようだった。自殺未遂ではなく、病気という報道になっていて、これはたぶん病院側が取り計らってくれたんだと思う。マスコミ関係者の立ち入りも厳重に禁止していたからね。
ボクは出来るだけ、先輩のお見舞いに行くようにした。身近にあったおかしな出来事を語り、愚痴っぽく大学の話をしたり、話題が無くなれば昔のことなんかを話したりした。
後になって、先輩には辛かったかもしれないって気付いたけど、その時の先輩はふんわりと微笑して、何度も頷いて耳を傾けてくれた。
先輩に許可を取って、滝澤くんを連れてきたこともある。かつて知りもしない彼を散々に罵倒した先輩だけど、いざ実物の滝澤くんと面を合わせると、感謝しているような眼差しで彼を迎えてくれた。それがボクにこの上ない安心をもたらしてくれた。
そんな静かな生活が、二か月以上も続いたかな。
年の瀬になって、世間が落ち着かない雰囲気になってきた頃、突然、先輩の声が戻った。いつものようにボクが先輩相手に一方通行で話していた時だ。進路についての話題だった。
「ブライダル関係の仕事してみようかなぁって思うの」
ボクは就職説明会で偶然耳にした説明をそのままに言ってみる。それから、笑った。
「結構きついらしいけど、なんか良いなぁって思いません? 人の幸せをお祝いしてあげるっていうの、なんか素敵。わたしには似合わないって思うかもしれませんけど」
「わたしって」先輩の口から枯れた声が漏れ、ふふっと笑った。「それが一番似合わんなぁ」
不意打ちだったこともあり、ぽかんとした後、ボクはうっかり泣いちゃった。先輩の痩せこけた体に抱きついて、うわんうわん泣いた。尻尾もぶるぶる震えて、まるで咽び泣いている感じだった。
「ごめんね」って先輩も泣きながら謝ってた。猫耳がぶるぶるしてるのがちょっとおかしかった。「いいよ、いいよ」ってボクは泣きながら笑っちゃって、そうして抱き合っているところを、飲物を買って戻ってきた滝澤くんに目撃されてしまった。彼は気まずそうに退室して扉を閉めた。
ボクと先輩は顔を見合わせ、それからぷっと吹き出して笑い転げた。もうすっかり昔の二人だった。
◇
「ね、先輩」
「ん?」
「退院したら、高校行ってみましょうよ」
それはなんとなしに思いついた提案だったけど、先輩は怪訝な顔もせずに「いいよ」と頷いてくれた。
退院の日、出待ちしてる取材者達の目を避けて、ボク達はクラウンに乗って病院を後にした。まるで映画のスパイか脱獄囚になった気分で、先輩には悪いけどめちゃくちゃわくわくした。
病院の敷地を出た後の車内で、ニット帽を被った先輩が、猫耳を手術で取るつもりだと話してくれた。ボクは頷いたきりで、あえて理由は訊かなかった。そんな野暮なこと、しないよ。ちょっと寂しい気もするけどね。
滝澤くんは少し不安そうだった。
「切除するのは結構ですが、もう少し時間を置いた方がいいと思います」
「なんで」先輩よりもボクの方がムッととしてしまう。
「今まで猫耳で注目されていた人が、その猫耳を取り除くとなったらまた注目を集めるかもしれないだろう。森崎さん、芥川龍之介の『鼻』っていう小説、知りませんか?」
「鼻?」先輩が聞き返す。
「芥川関係ない」ボクは言い返す。
「教訓の話だよ。和尚の二の舞だ」
「滝澤くんって結構面白い人だね」
先輩がからから笑うと、ハンドルを握る滝澤くんは前を向いたまま赤面した。
ボク達の地元に着くと、先輩の眼差しは懐かしそうに細まった。後部座席に座っているので、助手席のボクはミラー越しにそれを見ていた。
「あ、そこ右」ボクは前のめりになって指す。
母校への道のりだった。郊外の、畑ばかりの土地にででんと建っているから、途中まで行けばもうナビゲーションは必要ない。
冬休み中なので学校は静まり返っている。部活動の掛け声がどこかで響いているだけだ。校門の前でボクと先輩は佇み、正面の校舎を眺め、次は少し脇道に入って体育館や部活棟を眺めた。
数年前まで、ボクと先輩はここに通っていたんだ。制服のスカートなんかひらひらさせて、通学鞄をたすき掛けにして、「おっす」とか「おはよー」とか挨拶交わしてたんだ。
体育館の蒸し暑さも、肌に蘇るようだった。
「あれ、バレー部かな?」
「かもね」先輩は頷く。
ファイトーって、呑気な掛け声が体育館から聞こえる。
後輩も先輩も関係なく、大声で互いを叱咤し合うんだ。
カノン、ファイト!
岬、ファイト!
そんな感じ。
笑っちゃうよね。
ファイトって何だよ。
何とファイトすんのさ。
頑張れって意味だよね、たぶん。
もうこんなに、頑張ってるのにね、ボク達。
横を見ると、先輩も笑っていた。
あの頃みたいに笑いながら、静かに泣いていたよ。
目尻から零れた涙が透明な筋を描いて、綺麗な雫になって、顎先から垂れていた。そこに虹が掛かる幻想を見た気がした。
先輩の猫耳が、風に吹かれて揺れている。
異形の象徴。
朽ち折れたかつての武器。
先輩のこの猫耳姿も、もうすぐ見納めになるのかって思うと、やっぱり惜しい気がした。そんなこと言ったら「ふざけんな」って怒られるだろうけどさ。
でも、猫耳があってもなくても、先輩は先輩だよね。
そうだよ……、最初から言ってたじゃん。
いつの間にか、そんな当たり前のことも忘れちゃうんだよね。
自分らしくっていうのが、本当は、一番難しいんだよね。
大丈夫。
ずっと変わんないから。
ずっと、ずっと、先輩は、ボクの大好きな先輩だから。
尻尾がむずむずしている。
泣きたがっているんだ。
でも、もう泣いてやるもんか。
そもそも泣く理由なんかないし。
滝澤くんだって、離れたところからこっち見てるし。恥ずかしいし。
泣かなくても、誰かがボク達を愛してくれる。
猫耳がなくても尻尾がなくても、ボク達がボク達を全うできれば、きっと誰かが愛してくれるよね。
違うかな?
風が冷たくて、ぶるっと身震いが起こる。
でも、胸のうちは不思議と温かかった。
変なの……。
先輩見てたら、猫の心が少しわかった気がしたよ。
後書き
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